吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日 [2008年06月23日(月)]
 
南アフリカの隣国、ジンバブウェが大揺れに揺れています。

以前にも、ジンバブウェで大統領選が行われたにも関わらず、政府の選挙委員会がその結果を公表しない、というとんでもない状態になっていて、国中が混乱している、という記事を書かせていただきました。

選挙結果そのものは、現職のロバート・ムベキ大統領が43.2%、最大野党であるMDC (Movement for Democratic Change)のモーガン・ツァンギライ議長が47.9%を獲得、と選挙後1ヶ月以上たった5月に入ってから発表されました。が、双方が過半数を獲得できなかったので、2008年6月27日に大統領選決戦投票が予定されていたのです。

ところが、今週に行われる予定だったこの選挙に出馬するのが現職のムガベ大統領のみのなりそうなのです。このままだと現職のムガベ大統領の五選が決まってしまいます。

この決戦投票が危うくなったのは、対抗馬のツァンギライ議長が、投票日のわずか5日前の6月22日に、この選挙への参加を取りやめる声明を出したからです。



どうして彼はこの決選投票から撤退したのでしょう。

それは、彼のスピーチが端的にその状況を説明しています。

“We in the MDC cannot ask them to cast their vote on June 27 when that vote will cost them their life.”

「我々、MDCは、我々の支持者に、命と引き換えに投票してくれ、とは頼めない」

彼のこの撤退の発表は、いくつかのアフリカのメディアで、「ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日」と報道されました。

2008年6月23日現在、今回の選挙中に殺害されたMDCの活動家は90名にも上ります。ムガベ政権は、警察、軍隊を操り、MDC に賛同しているジンバブウェ人に暴力や迫害を絶え間なく続けているのです。その結果、現在、ジンバブウェ人は、憲法で保障されているはずの集会の自由も、自分の自由な意思で選挙に参加する権利も奪われているのです。

20日、金曜日には、MDC 支持者の首都ハラレ市の市長夫人の遺体も発見されています。いろいろなサイトを確認してみると、暴力の被害にあった3歳の幼い子どもの写真まであります。その中には、拷問を受けたことが明白なMDC支持者の遺体の写真も掲載されています。

どうしてこんなことになってしまったのか。

欧米メディアのインターネットサイトでは日曜の午後から、ジンバブウェのこの動きをトップニュースで伝えています。もちろん、こういった報道で糾弾されるのはムガベ大統領です。確かに、ムガベ大統領がしていることは無茶苦茶です。

ただ、ここまで混乱してしまった背景も無視することは出来ません。

実は、ムガベ大統領、1980年代に政治的に登場した際は、英国から独立を勝ち取ったアフリカのヒーローだったのです。ゲリラ戦を戦った後の独立、そして、彼が西洋的教養も身につけた弁舌さわやかな新しいアフリカのリーダとして脚光を浴びていた彼を、そのころアメリカで学生をしていた私は、一種の憧れを持って彼のスピーチなどを読んだり、彼の講演を聞いたりしていました。

その彼がどうして自分の祖国を、自国の人々をここまで苦しめる独裁者になってしまったのでしょう。

残念なことに、彼は、政権に固執するあまり、政敵を抹殺したり、自分の一族で側近を固めたり、と政治を完全に私物化してしまったのです。

また、素朴な疑問として、今年86歳という高齢のムガベ大統領、どうしてここまで権力の座に拘るのでしょう。

実は、アフリカに暮らし、アフリカの政治をいろいろな形で見てきているものとして、この「どうして権力にここまで拘るのか」への答えはそう難しいものではありません。

ずばり、彼が権力の座から降りれば、彼のこれまでの数々の犯罪に対し、司法の判断が下されるばかりではなく、“大統領”という役職が無くなると、身辺のガードが低くなり、彼自身が殺される可能性も極めて高くなるからです。

彼の周りで甘い汁を吸いつづけてきた側近、家族、一族郎党も同じ運命です。これだけ長い間、権力の座にとどまる、ということは、彼の周りでこれらの恩恵に与ってきた人間の数も半端な数ではないのです。

つまり、彼が権力にしがみつく一番の理由は、彼と彼の一族の安全や命を守るため、だと言っても過言ではないでしょう。

そして、これは何もムガベさんに限ったことではないのです。アフリカの多くのリーダがこの同じ運命をたどっています。

ここまで書いてきて、いま、モーガン・ツァンギライ議長が、自分の身の安全を守るために、首都ハラレにあるオランダ大使館に避難した、との情報が流れてきました。彼の家族はもちろん、現在、ジンバブウェから脱出しています。

欧米、欧州連合、国連などが一斉に今回のこの成り行きに非難声明を出しています。ところが日本では、大したニュースにもなっていません。福田首相は、アフリカ支援の政策を、過日横浜で開催された、第四回アフリカ開発会議でも明確にアフリカの首脳を前に語っているのです。どうか、日本も含めた国際社会が、ジンバブウェへの圧力を高めて、この混乱が一刻でも早く収まることを願うばかりです。

これは、確かに、遠い、遠いアフリカで起こっている理不尽な政争です。でも、ジンバブウェで起きているから、自分たちに関係ないと思わないでください。ジンバブウェや、アフリカの他の地域の混乱が、回りまわって、日本やアフリカ以外の場所に住む、あなたの生活に関係しないとは絶対言い切れないくらい、私たちの住む世界は微妙に関連しあって存在していると思うのです。


ジンバブウェの素朴ながらも、味わい深い石の彫刻は有名。
国名の“ジンバブウェ”は、現地の言葉で、
「石の家」を意味する。

アフリカ大陸、90キロマラソン! [2008年06月16日(月)]
 
南アフリカ・ダーバンの最大級の行事の一つともいえるイベントが毎年6月に行われます。それは、知る人ぞ知る、“コムラッズ・マラソン”です。

このレースは1921年に開始されて以来、第二次世界大戦時の休止を除けば、毎年、ダーバンとピーターマリッツバーグという都市をつないで行われる全長90キロ近い“鉄人レース”です。

“コムラッズ”とは、そもそも「戦争を共に戦った同士」といった意味を持ちます。1921年のレースは、第一次世界大戦で亡くなった戦友の霊を慰めるために34名がこの距離を走りました。

私たち家族の住むWinston Park と呼ばれるダーバンから内陸に30キロほど入った地域も、このマラソンのルートの一つに入っていて、レース中は道路が閉鎖されてしまいます。



