吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

2008年03月
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12年ぶりのエチオピア [2008年03月24日(月)]
 
「この人たち、どうしてこんなにボクたちに親切にしてくれるの?」

が、今年19歳になる息子カンジが最初に発した言葉でした。

私たちはいまエチオピアを訪問しています。


エチオピアのコーヒーセレモニー


私たちに親切をしてくれている人たちとは、私の友人のエチオピア人ご家族です。ずうずうしいことに、私たちは、この日本人の友人の12年ぶりのエチオピア訪問に便乗させてもらっているのです。

私たち家族は1993年から1996年にかけて、エチオピアの首都アディスアベバに滞在していました。ショウコは、生後3ヶ月でエチオピアに連れて行ったので、彼女の人生の最初の日々はこのアディスで始まった、と言っても過言ではありません。

さて、この友人とは、エチオピア人の夫を持つ日本人女性、ヨシコさん。二人のお子さんとともに、現在は英国に住んでいます。彼女の夫、エフレムは、仕事の都合で英国とアフリカを行き来する毎日です。


アディス市内のセントメリー教会


同じような年頃の子どもを持つ私たちは、お互いがエチオピアに滞在している時に知り合い仲良くなったのです。そして、偶然なのですが、彼女たちも私たちもちょうど12年前にエチオピアを離れました。彼女たち一家はネパールへ、私たちは日本へと移動したのです。

私たちが日本での仕事を整理して、南アフリカに移住した理由の中のひとつに、アフリカの各国で知り合った人々のつながりがあります。

アフリカでの人と人とのつながりは、先進国で住む人にはもしかしたら、“わずらわしい”と感じるようなものが含まれているかもしれません。または、密度が濃い、とも言えるかもしれません。

今回の私たちの訪問でも、私たちはこのテゲレ一家の兄嫁の友人、ということだけで、上げ膳据え膳の大歓迎を受けているのです。

「ヨシコの友人は私の大切な客人です。ここでの滞在を心から楽しんでください」

とのテゲレの一言。良くも悪くも家長制度がまだまだ色強く残っているエチオピア。私たちは、ただただ単純に、兄嫁の友人、ということだけで、本当に冒頭のカンジのコトバ、

「この人たち、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

という大変幸せな毎日を送らせてもらっているのです。しかも、朝昼晩、美味しい自家製インジェラ食べ放題というおまけつきで!もちろん、この一家に私の友人ヨシコさんがいかに大切にされているか、ということを忘れてはいけませんが。

実は、エチオピアを訪問した目的のひとつは、ずばり、こういったアフリカの人々の生活を子どもたちに実際に見て欲しかったからです。


テゲレ家の末娘ミトゥ


今回、ホテルに滞在することもできたのですが、ホテルに滞在してしまうと、現地の普通の人の生活が見えてきません。もちろん、テゲレ一家は裕福な開業医ですので、テゲレ一家が一般的なエチオピア人家庭かというとちょっと語弊がありますが。

でも、一家が、お父さんのテゲレを中心に、早朝から深夜まで一定のハーモニーを保ちながらそれぞれの役割を機嫌よくこなしているのがよく分かります。皆が自分の一族の中での役割に充足しているかのようなハーモニーです。

まだ数日しか滞在させてもらっていないのですが、このリズムは南アフリカで核家族として生活している私たちには味わえない種類の心地よさのような気がします。

どの家族にも問題はあるでしょう。テゲレ一家にも、私がうかがい知れない悩みだってあるでしょう。でも、ここには、ご主人を亡くされた、テゲレの奥さんのお姉さん一家も自然に一緒に住んでいます。また、テゲレの病院で働く多くのスタッフが始終出入りしています。

血のつながりのあるかどうかは関係なく、皆の関わり方が本当に自然で、大きな傘の下で、ひとつの家族としての揺ぎ無い“核”が確立されているようなのです。

我が家の二人の子どもたちはこういったアフリカの多くの善良な人々に、様々な形で関わってもらいながら育ちました。私は、先進国の都市ではもうめったに見ることができないこういった家族のあり方を、今年19歳と14歳になるまでに成長した彼らにぜひもう一回身近で体験して欲しかったのです。
あるお母さんからの感想 [2008年03月17日(月)]
 
経験主義、という言葉を聴いたことがありますか。 これは、経験至上主義、とも言われる場合もあります。つまり、自分の経験することしか信じない、自分の経験でもってのみ、物事の判断をしてしまうことを指します。

私はこれをなるべくしないように努力しています。確かに、私は考えるより行動が速いタイプの人間です。特に、大きな問題にあたるとき、うだうだ考えて実際の実行をしない、というのは私の行動パターンの中ではあまりないことかもしれません。
 
とにかく、

動いてみる

ということが私には大切です。

この動いてみる、ということの中には、もちろん、体を動かすことだけではなくて、“心”を動かしてみることも含まれます。

というと、まさに、動いて経験してみてから自分の判断を出しているようで、まさに、この「経験主義」なのでは?と思われるでしょうか。

それが、違うのです。

私にはそれこそいろいろな経験から、自分のしたこと、経験したことが、別の人にとってはまったく別の意味を持つことがあることをよく知っています。だからこそ、「自分で経験したことだけが真実だ」、という捉え方をしないのです。

そして、自分が一人で経験できることは本当に狭い、ということも骨の髄から味わっています。

そういった理由からも、私は自分の知っていることしか、得意なことしか、または、慣れ親しんでいることにしか自分の行動を広げない、または生活を限定してしまうような生き方を選びたくないのです。

具体的に、私は医療関係者でもないのに、HIV/Aidsの問題にも首をつっこみます。患者さんの枕元にたって、病院の関係者に意見を言うこともあります。

障がいを持つ子の親でもないのに、障がいを持つ子のお母さんに、「私に何ができますか」と話しかけることもあります。

実は、私はかなり以前より、"障害”の害の字は人を形容する際に使いません。"障がい”と書くようにしています。それは、この感想をくれた友人を始めとして幾人かの障がい児を育てている人が身近にいるからです。


