吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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外国人恐怖症から来る暴動 [2008年05月26日(月)]
 
「xenophobia ---- ゼノフォビア」
という言葉をご存知でしょうか。

いま、南アフリカではこのゼノフォビアを原因に、都市部で暴動が起こっています。発端は南ア最大の都市、ヨハネスブルグ近郊のアレキサンドリアと呼ばれる不法占拠の家が多く立ち並ぶ貧しい地域でのジンバブウェ出身の移民への攻撃からでした。

ゼノフォビアとは、外国人や外国のことを一方的に嫌悪したり、恐怖心を持ったりする感情のことを意味します。

そして、残念ながら、今回のこの暴動は、南アフリカでも多くの貧しい人が住む地域のさらに貧しいアフリカ各国の移民の人に向けられています。中でも政情不安から大量に南アになだれ込んできたジンバブウェ出身の不法移民の人々が最大のターゲットになっているようです。南アとジンバブウェは陸続きです。歩いて、国境を越えてきた人々です。

2008年5月26日現在、今回の暴動で死亡した外国人は50人に上ります。今もヨハネスブルグでは3万人以上の人が自宅に戻ることができずに、教会の敷地内などで様子を伺っています。この暴動で、ターボ・ムベキ大統領の手腕にも大きな不満が湧き上がっており、25日の全国的な新聞では一面を使って、ムベキ大統領に辞任を要求していました。現在は不穏地域に軍隊も派遣されています。


銃を持った兵士が座り込んでいる
新聞の見出しは、「これは非常事態宣言」

私たち家族の住むダーバンではまだそれほどの暴動は広まっていません。このまま沈静することを祈るばかりです。

この暴動は実は国際社会にも大きな影を投げかけています。でも、その心配も、二種類に分かれているようです。その一つとは、2010年のワールドカップは大丈夫か?という具体的なイベントを心配してのもの。そして、あとの一つは、「アフリカは自分たちの真のパートナーになりうるのか」といったアフリカの持つ不安定さそのものに対する信頼の揺らぎです。

アフリカは確かに、南アフリカの隣国、ジンバブウェの民主化の問題もそうですが、まだまだ汚職がはびこり、自分たちの責任を明確にしないリーダーたちなどが大手を振って存在しています。でも、これはアフリカに限ったことではないですね。

2010年のワールドカップが成功するかどうかは当の南ア人たちでも意見が分かれています。外国人たちが犯罪に巻き込まれることの心配がその最大のものです。また、宿泊施設などのハード面が追いつかないのではないか、といった心配も聞こえてくるようになりました。

ただ、もう一つの「アフリカはこれからの国際社会できちんとその役割を果たすことができるのか」という心配。これは正直言って、お門違いだと思います。地域の特殊性は確かにあるでしょう。でも、これこそ、何をして、アフリカを誰のパートナーと捉えているのかが疑わしい。自分たちを絶対的な位置において、アフリカ全体をまるで“子ども”のような存在に例えている傲慢さがこの心配に見え隠れします。“グローバリゼイション”という先進国からの押し付けが途上国で嫌われる一つの理由がこの傲慢さにあると言っても過言ではないでしょう。

南アのゼノフォビアに戻りましょう。CNNなどの外国メディアの特派員たちが、暴力を振るっている人にその訳を聞くと、

「外国人が自分たちの仕事を奪っている」
「外国人が治安を悪くしている」
「外国人が病気を流行らせている」

といった、根拠のないものがほとんどでした。

結局、自分たちの置かれている立場への不満をさらに弱い立場の人へ向けている、という構図が暴露されています。

でも、これはアフリカだけのことでしょうか。

実は日本でも、米国でも、欧州でも、自分たちの生活が安定していなければ、社会の不安要因を自分たちと違うもの、異質なものに押し付ける傾向があると思います。例えば、テロリストといえば、イスラム教徒、というような911以降に世界各国で起こった、イスラム教徒への言われのない攻撃などがその筆頭です。

私は異文化の世界に身を置くようになって、かれこれ30年以上の年月が過ぎました。他の人と同じようなことをすることを特に好まない性格からなのでしょうか。自分と違う生活習慣や考え方を持った人たちと一緒に仕事をしたり、お付き合いしたりすることに何の不都合も感じないのです。