2008年6月15日、今年のコムラッズ・マラソンが行われました。今年の距離は87キロ。毎年、どこのルートを通るかで、若干の距離の違いがでるそうです。

偶数年の2008年は、ダーバン出発の上り坂のレースでした。港町ダーバン、つまり海抜0メートルから、ピーターマリッツバーグまで、時には緩やか、時には険しい、延々と続く90キロを約5時間半から12時間かけて走るのです。ちなみに、ピーターマリッツバーグの標高は720メートルです。

このレースには、全世界40カ国から毎年1万5千人もの人が参加します。もちろん、日本からも熱心なランナーの方々が大勢参加されるようです。今年も何人かの日本人ランナーとおぼしき人を見かけました。

風光明媚なこの地域を走るのはさぞかし気持ちがいいだろうなぁ、と思います。が、繰り返します、それにしても90キロ。ただ歩くのだって、並大抵の距離ではありません。

朝の五時半に出発して、到着地点にはその12時間以内にたどり着かないと失格、という厳しいルールもあります。もちろん、通過地点ごとにも規定時間があって、何時間かけても完走すればいい、といったものではありません。

しかし、皆さん、楽しそうです。



オーソドックスなランニング姿の人もあれば、奇抜な衣装を着ている人もいます。



今年はダーバンが起点の“上り坂”レースなので、私たちの地域ではまだ30キロを過ぎた地点です。この辺を通り過ぎるランナーたちの表情もそう苦しそうではありませんでした。



街道には多くの人が出て、ランナーたちに声援を送ります。南アフリカ人はスポーツ観戦が大好きです。ラグビーやクリケットの大きな試合があると、みんながテレビに釘付けになります。そしてこのコムラッズ・マラソンも、ピーク時には街道沿いに観戦している人とテレビでの観戦をあわせると、100万人にも上るとか。

さて、私はこのところ、ぐんと増えてきた、南アフリカ人らしい黒人ランナーの姿を見ると、つい涙腺が緩んでしまうのです。

実は、このマラソンを国際的なイベントにしたい思惑があった歴代の組織委員会は、人種隔離政策中でも、1975年からは全人種がこのレースに参加できるようにしました。これは、当時としては「英断」でした。なぜなら、人種隔離政策下では、黒人が白人と競うことは禁止されていたからです。また、この全人種参加を決行する際、それまで正式には参加を認められていなかった女性の参加も許可したのです。1975年は、全人種、そして女性たちも正式にレースへの参加が認められた最初の年だったのです。

現在、このレースに出るためには、南ア人の場合、きちんと参加資格を与えられた“クラブ”に所属していることが条件です。また、過去一年間の公式のマラソンのタイムも提出しなくていけないとか。つまり、このコムラッズ・マラソンは、日ごろからかなり鍛えこんでいないと参加資格さえもらえない、という由緒正しきものなのです。

南アフリカでは人種隔離政策以前でも、白人政府は、黒人や非白人を自分たちと同じ“人間”として認めてきませんでした。一般の白人南アフリカ人は、政策の一環として、白人だけが知性、教養を持つ人種である、と信じ込まされていたのです。多くの白人が、1994年以降の政府の方向転換で自分たちがいかに、本当の情報から隔離されていたか、を知ることになります。

その中でも、彼らが何にびっくりしたか、というと、1994年以降、ありとあらゆる職種で、大学教育を受けた黒人の存在が目立つようになったのです。彼らは、自分たちの通う大学の他に黒人学生が大学教育を受けることのできる大学が南アフリカに存在していたことさえ、知らなかったのです。

ノーベル平和賞の受賞者、南アの元大統領ネルソン・マンデラ氏のことだって、一般の白人南アフリカ人は、「恐るべき共産主義のテロリスト」というイメージを植え付けられていたのです。

そういった社会で、自分の体と心を鍛えるスポーツ、というものが、いかに、黒人層には遠い存在だったかを理解していただけるでしょうか。

だからこそ、引き締まった筋肉質の体に、スポーツクラブの名入りのタンクトップを着、足は最新のNikeやら一流のカラフルな運動靴に守られた黒人のランナーを見かけると、私は心の底から、「ああ、いい時代になった」と胸が熱くなるのです。

南アフリカ社会の人種差別はなくなったわけではありません。この土地に住むものとして、その根深い人種間の隔たりに残念な思いを抱くことは大げさでなく、毎日のことです。

でも、少しずつ、少しずつ、社会は変化しています。このレースにもその兆しを感じます。



そして、もうひとつ忘れていけないのは、例年コムラッズ・マラソンが行われる6月16日は南アの『Youth Day―若者の日』という祝日だということ。ただ、今年は休日の関係で、マラソンは15日に行われました。

この『Youth Day―若者の日』とは、1976年に起きたソウェト動乱の際、命を落としたたくさんの黒人の子どもたちを哀悼する日なのです。ソウェト動乱とは、1975年から1976年にかけてヨハネスブルグ近郊のソウェトで起こった、子どもたち・学生たちの人種隔離政策への抗議デモを指します。

特に1976年6月16日に組織されたデモ活動では、2万人の子どもたち・学生たちが抗議活動を行い、警察がそのデモに発砲し、約700名の彼らの命を奪いました。自国の子どもたちに銃を向けた当時の南アの国家権力はこの動乱のあと、国際社会から厳しい批判を受けることになりました。

このソウェトの子どもたち・学生たちは、何をきっかけに、このデモ活動に参加したと思いますか。

もちろん、当時の黒人のための学校というのは、設備の劣悪さ、生徒数の多さなど、さまざまな問題を抱えていました。が、このソウェト動乱は、そういった環境面での不平等に端を発したものではなかったのです。これは、時の政府が、高校以上の学校で、授業で用いられる言語、つまり生徒たちが教えられる言語に白人の言語である“アフリカーンス”を使用することを義務付けたことに対する抗議が発端となったのです。

私は長い間いろいろな場所で言語を教えてきた教師として、一人の大人として、この歴史を忘れることができません。「自分たちの言葉で学びたい」と願って行動を起こし、命を奪われた子どもたちのことを。

そして、2008年6月15日、32年前にソウェトに散った多くの子どもたちのことを思いながら、青く澄み切ったダーバンの空の下、私は世界各国から集まった多くのランナーたちに心からの声援を送りました。



