吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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『ハリー・ポッターと死の秘宝』 [2007年08月21日(火)]
 
ハリー・ポッターの愛読者、そしてまだ愛読者になっていないみなさまへ

この二年間、私はJ.K. Rowling に腹を立てていた。いや、「腹を立てていた」では私のあのときの感情は表現しきない。正直、二年前、ハリー・ポッターの第六巻、Harry Potter and the Half-Blood Princeを読み終えたときの私は、彼女に対し激怒していたのだ。三日間ほど、車を運転しながら、料理をしながら、買い物をしながら、原稿を書きながら、ぶんぶん、頭から湯気を出して怒っていた。

何故か?

それは、ハリーに取って父親以上の存在だった、魔法学校の校長、アルバス・ダンブルドアを、J.K. Rowlingが最終巻を待たずに第六巻で殺すのかが理解できなかったのだ。わずか1歳でハリーは両親を、ダークマジックで世界を支配しようと企むボルディモートに殺された。



そして、このハリーこそが、ボルディモートの魔手から逃れた唯一の魔法使いだったのだ。その後、魔法学校に入学できる11歳になるまで、ハリーは彼の存在を忌み嫌う親戚、魔法使いではないドゥーズリー家に、蔑まれながら育てられた。

しかも、彼の魔法使いである、という生い立ちも、彼の両親のことも何も知らされずに。だが、ハリーは心に傷を負いながらも、優しい、冒険心に富む、友達思いの少年に育っていた。実際、ハリーに次々に襲い掛かる出来事はかなりひどい。でも、ダンブルドアはそのハリーをガイドしてくれる大きな存在だったのだ。そんなハリーからダンブルドアを奪い取るのはあまりにもひどいじゃないか!と怒っていたのだ。

それに、私はこの最終巻を読むまで、ハリーの両親の享年を意識していなかった。が、何とジェイムス、リリー・ポッターは31歳の若さで殺されたのだった。若い。若すぎる。物語の中であっても、実際の出来事であっても、若い人たちの死は本当につらい。

だが、この最終巻、『ハリー・ポッターと死の秘法』を読んで、心の底から納得した。ああ、ダンブルドアの死もこういうことだったのか、と。JK Rowlingの意図がよく分かった。ダンブルドアが何で死ななくてはいけなかったか、また、何でよりによって、生前のハリーの父を忌み嫌う魔法学校の教授スネイプにダンブルドアが殺されなくてはいけなかったのかがよく理解できた。どうして、スネイプがあそこまでハリーの父親を嫌ったかという理由とともに。

J.K. Rowling、あなたを許そう。ダンブルドアを殺したのはそういうことだったのか。

そして、私はこの七巻に及ぶハリー・ポッターの各巻で、ハリーを取り巻く主人公たちの言葉に心が震えるほどの感動も味わっている。この最終巻での圧巻は、ハリーの気の優しい友人、ネビル・ロングボトムの言葉だ。

ハリーとその仲間のロンたちがボルディモートたちの魔手から逃げるために姿を隠している最中、ネビルたちはダンブルドアのあとスネイプが校長となった魔法学校で必死の抵抗をしていた。いまだに、厳しい英国系の学校でなら行っているであろう罰則、 Detention。通常は、部屋の掃除とか、「申し訳ありません」を何回も書く、とかだが、なんと、ネビルたちのDetentionでは、魔法を使って身体を痛めつけることまでされていたのだ。

だが、そんなことに負けずに、学校を支配する悪に立ち向かうまでに成長したネビルが素晴らしい。彼は、幼い頃から、間違っても「勇敢な」という形容詞がつくような少年ではなかった。だが、この最終巻での彼の活躍はまぶしい。ボルディモートの化身のような存在の大蛇、ナギニを最後にしとめたのもネビルだった。

そして、彼の言葉。

「ハリー、君がどんなに大きな相手にでも、立ち向かって行ったことを僕は覚えているんだ。そして、それがどんなに他の人に希望を与えるか、ということもね」

勇敢に死んでいった両親と、彼を育てた厳しいおばあさんの影でおびえていたネビルの見事な変身。ネビルは第一巻から、気の弱い、スネイプなどの厳しい教授陣の前でびくびくする少年として描かれていた。だからこそ、私は彼のこの言葉を読んで、さめざめと彼の成長ぶりに泣いてしまった。

