吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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NHK BS-1の番組に出演します [2008年04月28日(月)]
 
まず、告白から始めましょう。

このブログに使っている私の写真、実は7年も前のものです。
で、私は、つい先日めでたく50歳になりました。
ですから、この写真に7年の歳月と幾ばくかの贅肉をぺたぺたと足していただくと、今の私の実像に近くなります。

ど、どうして、こんなことを書くかというと……。

はい、悪いことはできないものです。
Cafeglobe でのブログに使う写真を選ぶときに、日本と南アフリカの距離の大きさを理由に、

「お母さん、この写真、ちょっと、今と違うんじゃないのぉぉぉ」
という子どもたちのアドバイスを、

「う、うるさい!実際に見にくる人はいないからいいのだ!」
と無視した私にバチが当たったのです。

実は、今度、5月18日放送の、NHK BS-1『地球アゴラ』という番組に出ることになりました。この番組は、海外在住の日本人と東京のスタジオを結んで、海外の話題やそこに生きる日本人の活動を紹介する、というものです。

アフリカに住んでいると、アフリカがらみの原稿執筆の依頼だけでなく、日本のメディアからいろいろな形で出演依頼のお話をいただきます。始めのうちは、「声の出演だけなら」と思い、出来る限りお引き受けしていました。ですが、何と言っても南アと日本、時差があります。夕方から夜、あるいは録音で済めばいいのですが、いつもそうは行きません。

それに、このごろ仕事が超多忙になっていることもあって、コーディネイトの仕事も含めて、メディアのお仕事はあまりお引き受けしてきていなかったのです。

ところが、この『地球アゴラ』は、私の出番には、私の関係しているHIV/Aidsの患者さんたちのことを中心に取り上げてくださる、というのです。しかも、ビデオ撮りまでしてくださるというお話。HIV/Aids の患者さんたちの症状緩和施設、Dream Center で私が運営しているビーズワークショップ(このセンターのお話はここから)は、常に資金不足ですから、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうためなら、私はほぼ何でも!してしまうのです。

ただ、実際のビデオ撮りになって気がつきました。当然なのですが、ビデオは私が中心に撮影されていることを……。私は、普段、コーディネイトをする側に立つほうが圧倒的に多いし、また写真映りに自信があるわけでもないので、この展開に正直言ってうろたえたのでした。でも、この番組のことを一人でも多くの皆さんにお伝えするためには、このブログでもぜひ、宣伝しなくてはいけないじゃないですか。

……というわけで、今回のブログの冒頭の「告白」と相成ったのでした。


朝、Dream Center に入るところ


さて、この録画撮りの際、私は患者さんたちの言葉に改めて、深く心を動かされました。彼女たちの言語のズールー語を話せない私ができるのは、英語でのインタビューです。ですから、当然、彼女たちの思いのたけをすべて完璧にあらわしていたとは思いません。が、彼女たちの言葉の中には、私たちが「人として何をすべきか」という根源的な答えがあるのです。

今回のインタビューは、実は7ヶ月振りの作業再開でもありました。

7ヶ月も期間が開いたのには理由があります。

私は、去年、患者さんの一人の死にかなり打ちのめされました。この患者さん、ロクサーンは、こちらで言うところのカラード(混血)の女性で、その聡明さ、優しさ、美しさは他の患者さんとは違っていました。私とロクサーンはかなり親しくなり、彼女のだんだんと衰えていく心身状態をまじかで見ていくことは、私にとってかなりつらいことでした。

彼女の最後の言葉は「死にたくない」でした。
彼女のこの悲しいシンプルな願い。
わずか、29歳でこの世を去ったロクサーン。
私は約1年もロクサーンの死を引きずっていたことになります。
でも、思う存分時間をかけて、彼女の思いを引き受けよう、とも考えていました。これだけの時間が私には必要だったようです。

でも、いざ、「さあ、書き取り再開しよう」と自分を鼓舞するには、まだ何かが欠けていたようです。

ところが、今回、この番組が私の背中を押してくれました。

そうして、インタビューをしてきました。
この様子はぜひ、番組の中でご覧くださいね。また、書き取ったインタビューの内容は、ぜひ、このブログでも放送終了後に書いていきたいと思います。





番組の詳細は以下のとおりです。
5月18日(日)午後9時10分から午後9時59分の生放送。
元ザンビア大使、石弘之さんをスタジオゲストに、アメリカでくらす3〜4組の日本人を紹介し、クロストークをするアフリカ特集を放送する予定。

皆さんのご感想などもお聞かせいただければ幸いです。


カメラマンのDaneと一緒に


350名の子どもがウェイティングリストに名を連ねる学校 [2008年04月21日(月)]
 
