吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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賃金50%アップ! [2008年06月02日(月)]
 
地球アゴラに出演してから、嬉しいお申し出を新たに何件かいただきました。
 
地元のボランティアのバザーで販売してみよう、というものと、ファエトレードに興味を持つ東京の雑貨屋さんからのものです。こちらは実際の販売が始まりましたら、またこのブログでもお知らせしたいと思っています。



さて、こんな新しい動きがあったことにも背中を押されて、患者さんたちのビーズの賃金を50%アップすることにしました。

実は、ここ数ヶ月、患者さんたちから賃上げの要求が出ていたのでした。でも、安易に大盤振る舞いしても、後が続かなくなってもいけない、と思い、患者さんには我慢してもらっていたのです。

しかし、私たちが暮らすダーバンでもこの頃の物価の上昇は本当に情け容赦がありません。

世界的な食料の値段の高騰による影響をこのドリームセンターの患者さんたちももろに受けているのです。

2008年1月初頭に食パン(日本の8枚切の薄さのものが20枚くらい入った大きさのもの)がこちらの値段で4〜6ランド(日本円で56円〜84円)だったものが、2008年6月現在では7〜11ランドにも値上がってしまったのです。

アゴラの放送では「はい、パンの値段は50%も上がっています」と物知り顔にお話したのですが、これは実は100%上昇、いやもっと分かりやすく言えば倍近くに値上がっていたのでした。

患者さんたちは、政府からエイズを発症している、と認定を受けると、Disability Grant と呼ばれる生活援助金を受け取ることができます。これが、一ヶ月約1万円弱です。が、患者さん一人でこのお金を使って生活しているわけではないのです。この1万円弱のお金をそれこそ、10人を超える人数で使っている場合もあるのです。

だからこそ、どんな形でも現金収入は嬉しいのです。

実は、ダーバンの他の病院でも、患者さんのためのこういった工作教室のようなものはいろいろな団体が実施しています。でも、多くの場合、患者さんの足は最初の数回で途絶えてしまうのです。

それなのに、どうして私たちのビーズ教室は患者さんが途切れず参加してくれるのでしょう。

それは、もちろん、たとえどれだけ少ないお金でも、患者さんたちに、彼らの労働に対してお金が支払われるからです。

私はこのシステムをこの活動が続く限り守りたいと考えています。途上国の多くの貧しい人たちが、「援助なれ」といった状況に置かれていることを私はここ20年以上のアフリカ暮らしで嫌というほど見てきました。

「私たちは貧しいの、援助してちょうだい」といった態度です。

でも、これも、こうさせてしまった側にも責任があります。

もちろん、私がしていることも、“援助”といった行動に分類されてしまうのかもしれません。でも、私はこれを私個人と、私を支えてくれる友人たちだけで運営しています。職業的にしている“援助”とは一味違う活動をこれからも続けていきたいと思っています。

でも、どんぶり勘定の極めつけのような私ですので、長期展望などはありません。自転車操業と呼ばれようと、これ以上の時間が費やせない状態では、しばらくはこのままの形態で突っ走るしかないでしょう。

さて、そんな中、実はもう一つ、困ったことが起きてしまいました。

現在、患者さんたちの作成するビーズは、ブレスレットのみなのですが、これはメモリーワイヤと呼ばれる形状が記憶されているコイル状に曲がったワイヤを使います。



このワイヤはビーズと同じ、中国からの輸入です。このメモリーワイヤがダーバンの街から消えてしまったのです。実は去年もこの時期にワイヤが街から消えたことがあったので、いつもワイヤの入手は先手を打って数か月分は確保していたのでした。




ですから、今回は7月の中旬くらいまでは大丈夫な量を確保しています。でも、問題は次の入荷時期がまったく読めないことです。

しかし、こんなことでくじけているわけには行きません。自転車操業の、小規模活動のよいところは、とにかく小回りが利くことではないですか!

そこで、今回、このビーズワークショップの生みの親、名古屋のヤス子さんとも相談して、なんと、新作に挑戦することにしました。

それは、ビーズの暖簾です。

患者さんたちの中には脳溢血を患っていて、手足の自由が利かない人も多いので、複雑な作業はできません。

その点、暖簾であれば、しっかりとした釣り糸のようなものにビーズを入れていくだけの作業ですので、このブレスレットと同じように単純作業で大丈夫なはずなのです。

試作品さえもまだ出来上がっていませんが、どうぞ、ビーズの暖簾に興味のある方はご連絡くださいませ。日本の色使いとはちょっと趣の違う“アフリカ〜ンな暖簾”をお届けいたします!






地球アゴラに出演しました [2008年05月19日(月)]
 
以前にお知らせしたとおり、NHK―BS1の番組、地球アゴラに出演しました。

今回、つくづく身にしみたのが、通信状況の変化です。

私が始めてアフリカに渡ったのは1986年でした。そのころ、新しい通信手段として、ファックスが登場しました。1986年、西アフリカ・リベリアに赴任した私たちは、当時としては最新だった、ファックス機能が備わった、今考えればとてつもなく大型のワード・プロセッサーを荷物の中に、意気揚々と詰めたのでした。

それから20年以上の年月がたって、この『地球アゴラ』という番組は、インターネット上の無料電話、スカイプを利用して、世界に住む日本人と東京のNHKのスタジオをつなぎました。インターネット上で、ユーザー同士であれば無料で話すことのできるスカイプは、普段も便利に使用させていただいています。日本に住む友人、知人、両親などとお金の心配をしなくても直接の声を聞けるのはとっても有難いのです。

友人の中には、「それって、ちょっと不気味」という人もいます。どうして、無料でそんなことができるのか、という疑問です。

う〜ん、そう言われればそうなんですが、コンピューターのことなど、何が何やらどうなっているのか、考えることさえ出来ない、器械オンチの私は、「う〜〜ん……」と唸るだけで何の弁護も反対意見も出ません。ただ単純に、最末端ユーザーとして、使わせていただいているだけです。スカイプさん、ありがとう。

さてさて、本番当日のことを少々お話しましょう。

実は、私はこのお話を引き受けてから、大変心配していたことがありました。

それはずばり南アの昨今の電気事情です。急な停電は結構頻繁に起きるのです。今年の冒頭に嵐のように起こっていた“計画停電”もこのごろは見直しがあって、影を潜めています。が、いつ再開されても不思議はありません。(それに、“計画”、と呼ばれていても、計画は突如発表されるし、計画以外の日でも停電は起きるので、こちらは計画できない、というおまけつき!)

