吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

2008年04月
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350名の子どもがウェイティングリストに名を連ねる学校 [2008年04月21日(月)]
 
自分たちの話す言葉の中に、新しい現象とか、新しい概念を表わす言葉がなかったとしたら、私たちはどうするのでしょう。

例えば、コンピューター。
例えば、クリスマス。

日本語には「カタカナ」があるために、外国産の言葉も比較的安易に日本語の語彙として登場する機会があるようです。

私たちのエチオピア訪問の最後にとっても印象に残る出会いがありました。

ゼミ・イェネスさん。



彼女は、自閉症、という障がいを表現する言葉が彼女たちの使うエチオピアの公用言語、アムハラ語になかったため、自閉症のその英語名、Autism(オーティズム)をそのまま“オーティズム”、としてエチオピアの社会に紹介した人です。

そして、彼女は、言葉を紹介しただけでなく、エチオピア初の自閉症児のための学校、J-CCARDD (Joy-Center for Children with Autism and related Developmental Disorders) を2002年に開設し、現在も活発にその活動を進めています。

ところが、彼女の本職は美容師で、アディスの街に美容師養成学校を経営するビジネスウーマンです。その彼女がどうして、自分たちの話す言葉の中にその名前すら、定義すら、存在しない「自閉症」を紹介し、学校を始めたのでしょう。

それは、彼女が自閉症児を持つ母親だったからです。

J-CCARDDのパンフレットには、そのセンター設立の由来が彼女と彼女のお子さんの物語と絡めて紹介されています。彼女自身も最初のころ、自分の子どもの障がいを認めたくない時期があったそうです。つらい時期を経て、彼女はエチオピアの自閉症を持つ子どもたちのために、このセンターを設立する決意を固め、がむしゃらにその先頭を走ってきました。

エチオピアの社会では、まだまだ自閉症に対する理解が圧倒的に足りないそうです。残念なことに、その無理解は、医療関係者、教育関係者にもおよび、きちんとした形で「自閉症」と診断されることのほうが珍しい、ということです。

私は、これまでも途上国に暮らし、各地で障がいを持った人たちにも会ってきました。ポリオなどの障がいを持つ人が、かなりの年季が入った車椅子を操る様子なども見てきています。また、多くのアフリカの都市で、障がいを抱えた人に物乞いをされた経験も頻繁にあります。

ところが、彼女との出会いで、そういえば、自閉症のような障がいを持った子どもや大人には、あまり出会ってきてこなかったことを思い出しました。

でも、街であまり見ないから、よく声を聞かないから、彼らが存在していない、と思うのは間違いでした。

彼らはいたんです。

このポスターを見てください。




ここに書かれているのは、自閉症の子どもたちを自由にしてあげて、というメッセージです。

ゼミさんに聞きました。本当に子どもたちはこうやって写真のように鎖につながれているのかと。

「残念ながら事実です。エチオピアの多くの人たちにとって、彼らの症状はまったく理解できないものなのです。奇声を上げる、コミュニケーションを取れない、行動を予測できない、といった行動を繰り返す彼らを危険から守るため、また、他の人からの批判を避けるため、彼らは自分の子どもたちをこうやって紐や鎖で縛り付けているのです」

ゼミさんにとって、自分の子どもの自閉症という障がいに向き合うことは、他の多くのこの障がいを持った子どもたちの現実を知ることにもなりました。現在、J-CCARDD在校生は40名。今の体勢ではこれが精一杯、ということですが、なんと、この学校に入学したい、と待機リストに名前を載せている子どもは、2008年4月現在350名もいるのです。

多くの、声も上げられない、暗い部屋の中で閉じ込められている子どもたちのことを考えると足がすくみます。どれだけの絶望の中にいるのでしょう。そして、そのそばで声を殺して泣いている母親の姿も見えてきます。残念ながら、エチオピアでは、いまだに、障がいを持つ子どもを生んだ母親が、夫から離縁される、という話を聞きました。

「生きる権利」という言葉を知っていますか。
「基本的人権」とも言われます。

この世に生まれてきたからには、誰にでも与えられるべき権利です。障がいの種類とか、程度とか、またまた経済的な状況とかに左右されるべきものでもないはずです。でも、いま、この同じ地球で、障がいを持って生まれてきた子どもたちが、紐で、鎖で縛られて、暗い部屋で泣いている、という現実があることも事実なのです。

