吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

2008年08月
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

小さな“優しさ” [2008年08月25日(月)]
 
日本から遊びに来てくれた友人のお嬢さんと2週間弱一緒に生活をして、ここダーバンで私が最近触れていない、“あること”に気づかされました。

その“あること”とは、そのこと自体に気づくのさえちょっと時間がかかって、でも、その後、ゆっくりと、自然に手が胸に上がってきて、くちびるがほころんで、「はぁ」、と小さなため息をつきたくなる……。それは、そんな、日本の少女の“優しさ”のことです。

南ア移住前の私の仕事は、日本の英語の先生たちに“国際理解教育”という概念を含んだ英語の教え方を、オリジナルな教材を通して伝えていくことでした。その一環として、東京の外れにあった私の自宅で開いていた教室で、私は小学生から高校生までの日本の子どもたちに囲まれていました。

そこで、繰り広げられる子どもたちの何気ない話や打ち明け話に何度胸を熱くしたことでしょう。一見、乱暴にさえ聞こえる子どもたちの中にある小さな“優しさ”。気をつけていないと、目の前をものすごい速度で通り過ぎてしまうような“優しさ”です。別の言葉でいえば、子どもたちの仲間に示すちょっとした“思いやり”でしょうか。

昭和30年代に育った私とは、明らかに異なる環境に生きる現代の日本に住む子どもたち。でも、彼らの中には時代を超えても何ら変わることのない暖かい優しさがたくさんありました。

でも、多くの大人が現代の日本の子どもを非難します。

「我慢が足りない」
「感謝を知らない」
「礼儀をわきまえない」
「人の心を分かろうとしない」

そういった批判を聞くたびに、私はこういう大人は子どもたちに心を開いてもらっていないのだろうなぁ、と思います。

子どもたちは大人と違い、自分の損得で自分を語ることはあまりないと思うのです。特に日本のように、直接的な飢餓や戦争といった大きな危険から守られている国に住む子どもたちは、大人との付き合い方が途上国の子どもたちとは異なります。

子どもたちが大人に表立った敬意を表さない風潮は、ある程度の裕福度がある社会では共通のことです。私はこれを米国でも、欧州でも、日本でも身近に見てきました。でも、これは子どもが選んでしていることではありません。だから、これをして先進国の子どもの大人への態度を非難するのはお門違いです。

現代の日本社会で起こっている子どもたちの犯罪だって、これは社会の中心にいる大人たちが猛反省することだと私は思っています。どうして、親を殺すまでに子どもたちが追い詰められているのか。しかも、親を殺す明確な理由もなしに行われるこういった事件は、個別にその理由を探すことも必要ですが、社会として何を子どもたちに示していくべきか、を大人全体が考える時期に来ていると思うのです。

さて、話は元に戻って、この14歳のリコちゃんの“優しさ”をちょっとお話しましょう。

リコちゃんとヤコちゃんは5歳違いの姉妹です。



リコちゃんはとっても真面目なお姉さんで、妹ヤコちゃんの活発で怖いもの知らず、末っ子ならではの奔放な性格にちょっとめげるときもあるのでしょう。ヤコちゃんの発言の中にちょっとずうずうしいニュアンスが続くと、「ああああ、もういい加減にして!」と思うときもあるようでした。

でも、私も二人の妹がいますから、これはもう自然な姉妹の葛藤であることがよく理解できます。

ところが、ある日のこと、買い物に出かけた先で、ヤコちゃんのことをとっても可愛らしい、と思ったインド人のおばさんから、「この子はかわいい男の子ね!」とヤコちゃんが言われたのでした。

ヤコちゃんは「えっ?いま、なんて言ったの?」と聞きます。



その時ちょうど一緒にいた姪が、そのまま英語を日本語に訳そうとしたのです。すると、リコちゃんが、ヤコちゃんに見えないように、姪に首を振って、

「ヤコが元気で可愛いい、って言っているみたいよ」

と、あえて彼女のことを男の子と間違えたことを言わせなかったのです。

これは、リコちゃんにとっては何気ないことなのかもしれません。

でも、私の周りの日本人でありながら南アフリカの社会で育つ甥や姪、ショウコなどには、ヤコちゃんが男の子に間違われたことは、そのまま本人に伝えても、何も差し障りのない程度の内容と理解しているはずです。「ははは、男の子に間違えられちゃったね!」でケロッ、と皆で大笑いしてお終い!でしょう。