ダーバンの郊外で。
年齢差のある子どもたちがとっても仲良く遊んでいた。
この中には足の不自由な子もいた。


私たちはときに、自分と境遇の違う人や自分とはまったく別の人生を歩く人たちに、「価値観が違うから」といってあえて距離を置くような行動をとる場合があるような気がします。

また、同じ境遇ではないから、と言って、手を差し伸べようとしている人たちを排除してしまうこともあるようです。

でも、それでは何も始まらないように思います。

私はどんなに入り口が見えにくくても、自分が何かできそうだ、という場合はそこで自分のできることを探していきます。

また逆に、相手がどんなに、勘違いに近いところで興味を持ってくれているようでも、「何かをしたい」というエネルギーを感じることができれば、そのお手伝いをするようにしています。

2008年2月18日に書かせていただいた「ザ・メモリー・キーパーズ・ドーター」の記事に友人から感想をいただきました。彼女の文章をお読みください。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


うちの小6の息子は自閉症。このところ話題の「軽度発達障がい」と呼ばれる部類の子で、一見するとそうとはわかりません。

日々、よく思い出すのは、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まる。」という、先輩お母さんの言葉。きっとそう。
 (中略)
 
今、幸せなことに私はその息子が生まれてきてくれて本当によかった、と思えるけれど、でも、やはり、うちの子自身が「生まれてきてよかった」と本当に思えるのにはやはりしんどいだろうな、と思うことはある。それには、やはり周りの理解や手助けが必要だろうな、と。
 
うちの子と暮らしていて、障がいとは、その人の中にあるのではなく、この世での生きづらさ、生きにくさとしてその人の外にあるものだと思う。たとえば、自閉症の人たちの行動、考え方などは、その独自の世界があり、それはある意味一つの「文化」とも言えるものがある。

そして、同時に自閉症はイマジネーションの障がいをもっているから、あちらの側から、こちらの側の文化を理解することが極めて難しい。要は、マジョリティとマイノリティの問題でもあり、こちらの側の理解が進めば、自閉症は生きることへの「障がい」ではなくなる日もあり得るのだと思う。
 
誤解を恐れず言えば、今は「障がいも個性」と言うにはまだ早すぎる。生きづらさとして外にある「障がい」が「障がい」でなくなったとき、初めてどの障がいについても、「障がいも個性です」という表現がマジョリティの側でもマイノリティの側でも使えるのではないか。
 
「うちの子の障がいは、きっと不妊治療に関係があると思う。どうしてもちゃんと生んであげられなくてごめんね、って思っちゃう」というお母さんの言葉も聞いたことがある。このお母さんのことを「その子を受け入れてない、障がいを受け入れていない」と非難するのは簡単だし、私自身も「『ちゃんと』って何だろう、この世に生まれることができなかったたくさんの命もある中、こうして『ちゃんと』この世の中に生まれてきたんだよ、そんな言い方したら生まれてきた子もかわいそうだよ」と答えはしたけれど……。

でも、うちの夫が言ったことがある。「不幸だと思うことから不幸が始まるのも真実。でも、誰一人として、障がいを持つ子をもちたい、と思って障がいのある子を産んだ人はいない。」それもきっと本当。
 
「他の人とはちょっと違うかもしれないけれど、でも、きっといい人生が送れると思いますよ。」と言ってくれた人もいる。本当にそう。でも、それを支えてくれているのは、他ならぬ周りの人のネットワークだ。理解してくれる、理解しようとしてくれる、困ったときに相談できる、助けてもらえる、…そんな人に囲まれてこそ、「障がいを持つ子をもっても不幸じゃない。」と言える。それ以上に、息子がいたからこそ出会えた本当にいい人、素敵な人にどれだけ恵まれていることか……。

だから、ありきたりだけれど、やっぱり一人で抱え込んで大変な思いをしている人がいるなら、まずはまわりの人とネットワークしようよ、って伝えたい。

やはり、始めに戻って、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まるんだよ」って……。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


障がいを持った人、障がいを持った子どもを持った人。生活の環境、家族の状況が異なれば、人々が同じ経験をしていないのは当然のことです。

だからこそ、私たちは別の立場からお互いを支えることができるし、助けてもらうことができます。

いつも、いつも支える側だけにいるものしんどいし、いつも、いつも支えてもらうだけじゃつまらない。

私は友人の「ネットワークを……」の声に耳を傾けたいと思います。アフリカにいて、何ができるか、またこの Cafeglobe のコミュニティで何ができるのか、いろいろ考えていきたいと思います。

立場が違うから、とか、私には想像もできない世界だから、としり込みしていたら世界は広がりません。自分の世界を広げれば、時には痛い傷を負う場合もあるけれど、未知の世界で味わうや空気は極め付きに新鮮で素敵な場合が多いと思うのです。

人と人とのつながりは間違いなく私たちを豊かにしてくれます。

それでも、

「自分に何が出来るかわからない」
「何から始めればいいかわからない」

と考えていませんか?

できることはたくさんありますよ。

まず、自分とはまったく関係ない人のことを自分のことを考えるように考えてみる、ということから始めるのはどうでしょう?


障がいのあるおばあちゃんを囲んで。アフリカでは
長老は大事にされる。このおばあちゃんも大勢の
孫に囲まれてとっても幸せだという。

油断大敵! [2008年03月10日(月)]
 


この無残に食いちぎられたパン!
誰の仕業でしょう?

実は、私たちの住む南ア・ダーバンの郊外には、頻繁にサルが出没します。
しかも、この辺のサルたち、かなり賢いのです。人や天敵の犬が見ていないのをしっかり見計らって、家の中に侵入します。

彼らの大好物はやはりバナナ。きれに皮をむいて食べて行きます。しかも、前回我が家が襲われた時は、そのむいた皮を床に投げ捨てて行く、という狼藉ぶり!

残念ながら、前回も今回も、我が家の犬たちの隙をついたようです。今年に入るまでは、我が家でのサルの被害はゼロでした。近所での被害は承知していたのですが、「ウチは、泥棒には役に立たないけれど、サルには有効な犬がいるものね!」と安心していたのですが、やられましたね。


君たちは何をしていたんでしょうねぇ?


