吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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指先に宿るビーズの神様 [2007年10月29日(月)]
 
フィキレ・タバソ。フィキレは24歳だった。フィキレは、一見無愛想。でも、だんだん親しくなってくると、照れ笑いに近いような笑顔を頻繁に見せてくれるようになった。

彼女は、彼女のお祖母さんの元に残してきた最愛の5歳の一人息子のことを考える他に、このドリームセンターでの毎日に新しい楽しみを見つけた。

ダーバンがあるクワズール・ナタール州は、南アフリカの中でも、ZULU(ズール)族という南ア黒人最大部族の人が多く住む地域だ。ズール族は、ビーズを用いた装飾品を伝統工芸としている。だが、ドリームセンターの多くの患者さんたちはダーバン近郊の都市に暮らす人たちなので、伝統工芸としてのビーズ細工が彼らの生活の一部とはなっていない。残念ながら、多くの場合、間借り生活を強いられる都市生活ではそういった工芸などを楽しむ余裕がないのだ。


ダーバン市内のHIV・Aidsの他の病院で作成、販売されている伝統的なパターンのネックレス。ちょっと大きめのデザイン



同じ病院で販売されていた、これは小さめの財布



これは、路上で販売されていたカメレオン


また、彼らは、装飾品などにはあまり縁のない生活をしてきた人がほとんどだ。フィキレもその一人。だが、最初から、彼女はその熱心さ、色の選択、細かい作業の丁寧さなどが他の患者さんとは違っていた。ビーズを作成し始めて、そんなに時間が経つこともなく、彼女の作るものには彼女の個性が表現されていた。彼女の指先には、ズール族のビーズの神様が宿っていたのだ。

それは、私にとって、心が震える経験だった。

彼女が幾多の辛い経験を経たあとで、ぼろぼろになりながらもたどり着いたドリームセンター。そこで、彼女は、自分でも知らなかった、自分の才能にめぐり合ったのだ。

私が30年近く前に、教師の道を歩み始めた時、出会ったのは「教育」という、もともとの言葉の意味を、現役の教師も多くいた教育学の大学院の授業で生徒たちに説く老教授だった。

「EDUCATIONとは、“L.educatio” が語源で、 その人のもっているものを引き出すという意味です」と言う。私たち教師は、数学を、科学を、語学を、体育を使って、自分の目の前に存在している生徒たちの無限の可能性を引き出すのが使命なのだ、と教えられたのだ。

この言葉は、教育に関わる仕事をしてきた私が、幾度となくくじけそうになったときに私を支えた。教える場所が学校でなくても構わない。生徒の数がどんなに少なくても構わない。教師とは、自分の教える生徒の持つ可能性を最大限に引き出すのがその一番大切な役目なのだ、という老教授の教え。私はそれを愚直に信じて今まで教師をしてきた。

フィキレは17歳のときに、ナイジェリア出身の麻薬の密売人と恋におちた。間もなく妊娠し男の子を出産する。フィキレは小学3年生くらいまでしか学校に行っていない。

息子の父親の話になると、彼女は、頬を上気させて、「とってもハンサムで、お金持ちで、やさしくて、本当にいい人なの」と嬉しそうに言った。

「そんなに優しい彼はいまどこにいるの」と、私はいじわるな質問をした。すると、彼女は、まるでお天気の話をするように、「警察に捕まって、ナイジェリアに強制送還させられたの。いま、ラゴスの刑務所で、20年の服役をしているところ」だという言うではないか。

彼女の話をよくよく聞いていくと、その彼は自分の息子の誕生前に南アの警察に捕まったらしい。つまり、彼は、自分の息子の顔さえ見たことがないのだ。フィキレは、私の、「あなたのHIV感染はその彼からなの」という質問には悲しそうに首を振った。

これは、映画の中の話だろうか。麻薬密売人との恋。10代での妊娠。そして、警察に捕まり強制送還された最愛の男性。その絶望とあきらめの中でのHIV感染。

彼女は私たちとそんなに違う人間だろうか。

私はそうは思わない。彼女が成長する過程で、彼女のような南アの貧しい層にも、きちんとした職業教育、性教育が早いうちから実施されていたら、きっと彼女の人生も違っていたはずだ。私は聡明な彼女がきちんとした学校教育の機会を享受できなかったことを悔しく思う。彼女を取り巻く貧困を悲しく思う。

