吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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泣きました [2008年09月08日(月)]
 
本を読みながら泣きました。
……さめざめと。

でも、残念ながら、本の内容に感動して泣いたのではないのです。

ちょっと写真からは見えにくいかもしれないのですが、ページが、64から89まで飛んでいます!これまで、それこそ、数え切れないくらい本を読んできていますが、こんな大胆な落丁に出会ったことがありません。



ひ、ひどすぎます。

実は、読書は、私の数少ない趣味のひとつで、仕事をしているか、寝ているか、食べているか、……以外の時間は、できれば本を読んでいたい、と言っても大げさでないくらい、私にとって、本を読むのはものすごく大切なことなのです。

私の読書ゴールデンタイムは朝と夜のお風呂の時間です。その日の気分でバスオイルや入浴剤を入れたお風呂にゆっくりと入りながら、だいたい4日か5日かけて一冊の本を読んでいきます。ここは南アフリカ・ダーバンですから、日本語の本はめったに手に入りません。ですから、普段、私が読む本は英語の本です。

正直言って、「英語を勉強してきてよかったなぁ」とつくづく感じるのは、英語での本が楽しめることかもしれませんね。でも、さすがに、日本語を読むのに比べたら時間がかかるので、本の値段の高い(ペーパーバックで約2千円弱)南アでは経済的にもちょうどいい、というおまけつきです!

私の本の読み方は作家中心です。だいたい、2、3名のご贔屓がいて、彼、彼女たちの新作を目ざとくキャッチして読んでいきます。

そんな私がいま、愛読しているのは、米国の作家のHarlan Coben、とJ D ROBB、それからアイルランド出身(子ども時代はケニアで過ごす)の姉妹Barbara and Stephanie Keatingです。特に、最後のKeating姉妹、驚くべきことに、これまで出版した三冊(To My Daughter in France, Blood Sisters, A Durable Fire)を二人で執筆しているのです。誰がどこを担当したかもまったく不明。私はこの最後の二冊、ケニアが英国から独立した直前直後の物語を夢中で読み終えました。




この壮大なスケールで語られるアフリカの物語に、「本よ、終わるな!」と叫びたいほどのめり込んで読んでいました。登場人物の深みとか、アフリカで生活したことがないとなかなか共感できないような人種間の葛藤などが見事に描かれていました。この本の紹介はまた改めて。

で、デトックスではないのですが、このように濃密で、壮大なスケールの小説にどっぷりつかったあとは、何と言っても Harlan Coben のサスペンスで頭の切り替えをします。

Cobenの本は二種類あります。ひとつは、Myron Boliter というスポーツエージェントの周りで起きるサスペンスです。もうひとつは、一冊づつ完結のこれまたサスペンスです。Cobenの小説は、最後の数十ページしかないのに、まだ物語が展開しそうな気配にドキドキしながらページを進めるようなスピード感が楽しめます。Coben の本のお話もまた次の機会に。

さて、今日の本題に戻ります。

朝もまだ暗いうち、お風呂の中で私がさめざめと泣くくらい悔しかった落丁のあった本の紹介をしましょう。なんと、この小説、シリーズの26作目です。もちろん、フフフ、全部読んできています。



私にとって、もうこの物語の中の登場人物は家族のようなものです。毎回、「あの人はどうなっただろう、彼とあの彼女の関係はまだ大丈夫だろうか」と真剣に心配しながらページを追っていきます。

だから、私の所属するブック・クラブの友人たちに揃って、どんなにこの作者のことを馬鹿にされようと、私は何とも思いません。屁の河童です。だって、もう家族同様の登場人物ですから、親戚のおばさんが彼らのことを読んでいるようなものなのです。

でも、どうして、このJ D ROBBが一般の本読みという人から馬鹿にされるかというと、彼女は別名、Nora Roberts といって、何と、ロマンス小説!の女王なのです。

日本語にも彼女のロマンス小説は数多く翻訳されているはずです。実際、彼女の他の小説も何冊か読んでみましたが、登場人物は全員が世紀のハンサム、美女。そして、ヒロインかヒーロー、どちらかが暗い過去を持ち、そこに絡むのが、お金持ちで心優しいヒーローか、ヒロイン。この典型的な設定は数冊でちょっと食傷気味になります。

