吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日 [2008年06月23日(月)]
 
南アフリカの隣国、ジンバブウェが大揺れに揺れています。

以前にも、ジンバブウェで大統領選が行われたにも関わらず、政府の選挙委員会がその結果を公表しない、というとんでもない状態になっていて、国中が混乱している、という記事を書かせていただきました。

選挙結果そのものは、現職のロバート・ムベキ大統領が43.2%、最大野党であるMDC (Movement for Democratic Change)のモーガン・ツァンギライ議長が47.9%を獲得、と選挙後1ヶ月以上たった5月に入ってから発表されました。が、双方が過半数を獲得できなかったので、2008年6月27日に大統領選決戦投票が予定されていたのです。

ところが、今週に行われる予定だったこの選挙に出馬するのが現職のムガベ大統領のみのなりそうなのです。このままだと現職のムガベ大統領の五選が決まってしまいます。

この決戦投票が危うくなったのは、対抗馬のツァンギライ議長が、投票日のわずか5日前の6月22日に、この選挙への参加を取りやめる声明を出したからです。



どうして彼はこの決選投票から撤退したのでしょう。

それは、彼のスピーチが端的にその状況を説明しています。

“We in the MDC cannot ask them to cast their vote on June 27 when that vote will cost them their life.”

「我々、MDCは、我々の支持者に、命と引き換えに投票してくれ、とは頼めない」

彼のこの撤退の発表は、いくつかのアフリカのメディアで、「ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日」と報道されました。

2008年6月23日現在、今回の選挙中に殺害されたMDCの活動家は90名にも上ります。ムガベ政権は、警察、軍隊を操り、MDC に賛同しているジンバブウェ人に暴力や迫害を絶え間なく続けているのです。その結果、現在、ジンバブウェ人は、憲法で保障されているはずの集会の自由も、自分の自由な意思で選挙に参加する権利も奪われているのです。

20日、金曜日には、MDC 支持者の首都ハラレ市の市長夫人の遺体も発見されています。いろいろなサイトを確認してみると、暴力の被害にあった3歳の幼い子どもの写真まであります。その中には、拷問を受けたことが明白なMDC支持者の遺体の写真も掲載されています。

どうしてこんなことになってしまったのか。

欧米メディアのインターネットサイトでは日曜の午後から、ジンバブウェのこの動きをトップニュースで伝えています。もちろん、こういった報道で糾弾されるのはムガベ大統領です。確かに、ムガベ大統領がしていることは無茶苦茶です。

ただ、ここまで混乱してしまった背景も無視することは出来ません。

実は、ムガベ大統領、1980年代に政治的に登場した際は、英国から独立を勝ち取ったアフリカのヒーローだったのです。ゲリラ戦を戦った後の独立、そして、彼が西洋的教養も身につけた弁舌さわやかな新しいアフリカのリーダとして脚光を浴びていた彼を、そのころアメリカで学生をしていた私は、一種の憧れを持って彼のスピーチなどを読んだり、彼の講演を聞いたりしていました。

その彼がどうして自分の祖国を、自国の人々をここまで苦しめる独裁者になってしまったのでしょう。

残念なことに、彼は、政権に固執するあまり、政敵を抹殺したり、自分の一族で側近を固めたり、と政治を完全に私物化してしまったのです。

また、素朴な疑問として、今年86歳という高齢のムガベ大統領、どうしてここまで権力の座に拘るのでしょう。

実は、アフリカに暮らし、アフリカの政治をいろいろな形で見てきているものとして、この「どうして権力にここまで拘るのか」への答えはそう難しいものではありません。

ずばり、彼が権力の座から降りれば、彼のこれまでの数々の犯罪に対し、司法の判断が下されるばかりではなく、“大統領”という役職が無くなると、身辺のガードが低くなり、彼自身が殺される可能性も極めて高くなるからです。

