吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

2007年10月
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指先に宿るビーズの神様 [2007年10月29日(月)]
 
フィキレ・タバソ。フィキレは24歳だった。フィキレは、一見無愛想。でも、だんだん親しくなってくると、照れ笑いに近いような笑顔を頻繁に見せてくれるようになった。

彼女は、彼女のお祖母さんの元に残してきた最愛の5歳の一人息子のことを考える他に、このドリームセンターでの毎日に新しい楽しみを見つけた。

ダーバンがあるクワズール・ナタール州は、南アフリカの中でも、ZULU(ズール)族という南ア黒人最大部族の人が多く住む地域だ。ズール族は、ビーズを用いた装飾品を伝統工芸としている。だが、ドリームセンターの多くの患者さんたちはダーバン近郊の都市に暮らす人たちなので、伝統工芸としてのビーズ細工が彼らの生活の一部とはなっていない。残念ながら、多くの場合、間借り生活を強いられる都市生活ではそういった工芸などを楽しむ余裕がないのだ。


ダーバン市内のHIV・Aidsの他の病院で作成、販売されている伝統的なパターンのネックレス。ちょっと大きめのデザイン



同じ病院で販売されていた、これは小さめの財布



これは、路上で販売されていたカメレオン


また、彼らは、装飾品などにはあまり縁のない生活をしてきた人がほとんどだ。フィキレもその一人。だが、最初から、彼女はその熱心さ、色の選択、細かい作業の丁寧さなどが他の患者さんとは違っていた。ビーズを作成し始めて、そんなに時間が経つこともなく、彼女の作るものには彼女の個性が表現されていた。彼女の指先には、ズール族のビーズの神様が宿っていたのだ。

それは、私にとって、心が震える経験だった。

彼女が幾多の辛い経験を経たあとで、ぼろぼろになりながらもたどり着いたドリームセンター。そこで、彼女は、自分でも知らなかった、自分の才能にめぐり合ったのだ。

私が30年近く前に、教師の道を歩み始めた時、出会ったのは「教育」という、もともとの言葉の意味を、現役の教師も多くいた教育学の大学院の授業で生徒たちに説く老教授だった。

「EDUCATIONとは、“L.educatio” が語源で、 その人のもっているものを引き出すという意味です」と言う。私たち教師は、数学を、科学を、語学を、体育を使って、自分の目の前に存在している生徒たちの無限の可能性を引き出すのが使命なのだ、と教えられたのだ。

この言葉は、教育に関わる仕事をしてきた私が、幾度となくくじけそうになったときに私を支えた。教える場所が学校でなくても構わない。生徒の数がどんなに少なくても構わない。教師とは、自分の教える生徒の持つ可能性を最大限に引き出すのがその一番大切な役目なのだ、という老教授の教え。私はそれを愚直に信じて今まで教師をしてきた。

フィキレは17歳のときに、ナイジェリア出身の麻薬の密売人と恋におちた。間もなく妊娠し男の子を出産する。フィキレは小学3年生くらいまでしか学校に行っていない。

息子の父親の話になると、彼女は、頬を上気させて、「とってもハンサムで、お金持ちで、やさしくて、本当にいい人なの」と嬉しそうに言った。

「そんなに優しい彼はいまどこにいるの」と、私はいじわるな質問をした。すると、彼女は、まるでお天気の話をするように、「警察に捕まって、ナイジェリアに強制送還させられたの。いま、ラゴスの刑務所で、20年の服役をしているところ」だという言うではないか。

彼女の話をよくよく聞いていくと、その彼は自分の息子の誕生前に南アの警察に捕まったらしい。つまり、彼は、自分の息子の顔さえ見たことがないのだ。フィキレは、私の、「あなたのHIV感染はその彼からなの」という質問には悲しそうに首を振った。

