吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

2008年10月
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ドラゴンの背に乗って楽しみました! [2008年10月27日(月)]
 
私には近所に数名の楽しい読書仲間がいます。

これは、“ブック・クラブ”という本好きのメンバーが集うグループでのことです。通常、ブック・クラブは、4〜10名くらいの少人数のメンバーが月一回集まり、本の批評をしたり、お互いの読んだ本の討論をしたりします。私は、これまでも各地のブック・クラブでお世話になりました。

米国などの先進国では、全員が同じ本を読み、ブック・クラブの討論に臨むのが一般的かもしれません。が、ここ南アフリカでは、本の値段があまりにも高いので、全員が同じ本を同時に読むことはありません。

私の所属しているブック・クラブは、総勢7名です。全員が女性で、最も若いメンバーは30歳くらい。私は最年長の一人です。この7人が持ち回りで、いわゆる巡回図書館のような役割をするのです。その月の担当者は、メンバーからの会費を集めて、自分の好きな書籍を購入します。

いま、私たちのブック・クラブの会費は70ランドです。このところの急激な為替相場の変動で、ランドの価値が急降下してしまいましたが、ついこの前までこの70ランドは日本円にすると1000円くらいの価値がありました。が、10月27日のレートでは、これがなんと580円くらいにまで大暴落してしまいました。これでは南アの本の価格も上がるでしょうね。

さて、7名のメンバーから集めたお金で、だいたいペーパーバックであれば、今まで、3〜4冊くらいの本が調達できました。約半年に一回まわってくる自分の順番に思いっきり好きな本を買える、という趣向です。全員がその本を読み終えたら、その後は自分の家に持って帰ります。

ブック・クラブに所属していると、自分では絶対に買おうとしなかった本などに遭遇することができるのが醍醐味です。

そして、月一回のミーティングには、その月担当のメンバーが軽食を出すのもクラブのお約束のひとつです。メンバーの中には、ケーキを作るのが上手な人も多くて、お菓子の誘惑にもフラフラしてしまいます。

もちろん!私の担当の月は、メンバーに巻きずしを期待されています。

さて、そんなメンバーの一人(もっと正確に言うと、彼女の14歳の息子)に紹介されたのが、クリストファー・パオリーニという若干25歳の米国の作家です。彼は『インヘリタンス・サークル』という4部作からなるファンタジーを書き進めています。

実は、2008年9月20日にこの『インヘリタンス・サークル』の三番目の本が世界同時に発売となりました。

私はその日、ちょうど仕事が入っていて、夜まで本屋さんに行くことができませんでした。でも、私は彼の大大大ファンで、この日を本当に楽しみにしていたのです。そこで、仕事が終わってから大急ぎで書店に向かい、たっぷり750ページからなる第三作目の『ブリシンガー』をドキドキしならが手にしました。



そして、嬉しいことに、このシリーズはこの巻が最終巻となる予定だったのですが、著者の構想があまりにも広がり、第四巻に物語の最終的な展開を託すことになったのです。私は先週末この第三巻を読み終わり、いまからこの第四巻が待ちどおしくてなりません。

この本は実は映画にもなっています。が、以前のこの欄でも書かせていただきましたが、映画はまったくの失敗作だと思います。同じ名前を使って欲しくないくらい原作を破壊していました。

『エラゴン』、というのは、このシリーズの第一作で、主人公エラゴンを中心に物語が進みます。エラゴンは自分の両親のことはあまり知らされずに叔父一家に育てられました。自分がこの世に残された最後のドラゴン・ライダーであることも知らずに。



そうなのです。この『インヘリタンス・サイクル』は、ドラゴンとそのドラゴンの背に乗ることを許されたドラゴン・ライダーの物語です。

皆さんはこういったファンタジーは苦手でしょうか。実は前述のブック・クラブでも大方はこういったファンタジーを嫌って読みません。「ファンタジーは苦手」とも言うのです。

私はそれが不思議でなりません。私にとって、読書とは、私を未知の世界に運んでくれる翼です。固い本も読みますが、ファンタジーも大好きです。かの『ハリー・ポッター』シリーズも私は何回も読み返したほど。このブログにも『ハリー・ポッターと死の秘宝』について書いています。私は、ハリーポッタの新しい巻が出る直前には、第一巻から物語を読みなおし、自分の記憶を新しくして最新刊を待ちました。