彼の周りで甘い汁を吸いつづけてきた側近、家族、一族郎党も同じ運命です。これだけ長い間、権力の座にとどまる、ということは、彼の周りでこれらの恩恵に与ってきた人間の数も半端な数ではないのです。

つまり、彼が権力にしがみつく一番の理由は、彼と彼の一族の安全や命を守るため、だと言っても過言ではないでしょう。

そして、これは何もムガベさんに限ったことではないのです。アフリカの多くのリーダがこの同じ運命をたどっています。

ここまで書いてきて、いま、モーガン・ツァンギライ議長が、自分の身の安全を守るために、首都ハラレにあるオランダ大使館に避難した、との情報が流れてきました。彼の家族はもちろん、現在、ジンバブウェから脱出しています。

欧米、欧州連合、国連などが一斉に今回のこの成り行きに非難声明を出しています。ところが日本では、大したニュースにもなっていません。福田首相は、アフリカ支援の政策を、過日横浜で開催された、第四回アフリカ開発会議でも明確にアフリカの首脳を前に語っているのです。どうか、日本も含めた国際社会が、ジンバブウェへの圧力を高めて、この混乱が一刻でも早く収まることを願うばかりです。

これは、確かに、遠い、遠いアフリカで起こっている理不尽な政争です。でも、ジンバブウェで起きているから、自分たちに関係ないと思わないでください。ジンバブウェや、アフリカの他の地域の混乱が、回りまわって、日本やアフリカ以外の場所に住む、あなたの生活に関係しないとは絶対言い切れないくらい、私たちの住む世界は微妙に関連しあって存在していると思うのです。


ジンバブウェの素朴ながらも、味わい深い石の彫刻は有名。
国名の“ジンバブウェ”は、現地の言葉で、
「石の家」を意味する。

アフリカ大陸、90キロマラソン! [2008年06月16日(月)]
 
南アフリカ・ダーバンの最大級の行事の一つともいえるイベントが毎年6月に行われます。それは、知る人ぞ知る、“コムラッズ・マラソン”です。

このレースは1921年に開始されて以来、第二次世界大戦時の休止を除けば、毎年、ダーバンとピーターマリッツバーグという都市をつないで行われる全長90キロ近い“鉄人レース”です。

“コムラッズ”とは、そもそも「戦争を共に戦った同士」といった意味を持ちます。1921年のレースは、第一次世界大戦で亡くなった戦友の霊を慰めるために34名がこの距離を走りました。

私たち家族の住むWinston Park と呼ばれるダーバンから内陸に30キロほど入った地域も、このマラソンのルートの一つに入っていて、レース中は道路が閉鎖されてしまいます。



2008年6月15日、今年のコムラッズ・マラソンが行われました。今年の距離は87キロ。毎年、どこのルートを通るかで、若干の距離の違いがでるそうです。

偶数年の2008年は、ダーバン出発の上り坂のレースでした。港町ダーバン、つまり海抜0メートルから、ピーターマリッツバーグまで、時には緩やか、時には険しい、延々と続く90キロを約5時間半から12時間かけて走るのです。ちなみに、ピーターマリッツバーグの標高は720メートルです。

このレースには、全世界40カ国から毎年1万5千人もの人が参加します。もちろん、日本からも熱心なランナーの方々が大勢参加されるようです。今年も何人かの日本人ランナーとおぼしき人を見かけました。

風光明媚なこの地域を走るのはさぞかし気持ちがいいだろうなぁ、と思います。が、繰り返します、それにしても90キロ。ただ歩くのだって、並大抵の距離ではありません。

朝の五時半に出発して、到着地点にはその12時間以内にたどり着かないと失格、という厳しいルールもあります。もちろん、通過地点ごとにも規定時間があって、何時間かけても完走すればいい、といったものではありません。

しかし、皆さん、楽しそうです。



オーソドックスなランニング姿の人もあれば、奇抜な衣装を着ている人もいます。



今年はダーバンが起点の“上り坂”レースなので、私たちの地域ではまだ30キロを過ぎた地点です。この辺を通り過ぎるランナーたちの表情もそう苦しそうではありませんでした。