これは、映画の中の話だろうか。麻薬密売人との恋。10代での妊娠。そして、警察に捕まり強制送還された最愛の男性。その絶望とあきらめの中でのHIV感染。

彼女は私たちとそんなに違う人間だろうか。

私はそうは思わない。彼女が成長する過程で、彼女のような南アの貧しい層にも、きちんとした職業教育、性教育が早いうちから実施されていたら、きっと彼女の人生も違っていたはずだ。私は聡明な彼女がきちんとした学校教育の機会を享受できなかったことを悔しく思う。彼女を取り巻く貧困を悲しく思う。

ある日、フィキレは、私と、このビーズ教室を最初に助けてくれた私の友人のヤスコさんに「見せたいものがあるの」とささやいた。私たちは彼女の病室に連れて行かれて、ベッドの横にあった引き出しの中から大切そうに取り出した聖書を見せられた。そして、その聖書の中には、80ランド(日本円で約1300円)の現金があった。

「すごいでしょう!ビーズが売れたの、80ランドも儲かったの!」

彼女の家族は遠いところに住んでいるため、ドリームセンターにはお見舞いに来ることができない。だから彼女には、自分の作ったビーズが売れたことを一緒に喜んでくれる人がいないので、私たちに見せたかった、というのだ。

そして、彼女はこう続けた。

 「私は、これからたくさんビーズを作って売って、家を買いたいの。家を買って、妹一家と息子と一生楽しく暮したいの。そして、ナイジェリアに行って、彼に会いたいの」

フィキレが、一挙に自分の大きな夢を語った。私とヤスコさんはその嬉しそうな彼女の前にただ立ち尽くし、その彼女の大きな夢に打ち砕かれそうだった。

こんなガラスのビーズで家を買う。いったい、どのくらいの量を売ればいいのだろう。

しかし、何と言う心強い、将来への希望だろう。病院のベッドで横たわるだけだったフィキレ。昼夜、何もすることがなく、入院してから一回も会っていない息子のことを思うだけの毎日からの見事な脱却だった。そして、ビーズを作ることで生き生きと将来の希望さえもが彼女の前に見えてきたのだ。

私は、30年前の老教授の言葉を思い出していた。

「教える科目はね、何でもいいんですよ。いや、その子と共有する時間があればいいんだ。その子を信じて、その子ができること、本人さえも知らない自分の才能に気がつく、ということの素晴らしさ。人間の可能性の無限を体験させることこそが、教師の醍醐味なんです」

私はフィキレとこういった時間を共有できたことを偶然だとは思っていない。私が米国で学んだ教育の本質。私は彼女の教師ではなかったが、彼女の学びの場所作りの手伝いをさせてもらったと思っている。

フィキレはその大きな夢を実現させることもなく、エイズの合併症の結核と肺炎でその24年の生涯を閉じた。あの80ランドが聖書とともに、彼女の息子の手元に戻されたかどうかを確かめる術を私は持たない。


出来上がったイヤリングを持って嬉しそうなフィキレ


でも、私は彼女のことを絶対に忘れない。彼女の夢の大きさに打ち砕かれそうになった私自身のあの強い絶望感とともに、彼女の人生の最後に彼女が自分で発見した彼女の才能の素晴らしさも忘れない。その意味をかみ締めながら、私は次の多くのフィキレのために、毎週ビーズの教室を開いている。

アフリカに遊びにおいで! [2007年10月22日(月)]
 
Cafeglobe ユーザーの皆さま、
南アフリカ・ダーバンからはじめまして!
吉村峰子と申します。

これまで、Cafeglobe の World News Cafe でも南部アフリカ発の記事を書かせていただいていましたが、この度、改めて、Cafeglobe の連載コンテンツとしてスタートすることになりました。

私の詳しいプロフィールはこちらから。

さて、南アフリカ、現在、国中が大騒ぎです!