2007年7月、ハリー・ポッター最終巻が発売されたこの月は、たまたま仕事が超繁忙期だったのだが、それこそ眠る時間を惜しんで入手後1週間で原書600ページを完読。ハリー・ポッターに関しては、いろいろな意見があることも知っている。南アに限らず、キリスト教の信者には、「魔法を使う物語」ということで子どもにこの本を禁止する家庭もあるという。

個人的にそれは残念だと思う。私は新しい世界を知りたい。想像の世界に遊びたい。見知らぬ習慣に驚きたい。私は、書物が、物語が、その読後に広げてくれる心のあり方に驚嘆するからこそ、大人でも子どもでも、自由に貪欲に、違う世界を楽しんで欲しいと思うのだ。

大げさな私は、ハリー・ポッターの読後の興奮から、紫式部、シェイクスピアから、ディッキンソン、そして最近ではエラゴンの作者、パオロニまで、すべてのストーリーテラーたちに感謝したくなった。お礼にみんなを我が家の食事に招待して、ダーバンの取れたての魚で太巻きのお寿司でもご馳走したいものだと考えて、幸せな気分になっていた。


ウェインズ一家 その2 Third Culture Kids [2007年08月11日(土)]
 
途上国暮らしでないと元気が出ないデイビッド。本当はカナダに戻りたいのだけれども、ダンナと子どもたちのために途上国暮らしを受けていれているオードリー。そんな二人の子どもは合計6名。それぞれがいい顔をしている。

その中でも、一番上の娘のジャネルがおもしろい。ジャネルは、セネガルでの寄宿学校の高等部を終えたあと、祖父母のいるカナダのバンクーバーへ戻り地元の大学に入学した。が、どうも何かがおかしい、と感じたそうだ。例えば、異文化理解論などの授業をとっても、その教科書に書かれている内容が「嘘くさい」と言うのだ。



彼女の話を聞いていて、思わずその状況を想像して笑ってしまった。確かに、カナダの大学で「異文化理解」を教える教授陣にも、このウェインズ一家ほどの異文化理解の人生を実践している人は少ないと思う。異文化理解を体系的に学問として学ぶのではなく、ウェインズ家の人生そのものが異文化理解なのだ。幼い頃から西アフリカのジャングルで、村人とともに育った彼女が、文献や書物から学ぶ”異文化理解を、「何かおかしい!」と判断したのはよく理解できる。

しかし、それにしても興味深いのは、ウェインズ家と吉村家の子どもたちの寄り添い方だ。再会した瞬間から、お互いがピターと隙間を埋めるように仲良くなっているのが手に取るように分かる。

Third Culture kids(以下、TCK) と呼ばれる子どもたちをご存知だろうか。これは、親に連れられて、自分の生まれた文化の外で育つ子どもたちのことを指す。母国の文化、第二の文化を経験し、この二つの文化を足した、第三の文化を独自に作り出す子どもたちのことだ。興味深いのは、このTCKたち、外の文化を知らない同じ母国文化出身の子どもたちよりも、他のTCKとの共通点が多いと言われている。その出身国、移り住んだ国が異なっていたとしてもだ。ウェインズ家と吉村家の子どもたちの波長の合方もこの学説どおりだ。



実は、今回のウェインズ家と吉村家のハイライトは、ジャネルと我が家の上の子ども、寛慈が素っ裸で映っているビデオの上映会だった。17年前のリベリア。17年分若い私たちがそれぞれの最初の子どもたちとどのように向き合っていたかがよく分かる映像だった。思春期真っ盛りのジャネルと寛慈。まあ、普通の環境で育った18歳なら、きっと親兄弟との旅行そのものにも興味を示さないかもしれない。だが、この二人は環境の厳しいアフリカ各国で育っている。自分たちの安全を確保するために、親が何をしてきたか、を目の当たりにしてきているのだ。アフリカの、大人の庇護がなければ子どもは生きてはいけない、という現実をその身で体験している子どもたちは、先進国の環境のみで育つ子どもたちとは確実に親への態度が異なる。二人は、弟妹たちの嘲笑にもたじろがず、裸で転げまわる内戦前のリベリアの映像を熱心に見つめていた。

さて、9月からジャネルは、フィリッピンにある米国系の看護大学の助産師のプログラムに入学することが決まっている。これは3年で学士も修得するもので、年11ヶ月授業の続くかなりハードなカリキュラムだ。フィリッピンにこのプログラムがある理由は、途上国勤務を希望する宣教師の子どもたちのためなのだ。ここで実施されるプログラムは、大学の敷地内に実際の産科クリニックも併設されていて、コミュニティプログラムの運営方法も同時に学ぶことができるという。