「人は違って当たり前」

という考え方を基本に持っていると、人との相違点が苦痛ではなくなります。もちろん、日本で同じような時代に育った人間同士だからこそ分かりあえる文化的な共通点とか、同世代の友人と子ども時代のテレビ番組の内容などで盛り上がる時間とかの楽しさは十分承知しています。気の置けない友人とのおしゃべりくらい楽しいことはないですもの。

でも、それでも、私は自分と違う考え、違う生活信条を持つ人とのお付き合いも楽しいと思うのです。統一された見解しか存在しない世の中はつまらないです。

アフリカ、と一口に言っても、それこそ、この大きな大陸にはたくさんの人種が住んでおり、統一された文化などありません。それだからこそ、今回のアフリカ人が他のアフリカ人を攻撃する構図がつくづく残念なのです。

アフリカを永住の地と思ってやってきた私たち。でも、これを錦の旗とは思っていません。もしも、この暴動がアフリカ出身以外の移民にも向けられ始めたら、自分たちの行動範囲の見直しなども迫られるでしょう。これもアフリカに住むということに付随している現実の一つです。

南アフリカは全人口の14%が“先進国”に住み、50%が“発展途上国”に住む、と言われています。ですから、人口の半分の人が目の前に自分たちの持っていない類の富を持つ人を毎日見て暮らしているのです。

格差社会の実態は日本のそれをはるかに上回ります。

ということは、その14%に入ってしまう私たちは、常にある一定の緊張感を強いられることになるのです。持つ側と持たざる側の距離が犯罪につながる、という緊張感です。その緊張感を持ちつつも自分がこの社会で何をすべきか、を常に思いながら、このゼノフォビアが一刻も早く収まることを願ってやみません。

地球アゴラに出演しました [2008年05月19日(月)]
 
以前にお知らせしたとおり、NHK―BS1の番組、地球アゴラに出演しました。

今回、つくづく身にしみたのが、通信状況の変化です。

私が始めてアフリカに渡ったのは1986年でした。そのころ、新しい通信手段として、ファックスが登場しました。1986年、西アフリカ・リベリアに赴任した私たちは、当時としては最新だった、ファックス機能が備わった、今考えればとてつもなく大型のワード・プロセッサーを荷物の中に、意気揚々と詰めたのでした。

それから20年以上の年月がたって、この『地球アゴラ』という番組は、インターネット上の無料電話、スカイプを利用して、世界に住む日本人と東京のNHKのスタジオをつなぎました。インターネット上で、ユーザー同士であれば無料で話すことのできるスカイプは、普段も便利に使用させていただいています。日本に住む友人、知人、両親などとお金の心配をしなくても直接の声を聞けるのはとっても有難いのです。

友人の中には、「それって、ちょっと不気味」という人もいます。どうして、無料でそんなことができるのか、という疑問です。

う〜ん、そう言われればそうなんですが、コンピューターのことなど、何が何やらどうなっているのか、考えることさえ出来ない、器械オンチの私は、「う〜〜ん……」と唸るだけで何の弁護も反対意見も出ません。ただ単純に、最末端ユーザーとして、使わせていただいているだけです。スカイプさん、ありがとう。

さてさて、本番当日のことを少々お話しましょう。

実は、私はこのお話を引き受けてから、大変心配していたことがありました。

それはずばり南アの昨今の電気事情です。急な停電は結構頻繁に起きるのです。今年の冒頭に嵐のように起こっていた“計画停電”もこのごろは見直しがあって、影を潜めています。が、いつ再開されても不思議はありません。(それに、“計画”、と呼ばれていても、計画は突如発表されるし、計画以外の日でも停電は起きるので、こちらは計画できない、というおまけつき!)

また、この番組は、画像をスカイプで、音声を国際電話でつなぐのですが、電話回線が途中で切れることだって、皆無とは言えないのです。

アフリカに暮らす、ということはこういった基礎中の基礎の生活基盤に絶対の信頼をおくことができないのも現実です。

何回かのリハーサルのときも、電話線がクリアではなかったり、スカイプも途切れたり、ということがありました。

が、当日、南アフリカ、がんばりました。停電も起こらず、回線も落ちず、スカイプも途切れず、無事に番組を終了することができたのです。

番組の内容も、アフリカ各地に住んでアフリカの人たちと仕事をしている日本人が三人登場してなかなか面白かったのではないでしょうか。私以外の方々はご紹介されていた仕事が本業の方々でした。ですから、私のように週一回の支援でしかないのはちょっと申し訳ないような気もしていました。

