吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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ショウコ、14歳 [2008年05月05日(月)]
 
「お母さん、私のことはお母さんのブログにいつ書くの」

と言っていたのは、娘・ショウコ。5歳年上の兄カンジがこのブログに登場する機会が今まで自分より多い、と思っていたようでした。

ショウコのショウは飛翔の翔と書きます。ショウコは、1994年4月27日生まれで今年14歳になりました。

ショウコの生まれたこの1994年の4月27日は、南アで初の歴史的な、全人種参加の選挙が行われた日なのです。今ではこの日は、“Freedom Day”として南アの休日です。つまり、ショウコの誕生日は毎年、祝日ということです。

ショウコは生後三ヶ月でエチオピアに渡り、その後、マラウィでの2年半の生活を経てこの南アフリカ・ダーバンに来ました。

日本で通った小学校の日々はあまりにも短く、ショウコの脳裏に鮮明なのは、2歳途中から卒園までお世話になった日本の保育園です。その保育園で、きれいな優しいお姉さん先生たちとたっぷり遊んだあとに、マラウィの英国系インターナショナルスクールで学校生活が始まりました。

マラウィに行った当初は英語のエの字も分からなかったショウコ。彼女のように幼いころから徹底的なポジティブ思考の子どもでも、その英語を理解する過程は厳しく、つらいものがありました。

私は語学教育の専門家です。過去30年に渡り、子どもから大人の外国語学習を研究、実践してきました。ですから、以下のような巷に流れる、子どもと語学にまつわる“神話”には文字通り、体を張って異議を唱えてきました。

「子どもは語学の天才」
「その環境に投げ入れれば言葉はすぐ覚える」
「英語を学ぶのなら、幼いうちから英語漬けにすべき」

考えてみてくださいね。これらが、子どもの側に立ってみれば、いかに迷惑な「大人の側の思い込み」であるかがお分かりいただけるでしょうか。万人共通の学びなど存在するわけもなく、学びの過程はそれぞれユニークだと言うのに、どうしてこんな大雑把な思い込みで子どもたちを追い詰めるのでしょう。英語圏からの帰国子女の子どもたちが、もしも流暢に英語を話していたとしたら、それはその子たちの涙ぐましいほどの努力の成果なのです。決してある日突然英語が話せるようになったのではないのです。

はい、断言しておきましょうね。たとえ子どもでも、異言語の環境にただ身を置いただけでその言語を簡単に学べる、というのはありえないのです。まして、読み書きも含めた高いレベルでの言語能力習得には膨大な時間と多くの努力が必要なのです。

ショウコもこの例にもれませんでした。ただ、ショウコの場合、彼女の持つなみなみならぬ好奇心(兄に言わせるとお節介さ!)と、どんな状況にもめげない、くじけないという性格、そしてほぼ絶えることのない笑顔でもって、お友達にも先生たちにも愛されて、いつの間にか英語での授業にもついていけるようになりました。今では、生活言語としては日本語よりも英語のほうがスムーズになってきています。この言語の優先順位が逆転したのは、英語で学校に行き始めて5年ほど経ったころでした。

私は母として、語学教育の専門家として、異文化の中で育つ自分の子どもたちに身につけて欲しかったのは、英語を流暢に話すことでも、日本語と英語のバイリンガルになることでもありませんでした。

私は彼らに、自分たちの個性(日本人でありながらアフリカに生活することも含めた独自性)を肯定する能力を身につけて欲しいと思い、それが可能になるよう努力してきました。それが達成できて、初めて、他の人の人生にも積極的に係ることのできる力をつけることができる、と考えているからです。

その例を一つ紹介しましょう。マラウィで学校に行き始めたころ、インターナショナルスクールの先生たちから、「英語を学んでいるのですから、家でも英語で話すようにしてください」と言われました。でも、私は、きっぱりと、「いいえ、我が家の言語は日本語です。彼らは昼間、懸命に英語を学ぶ努力をしています。家は彼らがリラックスする場所ですから私は彼らが一番安心できる言語で彼らをサポートしたいと思っています。家では日本語を話します」と伝えました。

