吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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プリムローズの願い [2007年06月29日(金)]
 
プリムローズ。なんて可愛らしい名前だろう。和名では “サクラソウ” を意味するプリムローズは、南アフリカのダーバンに住む21歳、それは、それは若いきれいな女性。そして、彼女そっくりの可愛い子どもは4歳だ。

プリムローズはエイズを発症している。

エイズは、HIVウイルスに感染したのち、そのウイルスによって体の免疫メカニズムが破壊され、結核や癌、肺炎などを発症して死に至る病気だ。HIVウイルスの潜伏期間は長い場合だと20年を超えることもある。が、栄養状態がよくなかったりすると、早い場合は感染から数年で発症する場合もある。プリムローズの子どもが4歳ということから考えると、彼女はきっと10代の早い時期からHIVウイルスに感染していたのだろう。

プリムローズは、今年の6月にドリームセンターというエイズ感染者への病状緩和ケアを行う病院から退院した。決して病状が好転したわけではなく、最後の日々を彼女の最愛の4歳の娘と過ごすためだった。アフリカで自宅療養をする、ということは、痛みの緩和などのケアが充分に受けられないことを意味する。先進国のように終末ケアの訪問看護などの仕組みが整っていなからだ。

それでも、プリムローズは自宅に帰ることを望んだ。彼女が自宅に帰る前に、話を何回かに分けて聞き取ることができた。

私はこのドリームセンターで、病状や患者自身の思いを記録にまとめる作業を毎週続けている。エイズ患者にインタビューし、患者自身の声を拾う作業はつらい仕事だ。だが、彼らの声は誰かが書き残さなければいけないことだと思っている。これ以上エイズ感染者を増やさないためにも、彼らの記録を残すことは必要なことだ。

プリムローズの生活は、本当にささやかな普通のアフリカの若い女性の毎日だった。おしゃれが好き。テレビが好き。踊るのが好き。チョコレートが好き。彼女は高校の最後の年で落第してしまったそうで、卒業資格を得るために別の学校に在籍していた。ここを卒業して、銀行で働くのが夢だった。

そして、話が自分の家族に及んだ際、こんなことを打ち明けてくれた。

「私が小さいときに家を出て行ったお父さんに会いたい。会って、ケンタッキーフライドチキンに連れて行って欲しい」

そういって、プリムローズは、いまは彼女の娘さんのものとなったキティちゃんのヌイグルミを大切そうに撫でて、涙を流した。

私は、彼女の願いのそのささやかさに、その切なさに、打ちのめされそうだった。間もなく訪れるであろう“死“の前に、この若いプリムローズが望むことがこれ? これだけ? いくらなんでもささやか過ぎないか。どうして、こんなことを実現することが難しいのだ。自分の非力さに、こんな若いプリムローズが抱えているあまりにもつらい現実に、立ちすくんだ。

そんな中、季節はずれのせみの声を聞いた。自分がうんと若いころ、地面に6年も潜伏して、地上に出てわずか1週間で命を終えるせみの命のサイクルを知り、そのはかなさに強い憤りを感じたことを思い出した。が、大人になって、それがせみの命のサイクルであり、その命の短さやはかなさは、人間の私が人間の尺度で同情したり、憤ったりすることではない、ということを謙虚に考えられるようになった。せみはせみの命を生きる、人間は人間の命を生きる。

そうだ、プリムローズがいま、望むことを私の尺度で悲しむ必要はないのかもしれない。プリムローズの望んだこと、それは彼女の可愛い娘さんとできるだけ一緒に過ごすこと。そして、どこにいるかも、生死でさえ分からないお父さんに、ケンタッキーフライドチキンを買ってもらうこと。

娘さんとは残された時を一緒に過ごすことができた。しかし、お父さんとの再会は難しいだろう。でも、ケンタッキーフライドチキンなら、私が買ってあげられる。プリムローズのこれまでの不幸を、私が呪うだけでは彼女の存在があまりにも悲しい。

彼女のことを一人でも多くの人に知って欲しい。心の片隅でいいから、彼女のことを覚えておいて欲しい。

「南アフリカのダーバンに、こんな若い女性がいて、こんな望みを持って、あと何日かの命を懸命に生きています。彼女の名前はプリムローズ。彼女が好きなのは可愛い彼女の娘、ダニエラ。食べたいのはケンタッキーフライドチキン……」

果てしない思い〜フェイバリットのしあわせ〜 [2007年06月20日(水)]
 