南アフリカでも、エイズ患者さんの支援を専門にしている日本人の方はいるからです。でも、番組のディレクターの方に、「仕事ではなくて、自分の時間をこうやって作って、患者さんと関わっている人がいることも紹介したいんです」という言葉に励まされました。

そして、番組の最後に、司会の川平慈英さんから、

「アフリカに住んでいま、一番強く思うことはなんですか」と聞かれました。

実はこれ、カメラリハーサルのときに急遽、足された質問だったんです。元もとのエンディングの質問は、「これからのアフリカには何が必要と思いますか」でした。

でも、この急の変更、というのはいいものですね。だって、用意された答えではなくて、本当にいつも自分が考えていることがふっと浮かんでくるではないですか。

私はこの質問に、こう答えた、と思います(あまり、確証がないのは生中継なのでその場でたたた!と話したからです。記録と違っていたらごめんなさい!)。

「私は英語や日本語を教える語学教師です。かれこれ30年ほどいろいろな人に語学を教えてきています。ですから、私は語学を学んでいる人に、学んだ語学を使って、世界の人とつながって欲しい、と思っています。アフリカは遠いです。でも、ここにも人がいます。エイズで死にそうな人もいますが、彼らも夢や希望をもつ、私たちとまったく変わらない人間です。世界の人とつながって、そのつながりを大切にしてください」

実は今回のテレビ出演、いろいろな状況も重なって、かなり時間的には厳しいものがありました。最終的な台本を印刷する前に、プリンターがうんともすんとも言わなくってしまったり、という突発的なことも、もちろん、起こらないはずがありません、我が家では!

でも、放送終了直後からどんどんと私のメールに届き始めた多くの方のコメントがとっても嬉しかったです。

皆さん、ありがとうございました。特に、ディレクターの井上さんを始めとしたスタッフの方々、今回、とっても気持ちよくお仕事ができました。心から感謝しています。

それから、当日、スタジオで出演してくださった石弘之先生。石さんが冒頭で私のこのブログをご紹介くださったので、この番組のあと、新しい方からのアクセスがたくさんありました。ありがとうございました。

これからもアフリカからの発信をていねいに続けていきたいと思います。それから、皆様、患者さんの作ったビーズを販売してみよう!と思ってくださる場合は、ぜひ、私の個人メールまでご一報くださいませ。このブログのプロフィールのところに連絡先アドレスを書いています。番組でもお話したとおり、大量の在庫がありますよ〜。


生中継本番直前です。あああ、髪の毛も逆立っているし……

最後に、いろいろカメラの位置とか、音声とか、私の混沌とした事務所から本番用にPCやら電話線やらを居間に動かす作業をしてくれた家族にも感謝です。みんなありがとうね!


ひらがなOK、カタカナ少々、漢字はウ〜ン! [2008年05月12日(月)]
 
とっても楽しい、手作りの母の日のカードを娘・ショウコからもらいました。



でも、中身をよ〜く見てみると、あれれ、日本語におかしなところがたくさんありますよね。



でも、これこそが、ショウコ、14歳、幼いころから日本とアフリカを交互に生活してきて、いまは南アフリカに暮らす彼女の等身大の日本語の実力なのです。

前回の記事で、ショウコがいかに苦労して英語を身につけていったかを少しお話しました。その中で、学校の先生たちからの「家でも英語を話すように」というアドバイスも、私がきっちりと撥ね付けて、家族では日本語を話していたこともご報告しました。

その成果がこれ?
と、あきれますか?
なんだか……、とがっかりされますか?

ふふふ、でも、私は大満足なんですよ!

