吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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南アフリカ人に日本語を教える 2  [2007年09月23日(日)]
 
“がしがし”と日本語を学ぶ……。

聞くだけで恐ろしそうだ。だいたい、外国人にとって、日本語はとにかく、「難しくて、絶対学ぶのは無理な外国語!」と思われている節がある。

私がまだ米国の学生だったころ、米国人にこんなことを聞いてみた。

「アラビア文字と日本語の文字を比べたら、どちらのほうがエキゾチック?」

私はもちろん、あの流線型に流れる麗しいアラビア文字のほうがエキゾチックだと思っていたから、米国人もそう思っているはず、と考えていた。ところが、聞いた人間、全員が、「そりゃあ、日本語の文字よ」と言うではないか。

“エキゾチック”という表現はいま、この原稿を日本語で書いているから使ったのだが、当時私が使ったのは“Foreign(外国の)”という英単語。つまり、どちらのほうが自分の文化から遠いか、という質問だったのだ。

日本語と英語を外国語として教えることを学んでいた私には、この米国人たちの“日本語の文字”に対する考え方に驚愕した。だって、学ぼうとする対象のコトバが、自分から遠いと思えば思うほど、そのハードルは高くなる。

でも、そんなことでくじけている暇はない。ここは逆転の発想をすることにした。それ以来、私の日本語の生徒たちには、「……そんなに“遠く”にある存在の言葉を自分の分かる“コトバ”にすることって、素晴らしい!」というイメージを持ってもらうことにしている。

さて、ダーバンでの私の生徒たちの場合。

生徒たちは話すこと、聞くことだけではなくて、読むこと、書くことも学んでいく。目標として、ひらがな、かたかなは完全マスター、漢字は350個を読んで書けること、その他、語彙は全体で1500個ほど。

実は、これは、外国人のための日本語の試験、日本語実用検定試験の三級で要求されるレベルなのだ。この三級に合格するためには、この前の段階である四級で約150時間のレッスン、三級で300時間のレッスンが必要とされている。まったくの初級から始めて、しかも日本以外の場所に住みながら短期間でいきなり三級に合格するレベルに到達するのはかなり難しい。たとえ、この時間数を確保できたとしても。

また、何で三級か、というと、日本で日本語を話して仕事をするためには、最低でも、このレベルに到達していないと意思の疎通が難しいからだ。日本人に馴染みの深い英語の検定試験、TOEICの点数で行くと、感覚的に450〜550点くらいになるかもしれない。日本語のまったく素地のないところから、この英語であれば、TOEIC450〜550点レベルに短期間で達するのは、超難関、ということを理解していただけると思う。

私の専門中の専門である実際の教え方は“カウンセリングラーニング”という。私は、英語でも日本語でも、聞くこと、話すこと、を教えるときは、この“カウンセリングラーニング”という教授方法を採用している。少し変ったその方法は……。

                                             
次回に続く



南アフリカ人に日本語を教える 1  [2007年09月15日(土)]
 
南アのダーバンに移住してきて、職業的に、こんな恵まれたことになるとは想像もしていなかった。2003年に移住してきたとき、なんと、夫婦ともども、何かの仕事が決まっていたわけではなかったのだ。

                   
ダーバンのビーチをパトロールする警官


私は大学・大学院での勉強を始めとして、それからも長いこと、外国語学教育を研究、実践してきた。縁があって、各国で教える機会にも恵まれてきた。

学生時代の米国、デンマーク、ドイツでの英語教育に始まり、米国の大学院時代に教えさせてもらったアジア系移民の人へのESL(第二言語としての英語)授業。ニューヨークの法律大学院の学生たちへの日本語教育、NYに住む日本人の子どもたちへの日英バイリンガル教育にも携わった。

その後、日本に戻ってからJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊の訓練生たちへの英語教育も少人数で行う語学訓練の醍醐味を味わった。そして、リベリア、エチオピア、マラウィでのそれぞれの現地の学校での活動は、どんな環境でも教師として自分の責任を全うすることがどういうことか、ということを思い知らされ、多くを学んだ。

日本ではGITC(Globe International Teachers Circle)という組織を立ち上げて、13年間、心から信頼できる仲間とともに、国際理解教育をカリキュラムの基本とした英語教育の教材を作り、全国を講演して歩いた。自宅を開放して、その作成した教材をパイロット的に近所の子どもたちに教えた。

こうして列挙していくと、自分でも驚くほどのバラエティだと思う。私くらい恵まれている教師もいないのではないだろうか。今でも、その様々な教室での子どもや大人の生徒さんたちの顔を鮮明に思い出すことができる。

そして、すべての経験が結集して、ここ南ア・ダーバンでの日本語教育につながっている。私は現在、ダーバンにある日系企業の南ア人エンジニアたちに日本語を教えているのだ。

どうして、南ア人のエンジニアたちに日本語が必要なのか。それは、この会社の世界に散らばる各国のエンジニアたちに、日本の企業の考え方、ものづくり、品質管理の真髄などを教えるため、世界中のエンジニアを日本に集めて1〜2年間の研修を行っていることに関係がある。