それでも、私たちの地域は、海岸沿いの家々に比べたらましなようです。

海外沿いの家に侵入してくるサルたち、ものすごくふてぶてしくなっていて、人が姿を見せてもなかなか立ち去らないようです。言葉で威嚇した人に向かって、逆に歯をむいてみせることもあるそうです。

ただ、サルは狂犬病などに感染している危険性もあるので、真剣に“招かれざる客”なのです。手なずけるなどもってのほか。サルとの接触は極力避けなくてはいけないのです。

が、彼らも学習能力が高いらしく、おもちゃでも何でも、銃の形をしたものを見せて威嚇すると、すぐ退散するとか。う〜ん、敵も怖い目に会っているのね。

日本で、「アフリカに住んでいます」と言うと、
「うわ〜、動物に囲まれているんですね」という反応が返ってくることがしばしばあります。

でも、皆さんが想像される野生動物たち、キリンとか、ライオンとかサイとかは、人里離れた動物保護区にいるのです。南アは国内外の観光客のための野生保護区がたくさんあります。有名なものは、クルーガー動物保護区です。ここの四国の面積に匹敵する広大な土地に野生動物が自由に動き回っています。人間は専用のサファリトラックや自分たちの四輪駆動車などを使って、動物の生態を車の中から見せてもらうのです。


サファリではこんなに近くにゾウが!


しかし、つい先日、南アでもヨハネスブルグに住む人に、「まったく、サルのやつらめ!また侵入された!ヨハネスではどんな被害に会うの????」と尋ねたら、

「まさかぁぁぁ!ヨハネスなんかにサルは出没しないですよぉぉぉ!」

ときっぱり否定されてしまいました。

そうか、サルの住宅侵入による被害。これって、緑豊かなダーバン近郊ゆえのことだったんですね。しかし、近年の開発ブームでは、さすがのサルたちもその居場所を追われているとか。人間と自然とのバランスのとり方は、ここアフリカでも大きな問題になってきています。


我が家の裏庭から続く雄大な自然
元気の素の処方箋 [2008年03月03日(月)]
 
私はよく、
「その元気はどこから?」
「そのパワーの源は?」
という質問をされる。

自分ではそんなにパワー全開で立ち回っているつもりはないのだが、多くの人がそう言ってくれる。

そこで、理由を考えてみた。

一、体が大きいので、いかにも元気そうに見える。
二、声が大きい。声が大きいと元気そうに聞こえる。
三、繰り返しがぜんぜん嫌ではない。

最初の二つは分かりやすいと思う。
が、最後の「繰り返しが嫌ではない」には説明が必要かもしれない。

私は、同じことを何回も繰り返すこと、またはひとつのことを継続することの大切さを自分の仕事や自分が関わってきたさまざまな人とのつながりの中で学んできた。

仕事でも、仕事以外の場でも、一回、「やりましょう」と決めたことを、愚直に、誠実に、実行することの大切さだ。

そして、この、一回限りではなくて、「継続する」ということが、どうして「元気に見える」ことにつながるか、というかと……。

継続してひとつの行動をする、ということは、その同じ人がコンスタントにその“場”にいる、ということになるのではないだろうか。もちろん、それが毎日でなくてもいいのだ。だが、多くの人、特に助けを必要としている境遇にいる人たちにとって、同じ人が同じ笑顔でそこにいる、ということは、大きな励ましになるのだと思う。何をするか、ということの前に、「そこにいる」という単純な行動。

つまり、“安心感”なのだと思う。

私はこれが得意なのだ。体の大きさ、声の大きさとあわさって、私の元気に見えるヒミツは、この「継続することによって、人に安心感を与える」ということなのだと思う。

そして、これが「言うが易し」であることも私は知っている。

仕事が終わらない、とか、急な用事ができた、とか。
私たちの毎日は本当に忙しい。

でも、私は人とした約束を破ることはめったにない。破るときはその理由を明確に説明して、平謝りする。時にはどうしても約束を破らなくてはいけない場合もあるが、信頼関係があればそれは後で何とでもなるものだ。

そして、目の前に次々に起きてくる用事をなるべくその重要さにおいて順序をつけないようにしている。たまには、「うわ〜、あと一日早くそれを言ってくれていたら!」とため息をつくこともあるが、基本的に約束をしたらそれを守る。

つまり、自分のできること、約束したことを単純に愚直に実行する、というきわめてシンプルな生活信条が私の“元気”を支えている、ということなのかもしれない。

そうしてもうひとつ、実はマウイの神宮寺愛ちゃんに指摘されたことがある。

「私たちはたぶん、ずっと火事場の馬鹿力のまま進むんだと思うよ」

実は、彼女もライター家業の他に、プロのフラダンサーとして毎日ショウに出演している超多忙な毎日を送る人だ。その上、彼女の愛娘はまだとっても幼い。ウチの大学生と中学生の子どもたちの世話にかかる時間の数倍はまだかかって当然の年齢だ。彼女こそ、毎日の仕事や約束の他に、別のことなど考える隙間がないくらい忙しいと思う。

でも、愛ちゃんも私も、仕事とか、金銭的な優先順位とか、一切関係なく、

いざ、

「これは私の出番だな」

と思うときは、後先関係なく、それこそ、“火事場の馬鹿力”を出して首を、頭を突っ込んでいく。それを支えてくれている家族友人には多くの迷惑をかけているのも承知の上で。

そうなのだ。

私の“元気の素の処方箋”とは、実は、この“無計画性”にあると言ってもいいのかもしれない。“継続すること”と“無計画性”、一見、相容れないような性格のものだが、私はこの二つの状態で自分が生活していることにそう矛盾は感じていない。

そして、確かにじっくり考えてみれば、私には、長期的展望、というものがない。困ったことに、夫婦揃って、ない。正直言って、家族で南アまで移住してきても、仕事以外の面で、「10年後にはこういうことをしよう」とか、「こういう老後を送りたい」といった生活設計など立てたこともないのだ。老後はどうやって過ごすべきか、経済的なことはどうするのか、などということも考えたことがない。

ただ、戦争がない世の中になって欲しい、世界中の子どもたちが夜お腹をすかせたまま眠りにつくことがないような世の中になって欲しい、というかなり大規模な願いがいつも心にある。でも、自分のすぐ先の未来の計画はあまり考えたこともない。恥ずかしながら、目の前に起きる仕事やら出来事を懸命にこなしている、といったほうがいいのかもしれない。

だが、今年、50歳にもなる私。もうちょっと分別が出てきてもいいのかも知れないとも思い始めている。




“同じこと”の繰り返しが自分の好きなことなら
まったく苦にならない大将がここにも。
大学生になったいまでも、
スケボーへの情熱は冷めませんとも!