外国人恐怖症から来る暴動 [2008年05月26日(月)]
 
「xenophobia ---- ゼノフォビア」
という言葉をご存知でしょうか。

いま、南アフリカではこのゼノフォビアを原因に、都市部で暴動が起こっています。発端は南ア最大の都市、ヨハネスブルグ近郊のアレキサンドリアと呼ばれる不法占拠の家が多く立ち並ぶ貧しい地域でのジンバブウェ出身の移民への攻撃からでした。

ゼノフォビアとは、外国人や外国のことを一方的に嫌悪したり、恐怖心を持ったりする感情のことを意味します。

そして、残念ながら、今回のこの暴動は、南アフリカでも多くの貧しい人が住む地域のさらに貧しいアフリカ各国の移民の人に向けられています。中でも政情不安から大量に南アになだれ込んできたジンバブウェ出身の不法移民の人々が最大のターゲットになっているようです。南アとジンバブウェは陸続きです。歩いて、国境を越えてきた人々です。

2008年5月26日現在、今回の暴動で死亡した外国人は50人に上ります。今もヨハネスブルグでは3万人以上の人が自宅に戻ることができずに、教会の敷地内などで様子を伺っています。この暴動で、ターボ・ムベキ大統領の手腕にも大きな不満が湧き上がっており、25日の全国的な新聞では一面を使って、ムベキ大統領に辞任を要求していました。現在は不穏地域に軍隊も派遣されています。


銃を持った兵士が座り込んでいる
新聞の見出しは、「これは非常事態宣言」

私たち家族の住むダーバンではまだそれほどの暴動は広まっていません。このまま沈静することを祈るばかりです。

この暴動は実は国際社会にも大きな影を投げかけています。でも、その心配も、二種類に分かれているようです。その一つとは、2010年のワールドカップは大丈夫か?という具体的なイベントを心配してのもの。そして、あとの一つは、「アフリカは自分たちの真のパートナーになりうるのか」といったアフリカの持つ不安定さそのものに対する信頼の揺らぎです。

アフリカは確かに、南アフリカの隣国、ジンバブウェの民主化の問題もそうですが、まだまだ汚職がはびこり、自分たちの責任を明確にしないリーダーたちなどが大手を振って存在しています。でも、これはアフリカに限ったことではないですね。

2010年のワールドカップが成功するかどうかは当の南ア人たちでも意見が分かれています。外国人たちが犯罪に巻き込まれることの心配がその最大のものです。また、宿泊施設などのハード面が追いつかないのではないか、といった心配も聞こえてくるようになりました。

ただ、もう一つの「アフリカはこれからの国際社会できちんとその役割を果たすことができるのか」という心配。これは正直言って、お門違いだと思います。地域の特殊性は確かにあるでしょう。でも、これこそ、何をして、アフリカを誰のパートナーと捉えているのかが疑わしい。自分たちを絶対的な位置において、アフリカ全体をまるで“子ども”のような存在に例えている傲慢さがこの心配に見え隠れします。“グローバリゼイション”という先進国からの押し付けが途上国で嫌われる一つの理由がこの傲慢さにあると言っても過言ではないでしょう。

南アのゼノフォビアに戻りましょう。CNNなどの外国メディアの特派員たちが、暴力を振るっている人にその訳を聞くと、

「外国人が自分たちの仕事を奪っている」
「外国人が治安を悪くしている」
「外国人が病気を流行らせている」

といった、根拠のないものがほとんどでした。

結局、自分たちの置かれている立場への不満をさらに弱い立場の人へ向けている、という構図が暴露されています。

でも、これはアフリカだけのことでしょうか。

実は日本でも、米国でも、欧州でも、自分たちの生活が安定していなければ、社会の不安要因を自分たちと違うもの、異質なものに押し付ける傾向があると思います。例えば、テロリストといえば、イスラム教徒、というような911以降に世界各国で起こった、イスラム教徒への言われのない攻撃などがその筆頭です。

私は異文化の世界に身を置くようになって、かれこれ30年以上の年月が過ぎました。他の人と同じようなことをすることを特に好まない性格からなのでしょうか。自分と違う生活習慣や考え方を持った人たちと一緒に仕事をしたり、お付き合いしたりすることに何の不都合も感じないのです。

「人は違って当たり前」

という考え方を基本に持っていると、人との相違点が苦痛ではなくなります。もちろん、日本で同じような時代に育った人間同士だからこそ分かりあえる文化的な共通点とか、同世代の友人と子ども時代のテレビ番組の内容などで盛り上がる時間とかの楽しさは十分承知しています。気の置けない友人とのおしゃべりくらい楽しいことはないですもの。

でも、それでも、私は自分と違う考え、違う生活信条を持つ人とのお付き合いも楽しいと思うのです。統一された見解しか存在しない世の中はつまらないです。

アフリカ、と一口に言っても、それこそ、この大きな大陸にはたくさんの人種が住んでおり、統一された文化などありません。それだからこそ、今回のアフリカ人が他のアフリカ人を攻撃する構図がつくづく残念なのです。

アフリカを永住の地と思ってやってきた私たち。でも、これを錦の旗とは思っていません。もしも、この暴動がアフリカ出身以外の移民にも向けられ始めたら、自分たちの行動範囲の見直しなども迫られるでしょう。これもアフリカに住むということに付随している現実の一つです。

南アフリカは全人口の14%が“先進国”に住み、50%が“発展途上国”に住む、と言われています。ですから、人口の半分の人が目の前に自分たちの持っていない類の富を持つ人を毎日見て暮らしているのです。

格差社会の実態は日本のそれをはるかに上回ります。

ということは、その14%に入ってしまう私たちは、常にある一定の緊張感を強いられることになるのです。持つ側と持たざる側の距離が犯罪につながる、という緊張感です。その緊張感を持ちつつも自分がこの社会で何をすべきか、を常に思いながら、このゼノフォビアが一刻も早く収まることを願ってやみません。

ジンバブウェの大統領選、大混乱! [2008年04月14日(月)]
 
エチオピアでの旅行記をちょっと一休みして、今日は南アフリカの隣国、ジンバブウェの大統領選挙のことをお伝えしましょう。

実は、ジンバブウェの経済の混乱ぶりは、2006年6月にCafeglobe のWorld News Café で、『南アフリカから緊急レポート、ジンバブウェの経済混乱』という記事を書かせていただきました。