重くて辛い現実です。

「知りたくなかった」
と思いますか。

「自分には関係ない」
と思いますか。

私はそうは思いません。

そして、同じ女性で、私と同じような年頃のゼミさんが、こうやってエチオピアの子どもたちに光を与えようとして活動する姿を頼もしく、嬉しく思います。私も精一杯、彼女を応援しようと思います。


幸せな子どもたち [2008年04月07日(月)]
 
日ごろ、

「ああ、私は幸せだなあ……」

と、思うのは、世界各地にその名前を口にするだけで、暖かい気持ちになることができる友人や知り合いがたくさんいることです。

その地に駐在する外国人として、外国人同士の付き合いもたくさんありました。でも、現地の人たちからも多くのことを学びました。

その中、途上国暮らしをしていく上で、どうしても避けられないのが、現地のお手伝いさんや庭師、運転手さんといった家で働いてくれる人たちとの人間関係です。

日本では、「自分のことは自分でする」という考え方が一般的。でも、途上国で暮らす日本から来た私たちには、どうしてもその経済格差から、自分たちの身の回りの世話をしてくれるスタッフを雇用することが求められている場合があります。

我が家もリベリアを皮切りにさまざまなスタッフとの出会いがありました。そして、私たちはどれだけこの現地のスタッフに恵まれてきたことでしょう。

私夫婦が心がけたのは、心をこめて働いてくれているスタッフには、私たちが駐在を離れたあとも他の家庭で喜んで雇用してもらえるような特技を身につけてもらうことでした。例えば、夜勤の門番をしていた人に車の免許を習得してもらい、運転手という技能職に職種替えを果たした人も数人います。

ツァハイは、私たちがアディスで生活していた時の我が家のお手伝いさん。いや、お手伝いさん、というよりも我が家の二番目の子ども、ショウコの第二の母、と言ったほうが正解だと思います。

生後三ヶ月でアディスに連れていかれたショウコはエチオピアの主食のインジェラをマッシュしたものが“離乳食”というなかなかディープなアフリカ食生活を経験してきています。それもこの“第二の母”ツァハイのおかげです。


姪のHannaとともに。ツァハイはいま、
薬剤師になるために夜間の大学に通っている。

今回の私たちのアディスアベバ訪問の大きな目的は、カンジ、ショウコに、自分たちの育ったこの地をもう一回見て欲しい、ということの他に、自分たちが幼いときに係ってくれた人々に再会してもらいたい、という母の願いが強くあったのです。

私は子育てにおいてつくづく「大切だなぁ」と思っているのが、子どもたちに与える、両親以外の、できれば血のつながりのない他の大人たちの影響なのです。

昔の日本にも、遠縁のおばさん、とか、親戚のつながりの友人とかが、同じ家の中に住んでいるような時代もありました。いわゆる大家族制度の元では、誰がどうつながっているのか理解できないような関係の大人が、子どもたちが育つ周りにごちゃごちゃといたと思うのです。

そういった一見混沌としたような人間関係がどうして子育てに必要なのでしょう。

もちろん、人間が多く集まれば、肯定的なことも否定的なこともあるのは世の常。でも、それを差し引いたとしても、子どもにとって、両親や祖父母以外の人間から、「ああ、自分は愛されている、大切にされている」という思いをもらえるのはとっても幸せなことだと思うのです。

母の愛は母の愛。
父の愛は父の愛。
祖母の、祖父の愛は、またそれぞれ。

そして、他人でも、心のつながり方一つで、

「ああ、私はこんなにこの人に可愛がってもらっているんだ」

という嬉しい実感にくるまれることの素敵さ。

もちろん、それが起こるためには、家族以外のそれらの大人も、その家に居ること、またはその家族に係っていることに対する充足感や満足感が必要であることは当然のことですが。

今回、12年ぶりに再会したツァハイとショウコ。

ショウコに会った瞬間にツァハイの目にあふれて、止まることの無かった大粒の涙がすべてを物語っていました。

12年ぶりに会った、ということは、別離の際、ショウコはたったの2歳です。ですから、当のショウコ自身はその当時の記憶として、自分とツァハイの関係を覚えていることはないはずなのです。彼女がツァハイを覚えているのは自分の経験から、というよりも私たち家族のするツァハイの思い出話から、と言ったほうが正確でしょう。

でも、ショウコは、ツァハイの

"Do you remember me?"--- 私を覚えていますか?