日々の暮らしを英語圏で続けるうちに、ショウコだけではなく、兄のカンジも、だんだんと英語のほうが彼らの思いや心の動きを表すのによりしっくりとくる言語になってきました。

もちろん、家族の会話はいまだに日本語で話すように心がけています。が、家で家族が話すことって、実はたわいもないこと、毎日の繰り返しなどが多いのが実情です。そうすると、家族以外の人からの日本語の情報収集がどうしても限られる我が家の場合、込み入った話やアフリカ近隣の政情のことなどを話すのは、どうしても身近な英語のほうが便利、ということになります。

例えば、南アのかつての人種隔離政策(アパルトヘイト)のことなどを説明するのは、どうしても英語です。第一に日本語でこういった関連の本を読んでいない彼らは、日本語での語彙が徹底的に不足していて、それを英語抜きで説明するのは無理があるのです。ですから、歴史や人々の政治的スタンスなどを説明するためには、お互いがすんなり理解できる英語での話しとなります。

実は、海外に暮らすと、多くの人たちから、「家では徹底的に日本語を話しなさいよ、そうしないと子どもはすぐ日本語を離せなくなる」に始まり、日本からの通信教育のお勧めなどを聞かさせることになります。これは片方の親が日本人以外だと、さらに拍車がかかるようです。日本語を保持させないのは、まるで日本人のアイデンティティを放棄するとか、将来、祖父母と話せなくなるのは残酷だ、とか。

正直に言って、私はこれもかなり勝手な意見だと思っています。

気持ちは分かるのですが、子どもたちにだってそれなりの意見があり、また、能力の差だってあるのです。まして、片方の親が日本語を話さない場合、日本語学習を進めることで家族の中に溝を作ってしまうことだって、実際にあるのです。もちろん、海外で一生懸命子どもたちに日本語を教えているご家庭を非難しているのではありません。それはそのご家庭のそれこそ、優先順位の問題だと思うのです。

ただ、私は海外で暮らしながらも、「日本語を保持しなさい」と言われ、動揺している、悩める家族を「そんな無責任な意見は聞く必要なし!」と励ましてきました。だって、そこに悩みがあるのなら、何が一番大切か、と考えればいいことです。そして、私にとって大切なのは、その言葉を話す真ん中にいるその“子ども”です。いくら流暢に何ヶ国語が話せても、その子どもに中身がしっかり詰まっていなかったら、何にもならないのです。そして、その中身は、いかに子ども時代を過ごすか、にかかっていると思うのです。

さて、日本に帰ることを想定していない家庭ではなく、数年間ののち、日本に帰る予定の多くの駐在員の家庭では、日本の勉強に追いつけるようにと、通信教育は当然のこと、休みには日本へ帰国させ進学塾の集中講座に通わせたり……、と子どもたちに日本の受験を目的とした勉強を促します。

そういった人たちの気持ちもよく理解できます。ただ、日本に帰る、ということしか選択肢を持たないのは残念だと思いますが。

でも、私は自分たちが“駐在員の家族”という立場だったころから、日本からの通信教育やひらがな、カタカナの勉強を子どもたちに強いてきませんでした。理由は、我が家の子どもたちはそんなに器用なほうではなく、インターナショナルスクールや現地校で課せられる宿題で毎日が精一杯。学校の勉強以外の日本語の勉強などさせたら、それこそ、遊ぶ時間、ぼ〜っとする時間もなくなってしまうからでした。

せっかくの子ども時代です。彼らからこういった一見“無駄”とか、“ぼんやり”する時間を取り上げてしまったら、それこそ大人になってから取り返しがつきません。

子どもだからこそ、私は彼らにじっくり、十分、子ども時間を味わって欲しかったのです。

私は成人してからここ30年近く、ずっと教育関係の仕事に従事してきました。

その中で、どうして親は、教師は、大人たちは、子どもたちに教育を受けさせたいのか、という問いを日本で、米国で、欧州で、そしてアフリカで日々考えてきたのです。

私の答えはものすごく単純です。

「子どもたちに幸せな人生を送って欲しい」

これだけです。

大人として、教師として、親として、子どもたちの学びは、どんな種類の学びであっても、究極的に子どもたちが幸せな人生を送るための糧であり、源であって欲しい。

で、この“幸せ”が問題ですよね。

“幸せ”って何なのでしょう。

私にとっての“幸せ”とは、自分の存在を肯定できて、なお且つ、自分だけの利益や幸せだけに捉われていない状態なのだと思います。積極的に人の人生に関わっていけるだけの体力や知力、そして生きていくための資力も持ち合わせていることも大切です。

自分や自分の家族だけの世界、状態にあまりにも捉われていると、自分を客観的に観察することができません。そうすると、自分がどれだけ恵まれているか、ということも、なかなか理解できないし、実感もできないと思うのです。