自分たちの話す言葉の中に、新しい現象とか、新しい概念を表わす言葉がなかったとしたら、私たちはどうするのでしょう。

例えば、コンピューター。
例えば、クリスマス。

日本語には「カタカナ」があるために、外国産の言葉も比較的安易に日本語の語彙として登場する機会があるようです。

私たちのエチオピア訪問の最後にとっても印象に残る出会いがありました。

ゼミ・イェネスさん。



彼女は、自閉症、という障がいを表現する言葉が彼女たちの使うエチオピアの公用言語、アムハラ語になかったため、自閉症のその英語名、Autism(オーティズム)をそのまま“オーティズム”、としてエチオピアの社会に紹介した人です。

そして、彼女は、言葉を紹介しただけでなく、エチオピア初の自閉症児のための学校、J-CCARDD (Joy-Center for Children with Autism and related Developmental Disorders) を2002年に開設し、現在も活発にその活動を進めています。

ところが、彼女の本職は美容師で、アディスの街に美容師養成学校を経営するビジネスウーマンです。その彼女がどうして、自分たちの話す言葉の中にその名前すら、定義すら、存在しない「自閉症」を紹介し、学校を始めたのでしょう。

それは、彼女が自閉症児を持つ母親だったからです。

J-CCARDDのパンフレットには、そのセンター設立の由来が彼女と彼女のお子さんの物語と絡めて紹介されています。彼女自身も最初のころ、自分の子どもの障がいを認めたくない時期があったそうです。つらい時期を経て、彼女はエチオピアの自閉症を持つ子どもたちのために、このセンターを設立する決意を固め、がむしゃらにその先頭を走ってきました。

エチオピアの社会では、まだまだ自閉症に対する理解が圧倒的に足りないそうです。残念なことに、その無理解は、医療関係者、教育関係者にもおよび、きちんとした形で「自閉症」と診断されることのほうが珍しい、ということです。

私は、これまでも途上国に暮らし、各地で障がいを持った人たちにも会ってきました。ポリオなどの障がいを持つ人が、かなりの年季が入った車椅子を操る様子なども見てきています。また、多くのアフリカの都市で、障がいを抱えた人に物乞いをされた経験も頻繁にあります。

ところが、彼女との出会いで、そういえば、自閉症のような障がいを持った子どもや大人には、あまり出会ってきてこなかったことを思い出しました。

でも、街であまり見ないから、よく声を聞かないから、彼らが存在していない、と思うのは間違いでした。

彼らはいたんです。

このポスターを見てください。




ここに書かれているのは、自閉症の子どもたちを自由にしてあげて、というメッセージです。

ゼミさんに聞きました。本当に子どもたちはこうやって写真のように鎖につながれているのかと。

「残念ながら事実です。エチオピアの多くの人たちにとって、彼らの症状はまったく理解できないものなのです。奇声を上げる、コミュニケーションを取れない、行動を予測できない、といった行動を繰り返す彼らを危険から守るため、また、他の人からの批判を避けるため、彼らは自分の子どもたちをこうやって紐や鎖で縛り付けているのです」

ゼミさんにとって、自分の子どもの自閉症という障がいに向き合うことは、他の多くのこの障がいを持った子どもたちの現実を知ることにもなりました。現在、J-CCARDD在校生は40名。今の体勢ではこれが精一杯、ということですが、なんと、この学校に入学したい、と待機リストに名前を載せている子どもは、2008年4月現在350名もいるのです。

多くの、声も上げられない、暗い部屋の中で閉じ込められている子どもたちのことを考えると足がすくみます。どれだけの絶望の中にいるのでしょう。そして、そのそばで声を殺して泣いている母親の姿も見えてきます。残念ながら、エチオピアでは、いまだに、障がいを持つ子どもを生んだ母親が、夫から離縁される、という話を聞きました。

「生きる権利」という言葉を知っていますか。
「基本的人権」とも言われます。

この世に生まれてきたからには、誰にでも与えられるべき権利です。障がいの種類とか、程度とか、またまた経済的な状況とかに左右されるべきものでもないはずです。でも、いま、この同じ地球で、障がいを持って生まれてきた子どもたちが、紐で、鎖で縛られて、暗い部屋で泣いている、という現実があることも事実なのです。

重くて辛い現実です。

「知りたくなかった」
と思いますか。

「自分には関係ない」
と思いますか。

私はそうは思いません。

そして、同じ女性で、私と同じような年頃のゼミさんが、こうやってエチオピアの子どもたちに光を与えようとして活動する姿を頼もしく、嬉しく思います。私も精一杯、彼女を応援しようと思います。