また、この番組は、画像をスカイプで、音声を国際電話でつなぐのですが、電話回線が途中で切れることだって、皆無とは言えないのです。

アフリカに暮らす、ということはこういった基礎中の基礎の生活基盤に絶対の信頼をおくことができないのも現実です。

何回かのリハーサルのときも、電話線がクリアではなかったり、スカイプも途切れたり、ということがありました。

が、当日、南アフリカ、がんばりました。停電も起こらず、回線も落ちず、スカイプも途切れず、無事に番組を終了することができたのです。

番組の内容も、アフリカ各地に住んでアフリカの人たちと仕事をしている日本人が三人登場してなかなか面白かったのではないでしょうか。私以外の方々はご紹介されていた仕事が本業の方々でした。ですから、私のように週一回の支援でしかないのはちょっと申し訳ないような気もしていました。

南アフリカでも、エイズ患者さんの支援を専門にしている日本人の方はいるからです。でも、番組のディレクターの方に、「仕事ではなくて、自分の時間をこうやって作って、患者さんと関わっている人がいることも紹介したいんです」という言葉に励まされました。

そして、番組の最後に、司会の川平慈英さんから、

「アフリカに住んでいま、一番強く思うことはなんですか」と聞かれました。

実はこれ、カメラリハーサルのときに急遽、足された質問だったんです。元もとのエンディングの質問は、「これからのアフリカには何が必要と思いますか」でした。

でも、この急の変更、というのはいいものですね。だって、用意された答えではなくて、本当にいつも自分が考えていることがふっと浮かんでくるではないですか。

私はこの質問に、こう答えた、と思います(あまり、確証がないのは生中継なのでその場でたたた!と話したからです。記録と違っていたらごめんなさい!)。

「私は英語や日本語を教える語学教師です。かれこれ30年ほどいろいろな人に語学を教えてきています。ですから、私は語学を学んでいる人に、学んだ語学を使って、世界の人とつながって欲しい、と思っています。アフリカは遠いです。でも、ここにも人がいます。エイズで死にそうな人もいますが、彼らも夢や希望をもつ、私たちとまったく変わらない人間です。世界の人とつながって、そのつながりを大切にしてください」

実は今回のテレビ出演、いろいろな状況も重なって、かなり時間的には厳しいものがありました。最終的な台本を印刷する前に、プリンターがうんともすんとも言わなくってしまったり、という突発的なことも、もちろん、起こらないはずがありません、我が家では!

でも、放送終了直後からどんどんと私のメールに届き始めた多くの方のコメントがとっても嬉しかったです。

皆さん、ありがとうございました。特に、ディレクターの井上さんを始めとしたスタッフの方々、今回、とっても気持ちよくお仕事ができました。心から感謝しています。

それから、当日、スタジオで出演してくださった石弘之先生。石さんが冒頭で私のこのブログをご紹介くださったので、この番組のあと、新しい方からのアクセスがたくさんありました。ありがとうございました。

これからもアフリカからの発信をていねいに続けていきたいと思います。それから、皆様、患者さんの作ったビーズを販売してみよう!と思ってくださる場合は、ぜひ、私の個人メールまでご一報くださいませ。このブログのプロフィールのところに連絡先アドレスを書いています。番組でもお話したとおり、大量の在庫がありますよ〜。


生中継本番直前です。あああ、髪の毛も逆立っているし……

最後に、いろいろカメラの位置とか、音声とか、私の混沌とした事務所から本番用にPCやら電話線やらを居間に動かす作業をしてくれた家族にも感謝です。みんなありがとうね!


NHK BS-1の番組に出演します [2008年04月28日(月)]
 
まず、告白から始めましょう。

このブログに使っている私の写真、実は7年も前のものです。
で、私は、つい先日めでたく50歳になりました。
ですから、この写真に7年の歳月と幾ばくかの贅肉をぺたぺたと足していただくと、今の私の実像に近くなります。

ど、どうして、こんなことを書くかというと……。

はい、悪いことはできないものです。
Cafeglobe でのブログに使う写真を選ぶときに、日本と南アフリカの距離の大きさを理由に、

「お母さん、この写真、ちょっと、今と違うんじゃないのぉぉぉ」
という子どもたちのアドバイスを、

「う、うるさい!実際に見にくる人はいないからいいのだ!」
と無視した私にバチが当たったのです。

実は、今度、5月18日放送の、NHK BS-1『地球アゴラ』という番組に出ることになりました。この番組は、海外在住の日本人と東京のスタジオを結んで、海外の話題やそこに生きる日本人の活動を紹介する、というものです。

アフリカに住んでいると、アフリカがらみの原稿執筆の依頼だけでなく、日本のメディアからいろいろな形で出演依頼のお話をいただきます。始めのうちは、「声の出演だけなら」と思い、出来る限りお引き受けしていました。ですが、何と言っても南アと日本、時差があります。夕方から夜、あるいは録音で済めばいいのですが、いつもそうは行きません。

それに、このごろ仕事が超多忙になっていることもあって、コーディネイトの仕事も含めて、メディアのお仕事はあまりお引き受けしてきていなかったのです。

ところが、この『地球アゴラ』は、私の出番には、私の関係しているHIV/Aidsの患者さんたちのことを中心に取り上げてくださる、というのです。しかも、ビデオ撮りまでしてくださるというお話。HIV/Aids の患者さんたちの症状緩和施設、Dream Center で私が運営しているビーズワークショップ(このセンターのお話はここから)は、常に資金不足ですから、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうためなら、私はほぼ何でも!してしまうのです。

ただ、実際のビデオ撮りになって気がつきました。当然なのですが、ビデオは私が中心に撮影されていることを……。私は、普段、コーディネイトをする側に立つほうが圧倒的に多いし、また写真映りに自信があるわけでもないので、この展開に正直言ってうろたえたのでした。でも、この番組のことを一人でも多くの皆さんにお伝えするためには、このブログでもぜひ、宣伝しなくてはいけないじゃないですか。

……というわけで、今回のブログの冒頭の「告白」と相成ったのでした。


朝、Dream Center に入るところ


さて、この録画撮りの際、私は患者さんたちの言葉に改めて、深く心を動かされました。彼女たちの言語のズールー語を話せない私ができるのは、英語でのインタビューです。ですから、当然、彼女たちの思いのたけをすべて完璧にあらわしていたとは思いません。が、彼女たちの言葉の中には、私たちが「人として何をすべきか」という根源的な答えがあるのです。

今回のインタビューは、実は7ヶ月振りの作業再開でもありました。

7ヶ月も期間が開いたのには理由があります。

私は、去年、患者さんの一人の死にかなり打ちのめされました。この患者さん、ロクサーンは、こちらで言うところのカラード(混血)の女性で、その聡明さ、優しさ、美しさは他の患者さんとは違っていました。私とロクサーンはかなり親しくなり、彼女のだんだんと衰えていく心身状態をまじかで見ていくことは、私にとってかなりつらいことでした。

彼女の最後の言葉は「死にたくない」でした。
彼女のこの悲しいシンプルな願い。
わずか、29歳でこの世を去ったロクサーン。
私は約1年もロクサーンの死を引きずっていたことになります。
でも、思う存分時間をかけて、彼女の思いを引き受けよう、とも考えていました。これだけの時間が私には必要だったようです。

でも、いざ、「さあ、書き取り再開しよう」と自分を鼓舞するには、まだ何かが欠けていたようです。

ところが、今回、この番組が私の背中を押してくれました。

そうして、インタビューをしてきました。
この様子はぜひ、番組の中でご覧くださいね。また、書き取ったインタビューの内容は、ぜひ、このブログでも放送終了後に書いていきたいと思います。