街道には多くの人が出て、ランナーたちに声援を送ります。南アフリカ人はスポーツ観戦が大好きです。ラグビーやクリケットの大きな試合があると、みんながテレビに釘付けになります。そしてこのコムラッズ・マラソンも、ピーク時には街道沿いに観戦している人とテレビでの観戦をあわせると、100万人にも上るとか。

さて、私はこのところ、ぐんと増えてきた、南アフリカ人らしい黒人ランナーの姿を見ると、つい涙腺が緩んでしまうのです。

実は、このマラソンを国際的なイベントにしたい思惑があった歴代の組織委員会は、人種隔離政策中でも、1975年からは全人種がこのレースに参加できるようにしました。これは、当時としては「英断」でした。なぜなら、人種隔離政策下では、黒人が白人と競うことは禁止されていたからです。また、この全人種参加を決行する際、それまで正式には参加を認められていなかった女性の参加も許可したのです。1975年は、全人種、そして女性たちも正式にレースへの参加が認められた最初の年だったのです。

現在、このレースに出るためには、南ア人の場合、きちんと参加資格を与えられた“クラブ”に所属していることが条件です。また、過去一年間の公式のマラソンのタイムも提出しなくていけないとか。つまり、このコムラッズ・マラソンは、日ごろからかなり鍛えこんでいないと参加資格さえもらえない、という由緒正しきものなのです。

南アフリカでは人種隔離政策以前でも、白人政府は、黒人や非白人を自分たちと同じ“人間”として認めてきませんでした。一般の白人南アフリカ人は、政策の一環として、白人だけが知性、教養を持つ人種である、と信じ込まされていたのです。多くの白人が、1994年以降の政府の方向転換で自分たちがいかに、本当の情報から隔離されていたか、を知ることになります。

その中でも、彼らが何にびっくりしたか、というと、1994年以降、ありとあらゆる職種で、大学教育を受けた黒人の存在が目立つようになったのです。彼らは、自分たちの通う大学の他に黒人学生が大学教育を受けることのできる大学が南アフリカに存在していたことさえ、知らなかったのです。

ノーベル平和賞の受賞者、南アの元大統領ネルソン・マンデラ氏のことだって、一般の白人南アフリカ人は、「恐るべき共産主義のテロリスト」というイメージを植え付けられていたのです。

そういった社会で、自分の体と心を鍛えるスポーツ、というものが、いかに、黒人層には遠い存在だったかを理解していただけるでしょうか。

だからこそ、引き締まった筋肉質の体に、スポーツクラブの名入りのタンクトップを着、足は最新のNikeやら一流のカラフルな運動靴に守られた黒人のランナーを見かけると、私は心の底から、「ああ、いい時代になった」と胸が熱くなるのです。

南アフリカ社会の人種差別はなくなったわけではありません。この土地に住むものとして、その根深い人種間の隔たりに残念な思いを抱くことは大げさでなく、毎日のことです。

でも、少しずつ、少しずつ、社会は変化しています。このレースにもその兆しを感じます。



そして、もうひとつ忘れていけないのは、例年コムラッズ・マラソンが行われる6月16日は南アの『Youth Day―若者の日』という祝日だということ。ただ、今年は休日の関係で、マラソンは15日に行われました。

この『Youth Day―若者の日』とは、1976年に起きたソウェト動乱の際、命を落としたたくさんの黒人の子どもたちを哀悼する日なのです。ソウェト動乱とは、1975年から1976年にかけてヨハネスブルグ近郊のソウェトで起こった、子どもたち・学生たちの人種隔離政策への抗議デモを指します。

特に1976年6月16日に組織されたデモ活動では、2万人の子どもたち・学生たちが抗議活動を行い、警察がそのデモに発砲し、約700名の彼らの命を奪いました。自国の子どもたちに銃を向けた当時の南アの国家権力はこの動乱のあと、国際社会から厳しい批判を受けることになりました。