でもショウコと兄のカンジは、学校以外にもマザーテレサの子どもの家に毎週訪れ子どもたちと遊んだり、インターナショナルスクールに集う国際色豊かな友人たちと交わっているうちに、「しっかり英語を学ばなくては」という意識が芽生えてきました。子どもたち自身にこういった覚悟が出来てくると、その学びの速度もぐんぐんと速まっていくようでした。

さて、南ア生活5年目の今年、ショウコが入学したのは、家から50キロほど離れた女子高の寄宿学校です。南アフリカの学校制度は日本のそれと大きく異なります。小学校は1年生から3年生までが一区切り。この学年層をジュニア・プライマリーとし、4年生から7年生(日本の中学校1年)までをシニア・プライマリーと区別します。その後、8年生(日本の中学2年生)から12年生までが5年制の高校となるのです。


ホッケーのチームメイトと一緒に。
週一回の練習と週一回の対抗試合が組まれている。

ショウコは、自分からこの寄宿学校の入学を決めました。しかも、受験する前から、「私、高校はEpworth(高校の名前)に行くの!」と言い広めているではありませんか!日本での受験競争とは比べ物にならないまでも、さすがに、受験で振り落とされる場合だってあるはずです。

「ショウコ、きちんと試験を受けて、学校から入学許可をもらってから皆に言ったほうがいいんじゃないの?」

というと、本人はキョトンとした顔で、

「どうして、お母さん?私、成績は80%近いし、スポーツだって、ウォーターポロ(水球)、ネットボール、ホッケーの選手だし、お友達もいっぱいいるし、先生だってショウコのこといつもほめてくれるし、Epworthが私を入れてくれないはずがないでしょう?」
と真顔での答え。

う〜ん、確かに。しかし、私たちの日本文化には、“謙遜”という心構えもあるのだがなぁ、と説得力のないことを考えていました。

そして、筆記試験やら、上級生に混じって実際の寮での宿泊体験(これも寮担当の先生がその様子を観察している試験のようなもの)やら、一連の入学試験の最終テストは校長先生との親子面談でした。

その席で、校長先生が、
「ショウコ、ご両親から離れて寮生活をすることをどう思いますか」と聞きました。

すると、本人、笑顔満開、大きな声で、
「もう楽しみで、楽しみで、待ち切れません!」というではありませんか。

そこで、私とショウコは顔を見合せて大笑いをしてしまったのです。だって、家が嫌で離れたい、というのとはまったく違う、彼女の前しか見ない、肯定的なことしか考えない、という性格が見事に反映された答えだったからです。

涙が出るほど笑いあっているショウコと私を見て、校長先生も嬉しそうに頷きました。

「家族から離れた生活もあなたはまったく心配なさそうですね」

ショウコは本人の予測通り、めでたく合格しました。私は彼女が、自分の個性をきちんと見据え、毎日、24時間を共有する仲間たちと語り合い、競い合い、励ましあいながら、この貴重な5年間を過ごして欲しいと思っています。


ショウコの寮の部屋。
出入り口のドアはなく、カーテンで仕切られている。

南アの新学期は毎年1月で、もう早くも半年が過ぎようとしています。ショウコは金曜の午後学校のバスで帰ってきて、月曜の朝、また同じバスで学校に戻る生活をるんるんと楽しんでいます。

ショウコの学校での生活はまたの機会にゆずることにしましょう。


学校のあるダーバンから50キロ離れたピーターマリッツバーグ
は歴史のある街で、多くの寄宿学校があることでも有名。
ここは学校のとなりの広々としたスポーツ場

元気の素の処方箋 [2008年03月03日(月)]
 