私がこの『インヘリタンス・サイクル』に惹かれる理由は、このドラゴン・ライダーのエラゴンの不器用なまでの素朴さ、かも知れません。彼は、彼のドラゴン、サフィーラと悪の権化のような魔法使いガルバトーリックスと戦うために、いろいろな試練を乗り越えていくのです。その彼とサフィーラを取り巻く他の登場人物もそれぞれのバックグランドがユニークに描かれていて見事です。ドラゴン・ライダーとドラゴンの結びつきの深さは溜息がでるほどです。自分以外の存在にこれほど自分を理解してもらい、なおかつ絶対的な信頼を得ていたら、どんなに素晴らしいことだろう、とうっとりします。

私はパオリーニの言語に関する知識や言語そのものに対する態度にも多いに共感しています。彼は物語の中で、現代社会の私たちがつい忘れがちになる、“言葉の持つ意味”や“言葉に伴う責任”といったものを随所に、そして丁寧に書き込んでいます。

登場人物たちは魔法も操るのですが、その魔法も「古代言語」によって継承されています。また、この古代言語で誓いを立てると、その誓いは破ることができません。

しかし!それにしてもこのクリストファー・パオリーニ、ものすごい才能の持ち主です。そもそも彼が第一作の『エラゴン』を最初に書いたのが、彼が15歳の時だった、ということに驚愕します。その後1年をかけて校正し、両親にその作品を見せました。

さて、彼の両親。彼らもまたすごいのです。実は、クリストファーは学校に一回も行ったことがありません。彼は“ホーム・スクーラー”として、両親の元、自宅で勉強をしていたのです。15歳で普通の高校卒業に匹敵するすべての課程を修了しています。

このホームスクールに関してはまた別の機会に詳しく書かせていただこうと思っていますが、これは“学校”という枠を超えて子どもの学びを支える動きです。私は子どもの学びに対して、常に「柔軟でいたい」と思っていますので、このパオリーニ一家のことは大変注目しています。

さて、『エラゴン』の原稿を読んだ彼の両親はそれを自費出版することに決めました。そして、2001年、自費出版の『エラゴン』が誕生しました。その自費出版本がめぐりめぐってランダムハウス系例の子どもの本の出版社Knopfの編集部に届き、2003年8月Knopfから、『エラゴン』が商業ベースの書籍として出版されたのです。

その後、シリーズの二作目『エルディスト』が2005年8月に出版されました。その後彼は全米、欧州などで講演会を行い、熱狂的なファンに支持されています。



ファンタジーは苦手、と思っている方、一回だまされた、と思って、この『インヘリタンス・サイクル』読んでみてください。その広大なスケールは、J.K. Rowling の『ハリ―・ポッター』を上回る、と私は思っています!日本語にも最初の二冊は翻訳されています。

そして、現在、たったの25歳の著者クリストファー・パオリーニ。これから彼がどんな物語を創造していくか、とっても楽しみです。私はひそかに、彼の成長を見守る“パトロン”になった気でいるのです。



私たちに出来ること [2008年10月21日(火)]
 
私はアフリカに住み、毎日アフリカの現実と向き合っています。そこには厳しいものもあれば、苦しいもの、辛いもの、でも、楽しいもの、そして美しいものだってたくさんあります。

ただ、HIV/Aidsの患者さんたちと付き合っていると、ときには、10代前半の女の子が体中の痛みに涙を流している状況などに立ち会うこともあります。

私は長い間教師をしていますから、子どもとか、若い人の経験する“痛み”に敏感に反応してしまいます。彼女たちの静かで苦しい「……痛い」という訴えを聞くと、私の体と心もシンシンと痛み始めます。

「エイズにかかって悔しい」とか、「自分の境遇がつらい」という訴えも悲しいのですが、体が痛くって泣く、という行為を直視するのは本当につらいです。私は、「ごめんね、ごめんね」、と言いながら立ち尽くすしか術がありません。

世の中はこんなに進歩しているのに、もう間もなく死期を迎えるこんなに小さな女の子の“痛み”を取ってあげられない、という現実に打ちのめされる思いになります。先進国のエイズの患者さんだったらこんなことはないと思います。彼女がたまたま生を受けたのが、アフリカであったがための現実です。

体をさすってあげて、話を聞いてあげて、何とかその場をやり過ごします。こんな時、自分の無力さに嫌気がさします。医療関係者でもない自分のしていることなど、この少女にとっては、何の助けになっていないよなぁ、と絶望的になるときもあります。

でも、根気強く、その場を逃げずに、笑顔で、私が「ここにいるよ」というメッセージを出し続けること、ビーズのワークショップを継続することが大切なのだ、と自分に言い聞かせます。