フェイバリット、日本語では、“一番好きな”と言う意味の名前を持つ女性が、南アフリカのダーバンにいる。

いま、彼女が暮らしているのは、エイズ末期患者のための症状緩和措置病院『ドリームセンター』の一室だ。彼女は31歳、一人息子は彼の父親と一緒にダーバン南部の小さな町で暮らしている。フェイバリットの細い少女のような足は、この病院に海外から寄付されたであろう欧米人仕様の椅子に座ると、床に届かない。

アフリカのウガンダで始まった、エイズ患者の人生を記録しようとする“メモリーボックス”プロジェクトというものがある。それは、エイズの末期患者が自分の最後の思いを、彼らの残していく家族にプレゼントしようというもの。が、アフリカの多くのエイズ末期患者は、これまでの人生、生きてきたのが精一杯だった場合が多い。そして、こういった“遺言”を残す、ということ自体があまり一般的ではない。

私は、英国系南アフリカ人の心理学者のサリーに紹介されて、この病院に通いはじめた。サリーは、“メモリーボックス”をエイズの末期患者に説明する際、決して、「あなたが死んだあとにね……」とは切り出さない。

彼女は、「あなたが一番大切な人は誰?」と微笑みながら、フェイバリットの痩せた肩に手をかけた。実は、フェイバリットはもう失明寸前。だが、近距離ならば、ぼんやりと人やものの輪郭が判るようだ。

フェイバリットは唇を薄くあけて、「私の息子、イノセンス……」とつぶやいた。

サリーはやさしく、そしてゆっくりと、「そう、息子さんがいるのね? お名前は? 年はいくつ……」と聞いていく。フェイバリットは、もうほとんど視力のない目をときどき開けて、「とっても優しくて、穏やかでいい子よ。……学校の成績もとっても優秀なの」と続ける。でも、彼女の顔の表情はあまり変化しない。フェイバリットの今の状態は、体中の節々が痛いし、息をしているのがやっとの状態なのだ。“笑顔”にも体力がいるのがよく分かる。

「それじゃあ、あなたが、彼、イノセンスのことをそう思っている、ということを書きましょうね。これは、あとでイノセンスが見ることができるのよ」

フェイバリットはこの“メモリーボックス”のことを、この時点で正確に理解していなかったかもしれない。それでも、サリーが聞くことにポツリポツリと応えてくれる。

サリーが、「あなたの人生で一番楽しかったのはどんなこと?」と聞いた。

「私の人生なんて、いいことはひとつもなかった」

「どうしてそんなにつらかったの?」とゆっくりと聞いていくサリー。表情を変えず、あきらめた様子で彼女が話す彼女の人生は切なかった。

幼いころから両親はいない。預けられた家ではその家の子どもに意地悪され、食事ももらえたり、もらえなかったりした。「あなたの息子さんの父親は、あなたの夫かボーイフレンドだったの?」という問いには首を振った。望まれた妊娠ではなかったのだろう。彼女の息子の13歳という年齢は、彼女の10代での妊娠出産を物語る。レイプされた可能性さえ、否定できない。

私は、とても黙っていられなくなり、「でも、あなたには、いま、大好きなイノセンスがいるのねぇ!」と言うと、フェイバリットは、ここで初めてにっこりした。

ところが、このあと、何を聞いても彼女は、「他には何もいいことはなかった」と静かに首を振る。でも、間もなく訪れるであろう彼女の命の終わりの前に、何かひとつでも彼女の人生で、「楽しかった」という思い出をきちんと書き残したいと強く思った。彼女の厳しい人生だって、きっと何か楽しいことがあったはずなのだ。イノセンスにも、彼女の人生の楽しかったことを教えてあげたい。

私は、ふと思いつき、「元気なときはどんな仕事をしていたの」と聞いてみた。彼女のほほが少しゆるんだような気がした。

「……病気になる前はね、美容院で働いていたの。お客さんにお茶を入れたり、掃除したり。とっても楽しかった、嬉しかった」

サリーが満面の笑顔で聞いた。

「そう、それはとっても素敵ねぇ、どうしてそんなに嬉しかったの」

フェイバリットが一瞬大きく目を開いて言葉をつなぐ。

「ベッツイが優しかったの。まるで私をベッツイの娘みたいに優しくしてくれたの」 

ベッツイはこの美容院の経営者だろう。サリーが続けた。

「ベッツイはあなたがここにいるのを知っているの? いつお店を辞めたの?」
「ベッツイはここのことは知らない。お店を辞めたのは1年くらい前……」
「お店の名前は? そのお店はどこにあるの?」