でも、リコちゃんには、ヤコちゃんが、自分が男の子と間違えられたことで、あとでちょっと、「……むむむ」と、眉をひそめることが想像できてしまったのでしょう。

たまには、「ああ、うるさい妹!」と思うこともあるはずなのに、こういったとっさの時に、瞬時に相手の感じ方まで慮って、自分の行動に移せる“優しさ”は、日本の子どもたちのきらきら輝く特技だと思います。こういった細やかな思いやりがどれだけ日本の文化の中で重要視されてきたことでしょう。

リコちゃんのこの優しさは、お母さんの優しさのカーボンコピー。遠くから人を優しく慮る亜紀子さんの元で育つからこそ、こういう細やかな心遣いができる少女に育っているのです。

そして、周りにいる大人は、そういった小さな“優しさ”を身近に見かけたら、どんどん子どもたちにその素晴らしさを口に出して褒めてあげて欲しいと思います。

私は、このリコちゃんのヤコちゃんに示してくれた、この“小さな優しさ”、に触れさせてもらって、「はぁ」とため息がでて、心が軽くなりました。「ああ、なんて素敵な思いやりだろう」と、その後、何回もこのことを思い出して心が弾みました。



リコちゃん、ありがとう!

リコちゃんの優しさは本当に素敵。そして、英語だって、あのインド人のおばさんの英語がしっかり理解できた、ということはたいしたものです。自信を持ってね。

人のつながりとは不思議なもの。一回つながった線はお互いが大切に扱うことによって、太く、長く、延々と繋がっていくのです。

20年前のリコちゃんのお母さんとの出会いが、こんな形で私たちにこの素敵な日本の少女とのひと時をプレセントしてくれました。

リコちゃん、ヤコちゃん、亜紀子さん、またいつでも、アフリカに遊びにおいでね!



マディーバ、お誕生日おめでとう! [2008年07月21日(月)]
 
元・南アフリカ大統領・ネルソン・マンデラ氏が7月18日、満90歳になりました。



毎年、多くの小学校では子どもたちが彼の人生や彼のスピーチを勉強し、街中にはお祝いのポスターが見られ、テレビや新聞では彼の特集が組まれます。

アフリカの多くの国で、その時の政府のトップの誕生日に企業や有志が新聞でお祝いのメッセージを広告するのはよく行われることです。

しかし、マンデラ氏への誕生日のメッセージほど、心がこもっているものを見たことがありません。



そしてそれを読む多くの読者も、こういったメッセージを白けずに、心から感心して、ありがたく受け取るのです。発信する側と受け取る側の完璧なまでに統一された願い、それは、マンデラ氏が一日でも長くこの世に生きていて欲しい、ということです。

マンデラ氏は人種隔離政策を強いていた当時の南ア政権に“テロリスト”として捕えられ、27年間も獄中につながれていました。今年日本でも公開された、マンデラ氏の獄中の生活を描いた映画もあります。

マンデラ氏の数ある偉業の中でも彼の突出したリーダーとしての資質は、大統領に就任したあとに見せた人間としての度量の大きさです。彼は、自分を迫害し27年間も投獄し、またその政策にはむかう人間を殺すことも厭わなかった白人系南ア人たちを許し、新しい南アフリカをみんなで創り出そう、国民に訴えました。彼は全人種に公平な南アフリカになるよう大統領として活躍しました。そして、最初の任期5年が終わると、さっさと後進に道を譲ったのです。

私にとってマンデラ氏は、その名前を聞くだけで涙腺が緩むほどの人物です。彼の人生をこの原稿ですべて語ることは不可能です。が、マンデラ氏のすごさは、これだけまだ人種間の軋轢がある南アフリカでも、人種を問わず全国民に敬愛されていることでしょう。