私はよく、
「その元気はどこから?」
「そのパワーの源は?」
という質問をされる。

自分ではそんなにパワー全開で立ち回っているつもりはないのだが、多くの人がそう言ってくれる。

そこで、理由を考えてみた。

一、体が大きいので、いかにも元気そうに見える。
二、声が大きい。声が大きいと元気そうに聞こえる。
三、繰り返しがぜんぜん嫌ではない。

最初の二つは分かりやすいと思う。
が、最後の「繰り返しが嫌ではない」には説明が必要かもしれない。

私は、同じことを何回も繰り返すこと、またはひとつのことを継続することの大切さを自分の仕事や自分が関わってきたさまざまな人とのつながりの中で学んできた。

仕事でも、仕事以外の場でも、一回、「やりましょう」と決めたことを、愚直に、誠実に、実行することの大切さだ。

そして、この、一回限りではなくて、「継続する」ということが、どうして「元気に見える」ことにつながるか、というかと……。

継続してひとつの行動をする、ということは、その同じ人がコンスタントにその“場”にいる、ということになるのではないだろうか。もちろん、それが毎日でなくてもいいのだ。だが、多くの人、特に助けを必要としている境遇にいる人たちにとって、同じ人が同じ笑顔でそこにいる、ということは、大きな励ましになるのだと思う。何をするか、ということの前に、「そこにいる」という単純な行動。

つまり、“安心感”なのだと思う。

私はこれが得意なのだ。体の大きさ、声の大きさとあわさって、私の元気に見えるヒミツは、この「継続することによって、人に安心感を与える」ということなのだと思う。

そして、これが「言うが易し」であることも私は知っている。

仕事が終わらない、とか、急な用事ができた、とか。
私たちの毎日は本当に忙しい。

でも、私は人とした約束を破ることはめったにない。破るときはその理由を明確に説明して、平謝りする。時にはどうしても約束を破らなくてはいけない場合もあるが、信頼関係があればそれは後で何とでもなるものだ。

そして、目の前に次々に起きてくる用事をなるべくその重要さにおいて順序をつけないようにしている。たまには、「うわ〜、あと一日早くそれを言ってくれていたら!」とため息をつくこともあるが、基本的に約束をしたらそれを守る。

つまり、自分のできること、約束したことを単純に愚直に実行する、というきわめてシンプルな生活信条が私の“元気”を支えている、ということなのかもしれない。

そうしてもうひとつ、実はマウイの神宮寺愛ちゃんに指摘されたことがある。

「私たちはたぶん、ずっと火事場の馬鹿力のまま進むんだと思うよ」

実は、彼女もライター家業の他に、プロのフラダンサーとして毎日ショウに出演している超多忙な毎日を送る人だ。その上、彼女の愛娘はまだとっても幼い。ウチの大学生と中学生の子どもたちの世話にかかる時間の数倍はまだかかって当然の年齢だ。彼女こそ、毎日の仕事や約束の他に、別のことなど考える隙間がないくらい忙しいと思う。

でも、愛ちゃんも私も、仕事とか、金銭的な優先順位とか、一切関係なく、

いざ、

「これは私の出番だな」

と思うときは、後先関係なく、それこそ、“火事場の馬鹿力”を出して首を、頭を突っ込んでいく。それを支えてくれている家族友人には多くの迷惑をかけているのも承知の上で。

そうなのだ。

私の“元気の素の処方箋”とは、実は、この“無計画性”にあると言ってもいいのかもしれない。“継続すること”と“無計画性”、一見、相容れないような性格のものだが、私はこの二つの状態で自分が生活していることにそう矛盾は感じていない。

そして、確かにじっくり考えてみれば、私には、長期的展望、というものがない。困ったことに、夫婦揃って、ない。正直言って、家族で南アまで移住してきても、仕事以外の面で、「10年後にはこういうことをしよう」とか、「こういう老後を送りたい」といった生活設計など立てたこともないのだ。老後はどうやって過ごすべきか、経済的なことはどうするのか、などということも考えたことがない。