フェイバリットは店を辞めて1年もたつと言うのに、店の名前、電話番号をはっきりと覚えていた。サリーがその店の電話番号を回す。ベッツイは不在だったが、別の女性がベッツイの携帯電話の番号を教えてくれた。携帯電話に出たベッツイが、この電話が病床のフェイバリットからだと知ると、「神様! フェイバリットはまだ生きているの?」と叫んだ。

ベッツイにしたら、フェイバリットは、これまでに彼女が何人も雇った黒人ワーカーの中の一人なのだろう。きっと、フェイバリットがこれほど感謝するほどの“親切”をした、という意識もなかったはずだ。でも、物心がついてから、人に親切にされたことなどあまりなかったはずの彼女にとって、例えば、ベッツイの持っていたひとかけらのビスケットを分けてもらったことでさえ、「自分の子どものように可愛がってくれた」と、なることに、私は想像力を働かせる必要もなかった。

このあと、フェイバリットの身体が緩んだ。心も緩んだ。口も緩んだ。

私が、「フェイバリットはどんな食べ物が好きなの?」と聞くと、「私はサンドイッチが大好きなの、チキンのハムをはさんだやつ」という答え。彼女は吐き気のため、何日も固形食は食べていなかった。でも、喉を「ごくん」と鳴らして、サンドイッチと一緒に飲むものは、「断然、サワーミルクだ」とつぶやいた。

そして、彼女は自ら話し始めた。

「クリスマス、新年、そして復活祭には特別な料理をしたのよ。黄色のご飯の中に野菜を入れたもの、サラダ、フライドチキン。みんなイノセンスが好きなもの。きれいな洋服を着て教会にもいくの。教会は街の中の……」

フェイバリットが生きてきた証が、生き生きと表現され始めた。最愛の息子、イノセンス。自分の子どものように親切にしてくれたベッツイの元で働いた4年間。イノセンスのために料理した黄色のご飯にフライドチキン。きれいな洋服を着て、息子とともに教会へ行くことの晴れがましさ。フェイバリットに感謝しながら、私はこれを記録として残すことの大切さを感じていた。

「私の人生にいいことは何もなかった」という彼女の言葉も、話を始めた時点では正直な彼女の心持だっただろう。でも、サリーの静かな問いかけから、彼女の気持ちを丁寧に拾っていったことで、イノセンス、ベッツイ、黄色のご飯、そして教会が出てきたのだ。

“言葉をつなぐ”という地道な行いが、これほどの威力を持つ。そして、彼女の人生の“幸せ”が言葉で残る。どんなに死が近づいていたとしても、彼女は彼女の生きた証を言葉にし、それを最愛の息子に残すことができた。人間の持つ、果てることのない思いとその能力にひれ伏したい思いで彼女の病室をあとにした。

フェイバリットはこの4日後に亡くなった。

ジンバブウェ・ドル、無茶苦茶! [2007年06月11日(月)]
 
子どもたちの復活祭の休みに合わせて久々の家族旅行。今回はジンバブウェ側のビクトリア瀑布とその瀑布から90キロ離れたボツワナのチョベ野生動物保護区へ行ってきた。

ジンバブウェ、かなり状況がひどい。何がひどいかというと、世界各国から非難ごうごうの独裁者ムガベ大統領(83歳)の政権がもう本当に崩壊直前。現地の人の話では、もう5月の終わりまでには終焉を迎えるだろう、などというコメントも。2004年に首都ハラレを訪れたときにはこういったコメントはまず聞かなかった。ムガベさんは恐怖政治を強いているので、政権の批判やら悪口を当局に聞かれたら、牢屋行き、ということもありえるからだ。

ここ10年ほどやりたい放題のムガベ大統領。白人農場主を追い出した結果、農業生産は地に落ちているし、他の産業もほとんど機能していない。かつては“アフリカの宝石”とまで言われた美しい国土が荒れ果てている。

その中でもこの国の通貨の混乱振りは突出していた。日本などの先進国に住んでいると、外貨の両替は銀行でする。途上国でも大体そうなのだが、いわゆる闇レートが銀行レートとかなり幅がある場合、これを法律に沿ってきちんと両替していると、とんでもないことに……。