今回、このほぼ1年前に書いた記事を自分でも読み返してみて、さらにびっくりしました。2007年6月の段階で、「ジンバブウェのインフレ率は1700%!」と書かせていただいていたのです。ところが、なんと、現在のジンバブウェのインフレ年率は10万%にもなっているのです。これがどんなに天文学的な数字かは、想像に難くないと思います。ガソリンも外交官用に発行した特別なチケットがないと、まったく一般庶民には手に入らない様子です。これでは、経済が困窮しているどころか、まったく停滞している、と言ったほうが正確でしょう。

何が原因か。それもこの World News Cafe でお読みいただきたいのですが、ジンバブウェはロバート・ムガベ大統領が28年にも渡る独裁政治を強いていて、各国、国連からも経済制裁を受けているのです。ところが、あまりの独裁振りに国民はこれまで恐れをなして、反ムガベ的行動は大きなうねりになってこなかったのです。一般国民は戦うにも、もう疲れ果てている、と言ったほうがいいのかも知ません。


ここ2週間ほど、ジンバブウェの大統領選挙のことは
南アのメディアではトップニュース。この新聞でも、
「この吸血鬼から私たちを助けて!」
と、ものすごいコピーが使われている


ところが、今回の選挙では、ついに、一般のジンバブウェ人も行動に出たのです。

そうです。ジンバブウェ人はムガベ大統領に「NO!」の意思を叩きつけたのです。ところが、当のムガベ氏、一向にその「負け」を認めようとしていません。3月29日の選挙のあと、もう2週間余が経過しているというのに、ジンバブウェの選挙管理委員会は、選挙の結果を公表していないのです。

ところが、出口調査(ムガベ政権はこれを禁止しているが)では、ムガベ氏もムガベ氏の率いる与党もこの野党に負けているのです。当然、反対勢力のジンバブエの最大野党「民主変革運動」のツァンギライ議長(56)が勝利宣言をしているのですが、正式にはムガベ氏も与党もこれを認めていません。南アフリカの公共放送でも、選挙の次の日から選挙の勝敗を報道していましたが、そこでも、ムガベ氏と与党は劣勢でした。

4月13日には、ムガベ大統領に南部アフリカ開発共同体の首脳たちも、ザンビアの首都ルサカで会議(ムガベ大統領は欠席)を開き、早急に選挙結果を公表するよう共同声明を出しています。ところが、ムガベ大統領、「選挙結果には計算ミスがあった」と主張し、今から、再集計が全国で行われるようにしてしまったのです。これは、あきらかにここで不正な集計を試みようとしている、と反対勢力から糾弾されています。

ムガベ大統領、84歳です。「もう、いい加減に引退して欲しい」と思うのは私だけではないはず。世界中の人を敵にし、自国の人間をこれほどまで困窮させても、なおしがみつきたい権力とは、いったい何であるのか。人間の果てしない権力への欲望をこうまであからさまに見せつけられて、皆が途方に暮れている、と言えばいいのでしょうか。でも、その影で多くの罪のない一般ジンバブウェ人、特に幼い子どもたちが、食べ物もなく、毎日その命を終えている現状を私たちも知らなくてはいけません。

そもそも、ジンバブウェは緑豊かな美しい国です。ジンバブウェ遺跡という、世界遺産にも登録された、独特なアフリカの歴史を表現する遺跡もあります。もともと、ジンバブウェとは「石の家」を意味し、素晴らしい石の細工を施した建築物でも有名です。

また、経済が混乱する前のジンバブウェは、農業が盛んで、アフリカ各国にその農産物を輸出する豊かな国でした。私たちがマラウィに住んでいたとき、ジンバブエから輸入されていきた農産物や加工品(マヨネーズ、ケチャップなど)にどれだけお世話になったことでしょう。人々は穏やかで、また、見目麗しく、心優しい人々です。どうして、どうして、こんなことになってしまったのか。一刻も早く、ジンバブウェの人々に平和が訪れることを願ってやみません。どうか、どうか、暴動などが起きませんように。ムガベ氏が軍隊を民衆に向けませんように。


超不人気のムガベ大統領婦人、グレース。
“アフリカのイメルダ”と異名をとる彼女がパリの高級ブランド
ショップで買い物をするところが掲載されている。



油断大敵! [2008年03月10日(月)]
 


この無残に食いちぎられたパン!
誰の仕業でしょう?

実は、私たちの住む南ア・ダーバンの郊外には、頻繁にサルが出没します。
しかも、この辺のサルたち、かなり賢いのです。人や天敵の犬が見ていないのをしっかり見計らって、家の中に侵入します。

彼らの大好物はやはりバナナ。きれに皮をむいて食べて行きます。しかも、前回我が家が襲われた時は、そのむいた皮を床に投げ捨てて行く、という狼藉ぶり!

残念ながら、前回も今回も、我が家の犬たちの隙をついたようです。今年に入るまでは、我が家でのサルの被害はゼロでした。近所での被害は承知していたのですが、「ウチは、泥棒には役に立たないけれど、サルには有効な犬がいるものね!」と安心していたのですが、やられましたね。


君たちは何をしていたんでしょうねぇ?


それでも、私たちの地域は、海岸沿いの家々に比べたらましなようです。

海外沿いの家に侵入してくるサルたち、ものすごくふてぶてしくなっていて、人が姿を見せてもなかなか立ち去らないようです。言葉で威嚇した人に向かって、逆に歯をむいてみせることもあるそうです。

ただ、サルは狂犬病などに感染している危険性もあるので、真剣に“招かれざる客”なのです。手なずけるなどもってのほか。サルとの接触は極力避けなくてはいけないのです。

が、彼らも学習能力が高いらしく、おもちゃでも何でも、銃の形をしたものを見せて威嚇すると、すぐ退散するとか。う〜ん、敵も怖い目に会っているのね。

日本で、「アフリカに住んでいます」と言うと、
「うわ〜、動物に囲まれているんですね」という反応が返ってくることがしばしばあります。

でも、皆さんが想像される野生動物たち、キリンとか、ライオンとかサイとかは、人里離れた動物保護区にいるのです。南アは国内外の観光客のための野生保護区がたくさんあります。有名なものは、クルーガー動物保護区です。ここの四国の面積に匹敵する広大な土地に野生動物が自由に動き回っています。人間は専用のサファリトラックや自分たちの四輪駆動車などを使って、動物の生態を車の中から見せてもらうのです。


サファリではこんなに近くにゾウが!