世界から集まってくるエンジニアたちの全員が英語を理解するわけではない。それこそ、中国、トルコ、フランス、アルゼンチン、非英語圏出身の人たちがたくさんいる。そうすると、日本の企業なのだから、日本に集めたエンジニアたちに、日本語で研修を行うことは一番自然な選択なのだ。

私は、”語学教師”という職業がとっても好きだ。そして、ここ南アで南ア人エンジニアたちに日本語を教えることも私の運命だったようだ。だって、私はアフリカで、自分のこれまで培ってきた経験を、アフリカ人のためにお返ししたいと思って、南アに引越ししてきたのだから。

私の直接教えることのできる生徒の数はそんなに多くはない。が、彼らのあとに続く多くの人たちの姿が、私には見える。

日本語力を身につけた私の生徒たちが、どんなに大きく羽ばたけるか、ということ、また、その能力を結集させることにより、アフリカのさまざまな部分の発展につながる可能性があるということを想像するだけで、わくわくしてしまう。

こういう背景に感謝しつつ、私の生徒たちには、“がしがし”と日本を学んでもらっている。そして、ふふふ。その中身ときたら! それは、それは、ものすごいことになっているのだ。                                          

                         ……次回に続く。



これもダーバンの街中で観光客を乗せて走る人力車

カンジ、18歳 [2007年09月09日(日)]
 
我が家の住人の一人、カンジ。今年彼は18歳になった。我が家は夫と私、息子のカンジ、そして娘ショウコ13歳がそのメンバーだ。その他、SPCAという動物愛護団体から引き受けた二匹の犬が、一年を通して外の気温にそう左右されない、究極の天然素材、萱葺きの大屋根の家で暮らしている。

カンジの2007年9月の現在。南アの高校の最終学年ということもあり、卒業認定試験のため、かなりの時間を勉強に使っている。南アの大学入学資格は高校の成績で決定される。そのため、志望の大学の行きたい学部の基準値を調べて、その基準値を超えるべくこの最終学年の評価をよいものにしなくてはいけないのだ。南アには学習塾はないので、それぞれの科目を教えるプライベートの家庭教師を何人かハシゴしながらがんばっている。

カンジは、シンプルに“いいオトコのコ”だと思う。しかし、「いつも穏やかな」、という表現は当たらない。カンジは、その行動や考え方がちょっとユニークで、周りの人間が「ああ、そんな風な考え方もあるのか」と、ストンと納得したくなるような存在感をもつオトコなのだ。そして、いま、彼は、彼なりの18歳の不安、フラストレーション、希望、野心、そんなものをすべてその身に抱えつつ、ゆっくり、じっくり、いいオトコのコから“いいオトコ”に脱皮しつつある。

彼は子どものころ、彼と接したたくさんの大人に、「こんなに子どもらしい子どもに、このごろ会ったことがない」と、感嘆ともいえる感想をもたれる子どもだった。カンジの18年の人生には、アフリカと日本を交互に生活した異文化での葛藤がそのまま反映されている。リベリアで生まれ、エチオピアで学校に行き始め、東京の郊外の公立小学校で5年生まで存分に遊び、その後マラウィ、南アで思春期を過ごしているカンジ。カンジは自分のこれからの人生をアフリカで過ごすことも自分でも選択した。

最近、日本のニュースを読んでいた時、「暖かいもの」、「優しいもの」に囲まれていない日本人、という表現を知った。日本の都会では、”切れる大人”が多く、医療機関、交通機関などでそういう人たちが、医師や職員に暴力を振るうのだそうだ。彼らは、自分たちの周りにストレスが多く、本当は彼らが持っていたはずの「暖かいこと・もの・ひと」、「優しいこと・もの・ひと」の存在を忘れ、さらにそれらに囲まれてもいないらしい。

ふと、カンジがまだ幼いころのことを思い出した。

カンジが8歳、従兄弟のアジーノが2歳くらいだった。アジーノの家族と一緒に食事をしたあと、大人たちは寛いでいた。すると、アジーノが本棚の上の何かを見つけて、「とって、とって」と騒ぎ始めた。

私は、そばにいたカンジに、「とってあげてね」と一言頼んだ。

するとカンジは、ゆっくりと立ち上がり、その幼いアジーノの脇の下に、自分の手をすっと入れて、アジーノを抱き上げた。そして、アジーノのその小さい手が彼の欲しがっている本棚の上の“何か”に届くようにした。

カンジは、その何かを「とってあげた」のではなく、アジーノが自分でそれを「とれるよう」にしたのだ。

彼のその一連の動きは数秒のことだったと思う。でも、その何気ないカンジの動作に私は激しく動かされた。

その、カンジにとっては、あまりも自然でありながら、カンジにしかできないカンジの動き。私はこのカンジの所作に感動してしばらく動けなくなった、自分が彼の母親であるとか、彼が8歳の幼い少年である、とか言うことを超越した感動だった。