ダーバン・バス事故のその後 [2008年02月27日(水)]
 
皆さんにご心配をいただいたダーバンで起きた日本人観光客が巻き込まれたバス事故のその後のご報告です。

2008年2月27日、最後まで残っていらした4名の患者さんを無事、日本へ見送りました。

私は事故2日後から医療通訳者としてお手伝いをさせていただいたのですが、二週間を超える毎日の病院通いで、皆さんとすっかり仲良くなってしまいました。

遠いアフリカの地で、こんな大きな事故に遭う、ということはどんなに不安だったかと思います。中でもお二人の方は大きな手術も避けられない状態でした。

が、皆さん、全員が前向きに治療、リハビリに向き合ってくださいました。病院の南ア人スタッフにもびっくりされるほど皆さんが明るく毎日の病院生活を乗り切りました。入院生活の後半では、多くの方がこちらの現地語であるズールー語も学ぼうとされて、本当に模範的な患者さんたちでした。


まだ顔には事故のあとがありありと……。
でも、とっても元気な患者さんたち


でも、南アの病院は、日本の病院とはいろいろな面で違いがあります。皆さんきっと、かなり戸惑われたはずです。

まず、最初のうちはどんな治療、ケアについてでも、決まって質問されるのは、
「誰がこの費用を払うのか?」でした。

南アは日本のように公的な医療保険がないので、個人的に医療保険に入る必要があります。大人2人と18歳の子ども、13歳の子ども2人の合計4名の我が家の場合、月額の医療保険料は日本円にして約3万円です。これは、ホスピタルプランといって、万が一の入院治療のときは全額が保障される、というものです。でも、この費用は南アの一般的な月収から考えるとかなり高額で、こういった保険に加入できない人がたくさんいます。

保険に加入していなければ、今回、事故の被害に会われた方々が入院した病院に入るのはまず不可能です。こういった私立の病院での入院加療は非常に高額なのです。

というわけなので、今回、皆さんは、
この、「誰が払うの?」を何回も聞かれるはめになったのでした。

そして、ややこしいのが、南アの病院での支払いです。実は、南アの私立の病院では、医者の診察代、手術代などは、病院の施設使用料とは別建てで請求がくるのです。病院に支払う項目の中には、施設使用用、看護の費用、食費などが含まれています。が、医師や理学療法師への料金や、治療に必要な器具などはまったく別なのです。

個人事業者としての医師が、私立の病院の建物を利用して、自分の担当の患者を診る、とでも言えばその雰囲気が伝わるのかもしれません。

ただ、通訳泣かせだったのは、それぞれの患者さんについた各医師の診察の時間です。そもそも南アは朝が早い。学校の授業だって、朝7時半からです。それにしても、今回の医師たちの中には、朝、6時半くらいに診察に回る人がいたのでした。手術の前に、回診したいのは重々理解できるのですが、それにしても、早すぎる!

さて、帰国の前日、一人の患者さんからこんな素敵な感謝のお便りを渡されました。
〜〜〜〜〜〜〜〜
……(略)日本での日々が毎日追われるように過ぎていって、自分を可愛がることが出来ず、結局他の人へも愛情が注げなくなるようで苦しくなっていました。でも、南アで遭った峰子さんや他の日本人の方々や、現地の方々と触れ合うと、気持ちが楽になって、細かいことが気にならなくなり、他の人へも優しくできるようになってきました。……10年以上振りに本来の自分自身に帰れたような、開放されたような気分を味わいました。(略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は彼女の文章の中にある、「10年以上前の自分を取り戻せた」という表現に感激しました。

10年前の自分をしっかり肯定して、その自分が好きな“10年前の自分”に戻れたことを、このあってはならない事故を恨むのではなく、そのおかげで戻れた、とする潔さ。素晴らしい心構えです。

また、難しい手術の説明を受けても、堂々と、その現実にひるむことなく、自分の納得のいくまで質問をされ、そして果敢に手術を受けた方もいらっしゃいました。手術後のリハビリへの取り組みもそれはそれは真剣にされていました。

日本にお孫さんを持つ患者さんのお一人は、廊下に子どもの声がすると、思わずご自分の持ち物の中のお菓子を探してしまうような優しさに溢れていらしゃいました。

そして、ダーバン在住の多くの方が心づくしのお見舞いを携えて何回も足を運んでくださいました。複数の南ア人医療スタッフが、私に、「日本人コミュニティは素晴らしいですね。親戚でもない人たちがこんなに親身に患者さんたちのために動くなんて」と感嘆のため息をもらしていました。

最後に、裏方に徹してくださった、日本の旅行会社のスタッフの誠意のこもった事故の対応の見事さ丁寧さ、そして現地で今回の旅行を手配してくださった南アのツアー会社の担当の宮田さんの、誠心誠意患者さんの立場に立った働きぶりは、私に久しぶりに日本人でいることを誇りに思わせてくれるくらい素晴らしいものでした。

皆様、お疲れ様でした。そして、事故に遭われた皆様、どうぞ、日本でリハビリをしっかり続けてくださいね。皆様がお元気になって、南アを再訪してくださることを心からお待ちしております。


退院の前日、看護スタッフとともに


患者さんと日本人裏方組み


文中の患者さんの写真掲載は許可を得ています。
ザ・メモリー・キーパース・ドーター [2008年02月18日(月)]
 