しかし、つい先日、南アでもヨハネスブルグに住む人に、「まったく、サルのやつらめ!また侵入された!ヨハネスではどんな被害に会うの????」と尋ねたら、

「まさかぁぁぁ!ヨハネスなんかにサルは出没しないですよぉぉぉ!」

ときっぱり否定されてしまいました。

そうか、サルの住宅侵入による被害。これって、緑豊かなダーバン近郊ゆえのことだったんですね。しかし、近年の開発ブームでは、さすがのサルたちもその居場所を追われているとか。人間と自然とのバランスのとり方は、ここアフリカでも大きな問題になってきています。


我が家の裏庭から続く雄大な自然

ダーバン・バス事故のその後 [2008年02月27日(水)]
 
皆さんにご心配をいただいたダーバンで起きた日本人観光客が巻き込まれたバス事故のその後のご報告です。

2008年2月27日、最後まで残っていらした4名の患者さんを無事、日本へ見送りました。

私は事故2日後から医療通訳者としてお手伝いをさせていただいたのですが、二週間を超える毎日の病院通いで、皆さんとすっかり仲良くなってしまいました。

遠いアフリカの地で、こんな大きな事故に遭う、ということはどんなに不安だったかと思います。中でもお二人の方は大きな手術も避けられない状態でした。

が、皆さん、全員が前向きに治療、リハビリに向き合ってくださいました。病院の南ア人スタッフにもびっくりされるほど皆さんが明るく毎日の病院生活を乗り切りました。入院生活の後半では、多くの方がこちらの現地語であるズールー語も学ぼうとされて、本当に模範的な患者さんたちでした。


まだ顔には事故のあとがありありと……。
でも、とっても元気な患者さんたち


でも、南アの病院は、日本の病院とはいろいろな面で違いがあります。皆さんきっと、かなり戸惑われたはずです。

まず、最初のうちはどんな治療、ケアについてでも、決まって質問されるのは、
「誰がこの費用を払うのか?」でした。

南アは日本のように公的な医療保険がないので、個人的に医療保険に入る必要があります。大人2人と18歳の子ども、13歳の子ども2人の合計4名の我が家の場合、月額の医療保険料は日本円にして約3万円です。これは、ホスピタルプランといって、万が一の入院治療のときは全額が保障される、というものです。でも、この費用は南アの一般的な月収から考えるとかなり高額で、こういった保険に加入できない人がたくさんいます。

保険に加入していなければ、今回、事故の被害に会われた方々が入院した病院に入るのはまず不可能です。こういった私立の病院での入院加療は非常に高額なのです。

というわけなので、今回、皆さんは、
この、「誰が払うの?」を何回も聞かれるはめになったのでした。

そして、ややこしいのが、南アの病院での支払いです。実は、南アの私立の病院では、医者の診察代、手術代などは、病院の施設使用料とは別建てで請求がくるのです。病院に支払う項目の中には、施設使用用、看護の費用、食費などが含まれています。が、医師や理学療法師への料金や、治療に必要な器具などはまったく別なのです。

個人事業者としての医師が、私立の病院の建物を利用して、自分の担当の患者を診る、とでも言えばその雰囲気が伝わるのかもしれません。

ただ、通訳泣かせだったのは、それぞれの患者さんについた各医師の診察の時間です。そもそも南アは朝が早い。学校の授業だって、朝7時半からです。それにしても、今回の医師たちの中には、朝、6時半くらいに診察に回る人がいたのでした。手術の前に、回診したいのは重々理解できるのですが、それにしても、早すぎる!

さて、帰国の前日、一人の患者さんからこんな素敵な感謝のお便りを渡されました。
〜〜〜〜〜〜〜〜
……(略)日本での日々が毎日追われるように過ぎていって、自分を可愛がることが出来ず、結局他の人へも愛情が注げなくなるようで苦しくなっていました。でも、南アで遭った峰子さんや他の日本人の方々や、現地の方々と触れ合うと、気持ちが楽になって、細かいことが気にならなくなり、他の人へも優しくできるようになってきました。……10年以上振りに本来の自分自身に帰れたような、開放されたような気分を味わいました。(略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は彼女の文章の中にある、「10年以上前の自分を取り戻せた」という表現に感激しました。

10年前の自分をしっかり肯定して、その自分が好きな“10年前の自分”に戻れたことを、このあってはならない事故を恨むのではなく、そのおかげで戻れた、とする潔さ。素晴らしい心構えです。

また、難しい手術の説明を受けても、堂々と、その現実にひるむことなく、自分の納得のいくまで質問をされ、そして果敢に手術を受けた方もいらっしゃいました。手術後のリハビリへの取り組みもそれはそれは真剣にされていました。

日本にお孫さんを持つ患者さんのお一人は、廊下に子どもの声がすると、思わずご自分の持ち物の中のお菓子を探してしまうような優しさに溢れていらしゃいました。

そして、ダーバン在住の多くの方が心づくしのお見舞いを携えて何回も足を運んでくださいました。複数の南ア人医療スタッフが、私に、「日本人コミュニティは素晴らしいですね。親戚でもない人たちがこんなに親身に患者さんたちのために動くなんて」と感嘆のため息をもらしていました。

最後に、裏方に徹してくださった、日本の旅行会社のスタッフの誠意のこもった事故の対応の見事さ丁寧さ、そして現地で今回の旅行を手配してくださった南アのツアー会社の担当の宮田さんの、誠心誠意患者さんの立場に立った働きぶりは、私に久しぶりに日本人でいることを誇りに思わせてくれるくらい素晴らしいものでした。

皆様、お疲れ様でした。そして、事故に遭われた皆様、どうぞ、日本でリハビリをしっかり続けてくださいね。皆様がお元気になって、南アを再訪してくださることを心からお待ちしております。


退院の前日、看護スタッフとともに


患者さんと日本人裏方組み


文中の患者さんの写真掲載は許可を得ています。

南ア・ダーバンでのバス事故 [2008年02月11日(月)]
 
「南アフリカ・ダーバン」という地名が日本のメディアで流れることはそう頻繁にはありません。

が、2008年2月7日、ダーバンで起こった日本人観光客のバスの事故は、日本でも大きなニュースとなりました。NHKの衛星放送でもダーバンの街中の映像とともに速報が流れていました。