ジンバブウェの大統領選、大混乱! [2008年04月14日(月)]
 
エチオピアでの旅行記をちょっと一休みして、今日は南アフリカの隣国、ジンバブウェの大統領選挙のことをお伝えしましょう。

実は、ジンバブウェの経済の混乱ぶりは、2006年6月にCafeglobe のWorld News Café で、『南アフリカから緊急レポート、ジンバブウェの経済混乱』という記事を書かせていただきました。

今回、このほぼ1年前に書いた記事を自分でも読み返してみて、さらにびっくりしました。2007年6月の段階で、「ジンバブウェのインフレ率は1700%!」と書かせていただいていたのです。ところが、なんと、現在のジンバブウェのインフレ年率は10万%にもなっているのです。これがどんなに天文学的な数字かは、想像に難くないと思います。ガソリンも外交官用に発行した特別なチケットがないと、まったく一般庶民には手に入らない様子です。これでは、経済が困窮しているどころか、まったく停滞している、と言ったほうが正確でしょう。

何が原因か。それもこの World News Cafe でお読みいただきたいのですが、ジンバブウェはロバート・ムガベ大統領が28年にも渡る独裁政治を強いていて、各国、国連からも経済制裁を受けているのです。ところが、あまりの独裁振りに国民はこれまで恐れをなして、反ムガベ的行動は大きなうねりになってこなかったのです。一般国民は戦うにも、もう疲れ果てている、と言ったほうがいいのかも知ません。


ここ2週間ほど、ジンバブウェの大統領選挙のことは
南アのメディアではトップニュース。この新聞でも、
「この吸血鬼から私たちを助けて!」
と、ものすごいコピーが使われている


ところが、今回の選挙では、ついに、一般のジンバブウェ人も行動に出たのです。

そうです。ジンバブウェ人はムガベ大統領に「NO!」の意思を叩きつけたのです。ところが、当のムガベ氏、一向にその「負け」を認めようとしていません。3月29日の選挙のあと、もう2週間余が経過しているというのに、ジンバブウェの選挙管理委員会は、選挙の結果を公表していないのです。

ところが、出口調査(ムガベ政権はこれを禁止しているが)では、ムガベ氏もムガベ氏の率いる与党もこの野党に負けているのです。当然、反対勢力のジンバブエの最大野党「民主変革運動」のツァンギライ議長(56)が勝利宣言をしているのですが、正式にはムガベ氏も与党もこれを認めていません。南アフリカの公共放送でも、選挙の次の日から選挙の勝敗を報道していましたが、そこでも、ムガベ氏と与党は劣勢でした。

4月13日には、ムガベ大統領に南部アフリカ開発共同体の首脳たちも、ザンビアの首都ルサカで会議(ムガベ大統領は欠席)を開き、早急に選挙結果を公表するよう共同声明を出しています。ところが、ムガベ大統領、「選挙結果には計算ミスがあった」と主張し、今から、再集計が全国で行われるようにしてしまったのです。これは、あきらかにここで不正な集計を試みようとしている、と反対勢力から糾弾されています。

ムガベ大統領、84歳です。「もう、いい加減に引退して欲しい」と思うのは私だけではないはず。世界中の人を敵にし、自国の人間をこれほどまで困窮させても、なおしがみつきたい権力とは、いったい何であるのか。人間の果てしない権力への欲望をこうまであからさまに見せつけられて、皆が途方に暮れている、と言えばいいのでしょうか。でも、その影で多くの罪のない一般ジンバブウェ人、特に幼い子どもたちが、食べ物もなく、毎日その命を終えている現状を私たちも知らなくてはいけません。

そもそも、ジンバブウェは緑豊かな美しい国です。ジンバブウェ遺跡という、世界遺産にも登録された、独特なアフリカの歴史を表現する遺跡もあります。もともと、ジンバブウェとは「石の家」を意味し、素晴らしい石の細工を施した建築物でも有名です。

また、経済が混乱する前のジンバブウェは、農業が盛んで、アフリカ各国にその農産物を輸出する豊かな国でした。私たちがマラウィに住んでいたとき、ジンバブエから輸入されていきた農産物や加工品(マヨネーズ、ケチャップなど)にどれだけお世話になったことでしょう。人々は穏やかで、また、見目麗しく、心優しい人々です。どうして、どうして、こんなことになってしまったのか。一刻も早く、ジンバブウェの人々に平和が訪れることを願ってやみません。どうか、どうか、暴動などが起きませんように。ムガベ氏が軍隊を民衆に向けませんように。


超不人気のムガベ大統領婦人、グレース。
“アフリカのイメルダ”と異名をとる彼女がパリの高級ブランド
ショップで買い物をするところが掲載されている。


幸せな子どもたち [2008年04月07日(月)]
 