だからこそ、14歳のショウコのいまの状態、年齢相応に人のことにも関心を持ちつつ、自分のできること、得意なこと、そしてやや困難と思えることにも果敢に挑戦していく前向きな姿勢の彼女のすべてを肯定してあげたいと思うのです。その中でのひらがなの間違いや漢字がまったく自由に使えていない、といった彼女の日本語レベルも私からみると、「天晴れ、よくここまで一人で学びました!」と拍手したいくらいなのです。

それに、南ア人に日本語の読み書きや話す能力を教える立場の人間として、もしも、カンジ・ショウコが、これから先、もっと深い日本語の能力を身につけたい、と思うのであれば、再度日本へ渡って勉強すればいいだけのことです。それは大きくなった彼らが判断すればいいことです。

「将来役に立つから」と言った、未来の経済的恩恵を優先するような都合で、私は子どもたちの時間を奪うことを私はしたくなかったのです。

だって、“子ども時間”は永遠には続かないのですから。


兄・妹のケンカもよ〜くあきずにしていますよ!
でも、母の日の晩、妹は兄から数学を
教えてもらっておりました。

ショウコ、14歳 [2008年05月05日(月)]
 
「お母さん、私のことはお母さんのブログにいつ書くの」

と言っていたのは、娘・ショウコ。5歳年上の兄カンジがこのブログに登場する機会が今まで自分より多い、と思っていたようでした。

ショウコのショウは飛翔の翔と書きます。ショウコは、1994年4月27日生まれで今年14歳になりました。

ショウコの生まれたこの1994年の4月27日は、南アで初の歴史的な、全人種参加の選挙が行われた日なのです。今ではこの日は、“Freedom Day”として南アの休日です。つまり、ショウコの誕生日は毎年、祝日ということです。

ショウコは生後三ヶ月でエチオピアに渡り、その後、マラウィでの2年半の生活を経てこの南アフリカ・ダーバンに来ました。

日本で通った小学校の日々はあまりにも短く、ショウコの脳裏に鮮明なのは、2歳途中から卒園までお世話になった日本の保育園です。その保育園で、きれいな優しいお姉さん先生たちとたっぷり遊んだあとに、マラウィの英国系インターナショナルスクールで学校生活が始まりました。

マラウィに行った当初は英語のエの字も分からなかったショウコ。彼女のように幼いころから徹底的なポジティブ思考の子どもでも、その英語を理解する過程は厳しく、つらいものがありました。

私は語学教育の専門家です。過去30年に渡り、子どもから大人の外国語学習を研究、実践してきました。ですから、以下のような巷に流れる、子どもと語学にまつわる“神話”には文字通り、体を張って異議を唱えてきました。

「子どもは語学の天才」
「その環境に投げ入れれば言葉はすぐ覚える」
「英語を学ぶのなら、幼いうちから英語漬けにすべき」

考えてみてくださいね。これらが、子どもの側に立ってみれば、いかに迷惑な「大人の側の思い込み」であるかがお分かりいただけるでしょうか。万人共通の学びなど存在するわけもなく、学びの過程はそれぞれユニークだと言うのに、どうしてこんな大雑把な思い込みで子どもたちを追い詰めるのでしょう。英語圏からの帰国子女の子どもたちが、もしも流暢に英語を話していたとしたら、それはその子たちの涙ぐましいほどの努力の成果なのです。決してある日突然英語が話せるようになったのではないのです。

はい、断言しておきましょうね。たとえ子どもでも、異言語の環境にただ身を置いただけでその言語を簡単に学べる、というのはありえないのです。まして、読み書きも含めた高いレベルでの言語能力習得には膨大な時間と多くの努力が必要なのです。

ショウコもこの例にもれませんでした。ただ、ショウコの場合、彼女の持つなみなみならぬ好奇心(兄に言わせるとお節介さ!)と、どんな状況にもめげない、くじけないという性格、そしてほぼ絶えることのない笑顔でもって、お友達にも先生たちにも愛されて、いつの間にか英語での授業にもついていけるようになりました。今では、生活言語としては日本語よりも英語のほうがスムーズになってきています。この言語の優先順位が逆転したのは、英語で学校に行き始めて5年ほど経ったころでした。

私は母として、語学教育の専門家として、異文化の中で育つ自分の子どもたちに身につけて欲しかったのは、英語を流暢に話すことでも、日本語と英語のバイリンガルになることでもありませんでした。