でも、私が聞いたニュースではなかなかり当日の現地の状況はわかりませんでした。そこで、今回は、現地の背景を少々お伝えしましょう。

当日、ダーバン地域は2週間ほど続いた晴天が嘘のような突然の悪天候でした。この“突然の悪天候”というのが曲者だったのです。残念なことですが、南アでは、こういった突然の悪天候時、どうやって事故を防いだらいいのか、という意識がないとしか思えない運転をする人が多いのです。 

それとも、「雨が降れば路面がすべる。路面がすべるのだから、減速する」と言った、1たす1は2、とでも言うようなごくあたりまえの考え方が、共通の認識になっていない、と言えばいいのでしょうか。大雨の中、しぶきをあげて、晴天時と同じように、140キロ近くのスピードでビュンビュン走り去る車が多いのです。南アは高速道路網がかなり整っているので、これもまた危険な要素に追い討ちをかけます。

それにしても、この日は特に異常でした。私が毎日出勤に使用する高速道路のひとつ、N2(事故のあった高速道路に連結されている)でも、たった2キロ半近くの距離の間になんと6件もの事故が起こっていたのです。これは、あきらかに通常の“悪天候での事故数”をも超えている事態でした。視界の悪さも限界に達していたのでしょう。

事故は現時時間の午前11時半ころ起こりました。

午後になってから知人の一報で事故を知った私は、とにかく在南ア・日本大使館の領事に電話を入れました。何かお手伝いできることでもあれば、と思ったのです。結果的には、事故の2日後から私が医療通訳として正式にお手伝いさせていただくことになったのですが、事故発生当時はダーバン在住の日本人の方々が献身的に皆さんをサポートしてくださったようです。

ただ、話は横にそれますが、私が領事にお電話したとき、私の頭に浮かんだのは、通訳でも何でもなく、皆さんのお腹の心配でした。

「しっかりご飯を食べて、お腹を落ち着けて、元気を出してもらおう!」

と、私は何か大きな事故が起きるたびに考えます。

冷静になるためには、お腹にしっかり力を入れる--- これは、私が常日ごろ母として、自分の子どもたちにも伝えていることです。実は、私の年下の大親友、神宮寺愛ちゃんもマウイより、Cafe Globe の彼女の公式ブログ「おへそに手をあてて」でしっかりお腹に力を入れることの大切さを発信しています。

そして、2日後、事故に会われた方々におにぎりを差し入れしたところ、多くの方が、

「梅干のおにぎりを食べて、心が落ち着きました」
「ご飯に塩と海苔の味がこんなにおいしかったなんて」
「おにぎりで元気がでました」

と喜んでくださいました。

事故は奇跡的に大惨事を免れました。事故のあと、すぐ現場に入った旅行会社の現地職員から直接聞いた話でも、バスは崖を40メートルに渡って滑り落ちたのでした。地元のメディアも、「一人の死人も出なかったのは奇跡だ」と繰り返していました。


事故の翌日、地元紙に掲載された写真


しかも、事故が起きたのは、実は私の家のすぐ近くだったのです。A Valley of Thousand Hills―千の丘の谷、と呼ばれるこの一帯は急な傾斜の丘陵に沿って高速道路が作られています。その丘のかなり高いところから、前方にスリップ事故で転倒していた別の車を避けられずにコントロールを失って崖を滑り落ちたバス。でも、地元の人々が何よりも絶賛したのは、その事故に会った際の日本人の皆さんの対応の見事さでした。

40名を超える日本人全員が、誰一人としてパニックに陥ることなく、同乗していた主催側の添乗員の冷静な判断に従い、かなり迅速に冷静にそして的確にその場が収拾されたのです。

2月11日現在、まだ5名の方がダーバンの地元病院に入院されていますが、皆さん順調に回復されています。自分の乗っているバスのブレーキが効かずに崖を滑り落ちる、という状況がどれだけの恐怖の体験だったのか……。想像に難くありません。しかし、皆さんは、慣れない南アフリカでの入院生活にも不平不満を言うわけでもなく、笑顔で感謝を口にされ、前向きに行動されています。本当に頭が下がります。

皆さんの一日も早い回復を心よりお祈りしています。私は、明日もまた大きめのおにぎりをたくさん持って、皆さんのお見舞いに行ってきます。



真夏の節分 in Durban! [2008年02月04日(月)]
 
2008年2月3日。ダーバンは日中の気温が記録的な36度を超えました。その中での「鬼は外、福は内!」は、と〜っても季節はずれ。しかも、“節分”はそもそも春の訪れを祝うもの、とすると、今、真夏のダーバンで“節分”をするのはまったくのお門違い……。

でも、アフリカに住んでいると、とかく日本の文化・習慣から遠くなってしまいます。子どもたちに日本の習慣も教えていきたい私としては、ちょっと無理をしてでも、これまでにもアフリカの暮らしの中に日本の季節の行事を取り入れてきました。


赤鬼さんと青鬼さんと……


それに、現在の私の仕事は、南アフリカ人に日本語、日本文化を教えること。元々の季節の行事の実感は伝わらなくても、自分の年の数の大豆を食べたり、「鬼は外、福は内!」を連呼しながら鬼に大豆を投げつけたり、というあの節分の雰囲気は子どもたちにも日本語の生徒さんたちにも味わって欲しかったのでした。


納豆になるはずだった大豆を炒って、
皆で「オニはソト〜、フクはウチ〜!」


でも、今日のお客様、なんと70名!近くにもなってしまいました。自分で招待したのは20組くらいのはずだったのに、「友達を連れてきてもいいですか?」に、「どうぞ、どうぞ〜!」と何回かは返事した記憶あり……。で、当日、大変なことになってしまいました。でも、用意したお料理も何とか足りて一安心。ご飯類だけでも二升ほどお米を炊いておいたのが勝因でしたね!