でも、このDeathシリーズは違うのです。これは、近未来探偵小説、とでもいいましょうか。作品の舞台は2060年のニューヨークです。かなり悲惨な過去を持つNY市警の警部補イブ・ダラス。彼女の夫は、大富豪のローキー。彼もアイルランド出身のかなり危ない橋を渡ってきた男です。

この二人を取り巻くのは、NY市警の部下とか上司、ローキーの豪華絢爛な家の執事とか、イブの親友のロック歌手メルビスとその夫、愛娘、それから、NY市警の心理学者であり犯罪プロファイラーのミラ博士とその夫……。

こういったカラフルな登場人物の出会いからその関係の進み方などが、毎回起こる殺人事件に絡めて書き込まれているのです。このシリーズは、その名もずばり、Death シリーズ。一巻目が Nacked in Death で、そのあと、最後の Stranger in Death まで本当にいろいろな“死”が描かれています。


シリーズの中のベストは何かな〜と考えてみれば、
これです!この Origin in Death をお勧めします!


また舞台の設定が2060年のニューヨークなので、その時代のファッションとか、警察の捜査の方法とか、はたまた社会の不安やら幸福感、ついでに、住宅事情など、これでもか、これでもか、と作者の尽きることない2060年頃の世界を想像する力に毎話感心します。

これはまったくの夢物語。でも、胸がキュンとしたり、苦しくなったり、読んでいて時間を忘れてしまいます。

どんなに仕事が忙しくても、夜寝る前に30分、朝起きて30分、この世にこの楽しみがある限り、私はがんばれますねぇ。日本の萩尾望都などのSFまんがにも唸りますが、この近未来探偵小説、まだまだシリーズは終わりそうになく、一年に二回のペースで発表される新作が楽しみです。

それから、久しぶりの本の話題ですので、もうひとつおまけです。

皆さんは、『エラゴン』というファンタジー小説を読んだことがありますか?これはクリストファー・パオリーニという若干21歳の作家の書いているドラゴン・ライダーの話です。第二作目が『エルディスト』。そして、なんと三部作の最後の作品、『ブリシングラ』が全世界一斉に9月20日に発売になります。

『エラゴン』は映画にもなっていますが、この映画はまったくの失敗作。原作の100分の1の魅力もありません。皆さん、ぜひ、原作を読んでみてくださいね。その想像力と筆力は、かの『ハリーポッター』にも匹敵するくらいです。いや、正直に言うと、ファンタジーとしては『ハリーポッター』の上を行くかもしれません。この第1部作をパオリーニが書いたのが、彼が16歳のとき、というのもすさまじい話です。

ああ、本当に、“本”って、素敵です。


ザ・メモリー・キーパース・ドーター [2008年02月18日(月)]
 

ザ・メモリー・キーパース・ドーター
(The Memory Keeper’s Daughter)
キム・エドワーズ(Kim Edwards)著


誰でも、「あの時、どうしてあんなことをやったんだろう」と、回顧する思い出のひとつやふたつはあると思う。

この本は、まさにこの、「あの時、どうして……」の物語だ。

まず、物語設定は1964年の米国のケンタッキー。私は1958年の生まれだから、この物語のとき、ちょうど小学生になっていた。この本で、この時代、米国でダウン症を持って生まれた子どもたちの多くは、親から離されて専門病院に隔離されていた、という事実を知った。日本はどうだったんだろう。

主人公の医師、デイビッドは産科医ではないが、いろいろな偶然が重なった吹雪の夜、自分たちの初めての子どもを自分で取り上げることになる。超音波などが診察に使われる前の時代のせいなのだろう、彼の妻ノラも自分もノラが双子を妊娠していたことを出産するまで知らなかった。第一子は障がいのない男の子。その数分後に生まれた第二子、フィービーがダウン症だった。

デイビッドには心臓に障がいを持って生まれ、若くして亡くなった妹がいた。家族の中に、先天性の疾患を持つものがいることの、どうしようもない切なさ、苦しさを誰よりも理解している、と考えたデイビッドは、フィービーが生まれたその瞬間に、彼女の存在を自分の妻の前から抹消することを決意した。彼は妻に、「女の子は死産だった」と伝えたのだ。米国では、この時代から、当然のように産婦に麻酔をかけていたことにも驚かされた。最後のいきみのところで意識がないから、自分が生んだ子どもをその場で確認することができない、という驚きの事実。