「マディーバ……」という名前を口にして、笑顔がこぼれない南ア人に会ったことがありません。

南アフリカ人にマンデラ氏のことを尋ねると、一人ひとりの南アフリカ人が、「マディーバはね……」とマンデラ氏の愛称を使って、それぞれが知る彼のエピソードを語ってくれるはずです。

「人種差別を撤廃するために人生を賭けたヒーロー」
「生まれながらのリーダー」
「死をも恐れない民主化のリーダー」
「子どもたちを愛する大きなおじいちゃん」
「正直で、冗談好きな、シンプルな生き方を愛する人」
「“ハイ、エリザベス!”と英国の女王に電話をかける人」
「赦しと癒しの人」

これらすべてがマンデラ氏の人となりを表しているのです。

マンデラ氏、いいえ、マディーバがどんなに南ア人に誇りを与えてくれる存在かは想像に難くないと思います。

そして、私はたぶん、日本で最初にこのマンデラ氏のことを翻訳ではなく、オリジナルで子ども向けの書物にした著者なのです。その著書とは、すずき出版から出させていただいた、『チャレンジ!地球村の英語・全五巻』です。この本は図書館シリーズと呼ばれる堅牢な作りのもので、一般の読者対象ではなくて、図書館や学校で調べ学習などに使われるたぐいのものです。



実は、この出版にはかなり紆余曲折がありました。このマンデラ氏の巻を執筆している際、彼の名前や写真、または似顔絵などを使うにあたって、肖像権の問題が出てきたのです。出版社の方と数カ月に渡って調べた結果、マンデラ氏などの南アの大統領職経験者の似顔絵やイラスト、強いては彼らの名前まで、その使用にあたっては政府の許可が必要、ということがわかったのです。

当時、私はちょうど南アフリカに移住をする直前で、時期的にもこのお仕事は大変嬉しかったのでした。が、この肖像権の問題をクリアする、ということが南アのお役所仕事の不効率さを経験する“最初の一歩”だったことは後から知ることになったのです。

具体的に、要求された書類を出しても、返事はなしのつぶて。こちらの締め切りなどまったく考慮されません。でも、出版はチームワークであり、まして五冊組の図書館本の場合、ひとつでも完成が遅れると他の四冊も世に出せないことになります。

そしてついに迫ってきた日本側の印刷へ回す時期のタイムリミット。もうその時は南アにいた私は毎日のように相手側に電話していました。相手も電話の相手が私だと電話にも出てこないようにもなっていました。

相手もこれだけ毎日電話してくる私をかなりうるさいと思っていたはずです。でも、私は、「マンデラさんのことを書いているのだもの、こんなことで負けてたまるか」と思い、また、「日本の子どもたちにマンデラさんのことを知ってもらいたい」と切望していたので、ここでくじけてはマンデラ氏のことを書物にする人間として恥ずかしいではないか、とも思っていたのでした。

ただ、別ルートでの調べによると、過去の大統領の肖像権の問題については、まだ法律もきちんと制定されていなくて、許可を申請された場合にはそのつどの判断を下している、という情報も流れてきました。

そこで、私は大きな決断をしたのです。すずき出版の担当の編集者、I氏にこう伝えました。

「どうぞ、マンデラ氏の刊も含めた印刷を進めてください。万が一、肖像権でマンデラ財団か南ア政府から訴えられたら、裁判で堂々と争います。私がマンデラさんの名やイラストを使ってしようとしていることは、お金儲けではありません。日本の子どもたちにマンデラさんのことを知って欲しい、アフリカにこんなすごい人がいることを子どもたちに知らせたい、それだけです。そのことを訴えれば、マンデラさんは必ずこの出版を支持してくれるはずです」

これは、今、振り返ってみても、かなり大胆な決断でした。

でも、この印刷に“ゴーサイン”を出してほどなく、南ア政府から出版の許可が下りました。強く願えば思いは通じる、と涙が出ました。



また、その許可には何とも粋な“条件”が付けられていました。その条件とは、本の売上の1%を貧しい地域の学校に寄付する、というものでした。そして、版元のすずき出版は、毎年その約束を忠実に果たしてくれています。