このソウェトの子どもたち・学生たちは、何をきっかけに、このデモ活動に参加したと思いますか。

もちろん、当時の黒人のための学校というのは、設備の劣悪さ、生徒数の多さなど、さまざまな問題を抱えていました。が、このソウェト動乱は、そういった環境面での不平等に端を発したものではなかったのです。これは、時の政府が、高校以上の学校で、授業で用いられる言語、つまり生徒たちが教えられる言語に白人の言語である“アフリカーンス”を使用することを義務付けたことに対する抗議が発端となったのです。

私は長い間いろいろな場所で言語を教えてきた教師として、一人の大人として、この歴史を忘れることができません。「自分たちの言葉で学びたい」と願って行動を起こし、命を奪われた子どもたちのことを。

そして、2008年6月15日、32年前にソウェトに散った多くの子どもたちのことを思いながら、青く澄み切ったダーバンの空の下、私は世界各国から集まった多くのランナーたちに心からの声援を送りました。



日本語とお箸 [2008年06月09日(月)]
 
去年の秋ころから始まった何組かの日本語クラスの訓練終了の時期が近づいてきました。私の日本語の生徒さんとその家族には、彼らの日本出発直前に、我が家に来てもらって日本食の食べ方などの特別レッスンをします。

まず、お箸の使い方から。



欧米ではもう普通にお箸を使える人が多くなりましたが、南アフリカではまだまだお箸は“未知との遭遇”に近い人もいます。

これも訓練の一環ですので、簡単なものを食べてもらうわけにはいきません。今日のメニューはてんぷらと冷たいうどんです。別テーブルではダーバン近海で上がったばかりの中トロや庭でとれたアボカドなどがネタの手巻き寿司の実演も。

さて、この冷たいうどんの食べ方は特に大変です。何が大変かというと、“音”を立てながら食べ物を食べる、ということが習慣になっていない人が多いからです。南ア人もほとんどの人が、「食事のときに立てる音は失礼にあたる」という家庭でのしつけを受けてきた場合が多いのです。

日本人からすると、そば・うどん類を、音を立てずに食するのはあまり美味しそうな食べ方ではありません。試してみてくださいね。どんな上品な食べ方をしたとしても、まったく音を立てずに麺類を食するのは、かえって不自然なのです。

しかし!こういうと、中には、
「おおお!これぞ私の出番!」というように、盛大な爆音を立てて麺類をすする人が必ずいるのです。

いえ、いえ、爆音は立てないのです。
それに、爆音を立てると、汁が飛びますよ!

適度なすすりで、適度な音を立てて召し上がれ、と言っても、なかなかコツがつかめません。そこで、日本人登場で、デモンストレーションをするのですが、これがまた、全員に注目されていると、けっこう意識してしまうものです。毎回、咳き込んだり、噴出したり、……日本語の先生も大変です。


そ、そんなに見つめないで欲しいのに……。


次に、南ア人が不安に思うのが、なんとこの食器です。



取っ手のないお茶のみ。

「どこに手を添えるのですか」
「熱くないのですか」
「砂糖を入れるためにはスプーンを頼んでもいいのですか」

といった質問が出ます。最初の二つは実際に熱い緑茶をそそぎ、それを飲んでもらいながら説明します。

最後の質問にはもちろん、「日本茶にはお砂糖はいれないです」と念を押すのも忘れません。

私は言語を学ぶ、ということはその言葉を話す人たちの文化も一緒に学ぶことが大切、と思っているので、私の日本語の生徒たちには機会があるごとに自宅に来てもらって、日本人の家庭の雰囲気を味わってもらうようにしていいます。

それに、日本へ行くことに不安も抱えた彼らです。こういった機会で彼らのこれからの日本での生活に対して度胸をつけてもらえれば、とも思います。

ただ、“日本人家庭”といっても、我が家はアフリカ生活が長いので、私たちが正真正銘の日本人家庭なのか、と聞かれてしまうと、ちょっと自信がないのも事実です。夫婦揃って日本人なので、人種的には間違いなく日本人なのですが、文化的にはかなり複合的になってきています。