そのとき、デイビッドの助手をした看護婦は、デイビッドを秘かに慕っていたキャロラインだった。キャロラインは、デイビッドに、フィービーを遠く離れた隔離病院に連れていくよう指示された。キャロラインはデイビッドを慕うが故、彼のこの判断に従ってしまった。だが、その隔離病院の現実を目の前にして、彼女にはフィービーをそこに置いてくることはできなかった。彼女はフィービーを自分の娘として育てることにしたのだ。勤めていた病院も辞め、アパートを引き払い、離れた町でシングルマザーとして。デイビッドに自分たちの居場所を知らせることもなく。

こうして、吹雪の晩に生まれた双子はお互いの存在を知らないまま四半世紀を過ごす。

だが、人間がここまで作為的に人の人生を操作してしまうと、結局、その操作した人生に翻弄されるのは避けられないことなのかもしれない。妻を守るため、という一心でフィービーをノラから遠ざけたデイビッドは、このあまりにも巨大な秘密を自分で抱えるがため、ノラと自分の間にどうしても超えることのできない壁を作り出してしまった。

ノラとデイビッドは毎日、毎日、お互いから離れていくようになる。その乖離は、双子のもう一人ポール、にも影響を及ぼす。彼は両親の見えない”距離“に苦しみ、孤独感を深めていく。

ついにデイビッドとノラは離婚し、デイビッドはその数年後に亡くなる。その後、ノラとポールは、フィービーの存在を知り、四半世紀を経てフィービーのこれまでのシンプルでありながら、充足したこれまでの人生を知ることになる。キャロラインとフィービーは、大変な日々の苦労を抱えながらも、”シアワセ“な人生を送っていたのだ。アル、というキャロラインのしたことをすべて受け入れてくれた夫、フィービーにとっては育ての父にも見守られて。

確かに、多くの場合、障がいを持った子どもを授かる、ということは突然やってくるのかもしれない。出産前にかなりのことが分かるようになった現在でさえ、出産して初めて、思いもしなかったわが子の状態を知る人たちもいるだろう。

私も、自分が何年かの不妊治療のあとに授かった上の息子を妊娠中、自分自身に問いただしたことがあった。自分の子どもにどんな障がいがあっても、自分はこの子どもを受け入れる心の用意が整っているか、という当時30代前半だった私の自分自身への問いだ。

私はそのとき、
「いいよ、どんな状態でもいいよ。わたしたちのところにおいで。一緒に楽しく生きて行こうね」と、心の底から思えたのだ。

この物語の投げかけるものは決して小さくない。人の存在を受け入れる、ということにかかってくる大きな責任。だが、もしも、「運命」というものがあるのなら、私たちはそれから逃げられないのかもしれない。そうだとしたら、目の前にある状況が、どんなに困難なことに思えても、目をつむって“ど〜ん“と引き受ける、というのも案外一番、理にかなったことなのかもしれない。「先の心配をいまからしても仕方がない」と、思えるかどうかも大きな要素だ。

妻のために、よかれ、と思ってしたことで、自分の人生をまったく思いもよらない方向へ導いてしまったデイビッド。悲しい、切ない彼の選択に一番苦しめられたのは彼自身、という事実が重くのしかかる。


『ハリー・ポッターと死の秘宝』 [2007年08月21日(火)]
 
ハリー・ポッターの愛読者、そしてまだ愛読者になっていないみなさまへ

この二年間、私はJ.K. Rowling に腹を立てていた。いや、「腹を立てていた」では私のあのときの感情は表現しきない。正直、二年前、ハリー・ポッターの第六巻、Harry Potter and the Half-Blood Princeを読み終えたときの私は、彼女に対し激怒していたのだ。三日間ほど、車を運転しながら、料理をしながら、買い物をしながら、原稿を書きながら、ぶんぶん、頭から湯気を出して怒っていた。

何故か?