番組の詳細は以下のとおりです。
5月18日(日)午後9時10分から午後9時59分の生放送。
元ザンビア大使、石弘之さんをスタジオゲストに、アメリカでくらす3〜4組の日本人を紹介し、クロストークをするアフリカ特集を放送する予定。

皆さんのご感想などもお聞かせいただければ幸いです。


カメラマンのDaneと一緒に



“性教育”への子どもの反応 [2008年01月22日(火)]
 
前回のエイズの講演についての記事にご質問をいただきました。

「小学生などの幼い子どもがこういった性教育にどんな反応をするのですか。具体的に教えてください」。

私の経験では、子どもたちは本当に素直に受け止めてくれます。その中でも、一人、とっても印象に残っている男の子がいます。アフリカのマラウィにある、英国系インターナショナルスクールに通う、英国人のアダムは当時6歳。インターナショナルスクールの1年生でした。

アダムの話の前に、アフリカのインターナショナルスクールの背景を少し説明しましょう。


マラウィの英国系インターナショナルスクールの子どもたち
各国の衣装をまとっての集会


アフリカにあるインターナショナルスクールに通う子どもたちの多くは、各国大使館や国連、国際NGO勤務の親を持ち、世界各国を2〜3年で移動させられています。ただ、アフリカにいながら、彼らの生活は、どうしても現地の人たちの暮らしから遠いところにあります。私は自分の子どもたちをマザーテレサの子どもの家に通わせながら、この活動を他の子どもたちにも広げようと奮闘していました。放課後に子どもの家の子どもたちを学校に招待して、インターナショナルスクールの教室で遊んでもらうことなども頻繁に行いました。



事実、この活動は応援してくれる先生方も増え、私がマラウィにいた頃は、子どもたちの放課後の“クラブ活動”に昇格していました。たくさんの子どもたちが協力してくれて、アダムのこのクラブの一員でした。



そして、このクラブの大切な活動のひとつが、子どもの家に寄付するおもちゃを、学校全体の生徒たちから集めることでした。ある週、集まったおもちゃを持って、数人の子どもたちと子どもの家を訪問することになりました。そこで、その前日、子どもたちを集めて、エイズ(正式にはHIV/Aids)の感染経由のこと、どうしたら自分の身体を守ることができるか、などをお話しました。

普段こういった場所とまったく接触のない子どもたちをHIVウイルスに感染している子どももたくさんいる場所に連れて行くのですから、親や学校の承諾も取り付けました。そして、何よりも子どもたちに、エイズに関しての最低限の知識を持ってもらわなくてはいけません。

エイズの感染源は血液を介すること、母乳も血液の一種であること、セックスからも感染するので、セックスをするときはコンドームをすること、などを前回ご紹介したエマニュエルの話の紙芝居も使いながら子どもたちに伝えました。

もちろん、「コンドームって何ですか」という低学年の子どもの質問にも、「セックスするときに、ペニスにかぶせるゴムのことです」という説明もしました。

年齢差のあるグループでしたが、個別に出された質問などにも答えながら、子どもたちに強調したのは、子どもの家で、もしも誰かが怪我などで出血したとしても、血液には絶対に触らないということ。そしてHIVウイルスに感染している人たちを差別しない、ということでした。

話が終わる頃には、みんなの顔に安心感がただよい、実際に明日、おもちゃを届けることへの期待感があふれていました。

さて、その後、集めたおもちゃを私の車に運ぶ際に、この6才のアダムが私に大真面目でこんな質問をしたのです。

「ミセス・ヨシムラ、明日、僕たちが子どもの家に行くときに、僕もコンドームをつけて行ったほうがいいでしょうか」

英国人の外交官の父を持つ、大人顔負けの挨拶もきちんとできる礼儀正しいアダム。彼は、幼いふっくらとした顔と頬をやや紅潮させて、私にきちんとこう質問したのです。

私は、にっこり笑って、

「いいえ、アダム、明日、あなたはコンドームをつける必要はないですよ。だって、あなたは、明日、誰ともセックスをしないと思うから!」と彼に伝えました。

それを聞いたアダムは心から安心したように笑顔を見せました。

私の話の中の、「エイズは“セックス”を介して感染する」という説明に彼の理解が追いつかなかったのでしょう。でも、その、よく分からない“セックス”をするときでも、“コンドーム”さえつければ、エイズに感染しない、ということは理解できたのです。

だからこそ、自分はその“セックス”が何かはちょっと分からないけれど、明日、万が一、それをすることになったら大変だから、自分も準備しておいたほうがいいのかも知れない、と考えたのだと思います。

私はこのやり取りを忘れることができません。6歳のアダムのこのまっすぐな質問に心を打たれました。そして、こうやって、エイズの話題を幼いころから身近にしていたら、彼は彼の年齢を重ねるたびに、エイズへの理解も深めていくのだ、と確信したのです。

当時6歳だったアダム。今ではもう中学生になっているころでしょうか。実はこのアダム、動物が大好きで将来は環境学者になりたい、という希望を語っていました。


ペットの亀と一緒のアダム

話はちょっとそれますが、彼に絡まるエピソードをもうひとつ。実は、私は彼から、なんと“日本人”である、ということだけで、感謝されたことがあるのです。

アダムは、「日本人は地球環境のために、電気で走る自動車を発明してくれました。ありがとうございます」と言ったのです。彼は、当時、アフリカでも話題に登るようになってきた日本製のハイブリッド車のことを絶賛していました。私は日本人の代表!でも、ハイブリッド車開発チームで働いているわけでもないのに、ただ、ただ、「日本人である」というだけで、このステキな将来の環境学者に感謝されてしまったのです!

ああ、子どもって、本当にステキです。そして、こういう子どもたちが成長していく過程で、避けては通れない性感染症の危険。私はエイズに限らず、子どもたちに、自分の身体は自分で守る、ということをいつでもどこでも語っていきたい、と考えています。



日本の子どもたちに伝えたかったこと [2008年01月15日(火)]
 
今回の帰国時にお話をする機会があったうち、ふたつが高校生と幼い子どもたちへ向けてのものでした。

「エイズの話を高校生や幼い子どもたちに?」

と、不思議に思われるでしょうか。

私にとってエイズの話を子どもたちにすることは、不思議なことでも、“早すぎる”トピックでもありません。幼い子どもたちや高校生たちが、私の話す内容を彼らなりのそれぞれの理解で受け止めてくれればいいからです。

また、どんなに幼い人であっても、その出来事や話が、印象的であれば、それは年月を超えてその人の記憶に刻まれることになるのではないでしょうか。

今回、私の話を聞いてくれた若い人、子どもたちは、高知県立高知東工業高等学校の500名にも上る生徒さんたちと、名古屋のモンテッソーリ瑞穂子どもの家の園児とその卒業生でした。


高知県立東工業高等学校正門前


高校生には、「エイズを含む、性感染症は自分で防ぐのよ〜!自分には関係ないと思わないで、セックスをするときにコンドームをするのは、妊娠を防ぐためだけではないことを覚えておいてね。性感染症を防ぐためには、よく知らない人とセックスをしない、そして、万が一、そういう状態に陥ったとしても、セックスをするときには、必ずコンドームをつけるんだよ!!」と思春期真っ盛りの500名の生徒にがんがんと語り掛けました。