日ごろ、

「ああ、私は幸せだなあ……」

と、思うのは、世界各地にその名前を口にするだけで、暖かい気持ちになることができる友人や知り合いがたくさんいることです。

その地に駐在する外国人として、外国人同士の付き合いもたくさんありました。でも、現地の人たちからも多くのことを学びました。

その中、途上国暮らしをしていく上で、どうしても避けられないのが、現地のお手伝いさんや庭師、運転手さんといった家で働いてくれる人たちとの人間関係です。

日本では、「自分のことは自分でする」という考え方が一般的。でも、途上国で暮らす日本から来た私たちには、どうしてもその経済格差から、自分たちの身の回りの世話をしてくれるスタッフを雇用することが求められている場合があります。

我が家もリベリアを皮切りにさまざまなスタッフとの出会いがありました。そして、私たちはどれだけこの現地のスタッフに恵まれてきたことでしょう。

私夫婦が心がけたのは、心をこめて働いてくれているスタッフには、私たちが駐在を離れたあとも他の家庭で喜んで雇用してもらえるような特技を身につけてもらうことでした。例えば、夜勤の門番をしていた人に車の免許を習得してもらい、運転手という技能職に職種替えを果たした人も数人います。

ツァハイは、私たちがアディスで生活していた時の我が家のお手伝いさん。いや、お手伝いさん、というよりも我が家の二番目の子ども、ショウコの第二の母、と言ったほうが正解だと思います。

生後三ヶ月でアディスに連れていかれたショウコはエチオピアの主食のインジェラをマッシュしたものが“離乳食”というなかなかディープなアフリカ食生活を経験してきています。それもこの“第二の母”ツァハイのおかげです。


姪のHannaとともに。ツァハイはいま、
薬剤師になるために夜間の大学に通っている。

今回の私たちのアディスアベバ訪問の大きな目的は、カンジ、ショウコに、自分たちの育ったこの地をもう一回見て欲しい、ということの他に、自分たちが幼いときに係ってくれた人々に再会してもらいたい、という母の願いが強くあったのです。

私は子育てにおいてつくづく「大切だなぁ」と思っているのが、子どもたちに与える、両親以外の、できれば血のつながりのない他の大人たちの影響なのです。

昔の日本にも、遠縁のおばさん、とか、親戚のつながりの友人とかが、同じ家の中に住んでいるような時代もありました。いわゆる大家族制度の元では、誰がどうつながっているのか理解できないような関係の大人が、子どもたちが育つ周りにごちゃごちゃといたと思うのです。

そういった一見混沌としたような人間関係がどうして子育てに必要なのでしょう。

もちろん、人間が多く集まれば、肯定的なことも否定的なこともあるのは世の常。でも、それを差し引いたとしても、子どもにとって、両親や祖父母以外の人間から、「ああ、自分は愛されている、大切にされている」という思いをもらえるのはとっても幸せなことだと思うのです。

母の愛は母の愛。
父の愛は父の愛。
祖母の、祖父の愛は、またそれぞれ。

そして、他人でも、心のつながり方一つで、

「ああ、私はこんなにこの人に可愛がってもらっているんだ」

という嬉しい実感にくるまれることの素敵さ。

もちろん、それが起こるためには、家族以外のそれらの大人も、その家に居ること、またはその家族に係っていることに対する充足感や満足感が必要であることは当然のことですが。

今回、12年ぶりに再会したツァハイとショウコ。

ショウコに会った瞬間にツァハイの目にあふれて、止まることの無かった大粒の涙がすべてを物語っていました。

12年ぶりに会った、ということは、別離の際、ショウコはたったの2歳です。ですから、当のショウコ自身はその当時の記憶として、自分とツァハイの関係を覚えていることはないはずなのです。彼女がツァハイを覚えているのは自分の経験から、というよりも私たち家族のするツァハイの思い出話から、と言ったほうが正確でしょう。

でも、ショウコは、ツァハイの

"Do you remember me?"--- 私を覚えていますか?

という質問に、何回も自信をもって、

"Yes, of course!" --- もちろん!

と答えていました。

でも、今回の再会で、ショウコはショウコ自身、自分がどれだけこのもの静かで聡明なエチオピア人女性に愛されていたか、ということを実感したと思います。


ショウコ、エチオピアにて。
もうすぐ14歳。すべてにおいて徹底的なポジティブ娘。
14歳にして、足のサイズがもう27センチ近いのはどうして?