という質問に、何回も自信をもって、

"Yes, of course!" --- もちろん!

と答えていました。

でも、今回の再会で、ショウコはショウコ自身、自分がどれだけこのもの静かで聡明なエチオピア人女性に愛されていたか、ということを実感したと思います。


ショウコ、エチオピアにて。
もうすぐ14歳。すべてにおいて徹底的なポジティブ娘。
14歳にして、足のサイズがもう27センチ近いのはどうして?

自分が人に愛されている、と感じることができるのは、その人にとって、何よりの心強い応援ではないでしょうか。

私は途上国に住んできたことで、自分の子どもたちがこうやって、多くのアフリカ人に愛されてきたことを何よりも嬉しく思っている母なのです。


エチオピアで再会した人たち
皆さん、お世話になりました

エチオピアの美味しいコーヒー [2008年03月31日(月)]
 
香り高い街角のコーヒー。
コーヒーの香りに和む食卓。

これは欧米や日本のような先進国だけの話ではありません。

エチオピアの首都、アディスアベバには、いたる所にブンナ・ベット(コーヒー・ハウス)があります。また、各個人の家でも、人が集まれば、すぐ、コーヒーのおもてなしが始まります。


現地の人でにぎわう街中のカフェ。
生の豆やローストした豆も買える。現地の価格で
1キロの生のコーヒー豆は2008年3月現在400円程度

エチオピア人は、コーヒーはエチオピアが発祥の地と信じています。実際、紀元前にコーヒーの実をつぶして携帯食にもしていた文献もあるようです。

エチオピアの州の一つカファ州でヤギ飼いの少年が、ヤギがこげたコーヒー豆を食べると興奮状態になるのを目撃してから、という“コーヒー発見”の話はたくさんのエチオピア人に聞かされました。

そして、何よりもここエチオピアにコーヒー文化が色濃く残っていること自体がエチオピアとコーヒーの深くて長い関係を物語っていると思います。

まず、あなたがエチオピア人に「コーヒーでもどうですか」とお誘いを受けたら、最低でも2時間から3時間はその後の予定を入れてはいけません。

エチオピアでコーヒーはブンナ、と呼ばれます。
そして、ブンナを客人に供するためには、ブンナ・セレモニーが必要なのです。

ブンナ・セレモニーの最初は、まず、生のコーヒー豆をお客に見せることから始まります。

「この豆でいいでしょうか」

客は、もっともらしく、

「はい、結構です」

と答えます。

そのあと、ホスト側は豆を焙煎します。小さなブリキのおなべにコーヒー豆を入れたものを炭火でローストしていくのです。そして、香ばしく焙煎が終わって、煙が出ている状態のコーヒー豆をまたまた客に見せに来ます。



「焙煎状態はこれでいいでしょうか」

客はまたまた深く頷き、

「はい、大変いいですよ」

と答えます。

その後は、この豆を棒でつぶします。そして、エチオピア・コーヒーを淹れる独特のポットで温められている水の中に、いま砕いたばかりのコーヒー豆を入れて、炭火でポット全体を温めていくのです。



そうして、しばらくするとコーヒーがポットの下に沈殿します。そのポットをゆっくりかしげて小さめのカップにコーヒーを入れれば、香り高きエチオピア・コーヒーの出来上がりです。



この小さなカップには最初からたっぷり砂糖が入っていることが多いので、砂糖を控えたい人はあらかじめホスト側にそのことを伝えておく必要があります。

こうやって淹れてもらうコーヒーがいかに美味であるか。強い香りと深い苦味のコーヒーを口にすると、遠い昔のヤギ飼いの少年に感謝したい気持ちになります。

また、ブンナ・セレモニーでは、床に花を敷き詰めたり、松脂のお香を焚いたり、その場を整える様式にも伝統的なルールがあるようです。



客人をとにかく大切にするエチオピア人。特に今回の私たちのように何日も宿泊すると、実は、毎食後にこの「コーヒーはいかが」と誘われるのです。もちろん、そのあとに用事が入っていなければ、ありがたくお受けします。毎回の食事のたびに、この豆の焙煎から始まるコーヒーによばれる贅沢さはどうでしょう。こうして手間隙をたっぷりかけていただくコーヒーは私たちをゆっくりと別の世界に誘ってくれるようです。