カンジは、幼いころから今に至るまで、機転をさっと利かせて立ち回るすばしっこいオトコではない。どちらかというと、不器用で自分の世界にどっぷりと入っているオトコなのだ。18歳の現在も勉強のほかにしたいことは、いまだにスケートボード、爬虫類のペットをめでること、そしてジャック・ジョンソンの音楽に浸ること。

この8歳のカンジのこの行動に、私は彼の魂のあり方を見る思いだった。そして、それが無意識にできる彼の器量に感嘆した。私は、人を慮る、人のために何かをする、というときに、完全にその人の側に立てる人間というのはものすごいことだと思うのだ。人間になってまだ8年しか経っていないこの時のカンジ。子どもを見守る年月の中での、その奇跡のようなひとつひとつの瞬間の大切さを実感しながら、私は彼のその前に広がるその大きな可能性に胸がどきどきした。

これは、もう10年も前のことだけれど、いまだに私の心を暖かくする。そして、私は、こんな「暖かい、優しい魂」の側にいられるということに単純に感謝してしまう。

……もちろん、朝、いくら起こしても起きてこないカンジを怒鳴る朝も、こういう「暖かい魂のそばにいる幸せ」と平行線であることは間違いないのだけれど。




圧力鍋 [2007年09月05日(水)]
 
私の台所には長く使い込んだ圧力鍋がある。

アメリカから帰国して、日本に帰り、就職したときに買ったものなので、かれこれ25年も使っている。この圧力鍋、日本とアフリカを往復する私にしっかり寄り添って、いろいろな国のいろいろな台所で活躍してきた。

長野県駒ヶ根市は中央アルプスの麓の田んぼの町。ここで協力隊の派遣前訓練の英語講師として働いていたころには、もっぱら玄米を炊くことに使っていた。日本の玄米の美味しさをじっくりと味わう幸せを思い出すと、いまでもうっとりする。

西アフリカのリベリア、モンロビアの台所は常時30度を越える暑さ。一年を通して高湿度、高温度の中、じっくり煮込み料理などしていたらこちらが茹で上がってしまう。家の他の部屋には冷房が効いていたけれど、キッチンはもちろん冷房なし。そんな場所での圧力なべは、煮込みを短時間で仕上がることができて大層重宝した。

エチオピアの首都、アディスアベバの台所は何と標高2400メートル。こんな高地はお湯の沸点がとっても低い。そうすると、お米も低い温度でしか炊けないため、炊飯器ではどうしても美味しくお米が炊けない。そこで、大活躍したのがこの圧力鍋。圧力なべは標高で沸点が左右されないらしい。

「……らしい」、というのは、実は、何回もこのことに関し、“科学的説明”を受けているのだが、いまいち、私の理解が追いつかないため詳しい説明ができない。ごめんなさい。

でも、こういう標高の高いところでも炊飯器やおなべでお米を炊けないわけではない。炊飯器で炊いたからといって、お米に芯が残るのではない。芯が残るのではなく、ふわふわとした正体のないお米ができあがるのだ。私はこれが駄目だった。でも、日本人のご婦人の中には、「芯があるわけじゃないから、炊飯器で炊くわ」という人もいた。このころのお米は、デンマークから通信販売で米国産の日本米を輸入していた。

さて、東京での、子どものいる働くお母さん時代。もう、これは文句なしに、煮込み料理の時間短縮に大活躍。カレー、シチュー、ミートソース。帰宅してから料理を並べるまでの勝負時間は毎日約40分。さまざまな器具を駆使して、野菜のたっぷり入ったこれらの煮込み料理を圧力鍋と共同作業していた。

南部アフリカ・マラウィの気候も爽やかな首都、リロングウェの台所。リロングェで嬉しかったのは、現地産の美味しいお米が入手できたこと。ただ、マラウィ米は、きっぱりとした短粒種の日本米ではなくて、長粒種の手前一歩、というようなもの。だが、これを圧力なべで炊くと、フンワリ、そしてしっとりねっとりとした「正しい日本のご飯」という風情のご飯が炊けるのであった。

そして、ここ南アフリカ・ダーバン。南アのお米は“パー・ボイルド”という工場で予め一回ゆでられてから流通に乗るというトンでもないお米。どうやらこの工程、虫の被害を防ぐために有効らしいが、お米本来の味はもう銀河系の彼方に飛んでいってしまっている。

炭水化物が大好きな私は、そんなお米では満足できない。そこで、見つけてきたのが、中国人の経営するアジア食材店。ここでオーストラリア産の短粒米が入手できるのだ。これを、もちろん、私の圧力鍋で炊くと、ふっくらねっとり、しっとりの美味しい日本のご飯となる。ちなみにこのオーストラリア米、25キロで160ランド(約2800円、10キロ当たり1120円)という値段がありがたい。

最後に圧力なべでのお米の炊き方を。これは、ガス代も節約できるし、時間が短いのが何よりも嬉しい。ぜひ、お試しあれ。

@お米は普通に磨いで、ザルにあげる。
A圧力なべにお米と同量か一割増しの水を入れて強火にかける。浸し時間の必要なし。
B圧力なべの重しが動き始めたら、弱火にして5分加熱し火を止める。
Cあとは15分ほど蒸らしてできあがり。



プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。