ある日、フィキレは、私と、このビーズ教室を最初に助けてくれた私の友人のヤスコさんに「見せたいものがあるの」とささやいた。私たちは彼女の病室に連れて行かれて、ベッドの横にあった引き出しの中から大切そうに取り出した聖書を見せられた。そして、その聖書の中には、80ランド(日本円で約1300円)の現金があった。

「すごいでしょう!ビーズが売れたの、80ランドも儲かったの!」

彼女の家族は遠いところに住んでいるため、ドリームセンターにはお見舞いに来ることができない。だから彼女には、自分の作ったビーズが売れたことを一緒に喜んでくれる人がいないので、私たちに見せたかった、というのだ。

そして、彼女はこう続けた。

 「私は、これからたくさんビーズを作って売って、家を買いたいの。家を買って、妹一家と息子と一生楽しく暮したいの。そして、ナイジェリアに行って、彼に会いたいの」

フィキレが、一挙に自分の大きな夢を語った。私とヤスコさんはその嬉しそうな彼女の前にただ立ち尽くし、その彼女の大きな夢に打ち砕かれそうだった。

こんなガラスのビーズで家を買う。いったい、どのくらいの量を売ればいいのだろう。

しかし、何と言う心強い、将来への希望だろう。病院のベッドで横たわるだけだったフィキレ。昼夜、何もすることがなく、入院してから一回も会っていない息子のことを思うだけの毎日からの見事な脱却だった。そして、ビーズを作ることで生き生きと将来の希望さえもが彼女の前に見えてきたのだ。

私は、30年前の老教授の言葉を思い出していた。

「教える科目はね、何でもいいんですよ。いや、その子と共有する時間があればいいんだ。その子を信じて、その子ができること、本人さえも知らない自分の才能に気がつく、ということの素晴らしさ。人間の可能性の無限を体験させることこそが、教師の醍醐味なんです」

私はフィキレとこういった時間を共有できたことを偶然だとは思っていない。私が米国で学んだ教育の本質。私は彼女の教師ではなかったが、彼女の学びの場所作りの手伝いをさせてもらったと思っている。

フィキレはその大きな夢を実現させることもなく、エイズの合併症の結核と肺炎でその24年の生涯を閉じた。あの80ランドが聖書とともに、彼女の息子の手元に戻されたかどうかを確かめる術を私は持たない。


出来上がったイヤリングを持って嬉しそうなフィキレ


でも、私は彼女のことを絶対に忘れない。彼女の夢の大きさに打ち砕かれそうになった私自身のあの強い絶望感とともに、彼女の人生の最後に彼女が自分で発見した彼女の才能の素晴らしさも忘れない。その意味をかみ締めながら、私は次の多くのフィキレのために、毎週ビーズの教室を開いている。

ビーズ・ワークショップの資金作りに名案が浮かぶ! [2007年07月21日(土)]
 
ドリームセンターのビーズ・ワークショップのために、資金作りが必要だと気がついたところまではよいのだが、ドンブリ勘定もいいところの私は、きちんとした資金計画が立てられない。

試算をし、計画書を書いて、どこそこの機関に申請し、お金を得られたあかつきにはきちんと管理して、報告書を作る。これがこのような活動をするときに最適な案だろう。そこで、間違っても、赤字を埋めるために自分のポケットを“がそごそ”して帳尻あわせなどをするべきではない、などなど。頭で考えられるのだが、実際、……これができれば苦労しない。

私は算数、つまり計算が苦手だ。中でも金勘定は本当に苦手だ。でも、この活動を続けるためには資金を作らなくてはならない。患者さんの作ったビーズのアクセサリーを販売するための一便を日本に送ったが、実際のお金が来るまでは時間がかかる。

しかし、私の特技は“窮地”に陥っても、あきらめないこと。どんなに困ったときでも、投げ出す、という選択肢はめったに取らない。今回も、「何とかならないか」と、考えていたら、いい考えがぼっと浮かんできた。

以下の招待状を見て欲しい。4月23日は私の誕生日。普段は自分の誕生日に人を招いてパーティをするということもないのだが、今年はこれをドリームセンターの資金集めに利用する、という案が浮かんだのだった。