そんな中、日本に住む友人から、ある若い男性のことを聞きました。そこには、アフリカの現実とは違う、日本の現実の“痛み”がありました。

若い男性とは、その友人の息子さんの中学時代の友人です。友人の息子さんはその当時、家庭の事情で彼自身が苦しい時期を送っていました。彼はほとんど学校に通うことなく中学生時代を過ごしていたのです。ですから、その当時の彼の友人はとても少ないのです。その中での友人がこの男性だったのです。そして、この男性も友人の家庭と同じで、中学の頃から母子家庭で育っていたそうです。

友人の息子さんがある日、最寄り駅で彼をじっと見つめるこの男性に気がついたそうです。お互いの境遇を話あって、友人の息子さんはびっくりしました。

中学時代から優秀だったこの男性は、高校時代も精いっぱい勉強し、アルバイトをし、進学する費用を自分で貯金したそうです。

ところが、この男性の母親がギャンブルに溺れ、この男性の進学費用を全部そこに使いこんでしまったのです。しかも、母親はその後失踪し、今も音信不通になっているということなのです。

私はこの話を聞いて、いく晩か眠れない夜を過ごしました。

この男性はもう19歳なので、実は“子ども”ではありません。が、この男性が具体的に例えば、奨学金を申請したい、と思っても、現実はかなり厳しいことをご存じでしょうか。現在、奨学金を得ようと思っても、奨学金を得るために必要な、連帯保証人を立てる条件がものすごく厳しくなっているのです。

友人から聞く中学校時からの彼の環境を考えると、もしかしたら、この失踪した母親だけが親族だったかもしれません。そうだとしたら、彼はどうやって、生活を支えているのか。どうやって家賃を、光熱費をねん出しているのか。

私はこの会ったこともない、この若い男性のことが気になって、気になって、何か自分にできることがないのか、必死で考えました。

私たち大人は、こういうことを知ったら、やっぱり何らかの行動を起こさないといけない、と思うのです

だって、彼は何も悪いことをしていないのです。それなのに、本来ならば保護され、親か周りの大人が最低整えてやるべき生活の基盤が一挙に奪われてしまったのです。

日本は一見豊かに見えるのに、いったん、社会の大きな波から降りてしまうと、世の中の仕組みが、いかにも不親切なのです。老人の孤独死とか、餓死するまで放っておかれた障がい者の人のことなどを知ると、どうしてもっと周りの人が動かなかったんだろう、と不思議に思ったり、憤ったりすることがありますよね。

行政や公な機関がさっさと手を差し伸べるためには、いろいろな手続きが必要なのはわかります。でも、そういった手続きさえできなくなる状態に人々は簡単に陥ります。元気があって、何でもできる人が大勢いるから社会は機能します。でも、私たちの隣に、気力も体力も落ちて、そういったことができなくなっている状態の人がいたら、元気な人たちは、手を差し伸べるべきです。

義務とか、なんとかごちゃごちゃ言わずに。

でも、多くの人が、躊躇する気持ちも理解できます。だから、私のようなお節介がいるんだろうなぁ、とも思います。

はい、私はこの会ったこともない男性のために、具体的に動くことに決めました。そして、このブログを通して皆さんにもこのことを知ってもらって、助けてもらいたいと思っています。

私にとって、アフリカのエイズの患者さんのためにビーズの教室を続けることも、この若い男性のために、何らかの支援をすることもまったく同じことなのです。

一回知ってしまったら、そのことを無視しない、知らないふりをしない、それだけです。

皆さん、知恵を出し合いましょう。この男性に対して何を援助したらいいのでしょう。どうか一緒に考えてください。彼がどうしてこうなったか、ということを話し合うつもりはありません。彼のために、何ができるだろう、という具体的な答えを出すためだけの応援団を作りましょう。

お金を出せる人はお金を出してください。知恵を出せる人は知恵を出してください。お金も知恵もないけれど、励ますことがうまい、と思うことは励ましの言葉をください。

「どうせ、こんなことをしたって、どうにもならない、本人がどう思っているのかもわからない」と考えてしまう前に、赤の他人だって、困っている人がいたら、ちょっとみんなで知恵を出し合って、その人のことを自分の家族にように考えてみませんか?それが空振りに終わったって、ちっとも構わない、と思える人がこの仲間に入っていただけたら嬉しいです。