ザ・メモリー・キーパース・ドーター
(The Memory Keeper’s Daughter)
キム・エドワーズ(Kim Edwards)著


誰でも、「あの時、どうしてあんなことをやったんだろう」と、回顧する思い出のひとつやふたつはあると思う。

この本は、まさにこの、「あの時、どうして……」の物語だ。

まず、物語設定は1964年の米国のケンタッキー。私は1958年の生まれだから、この物語のとき、ちょうど小学生になっていた。この本で、この時代、米国でダウン症を持って生まれた子どもたちの多くは、親から離されて専門病院に隔離されていた、という事実を知った。日本はどうだったんだろう。

主人公の医師、デイビッドは産科医ではないが、いろいろな偶然が重なった吹雪の夜、自分たちの初めての子どもを自分で取り上げることになる。超音波などが診察に使われる前の時代のせいなのだろう、彼の妻ノラも自分もノラが双子を妊娠していたことを出産するまで知らなかった。第一子は障がいのない男の子。その数分後に生まれた第二子、フィービーがダウン症だった。

デイビッドには心臓に障がいを持って生まれ、若くして亡くなった妹がいた。家族の中に、先天性の疾患を持つものがいることの、どうしようもない切なさ、苦しさを誰よりも理解している、と考えたデイビッドは、フィービーが生まれたその瞬間に、彼女の存在を自分の妻の前から抹消することを決意した。彼は妻に、「女の子は死産だった」と伝えたのだ。米国では、この時代から、当然のように産婦に麻酔をかけていたことにも驚かされた。最後のいきみのところで意識がないから、自分が生んだ子どもをその場で確認することができない、という驚きの事実。

そのとき、デイビッドの助手をした看護婦は、デイビッドを秘かに慕っていたキャロラインだった。キャロラインは、デイビッドに、フィービーを遠く離れた隔離病院に連れていくよう指示された。キャロラインはデイビッドを慕うが故、彼のこの判断に従ってしまった。だが、その隔離病院の現実を目の前にして、彼女にはフィービーをそこに置いてくることはできなかった。彼女はフィービーを自分の娘として育てることにしたのだ。勤めていた病院も辞め、アパートを引き払い、離れた町でシングルマザーとして。デイビッドに自分たちの居場所を知らせることもなく。

こうして、吹雪の晩に生まれた双子はお互いの存在を知らないまま四半世紀を過ごす。

だが、人間がここまで作為的に人の人生を操作してしまうと、結局、その操作した人生に翻弄されるのは避けられないことなのかもしれない。妻を守るため、という一心でフィービーをノラから遠ざけたデイビッドは、このあまりにも巨大な秘密を自分で抱えるがため、ノラと自分の間にどうしても超えることのできない壁を作り出してしまった。

ノラとデイビッドは毎日、毎日、お互いから離れていくようになる。その乖離は、双子のもう一人ポール、にも影響を及ぼす。彼は両親の見えない”距離“に苦しみ、孤独感を深めていく。

ついにデイビッドとノラは離婚し、デイビッドはその数年後に亡くなる。その後、ノラとポールは、フィービーの存在を知り、四半世紀を経てフィービーのこれまでのシンプルでありながら、充足したこれまでの人生を知ることになる。キャロラインとフィービーは、大変な日々の苦労を抱えながらも、”シアワセ“な人生を送っていたのだ。アル、というキャロラインのしたことをすべて受け入れてくれた夫、フィービーにとっては育ての父にも見守られて。

確かに、多くの場合、障がいを持った子どもを授かる、ということは突然やってくるのかもしれない。出産前にかなりのことが分かるようになった現在でさえ、出産して初めて、思いもしなかったわが子の状態を知る人たちもいるだろう。

私も、自分が何年かの不妊治療のあとに授かった上の息子を妊娠中、自分自身に問いただしたことがあった。自分の子どもにどんな障がいがあっても、自分はこの子どもを受け入れる心の用意が整っているか、という当時30代前半だった私の自分自身への問いだ。

私はそのとき、
「いいよ、どんな状態でもいいよ。わたしたちのところにおいで。一緒に楽しく生きて行こうね」と、心の底から思えたのだ。

この物語の投げかけるものは決して小さくない。人の存在を受け入れる、ということにかかってくる大きな責任。だが、もしも、「運命」というものがあるのなら、私たちはそれから逃げられないのかもしれない。そうだとしたら、目の前にある状況が、どんなに困難なことに思えても、目をつむって“ど〜ん“と引き受ける、というのも案外一番、理にかなったことなのかもしれない。「先の心配をいまからしても仕方がない」と、思えるかどうかも大きな要素だ。

妻のために、よかれ、と思ってしたことで、自分の人生をまったく思いもよらない方向へ導いてしまったデイビッド。悲しい、切ない彼の選択に一番苦しめられたのは彼自身、という事実が重くのしかかる。

南ア・ダーバンでのバス事故 [2008年02月11日(月)]
 
「南アフリカ・ダーバン」という地名が日本のメディアで流れることはそう頻繁にはありません。

が、2008年2月7日、ダーバンで起こった日本人観光客のバスの事故は、日本でも大きなニュースとなりました。NHKの衛星放送でもダーバンの街中の映像とともに速報が流れていました。

でも、私が聞いたニュースではなかなかり当日の現地の状況はわかりませんでした。そこで、今回は、現地の背景を少々お伝えしましょう。

当日、ダーバン地域は2週間ほど続いた晴天が嘘のような突然の悪天候でした。この“突然の悪天候”というのが曲者だったのです。残念なことですが、南アでは、こういった突然の悪天候時、どうやって事故を防いだらいいのか、という意識がないとしか思えない運転をする人が多いのです。 

それとも、「雨が降れば路面がすべる。路面がすべるのだから、減速する」と言った、1たす1は2、とでも言うようなごくあたりまえの考え方が、共通の認識になっていない、と言えばいいのでしょうか。大雨の中、しぶきをあげて、晴天時と同じように、140キロ近くのスピードでビュンビュン走り去る車が多いのです。南アは高速道路網がかなり整っているので、これもまた危険な要素に追い討ちをかけます。

それにしても、この日は特に異常でした。私が毎日出勤に使用する高速道路のひとつ、N2(事故のあった高速道路に連結されている)でも、たった2キロ半近くの距離の間になんと6件もの事故が起こっていたのです。これは、あきらかに通常の“悪天候での事故数”をも超えている事態でした。視界の悪さも限界に達していたのでしょう。