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皆さま、

私は今年49歳になります。

私の誕生日を今年はダーバンにいる私の信頼する友人たちと一緒に祝いたい、と思いました。

でも、皆さんにお願いがあります。贈り物やお花は持ってこないでください。私は皆さんに私への誕生日祝いに、私ががんばっているドリームセンターのビーズ・ワークショップへのお手伝いをお願いしたいと思います。ギフトの代わりにお金をください。お金は全部このビーズ・ワークショップに使います。当日はスモークサーモンのお寿司とてんぷらをたくさん作ります。皆さんも飲み物とお寿司とてんぷら以外のお料理を一品お持ちください。

どうぞ、お時間がありましたら、我が家まで足をお運びくださいね。

吉村峰子

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何も何歳になるかなど、書かなくてもよかったのに、と後で何人もの友人に笑われた。が、私はこれまででも、自分の年を語るのに躊躇したことがない。この年まで、十分健康で、仕事や自分の好きなことができることが素直に嬉しい。だから、平気で年を明かしてしまう。もう少し隠したほうが格好いいのはわかるのだが、根が単純なので、つい正直に年齢も、お金が必要なことも、話してしまうのだ。

当日は、ダーバンならではの素晴らしい集まりだった。人も食事も本当にバラエティに富んでいた。当日集まった人は、計40名。お料理もたくさん集まった。

私はスモークサーモンと偶然に入手できた大トロも巻いて、合計20本も太巻きを用意。天ぷらは、玉ねぎ、ニンジン、いんげんとイカのかき揚げを大皿に3つ山盛り。デザートにはシフォンケーキも。

そのほかに集まったお料理は、インド風マトンカレー、パキスタン風ビーフカレー、ダーバン・カニカレー、カジキと竹の子のタイ風カレー、春さめサラダ、肉じゃが、サモサ、ポテトサラダ、ハムの入ったパイ。デザート系では、みたらし団子、あんころ餅、ミルクタルト。

当日参加してくださったダーバン在住の皆さま、心からありがとう! 寄付もおかげさまで4000ランド(約7万円)近く集まった。そして、めでたく、これで日本から資金が届くまで、順調に教室が運営できることになったのだ。


ビーズ・ワークショップの悩みとは…… [2007年07月05日(木)]
 
昼夜ベッドに横たわって、ただ時間が過ぎるのを待つだけだった患者さんたちが、週一回の私たちのビーズ・ワークショップに参加してくれるようになって、嬉しい反面、私には大きな悩みが出てきてしまった。

ビーズ・ワークショップに参加する患者さんが増える、ということは、そこで使われるビーズも増える、ということ。当然といえば当然のことなのだが、私はこれを長期の計画を立ててしているわけでもないし、スポンサーがいて行っているわけでもない。ドリーム・センターは薬を買うお金さえ困ることもあるから、ここに頼むのもあまり現実的ではない。これまでは、私とヤスコさんのポケットをごそごそしたり、見かねた人が寄付してくれたり……、で何とかやってきた。また、ダーバン在住の日本人の奥さんたちの協力もあって、12月1日のワールド・エイズ・デイでは、ドリーム・センター内にお店を開店して、患者さんと日本人の作品を売って、資金を捻出してきた。

が、30人からの患者さんが参加すると、それにかかる費用も“ポケットゴソゴソ”では追いつかない。

そこで、ドリーム・センターの近くにあるパイン・クレスト・ショッピング・センターというこの辺では中規模のショッピングセンターに交渉して、土曜日にお店を出させてもらうことにした。

当日は、我が家の子どもたちをはじめ日本人家族が参加してくれて、朝9時から夕方まで声をからしてビーズを販売。しかし、用意した500個近いブレスレット、ネックレス、ピアスがはかばかしく売れない。理由はさまざま考えられるが、大きく2つが原因だと思う。

まず、ダーバンにはHIVの感染者及びエイズ患者さんの自助努力としてビーズ細工が他の病院でも目にすることがあって、そんなに珍しいものではない、ということ。それと、当日、割り当てられた場所がこのショッピングセンターの中でも北の外れにあって、あまり集客条件がよくなかった、ということだ。

この日の売り上げを楽しみにしてくれた患者さんたちにはなんとも申し訳ない。しかし、こんなことでくじけている暇はない。そこで、私は私が“日本人”であることを利用することにした。そうだ、ビーズは日本で売ることにしたのだ。日本だったら、南アのHIV感染者が作成したビーズをチャリティ目的であれば、きっと、買ってくれる、と思ったのだ。