自分が人に愛されている、と感じることができるのは、その人にとって、何よりの心強い応援ではないでしょうか。

私は途上国に住んできたことで、自分の子どもたちがこうやって、多くのアフリカ人に愛されてきたことを何よりも嬉しく思っている母なのです。


エチオピアで再会した人たち
皆さん、お世話になりました
エチオピアの美味しいコーヒー [2008年03月31日(月)]
 
香り高い街角のコーヒー。
コーヒーの香りに和む食卓。

これは欧米や日本のような先進国だけの話ではありません。

エチオピアの首都、アディスアベバには、いたる所にブンナ・ベット(コーヒー・ハウス)があります。また、各個人の家でも、人が集まれば、すぐ、コーヒーのおもてなしが始まります。


現地の人でにぎわう街中のカフェ。
生の豆やローストした豆も買える。現地の価格で
1キロの生のコーヒー豆は2008年3月現在400円程度

エチオピア人は、コーヒーはエチオピアが発祥の地と信じています。実際、紀元前にコーヒーの実をつぶして携帯食にもしていた文献もあるようです。

エチオピアの州の一つカファ州でヤギ飼いの少年が、ヤギがこげたコーヒー豆を食べると興奮状態になるのを目撃してから、という“コーヒー発見”の話はたくさんのエチオピア人に聞かされました。

そして、何よりもここエチオピアにコーヒー文化が色濃く残っていること自体がエチオピアとコーヒーの深くて長い関係を物語っていると思います。

まず、あなたがエチオピア人に「コーヒーでもどうですか」とお誘いを受けたら、最低でも2時間から3時間はその後の予定を入れてはいけません。

エチオピアでコーヒーはブンナ、と呼ばれます。
そして、ブンナを客人に供するためには、ブンナ・セレモニーが必要なのです。

ブンナ・セレモニーの最初は、まず、生のコーヒー豆をお客に見せることから始まります。

「この豆でいいでしょうか」

客は、もっともらしく、

「はい、結構です」

と答えます。

そのあと、ホスト側は豆を焙煎します。小さなブリキのおなべにコーヒー豆を入れたものを炭火でローストしていくのです。そして、香ばしく焙煎が終わって、煙が出ている状態のコーヒー豆をまたまた客に見せに来ます。



「焙煎状態はこれでいいでしょうか」

客はまたまた深く頷き、

「はい、大変いいですよ」

と答えます。

その後は、この豆を棒でつぶします。そして、エチオピア・コーヒーを淹れる独特のポットで温められている水の中に、いま砕いたばかりのコーヒー豆を入れて、炭火でポット全体を温めていくのです。



そうして、しばらくするとコーヒーがポットの下に沈殿します。そのポットをゆっくりかしげて小さめのカップにコーヒーを入れれば、香り高きエチオピア・コーヒーの出来上がりです。



この小さなカップには最初からたっぷり砂糖が入っていることが多いので、砂糖を控えたい人はあらかじめホスト側にそのことを伝えておく必要があります。

こうやって淹れてもらうコーヒーがいかに美味であるか。強い香りと深い苦味のコーヒーを口にすると、遠い昔のヤギ飼いの少年に感謝したい気持ちになります。

また、ブンナ・セレモニーでは、床に花を敷き詰めたり、松脂のお香を焚いたり、その場を整える様式にも伝統的なルールがあるようです。



客人をとにかく大切にするエチオピア人。特に今回の私たちのように何日も宿泊すると、実は、毎食後にこの「コーヒーはいかが」と誘われるのです。もちろん、そのあとに用事が入っていなければ、ありがたくお受けします。毎回の食事のたびに、この豆の焙煎から始まるコーヒーによばれる贅沢さはどうでしょう。こうして手間隙をたっぷりかけていただくコーヒーは私たちをゆっくりと別の世界に誘ってくれるようです。

家に帰ったら、せめてコーヒー豆は挽いたものではなくて、直前に挽くようにしよう!と決心しました。

エチオピアのブンナ・セレモニー。日本の茶道にも通じるものがありますね。
12年ぶりのエチオピア [2008年03月24日(月)]
 
「この人たち、どうしてこんなにボクたちに親切にしてくれるの?」

が、今年19歳になる息子カンジが最初に発した言葉でした。

私たちはいまエチオピアを訪問しています。


エチオピアのコーヒーセレモニー


私たちに親切をしてくれている人たちとは、私の友人のエチオピア人ご家族です。ずうずうしいことに、私たちは、この日本人の友人の12年ぶりのエチオピア訪問に便乗させてもらっているのです。

私たち家族は1993年から1996年にかけて、エチオピアの首都アディスアベバに滞在していました。ショウコは、生後3ヶ月でエチオピアに連れて行ったので、彼女の人生の最初の日々はこのアディスで始まった、と言っても過言ではありません。