ただ、戦争がない世の中になって欲しい、世界中の子どもたちが夜お腹をすかせたまま眠りにつくことがないような世の中になって欲しい、というかなり大規模な願いがいつも心にある。でも、自分のすぐ先の未来の計画はあまり考えたこともない。恥ずかしながら、目の前に起きる仕事やら出来事を懸命にこなしている、といったほうがいいのかもしれない。

だが、今年、50歳にもなる私。もうちょっと分別が出てきてもいいのかも知れないとも思い始めている。




“同じこと”の繰り返しが自分の好きなことなら
まったく苦にならない大将がここにも。
大学生になったいまでも、
スケボーへの情熱は冷めませんとも!


アフリカに遊びにおいで! [2007年10月22日(月)]
 
Cafeglobe ユーザーの皆さま、
南アフリカ・ダーバンからはじめまして!
吉村峰子と申します。

これまで、Cafeglobe の World News Cafe でも南部アフリカ発の記事を書かせていただいていましたが、この度、改めて、Cafeglobe の連載コンテンツとしてスタートすることになりました。

私の詳しいプロフィールはこちらから。

さて、南アフリカ、現在、国中が大騒ぎです!

先週の土曜日(2007年10月20日)、南アフリカのナショナルチームが、フランスで開催されていたラグビーのワールドカップで優勝し、まだまだ、国中が興奮状態に陥っています。チームカラーであるグリーンとゴールドのユニフォームを着たり、顔をこの二色にペイントしたり……。同色のチームの旗が町中にあふれています。2010年のサッカー・ワールドカップの南アでの開催も決まっています。世界で、南アの存在感がぐっと増すことになりそうです。


南アの英字新聞なのに、フランス語で書かれた見出し。
"Bokke" はチームの愛称。中央にムベキ大統領の顔も見える。
トロフィーを掲げているのが、キャプテンのジョン・スミット氏


今回、南アが優勝したラグビーですが、日本ではあまりメジャーなスポーツではないものの、世界では歴史的に英国に関係の深い国々、オーストラリア、ニュージーランド、南ア、などで大変人気があります。南アのワールドカップでの優勝は二回目です。今回優勝をかけて戦った英国とともに、過去6回開かれた大会で二度優勝している国は南アと英国だけです。

南アはアパルトヘイト(人種隔離政策)が終焉したあと、27年間も獄中にあった、ネルソン・マンデラ氏を大統領に選出(現在の大統領はターボ・ムベキ氏)し、全人種が平等に平和に暮らせるよう、各方面での努力が続けられています。しかし、南アの社会はまだまだ“住み分け文化”です。黒人は黒人のコミュニティがあり、白人は白人、カラード(混血)はカラードと、お互い職場で仕事は一緒にしても、暮らしの場においては、まだまだ交流がスムーズではありません。が、今回のラグビーのチームなどでは、スポーツに秀でた選手たちに人種の壁はないようでした。南アの選手たちが、南アの国家を聞きながら涙を流す姿には、南アの厳しい社会状況を知る私にも胸に迫るものがありました。

皆さまにとって、“アフリカ”は、どんな場所でしょうか。

私にとっての“アフリカ”は、旅行で訪れる場所でも、ニュースで流れてくる危険情報や戦争の起こっている場所でもありません。

アフリカは、私と私の家族、夫、18歳の息子、13歳の娘が生活する場所です。

私たち家族は、日本とアフリカ各地を交互に駐在する生活を20年ほど続けた後に、家族全員で南アフリカのダーバンに移住してきました。

「えっ、アフリカに移住?日本の仕事を辞めてアフリカに?」
「どうしてアフリカ?」
「ええええ!10代の子どもを連れて??」

とは、私たちの移住のことを聞いた、多くの友人・知人たちからの質問でした。

ふふふ。どうしてでしょうね?