が、このビーズ、運賃をかけて日本に運ぶわけにも行かない。日本へ帰国する人に預けよう。そして、私の友人たちに、人の集まるところで売ってもらおう、と決心した。

ただ、そのためには患者さんたちの作成した作品を買い上げなくてはならない。まあ、これも、“何とかなるだろう、えいや!”で、当日の売り上げを全部つぎ込んで、患者さんたちの作品を全部買い上げた。すると、当然、売り上げで買う予定だった次の材料費が足りなくなった。

む〜ん、なかなか、かなりの行き当たりばったりである。でも、ふふふ。懲りない私には、またまたいい考えが浮かんできた。




プリムローズの願い [2007年06月29日(金)]
 
プリムローズ。なんて可愛らしい名前だろう。和名では “サクラソウ” を意味するプリムローズは、南アフリカのダーバンに住む21歳、それは、それは若いきれいな女性。そして、彼女そっくりの可愛い子どもは4歳だ。

プリムローズはエイズを発症している。

エイズは、HIVウイルスに感染したのち、そのウイルスによって体の免疫メカニズムが破壊され、結核や癌、肺炎などを発症して死に至る病気だ。HIVウイルスの潜伏期間は長い場合だと20年を超えることもある。が、栄養状態がよくなかったりすると、早い場合は感染から数年で発症する場合もある。プリムローズの子どもが4歳ということから考えると、彼女はきっと10代の早い時期からHIVウイルスに感染していたのだろう。

プリムローズは、今年の6月にドリームセンターというエイズ感染者への病状緩和ケアを行う病院から退院した。決して病状が好転したわけではなく、最後の日々を彼女の最愛の4歳の娘と過ごすためだった。アフリカで自宅療養をする、ということは、痛みの緩和などのケアが充分に受けられないことを意味する。先進国のように終末ケアの訪問看護などの仕組みが整っていなからだ。

それでも、プリムローズは自宅に帰ることを望んだ。彼女が自宅に帰る前に、話を何回かに分けて聞き取ることができた。

私はこのドリームセンターで、病状や患者自身の思いを記録にまとめる作業を毎週続けている。エイズ患者にインタビューし、患者自身の声を拾う作業はつらい仕事だ。だが、彼らの声は誰かが書き残さなければいけないことだと思っている。これ以上エイズ感染者を増やさないためにも、彼らの記録を残すことは必要なことだ。

プリムローズの生活は、本当にささやかな普通のアフリカの若い女性の毎日だった。おしゃれが好き。テレビが好き。踊るのが好き。チョコレートが好き。彼女は高校の最後の年で落第してしまったそうで、卒業資格を得るために別の学校に在籍していた。ここを卒業して、銀行で働くのが夢だった。

そして、話が自分の家族に及んだ際、こんなことを打ち明けてくれた。

「私が小さいときに家を出て行ったお父さんに会いたい。会って、ケンタッキーフライドチキンに連れて行って欲しい」

そういって、プリムローズは、いまは彼女の娘さんのものとなったキティちゃんのヌイグルミを大切そうに撫でて、涙を流した。

私は、彼女の願いのそのささやかさに、その切なさに、打ちのめされそうだった。間もなく訪れるであろう“死“の前に、この若いプリムローズが望むことがこれ? これだけ? いくらなんでもささやか過ぎないか。どうして、こんなことを実現することが難しいのだ。自分の非力さに、こんな若いプリムローズが抱えているあまりにもつらい現実に、立ちすくんだ。

そんな中、季節はずれのせみの声を聞いた。自分がうんと若いころ、地面に6年も潜伏して、地上に出てわずか1週間で命を終えるせみの命のサイクルを知り、そのはかなさに強い憤りを感じたことを思い出した。が、大人になって、それがせみの命のサイクルであり、その命の短さやはかなさは、人間の私が人間の尺度で同情したり、憤ったりすることではない、ということを謙虚に考えられるようになった。せみはせみの命を生きる、人間は人間の命を生きる。