ジンバブウェの現在がまさにこれ。公定レートでジンバブウェ・ドルを買ったりしたら、日本円で約3千5百円のツアー参加費に必要なお金でさえ、約14万円もしてしまう。

だから、外国人はすべての支払いを外貨でするように言われる。外貨を両替するときは銀行ですること、とも決められていて、ちょっと高額な支払いを現地通貨でするときは、銀行で両替した際のレシートを求められる。だから、闇で両替するのはほとんど不可能。でも、市場の実勢レートと公式レートに何と約40倍もの開きがあるのだ。

具体的に食事を例にとってお話ししよう。

今回の旅行は我が家の4人と甥姪で合計6人。この6人が町のレストランで“ザザ”と呼ばれるメイズミール(玉蜀黍粉)を、牛肉をトマトベースで煮込んだシチューと一緒に食する料理を食べてお代は940,000ジンバブウェ・ドルなり!

これを公定レートで換算すると、「ひょえ〜!」と叫ばざるを得ない3,760ドル(約45万円)。が、レストランにはレストランレート(10,000ジンバブウェ・ドルが1USドル)があるのだ。このレストランレートでこの価格をドル換算すると、US94ドルということになる。これでもかなり高い。

でも、46万円よりはましなので、ウエイターがいそいそ闇レート(闇レートは20,000ジンバブウェドルが1USドル)に交換して、50ドル近い現金をポケットに入れるのを忸怩たる思いで眺めるしかない。「チップは意地でもやらないぞ!」と鼻息を荒くするくらいが関の山なのが悔しい。

そして、このオチは、次の日に食べた夕飯。前日の観光客用のレストランではなく、ガソリンスタンドの横でひっそりと営業している地元の大衆食堂。な、なんと、前日の6ドル分のおつりの現地通貨(60,000ジンバブウェ・ドル)で6人分のほぼ同じ内容の食事が食べられたのだ。しかも、味はこの大衆食堂の方が絶対に勝っていた!

恐るべし、ジンバブウェ・ドル。でも、これじゃあ、観光客は楽しめないよね。




◎世界三大瀑布のひとつ、ビクトリアの滝(ジンバブウェ側)


「合わさる手」の力 [2007年06月05日(火)]
 
南アフリカのダーバンにあるドリームセンターというエイズ患者さんの症状緩和措置病院に毎週通うようになって今年で3年目だ。私はここで、患者さんたちの人生を書き取る仕事をしている。

でも、ペースはゆっくりゆっくり。年間を通して、3名もの記録が取れれば上出来、という進み具合。アフリカで短気を起こしては駄目、とはいうものの、ここまでゆっくりできるのは私がここの定住者だから。期限のあるプロジェクトではこういうことはできないだろう。

ドリームセンターが末期のエイズ患者を多く入院患者に抱えながら、“ホスピス”ではなくて、“症状緩和措置病院”という種類の医療機関なのには理由がある。そのひとつは、このドリームセンターは、常にスタッフの数が足りなくて、患者さんに満足な看護がしてあげられない、ということ。それから、終末医療のために必要な薬が十分入手できないときがあるからだ。

そして、嬉しいことに、実は3割くらいの患者さんが、症状が改善してドリームセンターから退院して日常生活に戻ることができるのだ。だからここはホスピスではない。だが、残念ながら、こうして退院していった患者さんの中には、数ヵ月後病状が悪くなり、またドリームセンターに戻ってくることもある。

私たちは“エイズ”では死なない。エイズを発症するとは、“HIVウイルス”というウイルスに感染した人が、そのウイルスによって、本来の身体の免疫を破壊させられてしまう状態を指す。だから、患者さんたちは、身体の免疫状態が著しく衰え、日本だったらまずもう死に至る病気ではなくなった、肺炎、や下痢、といった原因で亡くなる。

私の住んでいる南アフリカのダーバンは、死因の半分以上がエイズ関連だ。つまり、街を歩く多くの人がHIVに感染していることを意味する。今年18歳と13歳になる10代の子ども2人を抱える私にとって、自分の子どもたちをこの性感染症からいかに守るか、ということは大きな問題なのだ。

だから、私はHIVやエイズ、ということを私の家族の中では普通の話題にしている。エイズに罹るな、自分の身体は自分で守れ、守れなかった人を差別するな、エイズに罹った人とどう共存していくべきか、などなど。