それは、これからこの連載を通して皆さんにお伝えしていきたいと思います。

私たちの暮らすダーバンは一年を通して気候が温暖で、サーフィンのできる海があり、欧米のブランドが揃うショッピングセンターもかなり充実しています。また、自宅や事務所ではインターネットもADSLが使える、といった先進国並みの環境もあり、皆さんのイメージする“アフリカ”とはまた別の世界かもしれません。

でも、ちょっと南アの社会を見回すと、そこには、犯罪、貧困、HIV・Aids……といった厳しい問題が山積み。それらを解決するには、まだまだ遠い道のりがあります。でも、その厳しい現実の足元には、雄大な自然、豊富な地下資源があり、そして、何とか自分たちの生活を良くしようと努力する人々がいます。

私と私の家族は、その、混乱に満ちつつも未来への希望がたくさんある南アの社会で、それぞれが、さまざまな困難と格闘しながらも、一生懸命生活しています。

私はここ30年ほど日本と米国、欧州、アフリカの地を交互に生活してきました。日本での10代後半までの生活。1970年代後半から80年代前半にかけての米国、欧州での学生時代。米国から帰国した後での日本での教師としての経験。そして、1980年代後半から足を踏み入れた、このアフリカ大陸での暮し。それと、1991年から2004年まで有能なスタッフとともに奮闘した、「日本の英語教育を変える!」という理想に燃えた民間教育団体を主宰した13年間。

これら全部が、2007年10月現在、南アフリカ・ダーバンに暮す、ということに結びついているようです。すべての出来事、楽しいこと、苦しいこと、震える出会い、苦い経験までもが、それぞれ必然性を帯びてそこにあったことがよく判る年齢になりました。

それだって、いまだに、毎日の暮らしは「平穏な日々」とは決して言えません。毎週通う、エイズ患者さんのベッドの横では世の中の不条理に憤り、頻繁に訪れる彼らの死には毎回打ちのめされます。日本語の教室ではひらがな、カタカナ、漢字を教えながら日本語の素晴らしさにうっとり。家の中では、弁当箱を出し忘れている息子を怒鳴り、バイクで通学する彼の後姿に毎朝心が痛くなります。また、靴の底に穴があくほど活発な娘の足のサイズが27センチになっていることに驚嘆したり、彼女の正真正銘の南アフリカ英語に“にんまり”したり。そして、インド洋で一本釣りされたまぐろに舌鼓を打ち、また、すっかりアルコールに弱くなってすぐ酔っ払う夫に怒ったり……。毎日がいまだに心も身体もフル回転です。


晴れた日にはダーバンの海が遠くに見える萱葺屋根の我が家


これは、いわば、私の「アフリカ365日」です。そんな私の日常をお届けすることで、皆さんとアフリカの距離が少しでも近くなるといいな、と願っています。そして、皆さんが「遊びに行ってみようかな」とアフリカが身近に思えるようになることを願いつつ。


アフリカの空と萱葺き屋根はよく調和している。
ダーバンの温暖な気候と天井の高いこの家では、
一年を通して冷暖房を使わない生活が可能。





カンジ、18歳 [2007年09月09日(日)]
 
我が家の住人の一人、カンジ。今年彼は18歳になった。我が家は夫と私、息子のカンジ、そして娘ショウコ13歳がそのメンバーだ。その他、SPCAという動物愛護団体から引き受けた二匹の犬が、一年を通して外の気温にそう左右されない、究極の天然素材、萱葺きの大屋根の家で暮らしている。

カンジの2007年9月の現在。南アの高校の最終学年ということもあり、卒業認定試験のため、かなりの時間を勉強に使っている。南アの大学入学資格は高校の成績で決定される。そのため、志望の大学の行きたい学部の基準値を調べて、その基準値を超えるべくこの最終学年の評価をよいものにしなくてはいけないのだ。南アには学習塾はないので、それぞれの科目を教えるプライベートの家庭教師を何人かハシゴしながらがんばっている。