先週の土曜日(2007年10月20日)、南アフリカのナショナルチームが、フランスで開催されていたラグビーのワールドカップで優勝し、まだまだ、国中が興奮状態に陥っています。チームカラーであるグリーンとゴールドのユニフォームを着たり、顔をこの二色にペイントしたり……。同色のチームの旗が町中にあふれています。2010年のサッカー・ワールドカップの南アでの開催も決まっています。世界で、南アの存在感がぐっと増すことになりそうです。


南アの英字新聞なのに、フランス語で書かれた見出し。
"Bokke" はチームの愛称。中央にムベキ大統領の顔も見える。
トロフィーを掲げているのが、キャプテンのジョン・スミット氏


今回、南アが優勝したラグビーですが、日本ではあまりメジャーなスポーツではないものの、世界では歴史的に英国に関係の深い国々、オーストラリア、ニュージーランド、南ア、などで大変人気があります。南アのワールドカップでの優勝は二回目です。今回優勝をかけて戦った英国とともに、過去6回開かれた大会で二度優勝している国は南アと英国だけです。

南アはアパルトヘイト(人種隔離政策)が終焉したあと、27年間も獄中にあった、ネルソン・マンデラ氏を大統領に選出(現在の大統領はターボ・ムベキ氏)し、全人種が平等に平和に暮らせるよう、各方面での努力が続けられています。しかし、南アの社会はまだまだ“住み分け文化”です。黒人は黒人のコミュニティがあり、白人は白人、カラード(混血)はカラードと、お互い職場で仕事は一緒にしても、暮らしの場においては、まだまだ交流がスムーズではありません。が、今回のラグビーのチームなどでは、スポーツに秀でた選手たちに人種の壁はないようでした。南アの選手たちが、南アの国家を聞きながら涙を流す姿には、南アの厳しい社会状況を知る私にも胸に迫るものがありました。

皆さまにとって、“アフリカ”は、どんな場所でしょうか。

私にとっての“アフリカ”は、旅行で訪れる場所でも、ニュースで流れてくる危険情報や戦争の起こっている場所でもありません。

アフリカは、私と私の家族、夫、18歳の息子、13歳の娘が生活する場所です。

私たち家族は、日本とアフリカ各地を交互に駐在する生活を20年ほど続けた後に、家族全員で南アフリカのダーバンに移住してきました。

「えっ、アフリカに移住?日本の仕事を辞めてアフリカに?」
「どうしてアフリカ?」
「ええええ!10代の子どもを連れて??」

とは、私たちの移住のことを聞いた、多くの友人・知人たちからの質問でした。

ふふふ。どうしてでしょうね?

それは、これからこの連載を通して皆さんにお伝えしていきたいと思います。

私たちの暮らすダーバンは一年を通して気候が温暖で、サーフィンのできる海があり、欧米のブランドが揃うショッピングセンターもかなり充実しています。また、自宅や事務所ではインターネットもADSLが使える、といった先進国並みの環境もあり、皆さんのイメージする“アフリカ”とはまた別の世界かもしれません。

でも、ちょっと南アの社会を見回すと、そこには、犯罪、貧困、HIV・Aids……といった厳しい問題が山積み。それらを解決するには、まだまだ遠い道のりがあります。でも、その厳しい現実の足元には、雄大な自然、豊富な地下資源があり、そして、何とか自分たちの生活を良くしようと努力する人々がいます。

私と私の家族は、その、混乱に満ちつつも未来への希望がたくさんある南アの社会で、それぞれが、さまざまな困難と格闘しながらも、一生懸命生活しています。

私はここ30年ほど日本と米国、欧州、アフリカの地を交互に生活してきました。日本での10代後半までの生活。1970年代後半から80年代前半にかけての米国、欧州での学生時代。米国から帰国した後での日本での教師としての経験。そして、1980年代後半から足を踏み入れた、このアフリカ大陸での暮し。それと、1991年から2004年まで有能なスタッフとともに奮闘した、「日本の英語教育を変える!」という理想に燃えた民間教育団体を主宰した13年間。

これら全部が、2007年10月現在、南アフリカ・ダーバンに暮す、ということに結びついているようです。すべての出来事、楽しいこと、苦しいこと、震える出会い、苦い経験までもが、それぞれ必然性を帯びてそこにあったことがよく判る年齢になりました。