メニューの“おにぎり”類は、何と、日本に研修に行っていた南ア人からのたってのリクエストでした。「日本食で何が恋しい?」の質問に、迷わず、「ツナマヨのおにぎり!」と数名が答えたのでした。う〜ん、そうか、と唸りました。確かに、日本料理レストランでは、ツナマヨおにぎりはメニューにないものね。

【本日のメニュー】
スモークサーモン、キュウリ、卵の巻き寿司
ツナマヨ、キュウリ、卵の巻き寿司
ツナマヨおにぎり
おかかおにぎり
チキンの照り焼き(12キロ!)
イカのお好み焼き
サラダ 和風ゴマドレッシング
大根と鳥の煮込み

デザート(お客様の持ち寄り)
インド風デザート二種
フラン(プリンの大型のもの)
チェリータルト
チョコレートケーキ
インドネシアのライスケーキ

実は、南アの社会はまだまだ閉鎖的。特にダーバンは人種の住み分け状態がいまだに続いています。ですので、私たちの家に来ることで、初めて違う文化の人たちとプライベートで一緒になった、なんて言う人も最初は多かったのです。が、だんだんとそういったことにも慣れてきて、気軽に「友達も連れてきていい?」が増えてきたんだなぁ、とつくづく思います。

今回は、ダーバン在住の日本人の方も何名か参加してくださいました。ダーバンに着いてまだ日の浅い方々も数名。日本の節分とはちょっと違うダーバンの節分を楽しんでいただいたと思います。

それにしても、“節分”で思い出すのは、もう現在は13歳と12歳になった娘のショウコと甥のアジーノの二人。10年前、彼らの大叔父が亡くなったとき、二人は3歳と2歳でした。

大叔父が亡くなったのが、2月の7日。節分からお葬式までの間がちょうど一週間前後。このビミョ〜な時間の経過が問題だったのです。彼らは、シーンとした厳かな祭壇の前に連れて行かれたとき、こともあろうことに、目の前のお線香をいきなりむんずとつかんで、思いっきり、

「オオオニイイはソットォォ!フクウはウチイイイ!」

と叫んだのでした。

厳かな斎場が一瞬の間をおいて、大爆笑する中で、夫と私は二人を抱きかかえて、脱兎のごとく廊下に飛び出しました。

お葬式に連れて行かれた幼い子どもが、そのあどけない行いで、生と死をも含んだ命の繋がりを回りの大人たちに示してくれることの重要性を幾編かの文学で読んだ覚えがあります。でも、この「オオオニイイはソットォォ!」は、いくらなんでもハチャメチャだなぁ、と私は満面の笑顔を浮かべている二入を見ながら、うな垂れたのでした。


現在のショウコとアジーノ
本人たちにはこの記憶はないそうで……


局所的計画停電の嵐 [2008年01月28日(月)]
 
日本から帰国して、南アで私たちを待っていたのは、“Load Shedding (ロード・シェディング)”と呼ばれる局所的計画停電だった。これは、全面的な停電を避けるための“計画停電”なのだが、いかんせん、途上国の横顔も非常に色濃い南アフリカ。この“計画”自体が、そもそも、信用できないのだ。

下の表を見て欲しい。月・水・金・日と、火・木・土に分かれて、停電される地域が示されている。が、この地域分類事態もかなりいい加減。電話して自分の地域がどこか聞くたびに、別の答えが返ってくる。



そして、ここが一番の問題なのだが、こういう「計画」を発表しておきながら、南ア・エスコム(電気会社)、きちんと計画通りに停電をしないのだ!

たとえば、1月16日の水曜日、私たちの地域は午後6時から8時半までが停電のはず。ところが、なんと電気が戻ってきたのは深夜12時。ため息ものである。まして、今回、日本から運んできた貴重な北海道産ベニ鮭なども私の冷凍庫に鎮座しているというのに……。

しかし、こちらも柔な南ア人とは違い、インフラの整っていない途上国暮らしには年季が入っている。実は、冷凍庫は、まず、扉を開けさえしなければ、24時間程度の停電はまったく問題ない。冷凍庫の中の食品は、自分たちが「氷の塊」となって、“自助努力しているクーラーボックス”となるのだ。考えてみれば、実にけなげな話である。また停電時は冷蔵庫も電気が来るまで極力扉を開けないのが鉄則。

話は元に戻って、さあ、計画停電。この水曜日の後のスケジュールが何とも南ア的、とでも言おうか。実はこの週の金曜日はまたしても、私たちの地域は金曜日の夜6時から8時半まで電気がないはずだったのだ。

だが、私は恐いくらいカンがいいのだ。私は、「今度の金曜のその時間帯、電気はくるぞ!」と踏んでいた。だから、なんと、お客さんまで夕飯にお呼びしていたのだ。案の定、その金曜日の夜、一回も電気は切られなかった。私の高笑いが聞こえた人もいたはず!

私は、「エスコムめ、いくら計画したとしても、あの水曜日の大チョンボには申し訳ない、と思っているはず。だから、その次の停電は、“ごめんね”という意識が働いて、無残に電気を切れないはず」と計算していたのであった。

ふふふ。しかし、考えてみれば、技術者の人は何十人もいるであろうから、私のこの賭けはあまり根拠のないことだった。

さて、それにしてもこの計画停電。各方面でいろいろな混乱を引き起こしている。一番問題なのは、家庭の冷凍庫でもPCが使えないことでもない。例えば、日中であろうが、深夜であろうが、容赦なくその該当地域の電気を一切遮断するので、街の信号も一斉に使えなくなる。そうすると、交通渋滞がものすごいことになるのだ。病院だって、郵便局だって、銀行だって、レストランだって、スーパーだって例外ではない。自家発電ができないところはまったく経営や商売ができなくなるのだ。まさに、南ア経済、大混乱中なのである。そして、南アは近隣の国々に電気を販売もしているから、ナミビアやジンバブウェの電気事情が南ア以上に困窮していることは間違いない。

そもそも、どうしてこういう事態に陥ったのか。これが恐ろしいことなのだが、政府の役人も、電気会社も、南アの長期的な電気事情を総合的にきちんと把握していなかった、というのがこの混乱の底にあるようなのだ。

完全に、「えっっ、そんな馬鹿な!」の世界である。

地域の新聞でも、全国紙でも、テレビの朝のニュース番組でも、読者や視聴者からの手紙は、いま、この話題で統一されている。その中でもかなり多くの人が口にするのは、「いったい、全体、誰がこんな事態を招いたのだ?」という質問。

実は、これに関しては、先日、おもしろいシーンをテレビで見てしまった。朝のテレビ番組で、南ア・エスコム会長、南ア政府代表、ビジネス界代表、といった偉い人が出ていて、この局所的計画停電について討論をしていたのだ。