「よし、私でできることなら一緒にやってみる」と考えてくださる方、どうぞ、私の個人のメールアドレスまでご連絡ください。メーリングリストのようなものを作成し、ぜひ、一緒に考えて、動きましょう。私のこのブログを読みに来てくださっている世界中の皆さん、どうぞ、お知恵をお貸しください。



両親が南アに来ました [2008年10月13日(月)]
 
南アフリカに移住をしよう、と私たち夫婦が決めたとき、さすがに自分たちの親たちのことも話し合いました。

高齢になって、自分たちで生活が不可能になった場合どうするのか。病気になった場合は……。

これらの心配は、お互いの両親が健在なので、当然のことです。

私たちの結論はこうでした。

「そういう時が来たら臨機応変に考える」

その“時”が、思いのほか早くやってきました。

私の両親は、東京の西のはずれ、あきる野市、というところで過去30年ほど運送業をしていました。ここ数年、半分引退状態ではあったのですが、今年の夏、いよいよ完全に商売を手離すときが来たのです。

商売を手放す、だけならば問題はないのです。が、“仕事”という日々の張り合いが無くなったら、二人が毎日何をして暮らしていけばいいのか、という問題が出てきました。また、生活習慣病があり、食事療法の必要がある父の食事の世話を、高齢の母に任せることも無理になってきていたのです。



私の両親は昭和のヒトケタ生まれ。子ども時代・青年時代は戦争前後の混乱期でした。戦争後は、同世代の多くの人たちと同じように、今日よりは明日、明日よりは明後日によりよい生活ができるよう、骨身を惜しまず働いてきました。

そして、ふと、自分たちが仕事を完全引退する次期に来て周りを見回してみれば、仲良くしていた友人はほとんどがこの世を去り、親戚も遠くにあり、これといった趣味もない二人は途方に暮れた、と言っても過言ではないでしょう。

そして、自分たちの三人の子どもの内二人、そして四人の孫は、地球の反対側にある、南アフリカに住んでいるのです。

私たちは両親に、「南アフリカにおいでよ、一緒に暮らそう」という提案をしました。

実は、私の両親にとって、唯一の趣味、というものが海外旅行でした。最初の海外旅行は、1982年の米国・オレゴンです。そうです、私の卒業式にオレゴンまで来てくれたのです。

それからというもの、アジア、ヨーロッパ、アフリカなどを機会がある度に訪問してきているのです。両親だけでソビエトや中国、韓国、インドネシアなどにも足を伸ばしています。

ただ、短期の旅行と海外引っ越しは次元が違います。片言の英語はわかるにしても、生活の拠点をアフリカに動かす決心をするは簡単ではありませんでした。

その両親に南ア引っ越しの決心をさせたのは、やはり四人の孫たちの存在でした。

私たちの子どもが二人、妹の子どもが二人、この四人の孫たちの、

「おじいちゃん、おばあちゃん、南アフリカにおいでよ」

が何と言っても二人の背中を押したようです。

話はちょっとそれますが、今年読んだ日本語の本の中に、『お一人さまの老後』があります。私は作者の上野千鶴子さんが大好きで、彼女の発言はこれまでずっと注目していたのですが、こと、この本に関してはがっかりしました。

まず、ページをめくっても、めくっても、“救い”がないのです。

どのページを読んでも、世代間の違いやら、価値観の違いを、「決して超えることのできない壁」というような捉え方をされていて、私には窮屈でした。彼女の本を最後まで読まなかったのはこれが初めてです。そもそも、私が読みかけの本を途中で投げ出すのは非常に珍しいのです。

これは、常日頃感じていることなのですが、日本のような先進国に住んでいると、過度に、自分の“満足度”を“絶対的物差し”にしてしまう価値観が存在しているように思います。

それが悪いのではないのです。でも、その満足度とは、いつでも、どんなときでも最優先されなくてはならないものなのでしょうか。

私は「順番を待つ」という考え方が好きです。

自分の順番が“今”でないのであれば、それを楽しく待つ、という発想があってもいいのではないでしょうか。日本には、「果報は寝て待て」という格言だってあるではないですか。

自分の幾ばくかの自由やら余裕やらを、少し他の人のために差し出したり、順番を譲ったりすることで、頑として進まなかった状況が好転することがあります。

でも、今回、両親をアフリカに呼んで同居するという決断は、南ア人の友人たちにあきれられました。彼らにしてみると、何で、自分の築いてきた生活空間を、親とはいえ、別の人格を持つ人間と分け合わなくてはいけないのか、という極めて正直な指摘です。