カナダでの大学教育に見切りをつけたジャネルの見事な進路変更。彼女の言った言葉が興味深い。「私はアフリカに戻ってきたい。ここが私の生きる場所なの」 

我が家の下の娘、翔子と、ウェインズ家の末娘レベッカが、「寛慈とジャネルが結婚したらいいじゃない!そうしたら、私たちは本当の家族になる!」と真剣に提案していたのが何とも愉快だった。

ウェインズ一家 その1 [2007年08月04日(土)]
 
デイビッドとオードリー、ウェインズ夫妻には6人の子どもがいる。上から、ジゃネル、ダニエル、メンワ、ジャシュワ、マシュー、そしてレベッカ。 デイビッドとオードリーはカナダ出身で、もうあれこれ20年以上も西アフリカのリベリアでクリスチャン系NGOの活動をしている。オードリーが保健婦であることもあって、彼らの主な活動は保健教育の指導だ。

私たちと彼らの出会いも20年以上前のリベリア。私たちが夫婦として初めて赴任したときのころだ。二組の夫婦の年齢が近いこともあって、私たち4人はとっても仲がいい。夫も「自分を真に理解できるのはデイビッドだけだ」と思っているようだ。

今回、このウェインズ一家総勢8名が南アの我が家を訪問。何年振りかの全員集合はとっても嬉しかった。ただ、我が家の温水タンクの容量は8人が使用することを想定されていない。きっと毎日、遅くシャワーを使った人は冷たい水しか出なかったはず。申し訳ないことだ。



さて、奥さんのオードリーは、そよ風でも飛ばされそうな可憐な女性。正直言って彼女は、気候的(湿度ほぼ毎日100%、赤道直下のジャングル地域)にも、政治的(賄賂、汚職は日常茶飯事)にも、かなり生活難易度が高いリベリアの生活を楽しむようなタイプではない。彼女は、カナダであれば何の問題もなく手に入る、少しのシリアルと新鮮な牛乳、生野菜のサラダがあれば幸せという、質素でつつましい食生活を好む。が、内戦でずたずたになったリベリアでは、これらを望むこと自体が“贅沢”となってしまう。途上国で、日本や欧米のような低温殺菌の牛乳を入手するのはほぼ不可能に近いのだ。製造設備の整っていない、また電気事情が安定していない途上国では、冷蔵の必要ない、長期保存の可能な箱入りまたは缶入り牛乳しか選択肢がない。

そして、私は知っている。オードリーは、本当はカナダで暮らしたい、ということを。

でも、リベリア育ちの5人の子どもたちも、リベリアで彼らが養子にしたメンワも、そして何より、ダンナのデイビッドがカナダでの暮らしでは、塩をまかれたナメクジのようになってしまうのだ。

カナダや日本では、お金さえあれば何でも買えるし、子どもたちをわざわざ国外の寄宿学校へ送らなくてもいい。現在のリベリアにはカナダ人の子どもが通える学校はないので、彼らは幼い頃はホームスクーリング。しかし、高校生の年ごろになると、子どもたちは親から離れてセネガルなどの寄宿学校へ進学することになる。余談だが、3年前、上の子どもたち3人は、象牙海岸の寄宿学校にいた時、政府が転覆させられた軍事クーデターに巻き込まれ、危機一髪アビジャンを脱出したこともあった。

でも、そういう苦労があったとしても、カナダに家族で帰る、というのは選択したくないようだ。私たちの家族と同じように、彼らには、先進国の暮らしはもう肌に合わなくなっているのだと思う。

何がどう合わない、という明確な答えはないのだが、強いて言えば、自分が先進国に住むことによって、手にいれてしまう「便利さ」に対する後ろめたさとでも言えばいいのだろうか。また、こういった、先進国の利点を享受することに対する、所在のはっきりしない「イライラ」を周囲に理解してもらえないことに対する焦燥感にも追い討ちをかけられる。

このことは、私たちが南アに移住する直前、カナダに住んでいた彼らを訪れた際、忙しくしているくせに生気のないデイビッドの姿を痛々しく思ったときにも感じたことだ。

いま、数々の困難を乗り越えて、新しい国づくりが始まったリベリア。彼らもリベリアに戻って活動を再開させている。生き生きとしたデイビッドと、ちょっと疲れた雰囲気のオードリー。今回の家族旅行は、最初で最後かもしれない、という。何でもフランスに住む知人が、彼らに家族旅行をプレゼントしてくれたそうだ。

(ウェインズ一家の南ア旅行は次回に続く)

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。