それだって、いまだに、毎日の暮らしは「平穏な日々」とは決して言えません。毎週通う、エイズ患者さんのベッドの横では世の中の不条理に憤り、頻繁に訪れる彼らの死には毎回打ちのめされます。日本語の教室ではひらがな、カタカナ、漢字を教えながら日本語の素晴らしさにうっとり。家の中では、弁当箱を出し忘れている息子を怒鳴り、バイクで通学する彼の後姿に毎朝心が痛くなります。また、靴の底に穴があくほど活発な娘の足のサイズが27センチになっていることに驚嘆したり、彼女の正真正銘の南アフリカ英語に“にんまり”したり。そして、インド洋で一本釣りされたまぐろに舌鼓を打ち、また、すっかりアルコールに弱くなってすぐ酔っ払う夫に怒ったり……。毎日がいまだに心も身体もフル回転です。


晴れた日にはダーバンの海が遠くに見える萱葺屋根の我が家


これは、いわば、私の「アフリカ365日」です。そんな私の日常をお届けすることで、皆さんとアフリカの距離が少しでも近くなるといいな、と願っています。そして、皆さんが「遊びに行ってみようかな」とアフリカが身近に思えるようになることを願いつつ。


アフリカの空と萱葺き屋根はよく調和している。
ダーバンの温暖な気候と天井の高いこの家では、
一年を通して冷暖房を使わない生活が可能。





アフリカのお皿 [2007年10月11日(木)]
 
アフリカの各地で暮らして、いつの間にか、いろいろな“お皿”に出会ってきた。


ディナー皿の上にスープ皿を重ねたところ


このお皿は、1980年代に、エチオピア政府の文化部がフランス人芸術家の指導の下、エチオピアの世界的に有名な、「ゴンダールの天使たち」の教会壁画をモチーフにして、なんと、海外でも有名な日本の一流陶器会社、「ノリタケ」にセット数限定で作成させたものだ。私たちがエチオピアに赴任したのが1994年で、その直後に知りあったこのフランス人芸術家がそっと教えてくれた。「ノリタケの大傑作のディナーセットがあと7つ残っている」と。

これは、全部で100ピースを越える本格的なディナーセットで、12人のお客用のディナー皿に合わせて、スープ皿、デザート皿、大皿、スープピューリン、グレービーボート、コーヒー茶碗、ソーサー、コーヒーポットなどなど全部揃っている。

夫はこの立派なセットを購入するにあたり、恐れおののいた。
「こ、こういうセットの中の皿をひとつ割ったらどうなるんだ」と。

私の返事は明快で何の迷いもない。
「……天井逆さ吊りの刑と決まっている」

このセットが我が家に来てから、すでに13年くらい経つが、これまでに、このディナーセットで吉村家のオモテナシを受けた人はかなり限られる。だが、こういうディナーセットを控え持っている、ということだけで私は楽しい。いつか、私の考えられる最高のメニューを、飛び切りの旬の食材を使って作り、最高の夕食会を催すことを夢見ている。そのときのお客様は誰になるのだろう。西から東から、北から南から、そして過去から未来から、大好きな人たちを総動員してご馳走するのだ!

さて、ここまで怖いお皿ではなくても、実は普段使いのお皿でアフリカには素朴で魅力的なものがたくさんある。



これは、マラウィのお皿。Detza Pottery と言って、現地の土を使って、マラウィ人のアーティストたちが、動物などの得意なモチーフを絵付けしている素朴なものだ。でも、マラウィにはライオンやヒョウはもういない。だから、猛獣たちの顔つきがややゆがんでいる。



だが、ライオンやヒョウにかわって、マラウィにはたくさんのカバがいる。だから、このカバの表情がずば抜けて味がある。実際に見たことのある動物とそうでないものとの差が歴然としている。しかし、実は、アフリカの動物の中で、カバほど毎年人間を殺している獰猛な動物はいないのだ。カバは自分のいる場所から河の自分の縄張りスポットへ、一直線の道を猛進する習癖があり、その道の真ん中に運悪くいるものに対して怒り狂うらしい。で、あの巨体なのに、時速40キロで走れるらしく、人間やほかの動物が逃げまどってうろうろしているうちに、その下敷きとなり犠牲となる。アフリカでは、カバにはくれぐれも要注意なのである。