特に我が家の二人の子どもたち。こういう場にも母からの指令で必ず参加させられるのですが、その発言行動は確実に南ア人になりつつあります。

彼らの発言の中で、「ああ、こいつらはもう100%日本人ではない!」と関心?したことがあります。

まず、カンジの発言。

「ボクはキューピーちゃんのマヨネーズよりも南アのマヨネーズの方が好きだね」

え?なんでこれが非日本人発想なの?と思いますか。

実は、海外駐在の日本人家庭で、日本よりご用達の食料品で人気ランクに常に上位を占めるのが、あのプラスティックの容器に入った、キューピーちゃんの絵のついたマヨネーズなのです。

多分、あの独特の酸味が他の追随を許さない所以なのかもしれません。その独特さの証拠には、南ア・ダーバンのお寿司を出すレストランでも、「ジャパニーズ・マヨネーズ」は追加料金でオーダーもできるほど。

しかし、世の中には“マヨラー”と異名を取るほどマヨネーズが好きな人たちもいるというのに、カンジはつい最近までマヨネーズが苦手でした。だから、キューピーちゃんのマヨネーズにも感化されていなかったというわけです。

見かけは日本人なのに、彼に郷愁を誘うマヨネーズは、キューピーちゃんではないんだなぁ、と実感してしまいました。ふふふ、ちょっとおかしいですね!でも、現地調達に勝るものはないので、これはこれでいいことです。

さて、ショウコの発言。

南ア人の生徒さんたちに、「日本人は面倒くさいよ。あのね、一回断られても、それを信じてはいけないよ」と力説しています。

何のことを言っているのだろう、と聞いてみると、それは彼女の友達とのある“事件”でした。

日本の小学校に数ヶ月お世話になったショウコは、昨年帰国したときに、その当時のお友達と一緒に遊んでもらったのです。そのとき、南アからのおみやげのチョコレートを一緒に食べよう、とお友達に差し出したそうです。

すると、お友達は、「ああ、いいです」と断ったそう。

ショウコは、それを聞いて、「そう、じゃあ、私が食べよう!」と言って、その子の目の前で、美味しそうにそのチョコレートをぱくり。

そのお友達は目を真ん丸くして、「ああああ、食べちゃった」と驚いたそうです。

ショウコはショウコで、驚かれたことにびっくり。

「だって、いらないって、言わなかった?」

う〜ん、ショウコの描写ですから、細かいところはぶっ飛ばされているだろうとは思いますが、その状況はくっきり理解できます。

でも、これを聞いた南ア人は、おののきました。

「えええええええ、じゃあ、どんなに嬉しくても、日本人から何かをもらったら、私たちも最初は断らなくてはいけない、ってこと????」

いえいえ、そうではありません。

南ア人には、日本人の行動様式を真似する必要はないことをしっかり伝えました。ただ、もし、日本人がこういった行動をしたとしたら、それは文化的に、いったん辞退するのは礼儀のひとつだと思っているから、と説明しました。

しかし、確かに、ショウコのような文化的背景を持っていると、この状況は、

「日本人は面倒くさい!」

に、なるのだろうなあ、と納得してしまったのでした。





賃金50%アップ! [2008年06月02日(月)]
 
地球アゴラに出演してから、嬉しいお申し出を新たに何件かいただきました。
 
地元のボランティアのバザーで販売してみよう、というものと、ファエトレードに興味を持つ東京の雑貨屋さんからのものです。こちらは実際の販売が始まりましたら、またこのブログでもお知らせしたいと思っています。



さて、こんな新しい動きがあったことにも背中を押されて、患者さんたちのビーズの賃金を50%アップすることにしました。

実は、ここ数ヶ月、患者さんたちから賃上げの要求が出ていたのでした。でも、安易に大盤振る舞いしても、後が続かなくなってもいけない、と思い、患者さんには我慢してもらっていたのです。