話の途中、南アフリカのある一人の女性に対する質問を考えてもらいました。彼女のきれいな笑顔の写真を見せて、「彼女があなたの隣にいたら、どんなことを聞きたいですか」というものです。

そのとき、数名の生徒から出てきたのが、「将来の希望は何ですか」というものでした。質問を考えてもらったときは、実は彼女がエイズを発症して亡くなっていることをあえて言いませんでした。



体育館の大きなスクリーンに映された笑顔満面のこの女性が、もうエイズによって亡くなっている、ということを伝えたとき、寒い体育館の床に座らされて下を向いていた生徒たちの多くの顔が、一瞬、上を見上げました。エイズで亡くなる、という切ない現実が生徒さんの胸に届いたことを期待します。また、「自分の身体を守って欲しい。エイズに限らず、性感染症は自分で防ぐことのできる病気なのだ」というメッセージが伝われば嬉しいです。

そして、モンテッソーリ瑞穂子どもの家の子どもたち。当日集まってくれたのは、その在園生と卒業生グループ24名と保護者の方々16名でした。この子どもたちには、まず、日本、南アフリカ、そして、園とそして交流がある、モンゴルの場所を世界地図で確認しました。



そして、子どもたちに、遠い国に住んでいても日本に住んでいても、一人ひとりの子どもには、きちんと名前があって、家族がいることなどを説明しました。私は、子どもたちに、「遠い国に住む顔も知らない外国の子どもも、隣の席に座る友達も同じように大切な命を生きている」ということを理解して欲しいと思っているからです。

このことを実感してもらうために、子どもたち一人ひとりに“みかん”を渡しました。そして、自分の手のひらにある“みかん”を「自分の友達を知るようによ〜く、観察してね」と伝えました。子どもたちは、「私のみかんは、ここにへこみがある」とか、「ボクのみかんはここがとんがっている」と夢中でみかんを観察しました。

子どもたちが、「これは私のみかんだ」という確信ができていることを確認してから、改めて、みんなのみかんを中央に集めました。そして、子どもたちに、このみかんの山の中から自分の“みかん”を探し当てるようお願いしました。

すると、大多数の子どもたちが難なく、“自分のみかん”を見つけ出しました。24名の子どもたちですから、一見、同じようにみえるみかんの山から、全員が“自分のみかん”を探しだすのはそう簡単ではありません。案の定、数名の子どもたちが、自分の手にしたみかんを「これは、自分のみかんじゃない」と言い出しました。一人の子どもはちょっと泣きそうな気配。すると、何名かの子どもが、「もしかしたら、これ、私のみかんじゃないかもしれない」と言い出しました。

最終的には、子どもたち一人ひとりが“自分のみかん”と再会しました。ついでに、英語で、「これは私のみかんです」という意味の “This is my orange!”を英語で練習しました。私は英語の教師として、言葉を発する、というのは自分の感情を乗せるのだ、ということを常に訴えてきています。この時は、子どもたちに、多くのみかんの中から、自分のみかんを探し出し、それを「これは自分のみかんです」と自信を持って言うことを体験してもらいました。幼い子どもたちでも、自分のホンモノの感覚を英語でも発信できるのだ、ということを実感してくれたと思います。

その後、私の自著である、子どもの絵本、『首の長い大きな犬』を朗読しました。これは、マラウィのマザーテレサの子どもの家に実際にいた少年、エマニュエルの物語です。エマニュエルは、動物が大好きな少年でした。雑誌の切れ端に載っていたキリンのことをキリンという名前の動物である、ということを知らずに育ったアフリカの少年でした。でもこの首の長い大きな動物に大そう興味を持ったエマニュエルは、キリンを“首の長い大きな犬”と呼んで、いつか自分の目で見たい、と思っていました。

が、エマニュエルはたったの7歳でその短い生涯をエイズによって終えました。エマニュエルの両親もエイズで亡くなっていました。

瑞穂子どもの家の子どもたちは、このエイズで亡くなった自分たちと同じような年齢の子どものことを絵本で知り、エイズ、という病気がどんなに残酷に人々の命を奪っていくかを学びました。

幼い人たちに、遠いアフリカのエイズで亡くなった少年のことをいきなりお話しても、「ああ、そうなのか」という感想がせいぜいでしょう。が、人々を大きな数字や、○○人、という概念で捕らえるのではなく、隣にいるお友達のように、自分たちと同じように名前もある、家族もある、一人の子ども、という認識を持つことで、私が一番伝えたいと考えている、「共感する心」が育つのではないか、と考えます。

現在、私は日本の子どもたちに直接授業をする機会に頻繁に恵まれているわけではありません。でも、こういった機会があるたびに、アフリカのこと、エイズのことを多くの人に伝えていくことがいかに大切であるか、を改めて実感しました。

私に話しをする機会を与えてくださった、多くの関係者の皆さま、改めて御礼申し上げます。また、多くの方々に、エイズの患者さんが作成したビーズを購入していただきました。どうもありがとうございました。

HIV/Aids、アフリカ、そして子どもたち B [2007年12月10日(月)]
 
自分の子どもが大切、そして、アフリカで知り合った子どもたちのことをしっかり日本やアフリカ以外の世界にも伝えていきたい、という二つの要素が私の中で、どんどん大きくなっていった。

まず、自分の子どもたちが大切、ということが、私たち夫婦が南アフリカへ移住する、という選択に大きく影響した。アフリカのインターナショナルスクールで育った子どもたちは、日本の学校や社会にすんなり適応するのが難しくなっていたのだ。

子どもたちも、休暇で訪れた際に見聞きする、日本の社会に違和感を抱いてきていた。兄妹揃って、私たち夫婦にこんな質問をしたことがある。

「日本の子どもはどうしてあんなに大人に対して威張っているの?」

アフリカで暮らす子どもたちは、交通手段が車での移動しかないことひとつとっても、大人の存在なしでは自分たちは生活できないことを実感しながら育つ。そうすると、自然に、大人にしかできない、あるいは、大人にだけ許されている様々な“特権”が見えてくる。結果、子どもたちは、心の底から、「ああ、早く大人になりたい」という希望を抱くようになる。

こういったアフリカの環境で毎日を暮らす子どもたちにとって、日本の小学生の子どもが親にぞんざいな口調で命令したり、教室の中で、教師に向かって「うるさいんだよ」などと暴言を吐いたりするのは、考えられないことだったのだ。

そのようなあれこれの状況は、私たちに、南アフリカへの移住への一歩を歩ませた。

南アフリカには、もちろん、途上国特有の問題や治安の問題があったとしても、先進国なみの居住環境があった。インターネットもADSLが使える。レストラン、ショッピングセンターも充実している。さらに、場所さえ選べば、英語で子どもたちの教育が続けられる、という最大のメリットがあった。

もちろん、私にとっては、エイズ渦の中にいる子どもたちに近くなる、という極めて個人的な理由もあった。

そして、南アに移住してくる、ということが、私にとって、更に意味を深めたのは、この国が世界でも一、二を争うほどのHIV/Aids感染者、患者が多い地域だったということだ。