家に帰ったら、せめてコーヒー豆は挽いたものではなくて、直前に挽くようにしよう!と決心しました。

エチオピアのブンナ・セレモニー。日本の茶道にも通じるものがありますね。

12年ぶりのエチオピア [2008年03月24日(月)]
 
「この人たち、どうしてこんなにボクたちに親切にしてくれるの?」

が、今年19歳になる息子カンジが最初に発した言葉でした。

私たちはいまエチオピアを訪問しています。


エチオピアのコーヒーセレモニー


私たちに親切をしてくれている人たちとは、私の友人のエチオピア人ご家族です。ずうずうしいことに、私たちは、この日本人の友人の12年ぶりのエチオピア訪問に便乗させてもらっているのです。

私たち家族は1993年から1996年にかけて、エチオピアの首都アディスアベバに滞在していました。ショウコは、生後3ヶ月でエチオピアに連れて行ったので、彼女の人生の最初の日々はこのアディスで始まった、と言っても過言ではありません。

さて、この友人とは、エチオピア人の夫を持つ日本人女性、ヨシコさん。二人のお子さんとともに、現在は英国に住んでいます。彼女の夫、エフレムは、仕事の都合で英国とアフリカを行き来する毎日です。


アディス市内のセントメリー教会


同じような年頃の子どもを持つ私たちは、お互いがエチオピアに滞在している時に知り合い仲良くなったのです。そして、偶然なのですが、彼女たちも私たちもちょうど12年前にエチオピアを離れました。彼女たち一家はネパールへ、私たちは日本へと移動したのです。

私たちが日本での仕事を整理して、南アフリカに移住した理由の中のひとつに、アフリカの各国で知り合った人々のつながりがあります。

アフリカでの人と人とのつながりは、先進国で住む人にはもしかしたら、“わずらわしい”と感じるようなものが含まれているかもしれません。または、密度が濃い、とも言えるかもしれません。

今回の私たちの訪問でも、私たちはこのテゲレ一家の兄嫁の友人、ということだけで、上げ膳据え膳の大歓迎を受けているのです。

「ヨシコの友人は私の大切な客人です。ここでの滞在を心から楽しんでください」

とのテゲレの一言。良くも悪くも家長制度がまだまだ色強く残っているエチオピア。私たちは、ただただ単純に、兄嫁の友人、ということだけで、本当に冒頭のカンジのコトバ、

「この人たち、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

という大変幸せな毎日を送らせてもらっているのです。しかも、朝昼晩、美味しい自家製インジェラ食べ放題というおまけつきで!もちろん、この一家に私の友人ヨシコさんがいかに大切にされているか、ということを忘れてはいけませんが。

実は、エチオピアを訪問した目的のひとつは、ずばり、こういったアフリカの人々の生活を子どもたちに実際に見て欲しかったからです。


テゲレ家の末娘ミトゥ


今回、ホテルに滞在することもできたのですが、ホテルに滞在してしまうと、現地の普通の人の生活が見えてきません。もちろん、テゲレ一家は裕福な開業医ですので、テゲレ一家が一般的なエチオピア人家庭かというとちょっと語弊がありますが。

でも、一家が、お父さんのテゲレを中心に、早朝から深夜まで一定のハーモニーを保ちながらそれぞれの役割を機嫌よくこなしているのがよく分かります。皆が自分の一族の中での役割に充足しているかのようなハーモニーです。

まだ数日しか滞在させてもらっていないのですが、このリズムは南アフリカで核家族として生活している私たちには味わえない種類の心地よさのような気がします。

どの家族にも問題はあるでしょう。テゲレ一家にも、私がうかがい知れない悩みだってあるでしょう。でも、ここには、ご主人を亡くされた、テゲレの奥さんのお姉さん一家も自然に一緒に住んでいます。また、テゲレの病院で働く多くのスタッフが始終出入りしています。