そうだ、プリムローズがいま、望むことを私の尺度で悲しむ必要はないのかもしれない。プリムローズの望んだこと、それは彼女の可愛い娘さんとできるだけ一緒に過ごすこと。そして、どこにいるかも、生死でさえ分からないお父さんに、ケンタッキーフライドチキンを買ってもらうこと。

娘さんとは残された時を一緒に過ごすことができた。しかし、お父さんとの再会は難しいだろう。でも、ケンタッキーフライドチキンなら、私が買ってあげられる。プリムローズのこれまでの不幸を、私が呪うだけでは彼女の存在があまりにも悲しい。

彼女のことを一人でも多くの人に知って欲しい。心の片隅でいいから、彼女のことを覚えておいて欲しい。

「南アフリカのダーバンに、こんな若い女性がいて、こんな望みを持って、あと何日かの命を懸命に生きています。彼女の名前はプリムローズ。彼女が好きなのは可愛い彼女の娘、ダニエラ。食べたいのはケンタッキーフライドチキン……」

果てしない思い〜フェイバリットのしあわせ〜 [2007年06月20日(水)]
 
フェイバリット、日本語では、“一番好きな”と言う意味の名前を持つ女性が、南アフリカのダーバンにいる。

いま、彼女が暮らしているのは、エイズ末期患者のための症状緩和措置病院『ドリームセンター』の一室だ。彼女は31歳、一人息子は彼の父親と一緒にダーバン南部の小さな町で暮らしている。フェイバリットの細い少女のような足は、この病院に海外から寄付されたであろう欧米人仕様の椅子に座ると、床に届かない。

アフリカのウガンダで始まった、エイズ患者の人生を記録しようとする“メモリーボックス”プロジェクトというものがある。それは、エイズの末期患者が自分の最後の思いを、彼らの残していく家族にプレゼントしようというもの。が、アフリカの多くのエイズ末期患者は、これまでの人生、生きてきたのが精一杯だった場合が多い。そして、こういった“遺言”を残す、ということ自体があまり一般的ではない。

私は、英国系南アフリカ人の心理学者のサリーに紹介されて、この病院に通いはじめた。サリーは、“メモリーボックス”をエイズの末期患者に説明する際、決して、「あなたが死んだあとにね……」とは切り出さない。

彼女は、「あなたが一番大切な人は誰?」と微笑みながら、フェイバリットの痩せた肩に手をかけた。実は、フェイバリットはもう失明寸前。だが、近距離ならば、ぼんやりと人やものの輪郭が判るようだ。

フェイバリットは唇を薄くあけて、「私の息子、イノセンス……」とつぶやいた。

サリーはやさしく、そしてゆっくりと、「そう、息子さんがいるのね? お名前は? 年はいくつ……」と聞いていく。フェイバリットは、もうほとんど視力のない目をときどき開けて、「とっても優しくて、穏やかでいい子よ。……学校の成績もとっても優秀なの」と続ける。でも、彼女の顔の表情はあまり変化しない。フェイバリットの今の状態は、体中の節々が痛いし、息をしているのがやっとの状態なのだ。“笑顔”にも体力がいるのがよく分かる。

「それじゃあ、あなたが、彼、イノセンスのことをそう思っている、ということを書きましょうね。これは、あとでイノセンスが見ることができるのよ」

フェイバリットはこの“メモリーボックス”のことを、この時点で正確に理解していなかったかもしれない。それでも、サリーが聞くことにポツリポツリと応えてくれる。

サリーが、「あなたの人生で一番楽しかったのはどんなこと?」と聞いた。

「私の人生なんて、いいことはひとつもなかった」

「どうしてそんなにつらかったの?」とゆっくりと聞いていくサリー。表情を変えず、あきらめた様子で彼女が話す彼女の人生は切なかった。

幼いころから両親はいない。預けられた家ではその家の子どもに意地悪され、食事ももらえたり、もらえなかったりした。「あなたの息子さんの父親は、あなたの夫かボーイフレンドだったの?」という問いには首を振った。望まれた妊娠ではなかったのだろう。彼女の息子の13歳という年齢は、彼女の10代での妊娠出産を物語る。レイプされた可能性さえ、否定できない。