確かに、確かに、子どもたちも徐々に巣立ち始めている現在、年老いた両親との同居はめんどうくさいことが多いです。気楽に旅行にもいけなくなりました。近い将来は、介護の問題も出てくるでしょう。

でも、でも、でも……。

あと、両親の寿命がいく年あるかは分かりません。そんな中で、自分の出来ることをしないで、後悔するよりは、どんなに大変でも両親をこちらに呼び寄せることは私たち家族の中では自然な選択だったのです。

ただ、断っておきますが、私の両親は“超”がいくつもくっついてくる、ウルトラわがままなジイサマとバアサマです。決して、昔話にでてくるような、穏やで悟りを開いた老人たちではありません。

彼らの自己中心的な考え方は年季が入っています。おまけに、二人の唯一共通の趣味はテレビ(しかも民放!毎日のように、日本のテレビが見られるようにしろ、と責められています)、食事も同じものは続けて食べない、週一回は外食したい、お肉料理が続けば、サンマの塩焼きが食べたいと言い、魚料理が続けば、極上のステーキが食べたいと言います。



先日、母には、「明太子が食べたいからちょっと買ってきて」と涼しい顔で言われてしまいました。



父は昨今、BOOK OFFが大好きで、毎日本を買ってきていましたから、手持ちの本が無くなったら大騒ぎになりそうです。コンテナで大量の本が到着する予定ですが、それまで、なんとか私や夫の本で持たせなくてはいけません。でも、趣味が著しく異なるので、今から気が重いのですが……。

でも、寝る間も惜しんで働き、私たち三人の娘の教育を第一に考えてくれたのも彼らです。

南アでの滞在ビザのこと、健康保険、日本の家屋、財産など、まだまだ解決しなくてはいけない問題は山積みですが、ぐずぐずしている暇はありません。前進あるのみ!

「ええ〜い、がんばるぞ〜!」と大声を出して、昭和ヒトケタ生まれの両親のこれからの南アでの生活を精一杯支えていきたいと思っています。

泥棒にあいました [2008年10月06日(月)]
 
仕事で訪れていたモーザンビークのマプトで、全財産の入ったバッグを盗まれました。


マプト市内の路上の果物やさん


バッグの中に入っていたものは、パスポート、サイフ、デジタルカメラ、デジタル録音機、電子辞書、化粧ポーチなど、かなり重要なものばかり……。サイフの中には、現金、クレジット・カード、それから、日本、米国、南アフリカ各国の運転免許。どうして、全部を持ち歩いていたんでしょうねぇ。……自分に聞きたいです。

それから、それから、20年近く前に、息子の出産記念にリベリアで購入したライオンのピアス。これは、当時リベリアで宝石細工をしていたアルメニア人の職人さんに作ってもらったものだったのです。

考えると、まだクラクラしますが、これもまた人生の一コマですので、ここにその顛末を。


これも路上の古着屋さん
ディスプレイが凝っている!


まず、バッグの盗まれた場所は、マプト市内の4つ星ホテルです。

そのホテルのレストランで、私は今回の仕事の他の日本人メンバーと朝食をとっていました。このレストランのテーブルは、二人掛け以上のものは丸テーブルです。メンバーが合計6名の私たちのグループは、ちょっと時間差がありながらも、この丸いテーブルを一つ陣取っていました。

そのメンバーのうち、二人が自分たちの朝食を終えてテーブルから立とうとしたときに、隣のテーブルに座っていた一人の白人の男性も同時に立ち上がりました。

その時、彼はガサン!と、自分の地図を床に落としたのです。

どうやら、彼は、その落とした地図を拾うのと同時に、床に置いてあった私のバッグもちゃっかり拾いあげたようなのです。

テーブルが丸く、物を置く余裕もなかったので、私は自分のバッグを床に置き、数分に一回はそれを足で確認しながら食事をしていました。が、まさか、ホテルの宿泊客が、一瞬の隙に、他の宿泊客から窃盗を働くとは想像もしていませんでした。

これは私の不注意、というか、気の緩みですね。

残念なことに、アフリカに住んでいると、貧富の差の激しさから、貧しい側が富める側のものを盗むのは日常茶飯事です。実際、私の家も3回ほど泥棒の被害にあっています

好むと好まざるにかかわらず、アフリカへ移住する前は、日本の政府や会社で働いていた私たち家族は、どうしても“富める側”に振り分けられてしまうのです。

そういった環境の中、私は、同じホテルに滞在している、“富める側”に立っていそうな人間に対してガードが低くなっていたのでしょう。四つ星ホテルに滞在することができる経済状態の人間が、同じホテルに宿泊している他人から物を盗む、といった発想が私の中にはなかったのです。