日本と南アをつなぐ善意がきちんと形になりました。去年はちょっと予算が足りなかったのですが、今年は近所の学校にまた遊具のプレゼントができそうです。

マンデラ氏がどれだけ偉大な人物であるか、ほんのちょっとでもお伝えできたでしょうか。私は南アでの生活が大好きです。でも、時にはくじけそうになるときももちろんあります。でも、そんなときは、マンデラ氏の自伝 『LONG WALK to FREEDOM』 を読み返します。そうすると、心の底から「私もがんばるぞ!」と勇気が湧いてくるのです。

マンデラ氏と同じ南アフリカの空気を吸っていることさえもが私には誇らしく思えてくるのです。



あるお母さんからの感想 [2008年03月17日(月)]
 
経験主義、という言葉を聴いたことがありますか。 これは、経験至上主義、とも言われる場合もあります。つまり、自分の経験することしか信じない、自分の経験でもってのみ、物事の判断をしてしまうことを指します。

私はこれをなるべくしないように努力しています。確かに、私は考えるより行動が速いタイプの人間です。特に、大きな問題にあたるとき、うだうだ考えて実際の実行をしない、というのは私の行動パターンの中ではあまりないことかもしれません。
 
とにかく、

動いてみる

ということが私には大切です。

この動いてみる、ということの中には、もちろん、体を動かすことだけではなくて、“心”を動かしてみることも含まれます。

というと、まさに、動いて経験してみてから自分の判断を出しているようで、まさに、この「経験主義」なのでは?と思われるでしょうか。

それが、違うのです。

私にはそれこそいろいろな経験から、自分のしたこと、経験したことが、別の人にとってはまったく別の意味を持つことがあることをよく知っています。だからこそ、「自分で経験したことだけが真実だ」、という捉え方をしないのです。

そして、自分が一人で経験できることは本当に狭い、ということも骨の髄から味わっています。

そういった理由からも、私は自分の知っていることしか、得意なことしか、または、慣れ親しんでいることにしか自分の行動を広げない、または生活を限定してしまうような生き方を選びたくないのです。

具体的に、私は医療関係者でもないのに、HIV/Aidsの問題にも首をつっこみます。患者さんの枕元にたって、病院の関係者に意見を言うこともあります。

障がいを持つ子の親でもないのに、障がいを持つ子のお母さんに、「私に何ができますか」と話しかけることもあります。

実は、私はかなり以前より、"障害”の害の字は人を形容する際に使いません。"障がい”と書くようにしています。それは、この感想をくれた友人を始めとして幾人かの障がい児を育てている人が身近にいるからです。


ダーバンの郊外で。
年齢差のある子どもたちがとっても仲良く遊んでいた。
この中には足の不自由な子もいた。


私たちはときに、自分と境遇の違う人や自分とはまったく別の人生を歩く人たちに、「価値観が違うから」といってあえて距離を置くような行動をとる場合があるような気がします。

また、同じ境遇ではないから、と言って、手を差し伸べようとしている人たちを排除してしまうこともあるようです。

でも、それでは何も始まらないように思います。

私はどんなに入り口が見えにくくても、自分が何かできそうだ、という場合はそこで自分のできることを探していきます。

また逆に、相手がどんなに、勘違いに近いところで興味を持ってくれているようでも、「何かをしたい」というエネルギーを感じることができれば、そのお手伝いをするようにしています。

2008年2月18日に書かせていただいた「ザ・メモリー・キーパーズ・ドーター」の記事に友人から感想をいただきました。彼女の文章をお読みください。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


うちの小6の息子は自閉症。このところ話題の「軽度発達障がい」と呼ばれる部類の子で、一見するとそうとはわかりません。

日々、よく思い出すのは、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まる。」という、先輩お母さんの言葉。きっとそう。
 (中略)
 