私は、とても黙っていられなくなり、「でも、あなたには、いま、大好きなイノセンスがいるのねぇ!」と言うと、フェイバリットは、ここで初めてにっこりした。

ところが、このあと、何を聞いても彼女は、「他には何もいいことはなかった」と静かに首を振る。でも、間もなく訪れるであろう彼女の命の終わりの前に、何かひとつでも彼女の人生で、「楽しかった」という思い出をきちんと書き残したいと強く思った。彼女の厳しい人生だって、きっと何か楽しいことがあったはずなのだ。イノセンスにも、彼女の人生の楽しかったことを教えてあげたい。

私は、ふと思いつき、「元気なときはどんな仕事をしていたの」と聞いてみた。彼女のほほが少しゆるんだような気がした。

「……病気になる前はね、美容院で働いていたの。お客さんにお茶を入れたり、掃除したり。とっても楽しかった、嬉しかった」

サリーが満面の笑顔で聞いた。

「そう、それはとっても素敵ねぇ、どうしてそんなに嬉しかったの」

フェイバリットが一瞬大きく目を開いて言葉をつなぐ。

「ベッツイが優しかったの。まるで私をベッツイの娘みたいに優しくしてくれたの」 

ベッツイはこの美容院の経営者だろう。サリーが続けた。

「ベッツイはあなたがここにいるのを知っているの? いつお店を辞めたの?」
「ベッツイはここのことは知らない。お店を辞めたのは1年くらい前……」
「お店の名前は? そのお店はどこにあるの?」

フェイバリットは店を辞めて1年もたつと言うのに、店の名前、電話番号をはっきりと覚えていた。サリーがその店の電話番号を回す。ベッツイは不在だったが、別の女性がベッツイの携帯電話の番号を教えてくれた。携帯電話に出たベッツイが、この電話が病床のフェイバリットからだと知ると、「神様! フェイバリットはまだ生きているの?」と叫んだ。

ベッツイにしたら、フェイバリットは、これまでに彼女が何人も雇った黒人ワーカーの中の一人なのだろう。きっと、フェイバリットがこれほど感謝するほどの“親切”をした、という意識もなかったはずだ。でも、物心がついてから、人に親切にされたことなどあまりなかったはずの彼女にとって、例えば、ベッツイの持っていたひとかけらのビスケットを分けてもらったことでさえ、「自分の子どものように可愛がってくれた」と、なることに、私は想像力を働かせる必要もなかった。

このあと、フェイバリットの身体が緩んだ。心も緩んだ。口も緩んだ。

私が、「フェイバリットはどんな食べ物が好きなの?」と聞くと、「私はサンドイッチが大好きなの、チキンのハムをはさんだやつ」という答え。彼女は吐き気のため、何日も固形食は食べていなかった。でも、喉を「ごくん」と鳴らして、サンドイッチと一緒に飲むものは、「断然、サワーミルクだ」とつぶやいた。

そして、彼女は自ら話し始めた。

「クリスマス、新年、そして復活祭には特別な料理をしたのよ。黄色のご飯の中に野菜を入れたもの、サラダ、フライドチキン。みんなイノセンスが好きなもの。きれいな洋服を着て教会にもいくの。教会は街の中の……」

フェイバリットが生きてきた証が、生き生きと表現され始めた。最愛の息子、イノセンス。自分の子どものように親切にしてくれたベッツイの元で働いた4年間。イノセンスのために料理した黄色のご飯にフライドチキン。きれいな洋服を着て、息子とともに教会へ行くことの晴れがましさ。フェイバリットに感謝しながら、私はこれを記録として残すことの大切さを感じていた。

「私の人生にいいことは何もなかった」という彼女の言葉も、話を始めた時点では正直な彼女の心持だっただろう。でも、サリーの静かな問いかけから、彼女の気持ちを丁寧に拾っていったことで、イノセンス、ベッツイ、黄色のご飯、そして教会が出てきたのだ。

“言葉をつなぐ”という地道な行いが、これほどの威力を持つ。そして、彼女の人生の“幸せ”が言葉で残る。どんなに死が近づいていたとしても、彼女は彼女の生きた証を言葉にし、それを最愛の息子に残すことができた。人間の持つ、果てることのない思いとその能力にひれ伏したい思いで彼女の病室をあとにした。

フェイバリットはこの4日後に亡くなった。

「合わさる手」の力 [2007年06月05日(火)]
 
南アフリカのダーバンにあるドリームセンターというエイズ患者さんの症状緩和措置病院に毎週通うようになって今年で3年目だ。私はここで、患者さんたちの人生を書き取る仕事をしている。