事故は現時時間の午前11時半ころ起こりました。

午後になってから知人の一報で事故を知った私は、とにかく在南ア・日本大使館の領事に電話を入れました。何かお手伝いできることでもあれば、と思ったのです。結果的には、事故の2日後から私が医療通訳として正式にお手伝いさせていただくことになったのですが、事故発生当時はダーバン在住の日本人の方々が献身的に皆さんをサポートしてくださったようです。

ただ、話は横にそれますが、私が領事にお電話したとき、私の頭に浮かんだのは、通訳でも何でもなく、皆さんのお腹の心配でした。

「しっかりご飯を食べて、お腹を落ち着けて、元気を出してもらおう!」

と、私は何か大きな事故が起きるたびに考えます。

冷静になるためには、お腹にしっかり力を入れる--- これは、私が常日ごろ母として、自分の子どもたちにも伝えていることです。実は、私の年下の大親友、神宮寺愛ちゃんもマウイより、Cafe Globe の彼女の公式ブログ「おへそに手をあてて」でしっかりお腹に力を入れることの大切さを発信しています。

そして、2日後、事故に会われた方々におにぎりを差し入れしたところ、多くの方が、

「梅干のおにぎりを食べて、心が落ち着きました」
「ご飯に塩と海苔の味がこんなにおいしかったなんて」
「おにぎりで元気がでました」

と喜んでくださいました。

事故は奇跡的に大惨事を免れました。事故のあと、すぐ現場に入った旅行会社の現地職員から直接聞いた話でも、バスは崖を40メートルに渡って滑り落ちたのでした。地元のメディアも、「一人の死人も出なかったのは奇跡だ」と繰り返していました。


事故の翌日、地元紙に掲載された写真


しかも、事故が起きたのは、実は私の家のすぐ近くだったのです。A Valley of Thousand Hills―千の丘の谷、と呼ばれるこの一帯は急な傾斜の丘陵に沿って高速道路が作られています。その丘のかなり高いところから、前方にスリップ事故で転倒していた別の車を避けられずにコントロールを失って崖を滑り落ちたバス。でも、地元の人々が何よりも絶賛したのは、その事故に会った際の日本人の皆さんの対応の見事さでした。

40名を超える日本人全員が、誰一人としてパニックに陥ることなく、同乗していた主催側の添乗員の冷静な判断に従い、かなり迅速に冷静にそして的確にその場が収拾されたのです。

2月11日現在、まだ5名の方がダーバンの地元病院に入院されていますが、皆さん順調に回復されています。自分の乗っているバスのブレーキが効かずに崖を滑り落ちる、という状況がどれだけの恐怖の体験だったのか……。想像に難くありません。しかし、皆さんは、慣れない南アフリカでの入院生活にも不平不満を言うわけでもなく、笑顔で感謝を口にされ、前向きに行動されています。本当に頭が下がります。

皆さんの一日も早い回復を心よりお祈りしています。私は、明日もまた大きめのおにぎりをたくさん持って、皆さんのお見舞いに行ってきます。


真夏の節分 in Durban! [2008年02月04日(月)]
 
2008年2月3日。ダーバンは日中の気温が記録的な36度を超えました。その中での「鬼は外、福は内!」は、と〜っても季節はずれ。しかも、“節分”はそもそも春の訪れを祝うもの、とすると、今、真夏のダーバンで“節分”をするのはまったくのお門違い……。

でも、アフリカに住んでいると、とかく日本の文化・習慣から遠くなってしまいます。子どもたちに日本の習慣も教えていきたい私としては、ちょっと無理をしてでも、これまでにもアフリカの暮らしの中に日本の季節の行事を取り入れてきました。


赤鬼さんと青鬼さんと……


それに、現在の私の仕事は、南アフリカ人に日本語、日本文化を教えること。元々の季節の行事の実感は伝わらなくても、自分の年の数の大豆を食べたり、「鬼は外、福は内!」を連呼しながら鬼に大豆を投げつけたり、というあの節分の雰囲気は子どもたちにも日本語の生徒さんたちにも味わって欲しかったのでした。


納豆になるはずだった大豆を炒って、
皆で「オニはソト〜、フクはウチ〜!」


でも、今日のお客様、なんと70名!近くにもなってしまいました。自分で招待したのは20組くらいのはずだったのに、「友達を連れてきてもいいですか?」に、「どうぞ、どうぞ〜!」と何回かは返事した記憶あり……。で、当日、大変なことになってしまいました。でも、用意したお料理も何とか足りて一安心。ご飯類だけでも二升ほどお米を炊いておいたのが勝因でしたね!

メニューの“おにぎり”類は、何と、日本に研修に行っていた南ア人からのたってのリクエストでした。「日本食で何が恋しい?」の質問に、迷わず、「ツナマヨのおにぎり!」と数名が答えたのでした。う〜ん、そうか、と唸りました。確かに、日本料理レストランでは、ツナマヨおにぎりはメニューにないものね。

【本日のメニュー】
スモークサーモン、キュウリ、卵の巻き寿司
ツナマヨ、キュウリ、卵の巻き寿司
ツナマヨおにぎり
おかかおにぎり
チキンの照り焼き(12キロ!)
イカのお好み焼き
サラダ 和風ゴマドレッシング
大根と鳥の煮込み

デザート(お客様の持ち寄り)
インド風デザート二種
フラン(プリンの大型のもの)
チェリータルト
チョコレートケーキ
インドネシアのライスケーキ

実は、南アの社会はまだまだ閉鎖的。特にダーバンは人種の住み分け状態がいまだに続いています。ですので、私たちの家に来ることで、初めて違う文化の人たちとプライベートで一緒になった、なんて言う人も最初は多かったのです。が、だんだんとそういったことにも慣れてきて、気軽に「友達も連れてきていい?」が増えてきたんだなぁ、とつくづく思います。

今回は、ダーバン在住の日本人の方も何名か参加してくださいました。ダーバンに着いてまだ日の浅い方々も数名。日本の節分とはちょっと違うダーバンの節分を楽しんでいただいたと思います。