今、幸せなことに私はその息子が生まれてきてくれて本当によかった、と思えるけれど、でも、やはり、うちの子自身が「生まれてきてよかった」と本当に思えるのにはやはりしんどいだろうな、と思うことはある。それには、やはり周りの理解や手助けが必要だろうな、と。
 
うちの子と暮らしていて、障がいとは、その人の中にあるのではなく、この世での生きづらさ、生きにくさとしてその人の外にあるものだと思う。たとえば、自閉症の人たちの行動、考え方などは、その独自の世界があり、それはある意味一つの「文化」とも言えるものがある。

そして、同時に自閉症はイマジネーションの障がいをもっているから、あちらの側から、こちらの側の文化を理解することが極めて難しい。要は、マジョリティとマイノリティの問題でもあり、こちらの側の理解が進めば、自閉症は生きることへの「障がい」ではなくなる日もあり得るのだと思う。
 
誤解を恐れず言えば、今は「障がいも個性」と言うにはまだ早すぎる。生きづらさとして外にある「障がい」が「障がい」でなくなったとき、初めてどの障がいについても、「障がいも個性です」という表現がマジョリティの側でもマイノリティの側でも使えるのではないか。
 
「うちの子の障がいは、きっと不妊治療に関係があると思う。どうしてもちゃんと生んであげられなくてごめんね、って思っちゃう」というお母さんの言葉も聞いたことがある。このお母さんのことを「その子を受け入れてない、障がいを受け入れていない」と非難するのは簡単だし、私自身も「『ちゃんと』って何だろう、この世に生まれることができなかったたくさんの命もある中、こうして『ちゃんと』この世の中に生まれてきたんだよ、そんな言い方したら生まれてきた子もかわいそうだよ」と答えはしたけれど……。

でも、うちの夫が言ったことがある。「不幸だと思うことから不幸が始まるのも真実。でも、誰一人として、障がいを持つ子をもちたい、と思って障がいのある子を産んだ人はいない。」それもきっと本当。
 
「他の人とはちょっと違うかもしれないけれど、でも、きっといい人生が送れると思いますよ。」と言ってくれた人もいる。本当にそう。でも、それを支えてくれているのは、他ならぬ周りの人のネットワークだ。理解してくれる、理解しようとしてくれる、困ったときに相談できる、助けてもらえる、…そんな人に囲まれてこそ、「障がいを持つ子をもっても不幸じゃない。」と言える。それ以上に、息子がいたからこそ出会えた本当にいい人、素敵な人にどれだけ恵まれていることか……。

だから、ありきたりだけれど、やっぱり一人で抱え込んで大変な思いをしている人がいるなら、まずはまわりの人とネットワークしようよ、って伝えたい。

やはり、始めに戻って、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まるんだよ」って……。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


障がいを持った人、障がいを持った子どもを持った人。生活の環境、家族の状況が異なれば、人々が同じ経験をしていないのは当然のことです。

だからこそ、私たちは別の立場からお互いを支えることができるし、助けてもらうことができます。

いつも、いつも支える側だけにいるものしんどいし、いつも、いつも支えてもらうだけじゃつまらない。

私は友人の「ネットワークを……」の声に耳を傾けたいと思います。アフリカにいて、何ができるか、またこの Cafeglobe のコミュニティで何ができるのか、いろいろ考えていきたいと思います。

立場が違うから、とか、私には想像もできない世界だから、としり込みしていたら世界は広がりません。自分の世界を広げれば、時には痛い傷を負う場合もあるけれど、未知の世界で味わうや空気は極め付きに新鮮で素敵な場合が多いと思うのです。

人と人とのつながりは間違いなく私たちを豊かにしてくれます。

それでも、

「自分に何が出来るかわからない」
「何から始めればいいかわからない」

と考えていませんか?

できることはたくさんありますよ。

まず、自分とはまったく関係ない人のことを自分のことを考えるように考えてみる、ということから始めるのはどうでしょう?