前にも書いたとおり、私は自分の子どもを守るためには何でもする。自分の子どもの前に広がる“危険”を、どうやって防いだらいいか、ということは常に考えている。この犯罪率の高い南アでは、学校の行き帰りにだって、車ごとハイジャックされる可能性もたくさんあるのだ。

だが、それ以上に、これからそれぞれのパートナーに出会うだろう、十代の子ども二人を抱えて、これだけHIV感染者の多い国に移住する、ということはどういう意味を持つのか。HIVに感染する可能性を増やす、ということになるのだろうか。

私の行動は「子どもを危険から守りたい」と願うことと、矛盾する、と思う人もいるかもしれない。

ところが、私にとって、ここに矛盾はないのだ。

何故か。それは、私は、“無知”、“無関心”、という「心の持ち方」こそが、人を危険に導く、と強く信じているからだ。

HIVは血液を介して感染する。薬害エイズが犯罪なのは、患者自身があずかり知らないところで、製薬会社がHIVウイルスに感染した薬を製造して、患者に使う、というとんでもない経緯があったから。だが、薬害エイズをのぞけば、HIVは、感染する必要のない感染症なのだ。血液を介して感染するような行為を行わなければ、血液を介して感染する感染症には罹らない。

そうだとしたら、私は、自分の子どもをHIV感染から守るために、HIV/Aidsがどういう病気なのか、HIV/Aidsの患者さんがどのような思いを抱いているかを、具体的に、継続的に自分の子どもに伝えていけばいい、と考えたのだ。HIV/Aidsのことを積極的に知ることこそが、自分をHIV/Aidsから守ることになるからだ。

私は、毎週、エイズの症状緩和措置病院に通う。そして、子どもたちは、私から、患者さんのこと、このドリームセンターのことを日常生活のひとつとして話を聞く。子どもたちにも、時間が許す限り、私のビーズ・ワークショップの手伝いをしてもらっている。

そして、親しくなった患者さんが亡くなるたびに、ショックを受け、何日も泣き暮らす私の姿を子どもたちは知っている。そんな私を見て、最初のころ、子どもたちは私にこう言った。

「お母さん、誰もお母さんに行け、と頼んでいるわけではないのに。そんなに辛かったら、行く必要はないのに……」

私は、こういって私を慰めてくれた子どもたちに、どうして私がドリームセンターに通うのか、ということを改めて説明した。私がどんなに自分の子どもである彼らを大切に思っているか、そして、マラウィで知り合ったエマニュエルたちのことを、忘れないでもっとたくさんの人たちに伝えていくためには、自分たちの生活の中に、HIV/Aidsを常に身近に感じていることが必要だ、ということを。


リロングウェの“子どもの家”の子どもたちと一緒に


私にとって、HIV/Aidsと関わるということは、ものすごく単純に、南アフリカで暮らすこと、自分の子どもたちとアフリカを楽しむことと直結しているのだ。

そして、私にとって、アフリカの子どもたちのために、こうやって文章を書くことが、どれだけ大切なことなのか、Cafeglobe の皆さんに理解していただけたら、とっても嬉しい。

HIV/Aids、アフリカ、そして子どもたち A [2007年12月03日(月)]
 
私が自分の子どもたちのために始めた、リロングウェの“子どもの家”通い。この“家”で出会った子どもたちの一人が、この画面の左がわ、私のプロフィールの写真で一緒に写っているエマニュエルだった。

彼は、動物の好きな男の子。この写真を撮った二週間後に彼はエイズの合併症の肺炎と下痢でその短い人生を閉じた。その命の終わりが間近になった数週間、私はできる限り彼の病床に足を運んだ。

エマニュエルが好きだったのは、バナナ。
エマニュエルが好きだったのは、コーラ。
エマニュエルが好きだったのは、コーラの王冠。
エマニュエルが好きだったのは、カエル。
エマニュエルが好きだったのは、蝶々。

私の知っていたエマニュエルは、統計の中の“一人のエイズ孤児”ではなくて、6歳の、元気になってくるとちょっとワガママな、一人の男の子だった。

今でも忘れられないことがある。

エマニュエルは、看護するマザーテレサのシスターたちが、「もう駄目かもしれない」という病状に何回か陥ったが、彼は何回も復活した。このころ、この“子どもの家”では、抗ウイルス剤などの投薬治療をする金銭的余裕はなかったので、治療と言っても、栄養剤を点滴したり、口から摂取できる消化のよい食べ物を与えたり、というものだった。


ほほがまだふっくらしていた頃のエマニュエル


何回目かの死線からの復活のあと、エマニュエルにしっかり意識が戻ると、彼は排泄するときに、しっかり人を呼び、オマルを要求するのだ。その頃、『吉村峰子のマラウィ私信』という、私が代表をしていた組織GITCの会員向けに書いていた文章に、こんなくだりがある。

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それにしても、私はまた子どもたちに「あきらめないこと」の大切さを教えてもらっています。誰がどう見たって、エマニュエルは死期が迫った状態でした。それがどうでしょう。今週は、おまるにしっかりとした便もするようになったのです。賢いエマニュエルは、決して粗相などしません。多分、ベッドの端に触れる だけでも激痛が走るのでは、と思うほど痩せてしまっているのですが、ちゃんと人を呼び、おまるを出してもらって排泄します。触るのが怖いほどやせ衰えた彼を介助しながらつくづく思いました。私たちは彼のこうした姿勢に、人間としての厳かな品性を教えてもらっているのです。エマニュエルはたったの6歳。ここ まで体がつらかったら、お漏らししたっていいのです。それなのに、きちんと排泄しようと、エマニュエルはがんばります。
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エマニュエルは無意識だったと思う。だが、その短い人生で、例えば、「おしっこ、うんちは、きちんとトイレでする」とは、彼が身につけていた、きちんとした生活習慣そのものだ。私は彼が誰からそれを教えられたか、想像をめぐらせた。もっともっと小さかったエマニュエルに、排泄のしつけをした人がいた、ということが、私の心を明るくした。幼い子どもが、周りの大人に、褒められながら、ときにがっかりされながら、おしっこを、ウンチをトイレで排泄できるようなる。……こんな子育てのシーンのひとつが、アフリカの小さな村であった、ということを、エマニュエルの行動の中に見ることができたからだ。

そして、彼は、最後まで、この自分に身に付いた生活習慣をしっかり守ろうとしていたのだ。私たちは、信じる人たちに教えられたことを「守ろう」と努力する。それが、大切な生活習慣であれば、その毎日の律儀な積み重ねが、生活にリズムを生み、家族という単位で行動する毎日に秩序を与えてくれる。

戦争で荒れ果てる前の、または、エイズ渦で大人がばたばた死んでしまう前の、名もない多くのアフリカの小さな村の清潔さ、穏やかさ、大人に見守られながらシアワセに暮らす子どもたちの健康的な生活を知る人間として、エマニュエルのシアワセだった日々を想像することができた。

エイズで壊滅的な打撃を受けているであろう、エマニュエルの家族が住んでいたマラウィの村にだって、こういった普通の毎日の生活が存在していた、という証が、この幼いエマニュエルの律儀さの中にあったのだ。