これは明らかに、アフリカに長年住んでいることから来た気の緩みだと思います。日本だって、欧米の先進国だって、窃盗などの犯罪は、ただ単に“貧しいから”することではないのは常識なのかも知れません。

そして、極めて感情的なのですが、南アの家に泥棒が入られたときよりも、今回の“白人男性泥棒”に対しての怒りのほうがかなりその度合いが高いように思います。

家に入った泥棒たちの場合、後始末の面倒くささを悔しいとは思いつつも、「そりゃあそうだ。毎日、これだけの格差を見せつけられたら、出来心が起きたって仕方がない」といった泥棒たちに対する同情の気持ちが湧いてきてしまうのを抑えることはできませんでした。

もちろん、これは、家族の誰もが怪我をしたり、暴力の犠牲になったりしていないからこその感情だとは思います。

しかし、今回の白人男性、ホテルのセキュリティ・カメラにも、堂々と私のバッグを持って、レストランを歩き去る姿が映されていました。その直後、カメラは彼がトイレに入る姿を捉え、そしてトイレから出てきた彼はもう私のバッグを手にはしていませんでした。きっと、トイレで自分のバッグに私のものを収納してしまったのでしょう。

今回のことでは、私にはまだこのホテルとの交渉も始まったばかり。いくらかでも保障をしてもらいたいのですが、これは長引きそうです。

ただ、今回、本当に感謝したいのは、在モーザンビーク日本大使館の領事部門の方々の素早い対応、ご支援でした。いま、私が手にしているのは、同大使館が初めて発行されたという“日本国緊急旅券”です。



これがなかったら、モーザンビークを出国することも、南アフリカに入国することもできませんでした。関係者の皆様、本当にありがとうございました。また、日本からのチームの皆さんにもご心配をかけました。申し訳ありませんでした。

ただ、この“緊急旅券”、本来あるべき大切な出入国の記録が、当然のこと、記入されていません。ということは、出入国の際、パスポートを管理する係官から、その理由を聞かれます。

モーザンビークを出国するときも、明らかに、普段と違う状態に、係官はむっつりしていました。途上国の公務員は、特に日常と異なるものに対して強い嫌悪感があるようなのです。

でも、そこは数々のアフリカの修羅場を通り抜けてきた私です。にっこり笑いながらも、「バッグを盗まれて私は悲しい、悔しいです」という感情をちょろちょろ見せながら、警察の証明やら、大使館で発行していただいた事件の証明やらを見せて、無事、通関。

その後、南アのイミグレーションの係員にも、この緊急旅券は珍しかったようで、いろいろ聞かれてしまいました。でも、「マプトでバッグを盗まれたの」と私が言うと、

「ほおれ、そういうこと、南ア以外でも起こるのよね!」

と、鼻息も荒く、慰め?てくれました。そして、「何も言わずに三か月のビザをあげるから、この三か月以内で後始末をしてね」と、私を励ましてくれたのです。

鼻の奥がつ〜んとしました。みんなが同情してくれて救われました。でも、こういう話をすると、間違いなく全員が、それぞれが襲われた話を披露して、ついついその場が盛り上がってしまうのも、アフリカならではのことで、おかしいと言えばおかしいことですね。

さてさて、でも、みなさん、この被害の物件の数々の中で私は、何が一番惜しいと思っていると思いますか?

もちろん、仕事上の機材はもうこれは仕方がない、モノにくじけてたまるか、と涙をのみます。

数々の証明書の類も忍耐強く復活の手続きをとるしかありません。南アフリカの免許やIDを収得するのは、長〜い列に並ばなくてはいけませんが……。

そして、アルメニア人のおじいさんが作ってくれたライオンのピアスも実に悔しい。でも、これも20年以上、楽しませてもらったので、潔く諦めることにします。
 
実は、何よりも私が悔しいのは、ずばり、去年更新したばかりのパスポートなのです。

なぜかというと、それは、そのパスポートに使った写真が、私にとっては近年類を見ないほどよく映って撮れていたのです!

写真が苦手で、写真写りの悪い私にとって、このパスポートの写真は、「ふふふ、10年もこれでいいのね」とほほ笑みたいくらい、気に入っていたのでした。

ああ、悔しい!

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。