それにしても、“節分”で思い出すのは、もう現在は13歳と12歳になった娘のショウコと甥のアジーノの二人。10年前、彼らの大叔父が亡くなったとき、二人は3歳と2歳でした。

大叔父が亡くなったのが、2月の7日。節分からお葬式までの間がちょうど一週間前後。このビミョ〜な時間の経過が問題だったのです。彼らは、シーンとした厳かな祭壇の前に連れて行かれたとき、こともあろうことに、目の前のお線香をいきなりむんずとつかんで、思いっきり、

「オオオニイイはソットォォ!フクウはウチイイイ!」

と叫んだのでした。

厳かな斎場が一瞬の間をおいて、大爆笑する中で、夫と私は二人を抱きかかえて、脱兎のごとく廊下に飛び出しました。

お葬式に連れて行かれた幼い子どもが、そのあどけない行いで、生と死をも含んだ命の繋がりを回りの大人たちに示してくれることの重要性を幾編かの文学で読んだ覚えがあります。でも、この「オオオニイイはソットォォ!」は、いくらなんでもハチャメチャだなぁ、と私は満面の笑顔を浮かべている二入を見ながら、うな垂れたのでした。


現在のショウコとアジーノ
本人たちにはこの記憶はないそうで……

局所的計画停電の嵐 [2008年01月28日(月)]
 
日本から帰国して、南アで私たちを待っていたのは、“Load Shedding (ロード・シェディング)”と呼ばれる局所的計画停電だった。これは、全面的な停電を避けるための“計画停電”なのだが、いかんせん、途上国の横顔も非常に色濃い南アフリカ。この“計画”自体が、そもそも、信用できないのだ。

下の表を見て欲しい。月・水・金・日と、火・木・土に分かれて、停電される地域が示されている。が、この地域分類事態もかなりいい加減。電話して自分の地域がどこか聞くたびに、別の答えが返ってくる。



そして、ここが一番の問題なのだが、こういう「計画」を発表しておきながら、南ア・エスコム(電気会社)、きちんと計画通りに停電をしないのだ!

たとえば、1月16日の水曜日、私たちの地域は午後6時から8時半までが停電のはず。ところが、なんと電気が戻ってきたのは深夜12時。ため息ものである。まして、今回、日本から運んできた貴重な北海道産ベニ鮭なども私の冷凍庫に鎮座しているというのに……。

しかし、こちらも柔な南ア人とは違い、インフラの整っていない途上国暮らしには年季が入っている。実は、冷凍庫は、まず、扉を開けさえしなければ、24時間程度の停電はまったく問題ない。冷凍庫の中の食品は、自分たちが「氷の塊」となって、“自助努力しているクーラーボックス”となるのだ。考えてみれば、実にけなげな話である。また停電時は冷蔵庫も電気が来るまで極力扉を開けないのが鉄則。

話は元に戻って、さあ、計画停電。この水曜日の後のスケジュールが何とも南ア的、とでも言おうか。実はこの週の金曜日はまたしても、私たちの地域は金曜日の夜6時から8時半まで電気がないはずだったのだ。

だが、私は恐いくらいカンがいいのだ。私は、「今度の金曜のその時間帯、電気はくるぞ!」と踏んでいた。だから、なんと、お客さんまで夕飯にお呼びしていたのだ。案の定、その金曜日の夜、一回も電気は切られなかった。私の高笑いが聞こえた人もいたはず!

私は、「エスコムめ、いくら計画したとしても、あの水曜日の大チョンボには申し訳ない、と思っているはず。だから、その次の停電は、“ごめんね”という意識が働いて、無残に電気を切れないはず」と計算していたのであった。

ふふふ。しかし、考えてみれば、技術者の人は何十人もいるであろうから、私のこの賭けはあまり根拠のないことだった。

さて、それにしてもこの計画停電。各方面でいろいろな混乱を引き起こしている。一番問題なのは、家庭の冷凍庫でもPCが使えないことでもない。例えば、日中であろうが、深夜であろうが、容赦なくその該当地域の電気を一切遮断するので、街の信号も一斉に使えなくなる。そうすると、交通渋滞がものすごいことになるのだ。病院だって、郵便局だって、銀行だって、レストランだって、スーパーだって例外ではない。自家発電ができないところはまったく経営や商売ができなくなるのだ。まさに、南ア経済、大混乱中なのである。そして、南アは近隣の国々に電気を販売もしているから、ナミビアやジンバブウェの電気事情が南ア以上に困窮していることは間違いない。

そもそも、どうしてこういう事態に陥ったのか。これが恐ろしいことなのだが、政府の役人も、電気会社も、南アの長期的な電気事情を総合的にきちんと把握していなかった、というのがこの混乱の底にあるようなのだ。

完全に、「えっっ、そんな馬鹿な!」の世界である。

地域の新聞でも、全国紙でも、テレビの朝のニュース番組でも、読者や視聴者からの手紙は、いま、この話題で統一されている。その中でもかなり多くの人が口にするのは、「いったい、全体、誰がこんな事態を招いたのだ?」という質問。

実は、これに関しては、先日、おもしろいシーンをテレビで見てしまった。朝のテレビ番組で、南ア・エスコム会長、南ア政府代表、ビジネス界代表、といった偉い人が出ていて、この局所的計画停電について討論をしていたのだ。

私は、司会者の、「それにしても、どうしてこんな事態に陥ったか、誰が責任をとるのか」という質問に答えたエスコム会長の発言にひっくり返ってしまったのだ。

「いやあ、ここでこの問題の犠牲者を探し当てても何も解決にはならないのでは?」と言っているではないか。

わが耳を疑ったのだが、この会長、何回も何回も、この“犠牲者”を口にする。英語で、しっかり、はっきり、「ビクティム」と繰り返す。この問題を起こした張本人たちを、日本語でなら、「犯人」と言うだろう。が、この会長、あえてこの“カルプリットー犯人”という言葉を使わず、あくまで“ビクティム”を使い続けた。私は、電気事情の心配ももちろんだが、根本的なところで、南ア人のメンタリティをまったく理解していないのだろうか、と少々心配になってしまったのだ。