自分たちの生活している社会の抱える大きな問題を知らん顔しているわけにはいかないし、自分たちが何かそれに対して貢献できることがあるなら、積極的に関わる、というのが、私がしたいこと、自分の子どもに伝えたいことだ。だから、親しくなった患者さんの死に、毎回、打ちのめされながらも、くじけそうになりながらも、私は自分とドリームセンターとの関わりを途中で投げ出さない。

それから、私が心がけているのは、できるだけ多くの私の知り合いにこの活動に関わってもらうこと。私だけの力がたかが知れているのは、自分が一番良く知っている。

南アに来る前まで私が代表をしていた組織は、国際理解教育の概念をもった英語を教えるための教材を作成していた。その教材のひとつが、歌でありチャンツと呼ばれる四拍子のリズムに合わせてメッセージを伝えていく、というものだった。

その中のチャンツのひとつに、”One hand is better than tow, two hands are better than three!” という大傑作がある。一つの手よりも二つの手、二つの手よりも三つの手、というわけだ。私は自分がスーパーウーマンでないことを熟知しているから、人に助けを求めることを躊躇しない。

そして、そんな「合わさる手」の力が実りつつあるのは、去年の4月ころから始めている患者さんのためのビーズのワークショップ。これは、今はもう日本に帰国してしまったが、ダーバンで私が一番親しくしていた日本人女性、ヤスコさんの多大なる協力があって実現したもの。

彼女は日本では彫金の教師だったこともあり、こういった工芸が大得意だった。彼女の試行錯誤の元、もともとここの最大黒人部族であるZULU族の患者さんたちの伝統工芸であるビーズ細工を教えることにしたのだった。ありがたいことに、ヤスコさん以降のダーバン在住の日本人の支援も広がりつつある。

一日何もすることがない患者さんたち。その彼女、彼たちが、私たちの週一回のビーズ・ワークショップを楽しみにしてくれるようになった。それは、作ることの楽しさがあることともあるようだが、何よりも、ずばり、その作ったものが“商品”として現金収入になるからだ。一つ一つの単価はせいぜい80円から300円。でも、現金収入の道がほとんどない彼らにとって、これは画期的なこと。が、このワークショップに参加してくれる患者さんが増えるにつれて、私には大きな悩みが出てきてしまったのだ。



プロフィール [2007年06月04日(月)]
 
【名前】
吉村峰子 (ヨシムラ ミネコ)

【職業】
日本語教師
英語教師
ライター(教育、子ども、人々の暮らし、HIV/Aids、アフリカ)
日本語/英語通訳(会議、逐次)

【連絡先】
Email はこちら

【住んでいるところ】
南アフリカ共和国・ダーバン

【家族】
夫、息子、娘、犬二匹

【GITCでの仕事】
1991年から2004年まで、東京・八王子で、GITC(Globe International Teachers Circle)という国際理解教育を軸とした英語教育を推進する組織の代表を務める。在任中、会員向けに100 にも及ぶテーマ別教材をスタッフとともに作成。また、日本国内外で講演、ワークショップも行う。この間、優秀なスタッフに支えられて、アフリカと日本を交互に生活する。GITC が作成した国際理解教育を軸にした英語教材は、現在、ベルワークスで購入できる。

【現在の仕事】
ダーバンでは、日本語・英語教育のほか、南部アフリカ発の記事やエッセイを執筆したり、企業や法廷の通訳の仕事をしている。また、週一回、地元のエイズ症状緩和措置病院にて、患者さんの人生の書き取りの仕事、患者さんのためのビーズ教室をしている。

【主な出版歴】
■『やってみよう!公立小学校で英語』
2000年 草土文化社
■『英語の翼に元気を乗せて』
2000年 出窓社
■『英語で広がる私たちの世界・全五巻』
共著 2001年 金の星社
1「人間について」
2「いろいろな文化」
3「平和について」
4「世界の国々」
5「環境について」
■『英語で国際理解教育・小1・2年版・小3・4年版・小5・6年版』
共著 2002年 小学館
■三省堂中学検定教科書『New Crown』
平成14年版編集委員
■『チャレンジ!地球村の英語・全五巻』
2004年 すずき出版
1 「地球村のお茶文化」
2 「地球村の子どものけんり」
3 「地球村のエイズ(HIV(エイチアイブイ)/AIDS)の問題」
4 「地球村の環境の未来」
5 「地球村の平和の願い」


自署、ネルソン・マンデラさん(元南ア大統領)について書いた
『地球村の平和の願い』を近所の小学校で朗読



プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。