さて、この友人とは、エチオピア人の夫を持つ日本人女性、ヨシコさん。二人のお子さんとともに、現在は英国に住んでいます。彼女の夫、エフレムは、仕事の都合で英国とアフリカを行き来する毎日です。


アディス市内のセントメリー教会


同じような年頃の子どもを持つ私たちは、お互いがエチオピアに滞在している時に知り合い仲良くなったのです。そして、偶然なのですが、彼女たちも私たちもちょうど12年前にエチオピアを離れました。彼女たち一家はネパールへ、私たちは日本へと移動したのです。

私たちが日本での仕事を整理して、南アフリカに移住した理由の中のひとつに、アフリカの各国で知り合った人々のつながりがあります。

アフリカでの人と人とのつながりは、先進国で住む人にはもしかしたら、“わずらわしい”と感じるようなものが含まれているかもしれません。または、密度が濃い、とも言えるかもしれません。

今回の私たちの訪問でも、私たちはこのテゲレ一家の兄嫁の友人、ということだけで、上げ膳据え膳の大歓迎を受けているのです。

「ヨシコの友人は私の大切な客人です。ここでの滞在を心から楽しんでください」

とのテゲレの一言。良くも悪くも家長制度がまだまだ色強く残っているエチオピア。私たちは、ただただ単純に、兄嫁の友人、ということだけで、本当に冒頭のカンジのコトバ、

「この人たち、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

という大変幸せな毎日を送らせてもらっているのです。しかも、朝昼晩、美味しい自家製インジェラ食べ放題というおまけつきで!もちろん、この一家に私の友人ヨシコさんがいかに大切にされているか、ということを忘れてはいけませんが。

実は、エチオピアを訪問した目的のひとつは、ずばり、こういったアフリカの人々の生活を子どもたちに実際に見て欲しかったからです。


テゲレ家の末娘ミトゥ


今回、ホテルに滞在することもできたのですが、ホテルに滞在してしまうと、現地の普通の人の生活が見えてきません。もちろん、テゲレ一家は裕福な開業医ですので、テゲレ一家が一般的なエチオピア人家庭かというとちょっと語弊がありますが。

でも、一家が、お父さんのテゲレを中心に、早朝から深夜まで一定のハーモニーを保ちながらそれぞれの役割を機嫌よくこなしているのがよく分かります。皆が自分の一族の中での役割に充足しているかのようなハーモニーです。

まだ数日しか滞在させてもらっていないのですが、このリズムは南アフリカで核家族として生活している私たちには味わえない種類の心地よさのような気がします。

どの家族にも問題はあるでしょう。テゲレ一家にも、私がうかがい知れない悩みだってあるでしょう。でも、ここには、ご主人を亡くされた、テゲレの奥さんのお姉さん一家も自然に一緒に住んでいます。また、テゲレの病院で働く多くのスタッフが始終出入りしています。

血のつながりのあるかどうかは関係なく、皆の関わり方が本当に自然で、大きな傘の下で、ひとつの家族としての揺ぎ無い“核”が確立されているようなのです。

我が家の二人の子どもたちはこういったアフリカの多くの善良な人々に、様々な形で関わってもらいながら育ちました。私は、先進国の都市ではもうめったに見ることができないこういった家族のあり方を、今年19歳と14歳になるまでに成長した彼らにぜひもう一回身近で体験して欲しかったのです。
あるお母さんからの感想 [2008年03月17日(月)]
 
経験主義、という言葉を聴いたことがありますか。 これは、経験至上主義、とも言われる場合もあります。つまり、自分の経験することしか信じない、自分の経験でもってのみ、物事の判断をしてしまうことを指します。

私はこれをなるべくしないように努力しています。確かに、私は考えるより行動が速いタイプの人間です。特に、大きな問題にあたるとき、うだうだ考えて実際の実行をしない、というのは私の行動パターンの中ではあまりないことかもしれません。
 
とにかく、

動いてみる

ということが私には大切です。

この動いてみる、ということの中には、もちろん、体を動かすことだけではなくて、“心”を動かしてみることも含まれます。

というと、まさに、動いて経験してみてから自分の判断を出しているようで、まさに、この「経験主義」なのでは?と思われるでしょうか。

それが、違うのです。

私にはそれこそいろいろな経験から、自分のしたこと、経験したことが、別の人にとってはまったく別の意味を持つことがあることをよく知っています。だからこそ、「自分で経験したことだけが真実だ」、という捉え方をしないのです。

そして、自分が一人で経験できることは本当に狭い、ということも骨の髄から味わっています。

そういった理由からも、私は自分の知っていることしか、得意なことしか、または、慣れ親しんでいることにしか自分の行動を広げない、または生活を限定してしまうような生き方を選びたくないのです。