それは、ハリーに取って父親以上の存在だった、魔法学校の校長、アルバス・ダンブルドアを、J.K. Rowlingが最終巻を待たずに第六巻で殺すのかが理解できなかったのだ。わずか1歳でハリーは両親を、ダークマジックで世界を支配しようと企むボルディモートに殺された。



そして、このハリーこそが、ボルディモートの魔手から逃れた唯一の魔法使いだったのだ。その後、魔法学校に入学できる11歳になるまで、ハリーは彼の存在を忌み嫌う親戚、魔法使いではないドゥーズリー家に、蔑まれながら育てられた。

しかも、彼の魔法使いである、という生い立ちも、彼の両親のことも何も知らされずに。だが、ハリーは心に傷を負いながらも、優しい、冒険心に富む、友達思いの少年に育っていた。実際、ハリーに次々に襲い掛かる出来事はかなりひどい。でも、ダンブルドアはそのハリーをガイドしてくれる大きな存在だったのだ。そんなハリーからダンブルドアを奪い取るのはあまりにもひどいじゃないか!と怒っていたのだ。

それに、私はこの最終巻を読むまで、ハリーの両親の享年を意識していなかった。が、何とジェイムス、リリー・ポッターは31歳の若さで殺されたのだった。若い。若すぎる。物語の中であっても、実際の出来事であっても、若い人たちの死は本当につらい。

だが、この最終巻、『ハリー・ポッターと死の秘法』を読んで、心の底から納得した。ああ、ダンブルドアの死もこういうことだったのか、と。JK Rowlingの意図がよく分かった。ダンブルドアが何で死ななくてはいけなかったか、また、何でよりによって、生前のハリーの父を忌み嫌う魔法学校の教授スネイプにダンブルドアが殺されなくてはいけなかったのかがよく理解できた。どうして、スネイプがあそこまでハリーの父親を嫌ったかという理由とともに。

J.K. Rowling、あなたを許そう。ダンブルドアを殺したのはそういうことだったのか。

そして、私はこの七巻に及ぶハリー・ポッターの各巻で、ハリーを取り巻く主人公たちの言葉に心が震えるほどの感動も味わっている。この最終巻での圧巻は、ハリーの気の優しい友人、ネビル・ロングボトムの言葉だ。

ハリーとその仲間のロンたちがボルディモートたちの魔手から逃げるために姿を隠している最中、ネビルたちはダンブルドアのあとスネイプが校長となった魔法学校で必死の抵抗をしていた。いまだに、厳しい英国系の学校でなら行っているであろう罰則、 Detention。通常は、部屋の掃除とか、「申し訳ありません」を何回も書く、とかだが、なんと、ネビルたちのDetentionでは、魔法を使って身体を痛めつけることまでされていたのだ。

だが、そんなことに負けずに、学校を支配する悪に立ち向かうまでに成長したネビルが素晴らしい。彼は、幼い頃から、間違っても「勇敢な」という形容詞がつくような少年ではなかった。だが、この最終巻での彼の活躍はまぶしい。ボルディモートの化身のような存在の大蛇、ナギニを最後にしとめたのもネビルだった。

そして、彼の言葉。

「ハリー、君がどんなに大きな相手にでも、立ち向かって行ったことを僕は覚えているんだ。そして、それがどんなに他の人に希望を与えるか、ということもね」

勇敢に死んでいった両親と、彼を育てた厳しいおばあさんの影でおびえていたネビルの見事な変身。ネビルは第一巻から、気の弱い、スネイプなどの厳しい教授陣の前でびくびくする少年として描かれていた。だからこそ、私は彼のこの言葉を読んで、さめざめと彼の成長ぶりに泣いてしまった。

2007年7月、ハリー・ポッター最終巻が発売されたこの月は、たまたま仕事が超繁忙期だったのだが、それこそ眠る時間を惜しんで入手後1週間で原書600ページを完読。ハリー・ポッターに関しては、いろいろな意見があることも知っている。南アに限らず、キリスト教の信者には、「魔法を使う物語」ということで子どもにこの本を禁止する家庭もあるという。

個人的にそれは残念だと思う。私は新しい世界を知りたい。想像の世界に遊びたい。見知らぬ習慣に驚きたい。私は、書物が、物語が、その読後に広げてくれる心のあり方に驚嘆するからこそ、大人でも子どもでも、自由に貪欲に、違う世界を楽しんで欲しいと思うのだ。