血のつながりのあるかどうかは関係なく、皆の関わり方が本当に自然で、大きな傘の下で、ひとつの家族としての揺ぎ無い“核”が確立されているようなのです。

我が家の二人の子どもたちはこういったアフリカの多くの善良な人々に、様々な形で関わってもらいながら育ちました。私は、先進国の都市ではもうめったに見ることができないこういった家族のあり方を、今年19歳と14歳になるまでに成長した彼らにぜひもう一回身近で体験して欲しかったのです。

ジンバブウェ・ドル、無茶苦茶! [2007年06月11日(月)]
 
子どもたちの復活祭の休みに合わせて久々の家族旅行。今回はジンバブウェ側のビクトリア瀑布とその瀑布から90キロ離れたボツワナのチョベ野生動物保護区へ行ってきた。

ジンバブウェ、かなり状況がひどい。何がひどいかというと、世界各国から非難ごうごうの独裁者ムガベ大統領(83歳)の政権がもう本当に崩壊直前。現地の人の話では、もう5月の終わりまでには終焉を迎えるだろう、などというコメントも。2004年に首都ハラレを訪れたときにはこういったコメントはまず聞かなかった。ムガベさんは恐怖政治を強いているので、政権の批判やら悪口を当局に聞かれたら、牢屋行き、ということもありえるからだ。

ここ10年ほどやりたい放題のムガベ大統領。白人農場主を追い出した結果、農業生産は地に落ちているし、他の産業もほとんど機能していない。かつては“アフリカの宝石”とまで言われた美しい国土が荒れ果てている。

その中でもこの国の通貨の混乱振りは突出していた。日本などの先進国に住んでいると、外貨の両替は銀行でする。途上国でも大体そうなのだが、いわゆる闇レートが銀行レートとかなり幅がある場合、これを法律に沿ってきちんと両替していると、とんでもないことに……。

ジンバブウェの現在がまさにこれ。公定レートでジンバブウェ・ドルを買ったりしたら、日本円で約3千5百円のツアー参加費に必要なお金でさえ、約14万円もしてしまう。

だから、外国人はすべての支払いを外貨でするように言われる。外貨を両替するときは銀行ですること、とも決められていて、ちょっと高額な支払いを現地通貨でするときは、銀行で両替した際のレシートを求められる。だから、闇で両替するのはほとんど不可能。でも、市場の実勢レートと公式レートに何と約40倍もの開きがあるのだ。

具体的に食事を例にとってお話ししよう。

今回の旅行は我が家の4人と甥姪で合計6人。この6人が町のレストランで“ザザ”と呼ばれるメイズミール(玉蜀黍粉)を、牛肉をトマトベースで煮込んだシチューと一緒に食する料理を食べてお代は940,000ジンバブウェ・ドルなり!

これを公定レートで換算すると、「ひょえ〜!」と叫ばざるを得ない3,760ドル(約45万円)。が、レストランにはレストランレート(10,000ジンバブウェ・ドルが1USドル)があるのだ。このレストランレートでこの価格をドル換算すると、US94ドルということになる。これでもかなり高い。

でも、46万円よりはましなので、ウエイターがいそいそ闇レート(闇レートは20,000ジンバブウェドルが1USドル)に交換して、50ドル近い現金をポケットに入れるのを忸怩たる思いで眺めるしかない。「チップは意地でもやらないぞ!」と鼻息を荒くするくらいが関の山なのが悔しい。

そして、このオチは、次の日に食べた夕飯。前日の観光客用のレストランではなく、ガソリンスタンドの横でひっそりと営業している地元の大衆食堂。な、なんと、前日の6ドル分のおつりの現地通貨(60,000ジンバブウェ・ドル)で6人分のほぼ同じ内容の食事が食べられたのだ。しかも、味はこの大衆食堂の方が絶対に勝っていた!

恐るべし、ジンバブウェ・ドル。でも、これじゃあ、観光客は楽しめないよね。




◎世界三大瀑布のひとつ、ビクトリアの滝(ジンバブウェ側)


プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。