だが、その心配も次の日の同番組を見て、すっきり解決した。なんと、このエスコム会長の言葉使いには、私だけでなく多くの南ア人がかなり立腹したらしく、かなりの数の抗議のE メールやファックスが番組あてに届いていたのだ。この混乱を引き起こしたのは、この会長をはじめとしたエスコムの人間で、彼らは“犠牲者”ではなく、“犯人”だ、という意見だった。

しかし、この計画停電、あと7年は続くらしい、ということも言われている。「2010年のワールドカップはどうするんだろう?」と実際、多くの南ア人が不安に思い始めている。
“性教育”への子どもの反応 [2008年01月22日(火)]
 
前回のエイズの講演についての記事にご質問をいただきました。

「小学生などの幼い子どもがこういった性教育にどんな反応をするのですか。具体的に教えてください」。

私の経験では、子どもたちは本当に素直に受け止めてくれます。その中でも、一人、とっても印象に残っている男の子がいます。アフリカのマラウィにある、英国系インターナショナルスクールに通う、英国人のアダムは当時6歳。インターナショナルスクールの1年生でした。

アダムの話の前に、アフリカのインターナショナルスクールの背景を少し説明しましょう。


マラウィの英国系インターナショナルスクールの子どもたち
各国の衣装をまとっての集会


アフリカにあるインターナショナルスクールに通う子どもたちの多くは、各国大使館や国連、国際NGO勤務の親を持ち、世界各国を2〜3年で移動させられています。ただ、アフリカにいながら、彼らの生活は、どうしても現地の人たちの暮らしから遠いところにあります。私は自分の子どもたちをマザーテレサの子どもの家に通わせながら、この活動を他の子どもたちにも広げようと奮闘していました。放課後に子どもの家の子どもたちを学校に招待して、インターナショナルスクールの教室で遊んでもらうことなども頻繁に行いました。



事実、この活動は応援してくれる先生方も増え、私がマラウィにいた頃は、子どもたちの放課後の“クラブ活動”に昇格していました。たくさんの子どもたちが協力してくれて、アダムのこのクラブの一員でした。



そして、このクラブの大切な活動のひとつが、子どもの家に寄付するおもちゃを、学校全体の生徒たちから集めることでした。ある週、集まったおもちゃを持って、数人の子どもたちと子どもの家を訪問することになりました。そこで、その前日、子どもたちを集めて、エイズ(正式にはHIV/Aids)の感染経由のこと、どうしたら自分の身体を守ることができるか、などをお話しました。

普段こういった場所とまったく接触のない子どもたちをHIVウイルスに感染している子どももたくさんいる場所に連れて行くのですから、親や学校の承諾も取り付けました。そして、何よりも子どもたちに、エイズに関しての最低限の知識を持ってもらわなくてはいけません。

エイズの感染源は血液を介すること、母乳も血液の一種であること、セックスからも感染するので、セックスをするときはコンドームをすること、などを前回ご紹介したエマニュエルの話の紙芝居も使いながら子どもたちに伝えました。

もちろん、「コンドームって何ですか」という低学年の子どもの質問にも、「セックスするときに、ペニスにかぶせるゴムのことです」という説明もしました。

年齢差のあるグループでしたが、個別に出された質問などにも答えながら、子どもたちに強調したのは、子どもの家で、もしも誰かが怪我などで出血したとしても、血液には絶対に触らないということ。そしてHIVウイルスに感染している人たちを差別しない、ということでした。

話が終わる頃には、みんなの顔に安心感がただよい、実際に明日、おもちゃを届けることへの期待感があふれていました。

さて、その後、集めたおもちゃを私の車に運ぶ際に、この6才のアダムが私に大真面目でこんな質問をしたのです。

「ミセス・ヨシムラ、明日、僕たちが子どもの家に行くときに、僕もコンドームをつけて行ったほうがいいでしょうか」

英国人の外交官の父を持つ、大人顔負けの挨拶もきちんとできる礼儀正しいアダム。彼は、幼いふっくらとした顔と頬をやや紅潮させて、私にきちんとこう質問したのです。

私は、にっこり笑って、

「いいえ、アダム、明日、あなたはコンドームをつける必要はないですよ。だって、あなたは、明日、誰ともセックスをしないと思うから!」と彼に伝えました。

それを聞いたアダムは心から安心したように笑顔を見せました。

私の話の中の、「エイズは“セックス”を介して感染する」という説明に彼の理解が追いつかなかったのでしょう。でも、その、よく分からない“セックス”をするときでも、“コンドーム”さえつければ、エイズに感染しない、ということは理解できたのです。

だからこそ、自分はその“セックス”が何かはちょっと分からないけれど、明日、万が一、それをすることになったら大変だから、自分も準備しておいたほうがいいのかも知れない、と考えたのだと思います。

私はこのやり取りを忘れることができません。6歳のアダムのこのまっすぐな質問に心を打たれました。そして、こうやって、エイズの話題を幼いころから身近にしていたら、彼は彼の年齢を重ねるたびに、エイズへの理解も深めていくのだ、と確信したのです。

当時6歳だったアダム。今ではもう中学生になっているころでしょうか。実はこのアダム、動物が大好きで将来は環境学者になりたい、という希望を語っていました。


ペットの亀と一緒のアダム

話はちょっとそれますが、彼に絡まるエピソードをもうひとつ。実は、私は彼から、なんと“日本人”である、ということだけで、感謝されたことがあるのです。

アダムは、「日本人は地球環境のために、電気で走る自動車を発明してくれました。ありがとうございます」と言ったのです。彼は、当時、アフリカでも話題に登るようになってきた日本製のハイブリッド車のことを絶賛していました。私は日本人の代表!でも、ハイブリッド車開発チームで働いているわけでもないのに、ただ、ただ、「日本人である」というだけで、このステキな将来の環境学者に感謝されてしまったのです!

ああ、子どもって、本当にステキです。そして、こういう子どもたちが成長していく過程で、避けては通れない性感染症の危険。私はエイズに限らず、子どもたちに、自分の身体は自分で守る、ということをいつでもどこでも語っていきたい、と考えています。



プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。