私は彼らに、自分たちの個性(日本人でありながらアフリカに生活することも含めた独自性)を肯定する能力を身につけて欲しいと思い、それが可能になるよう努力してきました。それが達成できて、初めて、他の人の人生にも積極的に係ることのできる力をつけることができる、と考えているからです。

その例を一つ紹介しましょう。マラウィで学校に行き始めたころ、インターナショナルスクールの先生たちから、「英語を学んでいるのですから、家でも英語で話すようにしてください」と言われました。でも、私は、きっぱりと、「いいえ、我が家の言語は日本語です。彼らは昼間、懸命に英語を学ぶ努力をしています。家は彼らがリラックスする場所ですから私は彼らが一番安心できる言語で彼らをサポートしたいと思っています。家では日本語を話します」と伝えました。

でもショウコと兄のカンジは、学校以外にもマザーテレサの子どもの家に毎週訪れ子どもたちと遊んだり、インターナショナルスクールに集う国際色豊かな友人たちと交わっているうちに、「しっかり英語を学ばなくては」という意識が芽生えてきました。子どもたち自身にこういった覚悟が出来てくると、その学びの速度もぐんぐんと速まっていくようでした。

さて、南ア生活5年目の今年、ショウコが入学したのは、家から50キロほど離れた女子高の寄宿学校です。南アフリカの学校制度は日本のそれと大きく異なります。小学校は1年生から3年生までが一区切り。この学年層をジュニア・プライマリーとし、4年生から7年生(日本の中学校1年)までをシニア・プライマリーと区別します。その後、8年生(日本の中学2年生)から12年生までが5年制の高校となるのです。


ホッケーのチームメイトと一緒に。
週一回の練習と週一回の対抗試合が組まれている。

ショウコは、自分からこの寄宿学校の入学を決めました。しかも、受験する前から、「私、高校はEpworth(高校の名前)に行くの!」と言い広めているではありませんか!日本での受験競争とは比べ物にならないまでも、さすがに、受験で振り落とされる場合だってあるはずです。

「ショウコ、きちんと試験を受けて、学校から入学許可をもらってから皆に言ったほうがいいんじゃないの?」

というと、本人はキョトンとした顔で、

「どうして、お母さん?私、成績は80%近いし、スポーツだって、ウォーターポロ(水球)、ネットボール、ホッケーの選手だし、お友達もいっぱいいるし、先生だってショウコのこといつもほめてくれるし、Epworthが私を入れてくれないはずがないでしょう?」
と真顔での答え。

う〜ん、確かに。しかし、私たちの日本文化には、“謙遜”という心構えもあるのだがなぁ、と説得力のないことを考えていました。

そして、筆記試験やら、上級生に混じって実際の寮での宿泊体験(これも寮担当の先生がその様子を観察している試験のようなもの)やら、一連の入学試験の最終テストは校長先生との親子面談でした。

その席で、校長先生が、
「ショウコ、ご両親から離れて寮生活をすることをどう思いますか」と聞きました。

すると、本人、笑顔満開、大きな声で、
「もう楽しみで、楽しみで、待ち切れません!」というではありませんか。

そこで、私とショウコは顔を見合せて大笑いをしてしまったのです。だって、家が嫌で離れたい、というのとはまったく違う、彼女の前しか見ない、肯定的なことしか考えない、という性格が見事に反映された答えだったからです。

涙が出るほど笑いあっているショウコと私を見て、校長先生も嬉しそうに頷きました。

「家族から離れた生活もあなたはまったく心配なさそうですね」

ショウコは本人の予測通り、めでたく合格しました。私は彼女が、自分の個性をきちんと見据え、毎日、24時間を共有する仲間たちと語り合い、競い合い、励ましあいながら、この貴重な5年間を過ごして欲しいと思っています。


ショウコの寮の部屋。
出入り口のドアはなく、カーテンで仕切られている。

南アの新学期は毎年1月で、もう早くも半年が過ぎようとしています。ショウコは金曜の午後学校のバスで帰ってきて、月曜の朝、また同じバスで学校に戻る生活をるんるんと楽しんでいます。

ショウコの学校での生活はまたの機会にゆずることにしましょう。


学校のあるダーバンから50キロ離れたピーターマリッツバーグ
は歴史のある街で、多くの寄宿学校があることでも有名。
ここは学校のとなりの広々としたスポーツ場

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。