障がいのあるおばあちゃんを囲んで。アフリカでは
長老は大事にされる。このおばあちゃんも大勢の
孫に囲まれてとっても幸せだという。


ウェインズ一家 その2 Third Culture Kids [2007年08月11日(土)]
 
途上国暮らしでないと元気が出ないデイビッド。本当はカナダに戻りたいのだけれども、ダンナと子どもたちのために途上国暮らしを受けていれているオードリー。そんな二人の子どもは合計6名。それぞれがいい顔をしている。

その中でも、一番上の娘のジャネルがおもしろい。ジャネルは、セネガルでの寄宿学校の高等部を終えたあと、祖父母のいるカナダのバンクーバーへ戻り地元の大学に入学した。が、どうも何かがおかしい、と感じたそうだ。例えば、異文化理解論などの授業をとっても、その教科書に書かれている内容が「嘘くさい」と言うのだ。



彼女の話を聞いていて、思わずその状況を想像して笑ってしまった。確かに、カナダの大学で「異文化理解」を教える教授陣にも、このウェインズ一家ほどの異文化理解の人生を実践している人は少ないと思う。異文化理解を体系的に学問として学ぶのではなく、ウェインズ家の人生そのものが異文化理解なのだ。幼い頃から西アフリカのジャングルで、村人とともに育った彼女が、文献や書物から学ぶ”異文化理解を、「何かおかしい!」と判断したのはよく理解できる。

しかし、それにしても興味深いのは、ウェインズ家と吉村家の子どもたちの寄り添い方だ。再会した瞬間から、お互いがピターと隙間を埋めるように仲良くなっているのが手に取るように分かる。

Third Culture kids(以下、TCK) と呼ばれる子どもたちをご存知だろうか。これは、親に連れられて、自分の生まれた文化の外で育つ子どもたちのことを指す。母国の文化、第二の文化を経験し、この二つの文化を足した、第三の文化を独自に作り出す子どもたちのことだ。興味深いのは、このTCKたち、外の文化を知らない同じ母国文化出身の子どもたちよりも、他のTCKとの共通点が多いと言われている。その出身国、移り住んだ国が異なっていたとしてもだ。ウェインズ家と吉村家の子どもたちの波長の合方もこの学説どおりだ。



実は、今回のウェインズ家と吉村家のハイライトは、ジャネルと我が家の上の子ども、寛慈が素っ裸で映っているビデオの上映会だった。17年前のリベリア。17年分若い私たちがそれぞれの最初の子どもたちとどのように向き合っていたかがよく分かる映像だった。思春期真っ盛りのジャネルと寛慈。まあ、普通の環境で育った18歳なら、きっと親兄弟との旅行そのものにも興味を示さないかもしれない。だが、この二人は環境の厳しいアフリカ各国で育っている。自分たちの安全を確保するために、親が何をしてきたか、を目の当たりにしてきているのだ。アフリカの、大人の庇護がなければ子どもは生きてはいけない、という現実をその身で体験している子どもたちは、先進国の環境のみで育つ子どもたちとは確実に親への態度が異なる。二人は、弟妹たちの嘲笑にもたじろがず、裸で転げまわる内戦前のリベリアの映像を熱心に見つめていた。

さて、9月からジャネルは、フィリッピンにある米国系の看護大学の助産師のプログラムに入学することが決まっている。これは3年で学士も修得するもので、年11ヶ月授業の続くかなりハードなカリキュラムだ。フィリッピンにこのプログラムがある理由は、途上国勤務を希望する宣教師の子どもたちのためなのだ。ここで実施されるプログラムは、大学の敷地内に実際の産科クリニックも併設されていて、コミュニティプログラムの運営方法も同時に学ぶことができるという。

カナダでの大学教育に見切りをつけたジャネルの見事な進路変更。彼女の言った言葉が興味深い。「私はアフリカに戻ってきたい。ここが私の生きる場所なの」 

我が家の下の娘、翔子と、ウェインズ家の末娘レベッカが、「寛慈とジャネルが結婚したらいいじゃない!そうしたら、私たちは本当の家族になる!」と真剣に提案していたのが何とも愉快だった。

ウェインズ一家 その1 [2007年08月04日(土)]
 