カンジは、シンプルに“いいオトコのコ”だと思う。しかし、「いつも穏やかな」、という表現は当たらない。カンジは、その行動や考え方がちょっとユニークで、周りの人間が「ああ、そんな風な考え方もあるのか」と、ストンと納得したくなるような存在感をもつオトコなのだ。そして、いま、彼は、彼なりの18歳の不安、フラストレーション、希望、野心、そんなものをすべてその身に抱えつつ、ゆっくり、じっくり、いいオトコのコから“いいオトコ”に脱皮しつつある。

彼は子どものころ、彼と接したたくさんの大人に、「こんなに子どもらしい子どもに、このごろ会ったことがない」と、感嘆ともいえる感想をもたれる子どもだった。カンジの18年の人生には、アフリカと日本を交互に生活した異文化での葛藤がそのまま反映されている。リベリアで生まれ、エチオピアで学校に行き始め、東京の郊外の公立小学校で5年生まで存分に遊び、その後マラウィ、南アで思春期を過ごしているカンジ。カンジは自分のこれからの人生をアフリカで過ごすことも自分でも選択した。

最近、日本のニュースを読んでいた時、「暖かいもの」、「優しいもの」に囲まれていない日本人、という表現を知った。日本の都会では、”切れる大人”が多く、医療機関、交通機関などでそういう人たちが、医師や職員に暴力を振るうのだそうだ。彼らは、自分たちの周りにストレスが多く、本当は彼らが持っていたはずの「暖かいこと・もの・ひと」、「優しいこと・もの・ひと」の存在を忘れ、さらにそれらに囲まれてもいないらしい。

ふと、カンジがまだ幼いころのことを思い出した。

カンジが8歳、従兄弟のアジーノが2歳くらいだった。アジーノの家族と一緒に食事をしたあと、大人たちは寛いでいた。すると、アジーノが本棚の上の何かを見つけて、「とって、とって」と騒ぎ始めた。

私は、そばにいたカンジに、「とってあげてね」と一言頼んだ。

するとカンジは、ゆっくりと立ち上がり、その幼いアジーノの脇の下に、自分の手をすっと入れて、アジーノを抱き上げた。そして、アジーノのその小さい手が彼の欲しがっている本棚の上の“何か”に届くようにした。

カンジは、その何かを「とってあげた」のではなく、アジーノが自分でそれを「とれるよう」にしたのだ。

彼のその一連の動きは数秒のことだったと思う。でも、その何気ないカンジの動作に私は激しく動かされた。

その、カンジにとっては、あまりも自然でありながら、カンジにしかできないカンジの動き。私はこのカンジの所作に感動してしばらく動けなくなった、自分が彼の母親であるとか、彼が8歳の幼い少年である、とか言うことを超越した感動だった。

カンジは、幼いころから今に至るまで、機転をさっと利かせて立ち回るすばしっこいオトコではない。どちらかというと、不器用で自分の世界にどっぷりと入っているオトコなのだ。18歳の現在も勉強のほかにしたいことは、いまだにスケートボード、爬虫類のペットをめでること、そしてジャック・ジョンソンの音楽に浸ること。

この8歳のカンジのこの行動に、私は彼の魂のあり方を見る思いだった。そして、それが無意識にできる彼の器量に感嘆した。私は、人を慮る、人のために何かをする、というときに、完全にその人の側に立てる人間というのはものすごいことだと思うのだ。人間になってまだ8年しか経っていないこの時のカンジ。子どもを見守る年月の中での、その奇跡のようなひとつひとつの瞬間の大切さを実感しながら、私は彼のその前に広がるその大きな可能性に胸がどきどきした。

これは、もう10年も前のことだけれど、いまだに私の心を暖かくする。そして、私は、こんな「暖かい、優しい魂」の側にいられるということに単純に感謝してしまう。

……もちろん、朝、いくら起こしても起きてこないカンジを怒鳴る朝も、こういう「暖かい魂のそばにいる幸せ」と平行線であることは間違いないのだけれど。




プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。