そして、私はこのとき、「私がこういう子どもたちのことを人に伝えていかなかったら、誰が伝えるのだろう。この子たちの生きてきた証はどこに行ってしまうのだろう」と考えた。

私に爪を毎週切って欲しい子は、爪を切ってもらうことだけが楽しみなのではない。大人に抱っこしてもらい、爪を切ってもらう時に自分に向けられた注意が嬉しいのだ。日本のお母さんたちだったら、何気なく存分にわが子に与えているこういった思いやりがこの子たちには特別なことだったのだ。


粗末ながらも、栄養の行き届いた食事で、子どもたちは子どもの家についてから、短期間でふっくら健康になる

私は、この子たちのことをしっかり受け止める人間でいたい、と思った。そして、彼らが確かに生きていたことを、世界の大人たちはもっとしっかり知るべきだと思った。せっかく同じ地球に生まれながら、文句も言わずに死んでいく幼い子どもたちのことを、もっと多くの大人たちが知るべきだと思った。そして、私には、この子たちのことを世の人に伝える責任があると思った。

私はこの子たちのお母さんにはなれないけれど、この子たちの生きてきた証を文字にして、日本の子どもたちや大人たちに伝えることはできる。それは、アフリカに居なくてもできることなのだけれど、私はこの子たちとのかかわりの中で、近い将来アフリカに自分の生活の場を移すことが極めて自然なことのように思えてきていた。


お知らせ

↓↓↓シンポジウムにご参加ください!↓↓↓

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エイズ問題学習会〜エイズの「いま」を考える
@日時:12月15日(土)夜6〜9時
A会場:豊島区立生活産業プラザ
  170-0013  豊島区東池袋1-20-15
  池袋駅東口より徒歩7分
B内容:(発言順)
  吉村峰子(南アフリカ在住):
   南アフリカのエイズをめぐる現状
  保田行雄(弁護士):
   日本のエイズをめぐる現状
  金子由美子(公立中学校養護教諭):
   性教育の今
  川田龍平(参議院議員):
   国会から
  司会:岩辺泰吏
C参加費:(会場整理費)500円
D主催:人権アクティビストの会(代表:川田龍平、事務局長:岩辺泰吏)
E参加申し込み:直接会場へ起こしください
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HIV/Aids、アフリカ、そして子どもたち @ [2007年11月26日(月)]
 
マラウィは、南部アフリカの小さな内陸国。海に面していない代わりに、国土の三分の一を占めるマラウィ湖がある。この豊かな湖のおかげで、マラウィは人口が多い。マラウィをぐるりと囲む国々は、ザンビア、タンザニア、モーザンビーク、そしてジンバブウェ。

私たちは、政府開発援助を実行する機関に勤めていた夫の赴任のため、マラウィの首都リロングウェに3年弱暮らした。私たちのリロングウェでの友人は、外国人が圧倒的に多かった。これは、夫の職業的なつながりの他に、子どもたちの通うインターナショナルスクールで出会う家族が圧倒的に各国外交官、国連職員などが多かったからだ。

そうすると、当時11歳、6歳の我が家の子どもたちのマラウィで付き合う人たちが、いわゆる、ものすごく限られた層になってしまったのだ。実際、私が特に親しくなったのは、駐マラウィ・ドイツ大使と駐マラウィ・ノルウェー大使の二家族。この二人の大使夫人たちとは、今でも仲がいい。だが、ちょっと学校の帰りに寄る友達の家が、超豪華な大使公邸、その他には、国連の高官、またはイタリア系のビジネスを手広く成功させている家族など……。これは小さなアフリカの国の首都に集う人たちゆえのコミュニティだった。

それは悪いことでは決してないのだが、私のなかで、これでは何かが違う、という気持ちが広がっていった。世界でも有数の貧困国となってしまったマラウィに住んでいながら、多くのマラウィ人の抱えるマラウィの現状を、私はまったく自分の子どもたちに見せていなかったのだ。子どもたちが日本に帰ったとき、「マラウィはどんなところなの」という質問に、「マラウィでは豪華な家に住んで、友達は外国人で、長い休みにはザンビアのサファリに行って……」では、お話にならないではないか。

そこで、私は自分の子どもたちに、問答無用でこう言い渡した。

「リロングウェに住む間、月曜の午後は“子どもの家”というところで子どもたちと一緒に遊ぶことになったから。月曜は、他の友達と遊んだり、他の用事をしないからね」

この“子どもの家”とは、マザーテレサの修道会が運営している孤児院のような施設だった。単純にこの施設が“孤児院”と呼べないのは、マラウィの法律では、“孤児”とは子どもに両親ともにいない場合を限定しているから。マザーテレサのシスターたちは、この隙間を埋めるべく奮闘していた。父親がとっくにいなくて、母親がエイズの末期で子どもの養育ができなくても、まだ生きている間は、その子どもは“孤児”とは認めてもらえず、政府の運営する孤児院に収容してもらえない、というケースが多々あったからだ。


生後数日の赤ちゃんから、15歳くらいまでの
子どもたち約100人がここで暮らしていた

この子どもの家の子どもたちは、多くがエイズ孤児だった。そして、結核を患っている子もたくさんいた。エイズは空気感染しない。エイズの感染は血液の接触を介する。つまり、エイズとは、性交渉、輸血や注射器での感染、出産時の母子感染、母乳からの感染、といった、注射器からの感染以外はかなり限定される感染病なのだ。

私は自分の子どもが何よりも可愛い。自分の子どもに降りかかる危険は身体を張ってでも阻止したい。だが、“子どもに降りかかる危険”とは何なのだろう。もちろん、交通事故とか、病気などはわかりやすい。でも、私が阻止したい“子どもに降りかかる危険”の中には、「偏った心のあり方」というものも含まれているのだ。

アフリカに住む家族として、アフリカの抱える問題を子どもから見えないようにしてしまうことから引き起こしてしまう、「自分たちには関係ない」という「偏った心のあり方」を自分の子どもに植え付けてしまう行為は、私には許せないものだった。アフリカの問題を身近に見てきた一人として、「無関心」が引き起こすマイナスのエネルギーを自分の子どもには与えたくなかった。

子どもの家に通い始めた当時は、将来、南アフリカに移住するとは思いもしなかった。でも、西アフリカのリベリアで生まれた上の息子、生後3ヶ月でエチオピアに渡った下の娘は、多くのアフリカ人の愛情をたっぷり受けてそれまで育ってきていた。私は、彼らに、アフリカを一過性の場所とは捉えて欲しくなかった。また、大きくなった彼らが、この大陸の人たちのために、感謝の気持ちをもって、何かをお返しして欲しいと思っていた。

子どもの家に定期的に通って子どもたちと遊ぶことには、確かに、エイズには感染しなくても、結核を感染してしまう可能性を含んでいた。夫ともこのことについては話し合った。結論として、血液に触るようなことは絶対にいけない、としっかり教える。そして、万が一結核に感染したとしても、結核は薬で治癒が可能なのだから、結核感染を恐れて、子どもの家に遊ぶに行かせることを躊躇する必要はなし、ということになった。

