吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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NHK BS-1の番組に出演します [2008年04月28日(月)]
 
まず、告白から始めましょう。

このブログに使っている私の写真、実は7年も前のものです。
で、私は、つい先日めでたく50歳になりました。
ですから、この写真に7年の歳月と幾ばくかの贅肉をぺたぺたと足していただくと、今の私の実像に近くなります。

ど、どうして、こんなことを書くかというと……。

はい、悪いことはできないものです。
Cafeglobe でのブログに使う写真を選ぶときに、日本と南アフリカの距離の大きさを理由に、

「お母さん、この写真、ちょっと、今と違うんじゃないのぉぉぉ」
という子どもたちのアドバイスを、

「う、うるさい!実際に見にくる人はいないからいいのだ!」
と無視した私にバチが当たったのです。

実は、今度、5月18日放送の、NHK BS-1『地球アゴラ』という番組に出ることになりました。この番組は、海外在住の日本人と東京のスタジオを結んで、海外の話題やそこに生きる日本人の活動を紹介する、というものです。

アフリカに住んでいると、アフリカがらみの原稿執筆の依頼だけでなく、日本のメディアからいろいろな形で出演依頼のお話をいただきます。始めのうちは、「声の出演だけなら」と思い、出来る限りお引き受けしていました。ですが、何と言っても南アと日本、時差があります。夕方から夜、あるいは録音で済めばいいのですが、いつもそうは行きません。

それに、このごろ仕事が超多忙になっていることもあって、コーディネイトの仕事も含めて、メディアのお仕事はあまりお引き受けしてきていなかったのです。

ところが、この『地球アゴラ』は、私の出番には、私の関係しているHIV/Aidsの患者さんたちのことを中心に取り上げてくださる、というのです。しかも、ビデオ撮りまでしてくださるというお話。HIV/Aids の患者さんたちの症状緩和施設、Dream Center で私が運営しているビーズワークショップ(このセンターのお話はここから)は、常に資金不足ですから、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうためなら、私はほぼ何でも!してしまうのです。

ただ、実際のビデオ撮りになって気がつきました。当然なのですが、ビデオは私が中心に撮影されていることを……。私は、普段、コーディネイトをする側に立つほうが圧倒的に多いし、また写真映りに自信があるわけでもないので、この展開に正直言ってうろたえたのでした。でも、この番組のことを一人でも多くの皆さんにお伝えするためには、このブログでもぜひ、宣伝しなくてはいけないじゃないですか。

……というわけで、今回のブログの冒頭の「告白」と相成ったのでした。


朝、Dream Center に入るところ


さて、この録画撮りの際、私は患者さんたちの言葉に改めて、深く心を動かされました。彼女たちの言語のズールー語を話せない私ができるのは、英語でのインタビューです。ですから、当然、彼女たちの思いのたけをすべて完璧にあらわしていたとは思いません。が、彼女たちの言葉の中には、私たちが「人として何をすべきか」という根源的な答えがあるのです。

今回のインタビューは、実は7ヶ月振りの作業再開でもありました。

7ヶ月も期間が開いたのには理由があります。

私は、去年、患者さんの一人の死にかなり打ちのめされました。この患者さん、ロクサーンは、こちらで言うところのカラード(混血)の女性で、その聡明さ、優しさ、美しさは他の患者さんとは違っていました。私とロクサーンはかなり親しくなり、彼女のだんだんと衰えていく心身状態をまじかで見ていくことは、私にとってかなりつらいことでした。

彼女の最後の言葉は「死にたくない」でした。
彼女のこの悲しいシンプルな願い。
わずか、29歳でこの世を去ったロクサーン。
私は約1年もロクサーンの死を引きずっていたことになります。
でも、思う存分時間をかけて、彼女の思いを引き受けよう、とも考えていました。これだけの時間が私には必要だったようです。

でも、いざ、「さあ、書き取り再開しよう」と自分を鼓舞するには、まだ何かが欠けていたようです。

ところが、今回、この番組が私の背中を押してくれました。

そうして、インタビューをしてきました。
この様子はぜひ、番組の中でご覧くださいね。また、書き取ったインタビューの内容は、ぜひ、このブログでも放送終了後に書いていきたいと思います。





番組の詳細は以下のとおりです。
5月18日(日)午後9時10分から午後9時59分の生放送。
元ザンビア大使、石弘之さんをスタジオゲストに、アメリカでくらす3〜4組の日本人を紹介し、クロストークをするアフリカ特集を放送する予定。

皆さんのご感想などもお聞かせいただければ幸いです。


カメラマンのDaneと一緒に



350名の子どもがウェイティングリストに名を連ねる学校 [2008年04月21日(月)]
 