残念なのは、Detzaのお皿は割れやすいこと。せっかく買った6つの揃いのうち、2つは割れてしまっている。残っているものでも、お皿の裏には何箇所かかけている。でも、このかけているところではなくて、それぞれのお皿の裏に描かれた“絵”を見て欲しい。前の動物のお尻が描かれているのだ。



さて、そのカバやキリンが表現されたもうひとつの作風のお皿が、南アのChasms製のもの。これは、南アから世界中に輸出もされているもので、お値段も普段使いにするにはちょっと高い。が、このChasmsの工場はケープタウンの近く、Haut Bay というところにあり、この直営工場には、製造の過程で出た、“二級品”が通常のものの十分の一という破格の値段で売られているのだ。“二級品”ということだが、ちょっとでこぼこがあったり、色がほんの少しはみ出したり、といった程度なので私はまったく気にならない。もちろん、そういう理由なので、同じ柄のものは揃わない。でも、こうやって、いろいろな柄があっても、Chasmsの作風は同じなので、毎日使いの食器としては大満足だ。



7月にケープタウンを訪問した際、Haut Bay まで出向き、このChasmsのお皿をたっぷり仕入れてきた。今、吉村家の毎日のご飯は、このChasmsのお皿に盛られている。普段使いのお皿に、一点ものの手書きの絵柄のお皿を自由に使えるのは、私にとって、アフリカに住むシアワセのひとつかもしれない。

南アフリカ人に日本語を教える 3 [2007年10月02日(火)]
 
私が“カウンセリング・ラーニング”という外国語の教え方に出会ったのは、1980年頃の米国だ。私は外国語の教え方を学んでいた。

カウンセリング・ラーニングとは、精神分析医であり、カソリック系キリスト教の神父であり、言語学者であったチャールズ・カーラン博士が1970年代に、彼のこの三つの専門領域を網羅して編み出した画期的な外国語学習方法だ。

この学習方法で講師は、学習者が抱く、「恥をかかないだろうか」、「失敗したら嫌だなぁ」、といった不安や心配を、極力少なくすることを肝に銘じなくてはならない。なぜなら、学習者がびくびくしながらではその学習の成果はたいしたものが残らない、という極めて現実的な考え方が底辺にある。精神分析医のカーラン博士は、人の心のありようが、その人の学習効果にどんな影響を及ぼすか、ということを熟知していたのだ。

逆説的に、そうでない具体的な例を英語学習であげてみよう。巷で広く信じられている英語学習法の効果的なものひとつに、「英語を学ばせたいなら英語で教えろ」といものがある。これは、多くの人が「そのとおり!」と思ってしまうのが残念だ。その理由に、外国で暮らすことになった子どもたちが自然のうちにその土地の言葉を身につけていく、という誤った認識がある。だから、最初は分からなくても存分に“英語のシャワー”を浴びればいい、という考え方。

でも、考えて見てほしい。ネイティブの話す英語をそのまま聞いて、何をどういわれているか、すんなりそのまま理解するのはものすごく大変なことなのだ。言語を理解するのは、とっても複雑な脳の活動が不可欠だし、文法だって、語彙だって、相当知識を増やさなければいけない。ネイティブの話していることを聞いただけで理解できるようになるには、最低でも2000時間ほどの時間が必要、とも言われることがある。

「でも、子どもは違うのでは?」ということをよく言う人がいる。

確かに、文字学習前の子どもたちがその外国の言語の発音を大人より正確に学ぶケースもあるかもしれない。が、子どもたちだって、自分が慣れ親しんだ言語からいきなり異言語環境に放り込まれたストレスはものすごく大きいのだ。また見過ごしてならないのが、子どもたちの言語で表現したい世界、というものが大人のそれと比べて、非常に限られているという現実がある。