しかし、私たちが暮らすダーバンでもこの頃の物価の上昇は本当に情け容赦がありません。

世界的な食料の値段の高騰による影響をこのドリームセンターの患者さんたちももろに受けているのです。

2008年1月初頭に食パン(日本の8枚切の薄さのものが20枚くらい入った大きさのもの)がこちらの値段で4〜6ランド(日本円で56円〜84円)だったものが、2008年6月現在では7〜11ランドにも値上がってしまったのです。

アゴラの放送では「はい、パンの値段は50%も上がっています」と物知り顔にお話したのですが、これは実は100%上昇、いやもっと分かりやすく言えば倍近くに値上がっていたのでした。

患者さんたちは、政府からエイズを発症している、と認定を受けると、Disability Grant と呼ばれる生活援助金を受け取ることができます。これが、一ヶ月約1万円弱です。が、患者さん一人でこのお金を使って生活しているわけではないのです。この1万円弱のお金をそれこそ、10人を超える人数で使っている場合もあるのです。

だからこそ、どんな形でも現金収入は嬉しいのです。

実は、ダーバンの他の病院でも、患者さんのためのこういった工作教室のようなものはいろいろな団体が実施しています。でも、多くの場合、患者さんの足は最初の数回で途絶えてしまうのです。

それなのに、どうして私たちのビーズ教室は患者さんが途切れず参加してくれるのでしょう。

それは、もちろん、たとえどれだけ少ないお金でも、患者さんたちに、彼らの労働に対してお金が支払われるからです。

私はこのシステムをこの活動が続く限り守りたいと考えています。途上国の多くの貧しい人たちが、「援助なれ」といった状況に置かれていることを私はここ20年以上のアフリカ暮らしで嫌というほど見てきました。

「私たちは貧しいの、援助してちょうだい」といった態度です。

でも、これも、こうさせてしまった側にも責任があります。

もちろん、私がしていることも、“援助”といった行動に分類されてしまうのかもしれません。でも、私はこれを私個人と、私を支えてくれる友人たちだけで運営しています。職業的にしている“援助”とは一味違う活動をこれからも続けていきたいと思っています。

でも、どんぶり勘定の極めつけのような私ですので、長期展望などはありません。自転車操業と呼ばれようと、これ以上の時間が費やせない状態では、しばらくはこのままの形態で突っ走るしかないでしょう。

さて、そんな中、実はもう一つ、困ったことが起きてしまいました。

現在、患者さんたちの作成するビーズは、ブレスレットのみなのですが、これはメモリーワイヤと呼ばれる形状が記憶されているコイル状に曲がったワイヤを使います。



このワイヤはビーズと同じ、中国からの輸入です。このメモリーワイヤがダーバンの街から消えてしまったのです。実は去年もこの時期にワイヤが街から消えたことがあったので、いつもワイヤの入手は先手を打って数か月分は確保していたのでした。




ですから、今回は7月の中旬くらいまでは大丈夫な量を確保しています。でも、問題は次の入荷時期がまったく読めないことです。

しかし、こんなことでくじけているわけには行きません。自転車操業の、小規模活動のよいところは、とにかく小回りが利くことではないですか!

そこで、今回、このビーズワークショップの生みの親、名古屋のヤス子さんとも相談して、なんと、新作に挑戦することにしました。

それは、ビーズの暖簾です。

患者さんたちの中には脳溢血を患っていて、手足の自由が利かない人も多いので、複雑な作業はできません。

その点、暖簾であれば、しっかりとした釣り糸のようなものにビーズを入れていくだけの作業ですので、このブレスレットと同じように単純作業で大丈夫なはずなのです。

試作品さえもまだ出来上がっていませんが、どうぞ、ビーズの暖簾に興味のある方はご連絡くださいませ。日本の色使いとはちょっと趣の違う“アフリカ〜ンな暖簾”をお届けいたします!






プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。