自分たちの話す言葉の中に、新しい現象とか、新しい概念を表わす言葉がなかったとしたら、私たちはどうするのでしょう。

例えば、コンピューター。
例えば、クリスマス。

日本語には「カタカナ」があるために、外国産の言葉も比較的安易に日本語の語彙として登場する機会があるようです。

私たちのエチオピア訪問の最後にとっても印象に残る出会いがありました。

ゼミ・イェネスさん。



彼女は、自閉症、という障がいを表現する言葉が彼女たちの使うエチオピアの公用言語、アムハラ語になかったため、自閉症のその英語名、Autism(オーティズム)をそのまま“オーティズム”、としてエチオピアの社会に紹介した人です。

そして、彼女は、言葉を紹介しただけでなく、エチオピア初の自閉症児のための学校、J-CCARDD (Joy-Center for Children with Autism and related Developmental Disorders) を2002年に開設し、現在も活発にその活動を進めています。

ところが、彼女の本職は美容師で、アディスの街に美容師養成学校を経営するビジネスウーマンです。その彼女がどうして、自分たちの話す言葉の中にその名前すら、定義すら、存在しない「自閉症」を紹介し、学校を始めたのでしょう。

それは、彼女が自閉症児を持つ母親だったからです。

J-CCARDDのパンフレットには、そのセンター設立の由来が彼女と彼女のお子さんの物語と絡めて紹介されています。彼女自身も最初のころ、自分の子どもの障がいを認めたくない時期があったそうです。つらい時期を経て、彼女はエチオピアの自閉症を持つ子どもたちのために、このセンターを設立する決意を固め、がむしゃらにその先頭を走ってきました。

エチオピアの社会では、まだまだ自閉症に対する理解が圧倒的に足りないそうです。残念なことに、その無理解は、医療関係者、教育関係者にもおよび、きちんとした形で「自閉症」と診断されることのほうが珍しい、ということです。

私は、これまでも途上国に暮らし、各地で障がいを持った人たちにも会ってきました。ポリオなどの障がいを持つ人が、かなりの年季が入った車椅子を操る様子なども見てきています。また、多くのアフリカの都市で、障がいを抱えた人に物乞いをされた経験も頻繁にあります。

ところが、彼女との出会いで、そういえば、自閉症のような障がいを持った子どもや大人には、あまり出会ってきてこなかったことを思い出しました。

でも、街であまり見ないから、よく声を聞かないから、彼らが存在していない、と思うのは間違いでした。

彼らはいたんです。

このポスターを見てください。




ここに書かれているのは、自閉症の子どもたちを自由にしてあげて、というメッセージです。

ゼミさんに聞きました。本当に子どもたちはこうやって写真のように鎖につながれているのかと。

「残念ながら事実です。エチオピアの多くの人たちにとって、彼らの症状はまったく理解できないものなのです。奇声を上げる、コミュニケーションを取れない、行動を予測できない、といった行動を繰り返す彼らを危険から守るため、また、他の人からの批判を避けるため、彼らは自分の子どもたちをこうやって紐や鎖で縛り付けているのです」

ゼミさんにとって、自分の子どもの自閉症という障がいに向き合うことは、他の多くのこの障がいを持った子どもたちの現実を知ることにもなりました。現在、J-CCARDD在校生は40名。今の体勢ではこれが精一杯、ということですが、なんと、この学校に入学したい、と待機リストに名前を載せている子どもは、2008年4月現在350名もいるのです。

多くの、声も上げられない、暗い部屋の中で閉じ込められている子どもたちのことを考えると足がすくみます。どれだけの絶望の中にいるのでしょう。そして、そのそばで声を殺して泣いている母親の姿も見えてきます。残念ながら、エチオピアでは、いまだに、障がいを持つ子どもを生んだ母親が、夫から離縁される、という話を聞きました。

「生きる権利」という言葉を知っていますか。
「基本的人権」とも言われます。

この世に生まれてきたからには、誰にでも与えられるべき権利です。障がいの種類とか、程度とか、またまた経済的な状況とかに左右されるべきものでもないはずです。でも、いま、この同じ地球で、障がいを持って生まれてきた子どもたちが、紐で、鎖で縛られて、暗い部屋で泣いている、という現実があることも事実なのです。

重くて辛い現実です。

「知りたくなかった」
と思いますか。

「自分には関係ない」
と思いますか。

私はそうは思いません。

そして、同じ女性で、私と同じような年頃のゼミさんが、こうやってエチオピアの子どもたちに光を与えようとして活動する姿を頼もしく、嬉しく思います。私も精一杯、彼女を応援しようと思います。


ジンバブウェの大統領選、大混乱! [2008年04月14日(月)]
 