だから、多くても週2〜3時間の外国語学習で、コトバをシャワーのように浴び続けても、なかなか英語を話せるようにはならない。

カウンセリング・ラーニングは、大人が外国語を学ぶ際、リラックスした学習環境というものを重要視する。それは具体的には、講師に自分の分かる言語で、「何を言いたいか」ということを伝える、ということに代表される。

また、私は文法項目などは、その人がもっとも理解できる言語で説明している。つまり、日本人が英語を学んでいる場合は、その説明を日本語で行い、南ア人が日本語を学んでいる場合はその説明を英語で行う、ということだ。

カウンセリング・ラーニングには教科書がない。学習者が学びたいことをその場で講師がその言語に訳し、発音から文法から、字の学習まで、その出てきた内容に沿って、従来の教科書に書かれている文法の順序とは関係なしに学んでいくのだ。

つまり、学習者の表現したいことが過去のことであったら、文法もそれに沿って、過去形の動詞などを学んでいく。過去形を学ぶためには現在形を先に学ばなくてはいけない、という考え方は当てはまらないのだ。

カウンセリング・ラーニングの具体的なレッスン風景を簡単に説明すると以下のような手順となる。

@生徒たちが自由に自分の母語で、自分の言いたいことを講師に順番に伝える
A講師が同時通訳の手法を使って、瞬時にその学んでいる言語でその言いたいこと生徒に伝える。
B生徒は講師の発音に近くなるように何回も練習して、その自分の“音”が講師のそれと同じか、近くなった段階で、その“音”を録音する。
Cその一連の作業を4〜6名の生徒が繰り返して、意味のある、生徒たちがもっとも興味のある内容でその言語を学んでいく。
D一回、2分以内の会話を録音し、次のレッスンまでに自分のパートは暗誦できるようにしてくる。
E会話文の書き写し。各々が自分のパートを担当して黒板に自分のパートを書いていく。そのつど、文法説明が入る。

私はカウンセリング・ラーニングでこれまで英語と日本語を教えてきた。特に、切羽詰った、必要性に迫られた人たちに抜群の成果を発揮してきた。参考のため、ある日のレッスンで録音した会話のさわりを紹介しよう。

  A: ゴールデンウィークにディズニーランドに行きたいんですが。
  B: はい、何名さまですか。
  C: 大人8人と子ども4人です。
  B: お客様、パッケージ旅行がありますよ。新幹線とホテルとパスポートがついています。
  A: パスポートって、何ですか?  

こういった会話文の自分のパートを、口頭できちんと言えるよう練習し、また、ひらがな、カタカナ、漢字を駆使して黒板に書き進める。そして、書きながらそのつど文法の説明を受けていく。

すべてが彼らの興味に沿ったものであり、必要とされているものだから、その集中度が非常に高い。

英語をいろいろな形で学んだことがある人は、これが、いかに、能率のよい学習方法であることが理解できるはずだ。ただ、この学習方法の欠点は、ずばり、この手法を使えるだけの言語力を持つ講師の確保が難しいこと。

また、この手法が米国で爆発的に支持されなかった理由は簡単だ。米国などでは、学習者の出身言語が多岐に渡る。つまり、6人の生徒が6つの言語を必要としたら、そこには6つの言語が理解できる講師、あるいは、6人!の講師がいなくてはいけない。となると、経済的にこれは成り立たないのだ。

ところが、日本で英語を学ぶ場合や、南アで南ア人が日本語を学ぶ場合は、全員の理解できる母語が共通の場合が多い。私は、ここ南アフリカで、私がカウンセリング・ラーニングを使って日本語を教える、という偶然のような、いや、運命のような現実がとっても嬉しい。


会話の録音に使うデジタルレコーダー。昔はカセットテープを使っていたが、
今はこんなに便利なものがある。音質もきれいで使いかっても抜群。


プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。