具体的に、私は医療関係者でもないのに、HIV/Aidsの問題にも首をつっこみます。患者さんの枕元にたって、病院の関係者に意見を言うこともあります。

障がいを持つ子の親でもないのに、障がいを持つ子のお母さんに、「私に何ができますか」と話しかけることもあります。

実は、私はかなり以前より、"障害”の害の字は人を形容する際に使いません。"障がい”と書くようにしています。それは、この感想をくれた友人を始めとして幾人かの障がい児を育てている人が身近にいるからです。


ダーバンの郊外で。
年齢差のある子どもたちがとっても仲良く遊んでいた。
この中には足の不自由な子もいた。


私たちはときに、自分と境遇の違う人や自分とはまったく別の人生を歩く人たちに、「価値観が違うから」といってあえて距離を置くような行動をとる場合があるような気がします。

また、同じ境遇ではないから、と言って、手を差し伸べようとしている人たちを排除してしまうこともあるようです。

でも、それでは何も始まらないように思います。

私はどんなに入り口が見えにくくても、自分が何かできそうだ、という場合はそこで自分のできることを探していきます。

また逆に、相手がどんなに、勘違いに近いところで興味を持ってくれているようでも、「何かをしたい」というエネルギーを感じることができれば、そのお手伝いをするようにしています。

2008年2月18日に書かせていただいた「ザ・メモリー・キーパーズ・ドーター」の記事に友人から感想をいただきました。彼女の文章をお読みください。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


うちの小6の息子は自閉症。このところ話題の「軽度発達障がい」と呼ばれる部類の子で、一見するとそうとはわかりません。

日々、よく思い出すのは、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まる。」という、先輩お母さんの言葉。きっとそう。
 (中略)
 
今、幸せなことに私はその息子が生まれてきてくれて本当によかった、と思えるけれど、でも、やはり、うちの子自身が「生まれてきてよかった」と本当に思えるのにはやはりしんどいだろうな、と思うことはある。それには、やはり周りの理解や手助けが必要だろうな、と。
 
うちの子と暮らしていて、障がいとは、その人の中にあるのではなく、この世での生きづらさ、生きにくさとしてその人の外にあるものだと思う。たとえば、自閉症の人たちの行動、考え方などは、その独自の世界があり、それはある意味一つの「文化」とも言えるものがある。

そして、同時に自閉症はイマジネーションの障がいをもっているから、あちらの側から、こちらの側の文化を理解することが極めて難しい。要は、マジョリティとマイノリティの問題でもあり、こちらの側の理解が進めば、自閉症は生きることへの「障がい」ではなくなる日もあり得るのだと思う。
 
誤解を恐れず言えば、今は「障がいも個性」と言うにはまだ早すぎる。生きづらさとして外にある「障がい」が「障がい」でなくなったとき、初めてどの障がいについても、「障がいも個性です」という表現がマジョリティの側でもマイノリティの側でも使えるのではないか。
 
「うちの子の障がいは、きっと不妊治療に関係があると思う。どうしてもちゃんと生んであげられなくてごめんね、って思っちゃう」というお母さんの言葉も聞いたことがある。このお母さんのことを「その子を受け入れてない、障がいを受け入れていない」と非難するのは簡単だし、私自身も「『ちゃんと』って何だろう、この世に生まれることができなかったたくさんの命もある中、こうして『ちゃんと』この世の中に生まれてきたんだよ、そんな言い方したら生まれてきた子もかわいそうだよ」と答えはしたけれど……。

でも、うちの夫が言ったことがある。「不幸だと思うことから不幸が始まるのも真実。でも、誰一人として、障がいを持つ子をもちたい、と思って障がいのある子を産んだ人はいない。」それもきっと本当。
 
「他の人とはちょっと違うかもしれないけれど、でも、きっといい人生が送れると思いますよ。」と言ってくれた人もいる。本当にそう。でも、それを支えてくれているのは、他ならぬ周りの人のネットワークだ。理解してくれる、理解しようとしてくれる、困ったときに相談できる、助けてもらえる、…そんな人に囲まれてこそ、「障がいを持つ子をもっても不幸じゃない。」と言える。それ以上に、息子がいたからこそ出会えた本当にいい人、素敵な人にどれだけ恵まれていることか……。

だから、ありきたりだけれど、やっぱり一人で抱え込んで大変な思いをしている人がいるなら、まずはまわりの人とネットワークしようよ、って伝えたい。

やはり、始めに戻って、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まるんだよ」って……。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