エチオピアでの旅行記をちょっと一休みして、今日は南アフリカの隣国、ジンバブウェの大統領選挙のことをお伝えしましょう。

実は、ジンバブウェの経済の混乱ぶりは、2006年6月にCafeglobe のWorld News Café で、『南アフリカから緊急レポート、ジンバブウェの経済混乱』という記事を書かせていただきました。

今回、このほぼ1年前に書いた記事を自分でも読み返してみて、さらにびっくりしました。2007年6月の段階で、「ジンバブウェのインフレ率は1700%!」と書かせていただいていたのです。ところが、なんと、現在のジンバブウェのインフレ年率は10万%にもなっているのです。これがどんなに天文学的な数字かは、想像に難くないと思います。ガソリンも外交官用に発行した特別なチケットがないと、まったく一般庶民には手に入らない様子です。これでは、経済が困窮しているどころか、まったく停滞している、と言ったほうが正確でしょう。

何が原因か。それもこの World News Cafe でお読みいただきたいのですが、ジンバブウェはロバート・ムガベ大統領が28年にも渡る独裁政治を強いていて、各国、国連からも経済制裁を受けているのです。ところが、あまりの独裁振りに国民はこれまで恐れをなして、反ムガベ的行動は大きなうねりになってこなかったのです。一般国民は戦うにも、もう疲れ果てている、と言ったほうがいいのかも知ません。


ここ2週間ほど、ジンバブウェの大統領選挙のことは
南アのメディアではトップニュース。この新聞でも、
「この吸血鬼から私たちを助けて!」
と、ものすごいコピーが使われている


ところが、今回の選挙では、ついに、一般のジンバブウェ人も行動に出たのです。

そうです。ジンバブウェ人はムガベ大統領に「NO!」の意思を叩きつけたのです。ところが、当のムガベ氏、一向にその「負け」を認めようとしていません。3月29日の選挙のあと、もう2週間余が経過しているというのに、ジンバブウェの選挙管理委員会は、選挙の結果を公表していないのです。

ところが、出口調査(ムガベ政権はこれを禁止しているが)では、ムガベ氏もムガベ氏の率いる与党もこの野党に負けているのです。当然、反対勢力のジンバブエの最大野党「民主変革運動」のツァンギライ議長(56)が勝利宣言をしているのですが、正式にはムガベ氏も与党もこれを認めていません。南アフリカの公共放送でも、選挙の次の日から選挙の勝敗を報道していましたが、そこでも、ムガベ氏と与党は劣勢でした。

4月13日には、ムガベ大統領に南部アフリカ開発共同体の首脳たちも、ザンビアの首都ルサカで会議(ムガベ大統領は欠席)を開き、早急に選挙結果を公表するよう共同声明を出しています。ところが、ムガベ大統領、「選挙結果には計算ミスがあった」と主張し、今から、再集計が全国で行われるようにしてしまったのです。これは、あきらかにここで不正な集計を試みようとしている、と反対勢力から糾弾されています。

ムガベ大統領、84歳です。「もう、いい加減に引退して欲しい」と思うのは私だけではないはず。世界中の人を敵にし、自国の人間をこれほどまで困窮させても、なおしがみつきたい権力とは、いったい何であるのか。人間の果てしない権力への欲望をこうまであからさまに見せつけられて、皆が途方に暮れている、と言えばいいのでしょうか。でも、その影で多くの罪のない一般ジンバブウェ人、特に幼い子どもたちが、食べ物もなく、毎日その命を終えている現状を私たちも知らなくてはいけません。

そもそも、ジンバブウェは緑豊かな美しい国です。ジンバブウェ遺跡という、世界遺産にも登録された、独特なアフリカの歴史を表現する遺跡もあります。もともと、ジンバブウェとは「石の家」を意味し、素晴らしい石の細工を施した建築物でも有名です。

また、経済が混乱する前のジンバブウェは、農業が盛んで、アフリカ各国にその農産物を輸出する豊かな国でした。私たちがマラウィに住んでいたとき、ジンバブエから輸入されていきた農産物や加工品(マヨネーズ、ケチャップなど)にどれだけお世話になったことでしょう。人々は穏やかで、また、見目麗しく、心優しい人々です。どうして、どうして、こんなことになってしまったのか。一刻も早く、ジンバブウェの人々に平和が訪れることを願ってやみません。どうか、どうか、暴動などが起きませんように。ムガベ氏が軍隊を民衆に向けませんように。


超不人気のムガベ大統領婦人、グレース。
“アフリカのイメルダ”と異名をとる彼女がパリの高級ブランド
ショップで買い物をするところが掲載されている。



幸せな子どもたち [2008年04月07日(月)]
 