そもそも、我が家の二人は極めて健康体、めったに風邪も引かない。アフリカ暮らしなので、朝5時には起きて、夜8時には熟睡、という昔の子どものような生活がいいのかもしれない。食事もアフリカゆえ、ほとんどが手作り。添加物摂取も先進国で暮らす子どもたちよりもかなり少ないと思う。彼らは、自己免疫力が強いのだと思う。

そんなこんなで始まった子どもの家通い。子どもたちにとって、「月曜の子どもの家」は、日常の風景となっていった。

ここで私たちが何をしたか。それは、とってもシンプル。ただ遊ぶこと。本を読んだり、ボール投げをしたり。慢性的に人が足りないので、私はオシメを変えたりもしたが、最終的に私は“爪きりおばさん”になった。毎週、子どもたちをひざに抱いて、彼らの長く伸びた爪を、日本の赤ちゃん用爪きりはさみでチッチッチ、と切っていった。大人の数が圧倒的に少ないので、こういった個人的な世話をしてもらうことを子どもたちはとっても喜んでいた。


日本から届いた大型絵本を使って遊ぶ子どもたち。
右端は当時7歳だった娘、ショウコ

ある一人の女の子がいた。6歳くらいだったと思う。右手の爪を切ったあと、「左手を見せてごらん」というと、その左手を私から隠す。「???」と思い、そばにいた人に通訳してもらった。そうしたら、なんと、「またアンティに切ってもらいたいから、今度のときまでとっておく」と言うではないか。それを聞いて、私のしていたこのほんの数分の爪きりが、この女の子にとってどんな意味を持つのかがよく理解できた。

私はその子をゆっくり抱き上げて頬ずりをして、「毎週、切ってあげるからね」とささやいた。

自分の子どもたちに、マラウィの現実をしっかり体験させたい、という目的で通いはじめた子どもの家。だが、実は、ここで出会った子どもたちが、私自身の後半人生を変えてしまうとは考えていなかった。



川田龍平さんたちと一緒にシンポジウムを開催します [2007年11月19日(月)]
 
二年ぶりの私の日本一時帰国にあわせて、以下のようなシンポジウムを企画していただきました。

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エイズ問題学習会〜エイズの「いま」を考える
@日時:12月15日(土)夜6〜9時
A会場:豊島区立生活産業プラザ
  170-0013  豊島区東池袋1-20-15
  池袋駅東口より徒歩7分
B内容:(発言順)
  吉村峰子(南アフリカ在住):
   南アフリカのエイズをめぐる現状
  保田行雄(弁護士):
   日本のエイズをめぐる現状
  金子由美子(公立中学校養護教諭):
   性教育の今
  川田龍平(参議院議員):
   国会から
  司会:岩辺泰吏
C参加費:(会場整理費)500円
D主催:人権アクティビストの会(代表:川田龍平、事務局長:岩辺泰吏)
E参加申し込み:直接会場へ起こしください

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私が常々、「自分は恵まれているなぁ」と思うのが、人とのつながりです。こんなに激しく大陸間を移動しているのに、私には本当にいろいろな場所で応援してくださる方々がたくさんいます。

このシンポジウムの企画をしてくださった、人権アクティビストの会の事務局長・岩辺泰吏さん(当日は司会も担当)は、元小学校教師です。この岩辺先生との出会いも不思議、不思議。私には2000年に『公立小学校でやってみよう、英語!』(草土文化)という拙書があります。この本の企画から編集を担当してくださったのが、現在は明石書店にいらっしゃる三輪ほう子さん。



イラストは、関口シュンさん。
子どもの顔のイラストが素晴らしい。

このほう子さんの紹介で知り合いになったのが岩辺泰吏先生です。岩辺先生は、小学校教員時代から、「読書のアニマシオン」という団体の代表をされている、子どもたちに楽しい読書体験をさせる名物先生です。現在は、このアニマシオンの活動で全国の小学校や教員の研修会に出向き、アニマシオンのモデル授業や講演をされています。

でも、岩辺先生が素晴らしいのは、このアニマシオン活動だけではないのです。子どもへのまなざしの暖かさが尋常ではないのです。私は、岩辺先生の授業を見るだけで、鼻水が流れるくらいぐずぐずに泣いてしまいます。先生の子どもたちへのつながり方が胸に来ます。

そして、このほう子さん。私の『公立小学校でやってみよう、英語!』の出版祝いの席で、こう、のたまいました。

「私は、吉村先生のしていることを岩辺先生によく知って欲しくて、この本を作らせてもらったんです」

すごいですよね。その本を書いた人を目の前にして、その本が、実は、別の人へのラブレターだった、というような告白。ふふふ。私も一瞬驚きましたが、実は、私はこういう人たちが大好き。信頼関係をしっかり築き上げるからこそ、一見乱暴のようでも、こういった心の動機を正直に話せる人たち。それに、自分の仕事で、人と人をつなげることができるのは、子どもにはまだまだ真似のできない、真の大人の“楽しみ”ではないですか。

また、岩辺先生は、このシンポジウムにも参加してくださる、参議院議員の川田龍平さんを長く支援もされてきました。川田さんの新刊、『川田龍平いのちを語る』(明石書店2007年刊)の中でも、岩辺先生から語られる薬害エイズ訴訟の渦中にいた川田さんの姿が浮かび上がります。川田さんが、実質的に“カミングアウト”の決断をしたときにも、岩辺先生はその場にいて、川田さんを支えていました。そして、この本、『川田龍平いのちを語る』もほう子さんの編集なのです。

川田さんが、自分が薬害エイズの被害者であることを公式に表明してから、12年が過ぎました。そのとき、19歳の若者だった彼も、31歳。本の中でも、繰り返し発言される、「自分だけのしあわせのためでなく、みんなとしあわせを共有する社会にしていこう」が彼の生き方を象徴的に表しています。また、私の心に響く彼の言葉は、「殺されることと死ぬことは違う」というもの。エイズの患者さんと日常的に接している私にとって、ずしりと思い言葉です。

川田さんのことは多くの人が、「応援しています」と思っているはず。それが、今年の参議院の選挙でも如実に現れていました。Cafeglobe の人気連載、『エンゼルあつみの永田町観察日記』でも選挙前の川田さんの勝率は、ぎりぎりに当選か、という予測でしたが、蓋を開ければ、彼はかなり早い段階で当確を勝ち取るほど多くの人の支持を得ていました。これは、進んで彼の元に「応援しています」と伝えるかどうかは別として、「がんばれ!」と胸の中で彼を応援している人がいかに多いか、を物語っています。

その川田さんもお忙しい日程を割いて、このシンポジウムに参加してくださいます。私は、「南アフリカのエイズをめぐる現状」というタイトルでお話させていただきますが、もともと私は医療関係者ではないので、メディカルな話題、というよりも、私が毎週通うダーバンにある、エイズ症状緩和措置病院、ドリームセンターで知り合った、Cafeglobe 世代のある一人の女性のことについてお話したいと思っています。

皆様、12月はお忙しい時期だとは思いますが、ぜひ、ご参加ください。このブログでも紹介した、ドリームセンターの患者さんたちの作成したビーズのブレスレットも販売します。Cafeglobe の読者さんにはプレゼントもありますので、会場で直接私に、「Cafeglobe の読者です」と、お声をおかけくださいね。

川田さんのインタビューは、Cafeglobe のFrill me,Thrill me! でも掲載が予定されています。お楽しみに!