デイビッドとオードリー、ウェインズ夫妻には6人の子どもがいる。上から、ジゃネル、ダニエル、メンワ、ジャシュワ、マシュー、そしてレベッカ。 デイビッドとオードリーはカナダ出身で、もうあれこれ20年以上も西アフリカのリベリアでクリスチャン系NGOの活動をしている。オードリーが保健婦であることもあって、彼らの主な活動は保健教育の指導だ。

私たちと彼らの出会いも20年以上前のリベリア。私たちが夫婦として初めて赴任したときのころだ。二組の夫婦の年齢が近いこともあって、私たち4人はとっても仲がいい。夫も「自分を真に理解できるのはデイビッドだけだ」と思っているようだ。

今回、このウェインズ一家総勢8名が南アの我が家を訪問。何年振りかの全員集合はとっても嬉しかった。ただ、我が家の温水タンクの容量は8人が使用することを想定されていない。きっと毎日、遅くシャワーを使った人は冷たい水しか出なかったはず。申し訳ないことだ。



さて、奥さんのオードリーは、そよ風でも飛ばされそうな可憐な女性。正直言って彼女は、気候的(湿度ほぼ毎日100%、赤道直下のジャングル地域)にも、政治的(賄賂、汚職は日常茶飯事)にも、かなり生活難易度が高いリベリアの生活を楽しむようなタイプではない。彼女は、カナダであれば何の問題もなく手に入る、少しのシリアルと新鮮な牛乳、生野菜のサラダがあれば幸せという、質素でつつましい食生活を好む。が、内戦でずたずたになったリベリアでは、これらを望むこと自体が“贅沢”となってしまう。途上国で、日本や欧米のような低温殺菌の牛乳を入手するのはほぼ不可能に近いのだ。製造設備の整っていない、また電気事情が安定していない途上国では、冷蔵の必要ない、長期保存の可能な箱入りまたは缶入り牛乳しか選択肢がない。

そして、私は知っている。オードリーは、本当はカナダで暮らしたい、ということを。

でも、リベリア育ちの5人の子どもたちも、リベリアで彼らが養子にしたメンワも、そして何より、ダンナのデイビッドがカナダでの暮らしでは、塩をまかれたナメクジのようになってしまうのだ。

カナダや日本では、お金さえあれば何でも買えるし、子どもたちをわざわざ国外の寄宿学校へ送らなくてもいい。現在のリベリアにはカナダ人の子どもが通える学校はないので、彼らは幼い頃はホームスクーリング。しかし、高校生の年ごろになると、子どもたちは親から離れてセネガルなどの寄宿学校へ進学することになる。余談だが、3年前、上の子どもたち3人は、象牙海岸の寄宿学校にいた時、政府が転覆させられた軍事クーデターに巻き込まれ、危機一髪アビジャンを脱出したこともあった。

でも、そういう苦労があったとしても、カナダに家族で帰る、というのは選択したくないようだ。私たちの家族と同じように、彼らには、先進国の暮らしはもう肌に合わなくなっているのだと思う。

何がどう合わない、という明確な答えはないのだが、強いて言えば、自分が先進国に住むことによって、手にいれてしまう「便利さ」に対する後ろめたさとでも言えばいいのだろうか。また、こういった、先進国の利点を享受することに対する、所在のはっきりしない「イライラ」を周囲に理解してもらえないことに対する焦燥感にも追い討ちをかけられる。

このことは、私たちが南アに移住する直前、カナダに住んでいた彼らを訪れた際、忙しくしているくせに生気のないデイビッドの姿を痛々しく思ったときにも感じたことだ。

いま、数々の困難を乗り越えて、新しい国づくりが始まったリベリア。彼らもリベリアに戻って活動を再開させている。生き生きとしたデイビッドと、ちょっと疲れた雰囲気のオードリー。今回の家族旅行は、最初で最後かもしれない、という。何でもフランスに住む知人が、彼らに家族旅行をプレゼントしてくれたそうだ。

(ウェインズ一家の南ア旅行は次回に続く)

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。