私は、司会者の、「それにしても、どうしてこんな事態に陥ったか、誰が責任をとるのか」という質問に答えたエスコム会長の発言にひっくり返ってしまったのだ。

「いやあ、ここでこの問題の犠牲者を探し当てても何も解決にはならないのでは?」と言っているではないか。

わが耳を疑ったのだが、この会長、何回も何回も、この“犠牲者”を口にする。英語で、しっかり、はっきり、「ビクティム」と繰り返す。この問題を起こした張本人たちを、日本語でなら、「犯人」と言うだろう。が、この会長、あえてこの“カルプリットー犯人”という言葉を使わず、あくまで“ビクティム”を使い続けた。私は、電気事情の心配ももちろんだが、根本的なところで、南ア人のメンタリティをまったく理解していないのだろうか、と少々心配になってしまったのだ。

だが、その心配も次の日の同番組を見て、すっきり解決した。なんと、このエスコム会長の言葉使いには、私だけでなく多くの南ア人がかなり立腹したらしく、かなりの数の抗議のE メールやファックスが番組あてに届いていたのだ。この混乱を引き起こしたのは、この会長をはじめとしたエスコムの人間で、彼らは“犠牲者”ではなく、“犯人”だ、という意見だった。

しかし、この計画停電、あと7年は続くらしい、ということも言われている。「2010年のワールドカップはどうするんだろう?」と実際、多くの南ア人が不安に思い始めている。

アフリカからの手紙 [2007年11月12日(月)]
 


これは、もうすぐ大学受験を迎える、
私の元教え子の一人への手紙です。

☆☆☆☆☆☆☆

私は、君のあの大きな瞳から、ぼろん、と音を立てて流れた涙を絶対に忘れない。

月日が経ち、場所が移り、君がどんなに大きくなっても、私はあのときの君の悔しさを一生忘れない。

君が、あの時、直面していたのは、世の中の理不尽さそのものだった。しかも、身勝手な大人の行動で子どもが犠牲になる、という構図そのものの。

そうだ、世の中には、どれだけの多くの子どもが、どれだけの多くの身勝手な大人の犠牲になっていることか。

実の親に食べ物を与えられない子もいる。
実の親にレイプされる子もいる。
実の親に殺される子もいる。

アフリカでも日本でも、私は具体的にこんなことを見聞きしている大人の一人だ。

だから、君の体験した“理不尽”はそんなにひどくはないんだ、と私が思ったと思うかい。そんなことはないんだよ。

私は“不運”とか、“理不尽さ”というものは、比べる必要がないことだと思っている。

逆説的に、あえて、アフリカと日本を比べれば、アフリカは人の命の値段がどう考えても安い。“下痢”で子どもが死ぬんだよ。アフリカの多くの地域では、いまだに、日本では死ぬ必要のない病気で人が死んでいく。

エイズを発症している男が、処女と性交をすれば自分のエイズが治る、という迷信を信じて、自分の幼い子どもをレイプし、エイズを感染させていることだってある。そして抵抗力の弱い子どもはエイズを発症して、ばたばたと死んでいく。

「命の値段」とは、“言葉”としてとっても重い。軽々しく使える言葉ではないね。でも、私は、自分の腕の中で、生後たった14日の赤ちゃんの命が消えていく、そんな経験をいくつかしてきた。医療関係者ではない私にとって、それがどれだけのことだったかを、君は想像できると思う。

でもね、繰り返して言おう。それでも、ひとつひとつの残念な出来事を比べる必要はないんだ。

だって、君の人生、君の境遇は、君しか実体験できないことだから。そして、それをどう自分の中で昇華させるか、というのも個人の裁量に関係することだから。

私は、あのときの君の涙を忘れない。

私は、君と君のお母さんと、君よりももっと小さかった君の妹に、幾晩かの宿と心づくしのご飯を用意することしかできなかった。どうしようもない現実、というやつだ。自分の無力さを感じることは毎日だが、あの時、自分の目の前にいる君の悔しさをどうもしてやれない自分の非力さと無念さを、私は今でも痛みとともに思い出す。

でも、それ以降の君の人生の見事さはどうだろう。確かに、学校に行けなくなった時期もあったね。でもね、あれは、賢い君が自分の心と身体にしんと耳を済ませた末の賢い選択だった。

そのおかげで、君は北の大地の生徒たちの心を大切にする学校で、こんなに君の可能性が広げることができたんだ。学校に行かないあの時期がなかったら、この展開はなかったよね。

自分のことで精一杯のはずなのに、いろいろ他の人の世話まで引き受けてきてしまう君のお母さんの奮闘ぶりも私にはまぶしい。遠く離れているからね、なかなか肩を抱いて褒めてあげることができない。でも、何かあればいつでもどこからでも、参上する用意はあるんだよ。

そして、いま、大切な受験を控えた君にアフリカの空いっぱいのエールを送りたい。

君の受験しようとしている大学は、日本のトップクラスだ。中学での不登校を乗り越えて、そこに果敢に挑戦しようとしている君を誇りに思う。その大学で学ぶ学生の満足度は、日本一、とも言われているそうだよ。きっと、入学してからの勉強のしんどさは、きっと君の今の想像を軽く超えると思う。

私は君のそこでの奮闘ぶりを期待している。

君に、「英語を話す、ということは何を大切にするべきなのか」、ということを教えた最初の教師として、この大学が、どう君の英語力を伸ばしてくれるか、ということもじっくり見ていきたいと思う。

君はあの時の悔しさを、もうきっぱりと消化しているのかもしれない。君はそういう力を持つ人だから。

でも、あの時の経験が、まだ、ほんの少しでも君の心を暗くすることがあるのなら、それは大人の私が引き受けようと思う。アフリカの大きな空の下で、キリンやゾウたちと一緒に君の悔しさをパクパクと食べてしまおうと思っている。

君を幼いころから知る大人の一人として、君の成長をどれだけ喜んでいるか知って欲しい。

そして、これから先、独り立ちしていく君の人生にはいろいろなことが待ち受けている。世の中は一人になって初めて分かる大変なこともたくさんある。

覚えておいて欲しい。君には回りに君のことを心から考えている人間がいる、ということも。何があっても君のことを信じているよ。そして、大人になった君が、自分以外の人のために、何か行動できるようになる日が来るのを心待ちにしている。君はそれができる人だから。

心を落ち着かせて、君のありったけの思いを受験用紙にぶつけておいで。




プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。