指先に宿るビーズの神様 [2007年10月29日(月)]
 
フィキレ・タバソ。フィキレは24歳だった。フィキレは、一見無愛想。でも、だんだん親しくなってくると、照れ笑いに近いような笑顔を頻繁に見せてくれるようになった。

彼女は、彼女のお祖母さんの元に残してきた最愛の5歳の一人息子のことを考える他に、このドリームセンターでの毎日に新しい楽しみを見つけた。

ダーバンがあるクワズール・ナタール州は、南アフリカの中でも、ZULU(ズール)族という南ア黒人最大部族の人が多く住む地域だ。ズール族は、ビーズを用いた装飾品を伝統工芸としている。だが、ドリームセンターの多くの患者さんたちはダーバン近郊の都市に暮らす人たちなので、伝統工芸としてのビーズ細工が彼らの生活の一部とはなっていない。残念ながら、多くの場合、間借り生活を強いられる都市生活ではそういった工芸などを楽しむ余裕がないのだ。


ダーバン市内のHIV・Aidsの他の病院で作成、販売されている伝統的なパターンのネックレス。ちょっと大きめのデザイン



同じ病院で販売されていた、これは小さめの財布



これは、路上で販売されていたカメレオン


また、彼らは、装飾品などにはあまり縁のない生活をしてきた人がほとんどだ。フィキレもその一人。だが、最初から、彼女はその熱心さ、色の選択、細かい作業の丁寧さなどが他の患者さんとは違っていた。ビーズを作成し始めて、そんなに時間が経つこともなく、彼女の作るものには彼女の個性が表現されていた。彼女の指先には、ズール族のビーズの神様が宿っていたのだ。

それは、私にとって、心が震える経験だった。

彼女が幾多の辛い経験を経たあとで、ぼろぼろになりながらもたどり着いたドリームセンター。そこで、彼女は、自分でも知らなかった、自分の才能にめぐり合ったのだ。

私が30年近く前に、教師の道を歩み始めた時、出会ったのは「教育」という、もともとの言葉の意味を、現役の教師も多くいた教育学の大学院の授業で生徒たちに説く老教授だった。

「EDUCATIONとは、“L.educatio” が語源で、 その人のもっているものを引き出すという意味です」と言う。私たち教師は、数学を、科学を、語学を、体育を使って、自分の目の前に存在している生徒たちの無限の可能性を引き出すのが使命なのだ、と教えられたのだ。

この言葉は、教育に関わる仕事をしてきた私が、幾度となくくじけそうになったときに私を支えた。教える場所が学校でなくても構わない。生徒の数がどんなに少なくても構わない。教師とは、自分の教える生徒の持つ可能性を最大限に引き出すのがその一番大切な役目なのだ、という老教授の教え。私はそれを愚直に信じて今まで教師をしてきた。

フィキレは17歳のときに、ナイジェリア出身の麻薬の密売人と恋におちた。間もなく妊娠し男の子を出産する。フィキレは小学3年生くらいまでしか学校に行っていない。

息子の父親の話になると、彼女は、頬を上気させて、「とってもハンサムで、お金持ちで、やさしくて、本当にいい人なの」と嬉しそうに言った。

「そんなに優しい彼はいまどこにいるの」と、私はいじわるな質問をした。すると、彼女は、まるでお天気の話をするように、「警察に捕まって、ナイジェリアに強制送還させられたの。いま、ラゴスの刑務所で、20年の服役をしているところ」だという言うではないか。

彼女の話をよくよく聞いていくと、その彼は自分の息子の誕生前に南アの警察に捕まったらしい。つまり、彼は、自分の息子の顔さえ見たことがないのだ。フィキレは、私の、「あなたのHIV感染はその彼からなの」という質問には悲しそうに首を振った。

これは、映画の中の話だろうか。麻薬密売人との恋。10代での妊娠。そして、警察に捕まり強制送還された最愛の男性。その絶望とあきらめの中でのHIV感染。

彼女は私たちとそんなに違う人間だろうか。

私はそうは思わない。彼女が成長する過程で、彼女のような南アの貧しい層にも、きちんとした職業教育、性教育が早いうちから実施されていたら、きっと彼女の人生も違っていたはずだ。私は聡明な彼女がきちんとした学校教育の機会を享受できなかったことを悔しく思う。彼女を取り巻く貧困を悲しく思う。

ある日、フィキレは、私と、このビーズ教室を最初に助けてくれた私の友人のヤスコさんに「見せたいものがあるの」とささやいた。私たちは彼女の病室に連れて行かれて、ベッドの横にあった引き出しの中から大切そうに取り出した聖書を見せられた。そして、その聖書の中には、80ランド(日本円で約1300円)の現金があった。

「すごいでしょう!ビーズが売れたの、80ランドも儲かったの!」

彼女の家族は遠いところに住んでいるため、ドリームセンターにはお見舞いに来ることができない。だから彼女には、自分の作ったビーズが売れたことを一緒に喜んでくれる人がいないので、私たちに見せたかった、というのだ。

そして、彼女はこう続けた。

 「私は、これからたくさんビーズを作って売って、家を買いたいの。家を買って、妹一家と息子と一生楽しく暮したいの。そして、ナイジェリアに行って、彼に会いたいの」

フィキレが、一挙に自分の大きな夢を語った。私とヤスコさんはその嬉しそうな彼女の前にただ立ち尽くし、その彼女の大きな夢に打ち砕かれそうだった。

こんなガラスのビーズで家を買う。いったい、どのくらいの量を売ればいいのだろう。

しかし、何と言う心強い、将来への希望だろう。病院のベッドで横たわるだけだったフィキレ。昼夜、何もすることがなく、入院してから一回も会っていない息子のことを思うだけの毎日からの見事な脱却だった。そして、ビーズを作ることで生き生きと将来の希望さえもが彼女の前に見えてきたのだ。

私は、30年前の老教授の言葉を思い出していた。

「教える科目はね、何でもいいんですよ。いや、その子と共有する時間があればいいんだ。その子を信じて、その子ができること、本人さえも知らない自分の才能に気がつく、ということの素晴らしさ。人間の可能性の無限を体験させることこそが、教師の醍醐味なんです」

私はフィキレとこういった時間を共有できたことを偶然だとは思っていない。私が米国で学んだ教育の本質。私は彼女の教師ではなかったが、彼女の学びの場所作りの手伝いをさせてもらったと思っている。

フィキレはその大きな夢を実現させることもなく、エイズの合併症の結核と肺炎でその24年の生涯を閉じた。あの80ランドが聖書とともに、彼女の息子の手元に戻されたかどうかを確かめる術を私は持たない。


出来上がったイヤリングを持って嬉しそうなフィキレ


でも、私は彼女のことを絶対に忘れない。彼女の夢の大きさに打ち砕かれそうになった私自身のあの強い絶望感とともに、彼女の人生の最後に彼女が自分で発見した彼女の才能の素晴らしさも忘れない。その意味をかみ締めながら、私は次の多くのフィキレのために、毎週ビーズの教室を開いている。
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プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。