日ごろ、

「ああ、私は幸せだなあ……」

と、思うのは、世界各地にその名前を口にするだけで、暖かい気持ちになることができる友人や知り合いがたくさんいることです。

その地に駐在する外国人として、外国人同士の付き合いもたくさんありました。でも、現地の人たちからも多くのことを学びました。

その中、途上国暮らしをしていく上で、どうしても避けられないのが、現地のお手伝いさんや庭師、運転手さんといった家で働いてくれる人たちとの人間関係です。

日本では、「自分のことは自分でする」という考え方が一般的。でも、途上国で暮らす日本から来た私たちには、どうしてもその経済格差から、自分たちの身の回りの世話をしてくれるスタッフを雇用することが求められている場合があります。

我が家もリベリアを皮切りにさまざまなスタッフとの出会いがありました。そして、私たちはどれだけこの現地のスタッフに恵まれてきたことでしょう。

私夫婦が心がけたのは、心をこめて働いてくれているスタッフには、私たちが駐在を離れたあとも他の家庭で喜んで雇用してもらえるような特技を身につけてもらうことでした。例えば、夜勤の門番をしていた人に車の免許を習得してもらい、運転手という技能職に職種替えを果たした人も数人います。

ツァハイは、私たちがアディスで生活していた時の我が家のお手伝いさん。いや、お手伝いさん、というよりも我が家の二番目の子ども、ショウコの第二の母、と言ったほうが正解だと思います。

生後三ヶ月でアディスに連れていかれたショウコはエチオピアの主食のインジェラをマッシュしたものが“離乳食”というなかなかディープなアフリカ食生活を経験してきています。それもこの“第二の母”ツァハイのおかげです。


姪のHannaとともに。ツァハイはいま、
薬剤師になるために夜間の大学に通っている。

今回の私たちのアディスアベバ訪問の大きな目的は、カンジ、ショウコに、自分たちの育ったこの地をもう一回見て欲しい、ということの他に、自分たちが幼いときに係ってくれた人々に再会してもらいたい、という母の願いが強くあったのです。

私は子育てにおいてつくづく「大切だなぁ」と思っているのが、子どもたちに与える、両親以外の、できれば血のつながりのない他の大人たちの影響なのです。

昔の日本にも、遠縁のおばさん、とか、親戚のつながりの友人とかが、同じ家の中に住んでいるような時代もありました。いわゆる大家族制度の元では、誰がどうつながっているのか理解できないような関係の大人が、子どもたちが育つ周りにごちゃごちゃといたと思うのです。

そういった一見混沌としたような人間関係がどうして子育てに必要なのでしょう。

もちろん、人間が多く集まれば、肯定的なことも否定的なこともあるのは世の常。でも、それを差し引いたとしても、子どもにとって、両親や祖父母以外の人間から、「ああ、自分は愛されている、大切にされている」という思いをもらえるのはとっても幸せなことだと思うのです。

母の愛は母の愛。
父の愛は父の愛。
祖母の、祖父の愛は、またそれぞれ。

そして、他人でも、心のつながり方一つで、

「ああ、私はこんなにこの人に可愛がってもらっているんだ」

という嬉しい実感にくるまれることの素敵さ。

もちろん、それが起こるためには、家族以外のそれらの大人も、その家に居ること、またはその家族に係っていることに対する充足感や満足感が必要であることは当然のことですが。

今回、12年ぶりに再会したツァハイとショウコ。

ショウコに会った瞬間にツァハイの目にあふれて、止まることの無かった大粒の涙がすべてを物語っていました。

12年ぶりに会った、ということは、別離の際、ショウコはたったの2歳です。ですから、当のショウコ自身はその当時の記憶として、自分とツァハイの関係を覚えていることはないはずなのです。彼女がツァハイを覚えているのは自分の経験から、というよりも私たち家族のするツァハイの思い出話から、と言ったほうが正確でしょう。

でも、ショウコは、ツァハイの

"Do you remember me?"--- 私を覚えていますか?

という質問に、何回も自信をもって、

"Yes, of course!" --- もちろん!

と答えていました。

でも、今回の再会で、ショウコはショウコ自身、自分がどれだけこのもの静かで聡明なエチオピア人女性に愛されていたか、ということを実感したと思います。


ショウコ、エチオピアにて。
もうすぐ14歳。すべてにおいて徹底的なポジティブ娘。
14歳にして、足のサイズがもう27センチ近いのはどうして?

自分が人に愛されている、と感じることができるのは、その人にとって、何よりの心強い応援ではないでしょうか。

私は途上国に住んできたことで、自分の子どもたちがこうやって、多くのアフリカ人に愛されてきたことを何よりも嬉しく思っている母なのです。


エチオピアで再会した人たち
皆さん、お世話になりました

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。