大げさな私は、ハリー・ポッターの読後の興奮から、紫式部、シェイクスピアから、ディッキンソン、そして最近ではエラゴンの作者、パオロニまで、すべてのストーリーテラーたちに感謝したくなった。お礼にみんなを我が家の食事に招待して、ダーバンの取れたての魚で太巻きのお寿司でもご馳走したいものだと考えて、幸せな気分になっていた。


『カイト・ランナー』&『A thousand Splendid Suns』 [2007年07月27日(金)]
 
タリバンに捕らえられた23名の韓国の方たちの一人目の犠牲者のニュースを聞いて、いま、自分が読み終えたばかりのアフガニスタン出身の作家、カレド・ホセイニの二冊目の本をみつめた。



カレド・ホセイニは、米国に住む作家だ。彼の処女作『カイト・ランナー』はNYタイムスのベストセラーリストに64週も載り、全世界で300万冊を売った。2001年以降の欧米諸国で、アフガニスタン出身の作家が描くイスラムの社会がこれほどの読書を獲得したのは意味がある。CNNやBBCから流れてくる情報を見ていると、欧米社会のイスラム世界に対する誤解、嫌悪、恐怖心は政治的に煽られすぎている、といっても過言ではないと思う。

この『カイト・ランナー』は、スピルバーグ監督による映画化も進められているようだ。書物からでも、映画からでも、自分たちの日常と遠く、離れている世界のことを少しでも知る機会が増えることは単純にいいことだと思う。どうか、映画がこの本の世界を忠実に再現してくれますように。



本書の後半、アフガニスタン人が苦労もなくパキスタンに入国したり、主人公の幼いころ彼をいじめた張本人が、タリバンの中でも残酷な主要人物になっていたりして、やや強引なストーリー展開が気にはなった。しかし、本書は全体の構成が見事だ。イスラムの異文化に触れ、その習慣や人々の考え方に驚かされながらも、非イスラム教徒の私たちにも共通の、肉親の情、自分の損得を超えた責任、といった本書に流れるテーマに引き付けられていく。

そして、カレド・ホセイニの二冊目の本が、『 A thousand Splendid Suns』だ。まだ邦訳は出ていないので、あえてタイトルを意訳すると、「千の輝かしい太陽」とでもなるだろうか。このタイトルを理解するためには、物語をかなり読み進めなくてはいけない。この本の衝撃的な後半部分に救いがあるのは、このタイトルが二人の女性主人公の心情を見事に表現しているからだ。

だが、この本は日本に育った私にはあまりにも辛い本だ。

前半部分に登場する主人公の女性と私は一歳違い。私が小学校の校庭でバレーボールを懸命に練習していたころ、彼女は自分の出生ゆえ、学校へ通うことを許されず、ただ週一回の父親の訪問を楽しみにしていた。私が高校受験の合間にラジオの深夜放送で音楽を楽しんでいたころ、彼女は30歳も年の離れた男に嫁がされた。私が自分の子どもに乳を与えていた頃、彼女は自分の娘のような少女が自分の夫の子どもを産むのを助けなくてはいけなかった。私が職業的に充実した日々を送っていたころ、彼女はタリバンに公開処刑された。

私自身、数多くの文化圏で生きてきているからこそ、それぞれの人の人生を単純に比べることがいかに無意味か、ということは身にしみている。しかし、それにしても、『 A thousand Splendid Suns』に登場するアフガニスタンの女性たちの運命は厳しすぎるのだ。

タリバンが国際社会で知名度を持ったのは、そのあまりにも行き過ぎたイスラム崇拝の姿勢だった。女性の社会進出を徹底的に否定し、バーミヤンの大仏を破壊し、数多くの市民の平安を奪った。だが、タリバンの兵士たちも、アフガニスタンの国としての混乱の中から生まれた子どもたちだということが重い事実として私にのしかかる。

『 A thousand Splendid Suns』の中には、タリバンがアフガニスタンの市民たちに配布した「禁止事項」も書かれている。その中には、「異宗教を広める行いは処刑される」というものも含まれている。

私は暴力を絶対に肯定しない。が、暴力の嵐の中でその正当性をかざす人たちを説得するには、個人の善意や心情だけではどうにも立ち向かえないことも知っている。タリバンが一刻も早く残りの人質全員の解放をしてくれることを切に願う。

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。
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