でも、ペースはゆっくりゆっくり。年間を通して、3名もの記録が取れれば上出来、という進み具合。アフリカで短気を起こしては駄目、とはいうものの、ここまでゆっくりできるのは私がここの定住者だから。期限のあるプロジェクトではこういうことはできないだろう。

ドリームセンターが末期のエイズ患者を多く入院患者に抱えながら、“ホスピス”ではなくて、“症状緩和措置病院”という種類の医療機関なのには理由がある。そのひとつは、このドリームセンターは、常にスタッフの数が足りなくて、患者さんに満足な看護がしてあげられない、ということ。それから、終末医療のために必要な薬が十分入手できないときがあるからだ。

そして、嬉しいことに、実は3割くらいの患者さんが、症状が改善してドリームセンターから退院して日常生活に戻ることができるのだ。だからここはホスピスではない。だが、残念ながら、こうして退院していった患者さんの中には、数ヵ月後病状が悪くなり、またドリームセンターに戻ってくることもある。

私たちは“エイズ”では死なない。エイズを発症するとは、“HIVウイルス”というウイルスに感染した人が、そのウイルスによって、本来の身体の免疫を破壊させられてしまう状態を指す。だから、患者さんたちは、身体の免疫状態が著しく衰え、日本だったらまずもう死に至る病気ではなくなった、肺炎、や下痢、といった原因で亡くなる。

私の住んでいる南アフリカのダーバンは、死因の半分以上がエイズ関連だ。つまり、街を歩く多くの人がHIVに感染していることを意味する。今年18歳と13歳になる10代の子ども2人を抱える私にとって、自分の子どもたちをこの性感染症からいかに守るか、ということは大きな問題なのだ。

だから、私はHIVやエイズ、ということを私の家族の中では普通の話題にしている。エイズに罹るな、自分の身体は自分で守れ、守れなかった人を差別するな、エイズに罹った人とどう共存していくべきか、などなど。

自分たちの生活している社会の抱える大きな問題を知らん顔しているわけにはいかないし、自分たちが何かそれに対して貢献できることがあるなら、積極的に関わる、というのが、私がしたいこと、自分の子どもに伝えたいことだ。だから、親しくなった患者さんの死に、毎回、打ちのめされながらも、くじけそうになりながらも、私は自分とドリームセンターとの関わりを途中で投げ出さない。

それから、私が心がけているのは、できるだけ多くの私の知り合いにこの活動に関わってもらうこと。私だけの力がたかが知れているのは、自分が一番良く知っている。

南アに来る前まで私が代表をしていた組織は、国際理解教育の概念をもった英語を教えるための教材を作成していた。その教材のひとつが、歌でありチャンツと呼ばれる四拍子のリズムに合わせてメッセージを伝えていく、というものだった。

その中のチャンツのひとつに、”One hand is better than tow, two hands are better than three!” という大傑作がある。一つの手よりも二つの手、二つの手よりも三つの手、というわけだ。私は自分がスーパーウーマンでないことを熟知しているから、人に助けを求めることを躊躇しない。

そして、そんな「合わさる手」の力が実りつつあるのは、去年の4月ころから始めている患者さんのためのビーズのワークショップ。これは、今はもう日本に帰国してしまったが、ダーバンで私が一番親しくしていた日本人女性、ヤスコさんの多大なる協力があって実現したもの。

彼女は日本では彫金の教師だったこともあり、こういった工芸が大得意だった。彼女の試行錯誤の元、もともとここの最大黒人部族であるZULU族の患者さんたちの伝統工芸であるビーズ細工を教えることにしたのだった。ありがたいことに、ヤスコさん以降のダーバン在住の日本人の支援も広がりつつある。

一日何もすることがない患者さんたち。その彼女、彼たちが、私たちの週一回のビーズ・ワークショップを楽しみにしてくれるようになった。それは、作ることの楽しさがあることともあるようだが、何よりも、ずばり、その作ったものが“商品”として現金収入になるからだ。一つ一つの単価はせいぜい80円から300円。でも、現金収入の道がほとんどない彼らにとって、これは画期的なこと。が、このワークショップに参加してくれる患者さんが増えるにつれて、私には大きな悩みが出てきてしまったのだ。



プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。
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