障がいを持った人、障がいを持った子どもを持った人。生活の環境、家族の状況が異なれば、人々が同じ経験をしていないのは当然のことです。

だからこそ、私たちは別の立場からお互いを支えることができるし、助けてもらうことができます。

いつも、いつも支える側だけにいるものしんどいし、いつも、いつも支えてもらうだけじゃつまらない。

私は友人の「ネットワークを……」の声に耳を傾けたいと思います。アフリカにいて、何ができるか、またこの Cafeglobe のコミュニティで何ができるのか、いろいろ考えていきたいと思います。

立場が違うから、とか、私には想像もできない世界だから、としり込みしていたら世界は広がりません。自分の世界を広げれば、時には痛い傷を負う場合もあるけれど、未知の世界で味わうや空気は極め付きに新鮮で素敵な場合が多いと思うのです。

人と人とのつながりは間違いなく私たちを豊かにしてくれます。

それでも、

「自分に何が出来るかわからない」
「何から始めればいいかわからない」

と考えていませんか?

できることはたくさんありますよ。

まず、自分とはまったく関係ない人のことを自分のことを考えるように考えてみる、ということから始めるのはどうでしょう?


障がいのあるおばあちゃんを囲んで。アフリカでは
長老は大事にされる。このおばあちゃんも大勢の
孫に囲まれてとっても幸せだという。

油断大敵! [2008年03月10日(月)]
 


この無残に食いちぎられたパン!
誰の仕業でしょう?

実は、私たちの住む南ア・ダーバンの郊外には、頻繁にサルが出没します。
しかも、この辺のサルたち、かなり賢いのです。人や天敵の犬が見ていないのをしっかり見計らって、家の中に侵入します。

彼らの大好物はやはりバナナ。きれに皮をむいて食べて行きます。しかも、前回我が家が襲われた時は、そのむいた皮を床に投げ捨てて行く、という狼藉ぶり!

残念ながら、前回も今回も、我が家の犬たちの隙をついたようです。今年に入るまでは、我が家でのサルの被害はゼロでした。近所での被害は承知していたのですが、「ウチは、泥棒には役に立たないけれど、サルには有効な犬がいるものね!」と安心していたのですが、やられましたね。


君たちは何をしていたんでしょうねぇ?


それでも、私たちの地域は、海岸沿いの家々に比べたらましなようです。

海外沿いの家に侵入してくるサルたち、ものすごくふてぶてしくなっていて、人が姿を見せてもなかなか立ち去らないようです。言葉で威嚇した人に向かって、逆に歯をむいてみせることもあるそうです。

ただ、サルは狂犬病などに感染している危険性もあるので、真剣に“招かれざる客”なのです。手なずけるなどもってのほか。サルとの接触は極力避けなくてはいけないのです。

が、彼らも学習能力が高いらしく、おもちゃでも何でも、銃の形をしたものを見せて威嚇すると、すぐ退散するとか。う〜ん、敵も怖い目に会っているのね。

日本で、「アフリカに住んでいます」と言うと、
「うわ〜、動物に囲まれているんですね」という反応が返ってくることがしばしばあります。

でも、皆さんが想像される野生動物たち、キリンとか、ライオンとかサイとかは、人里離れた動物保護区にいるのです。南アは国内外の観光客のための野生保護区がたくさんあります。有名なものは、クルーガー動物保護区です。ここの四国の面積に匹敵する広大な土地に野生動物が自由に動き回っています。人間は専用のサファリトラックや自分たちの四輪駆動車などを使って、動物の生態を車の中から見せてもらうのです。


サファリではこんなに近くにゾウが!


しかし、つい先日、南アでもヨハネスブルグに住む人に、「まったく、サルのやつらめ!また侵入された!ヨハネスではどんな被害に会うの????」と尋ねたら、

「まさかぁぁぁ!ヨハネスなんかにサルは出没しないですよぉぉぉ!」

ときっぱり否定されてしまいました。

そうか、サルの住宅侵入による被害。これって、緑豊かなダーバン近郊ゆえのことだったんですね。しかし、近年の開発ブームでは、さすがのサルたちもその居場所を追われているとか。人間と自然とのバランスのとり方は、ここアフリカでも大きな問題になってきています。


我が家の裏庭から続く雄大な自然
元気の素の処方箋 [2008年03月03日(月)]
 
私はよく、
「その元気はどこから?」
「そのパワーの源は?」
という質問をされる。

自分ではそんなにパワー全開で立ち回っているつもりはないのだが、多くの人がそう言ってくれる。

そこで、理由を考えてみた。

一、体が大きいので、いかにも元気そうに見える。
二、声が大きい。声が大きいと元気そうに聞こえる。
三、繰り返しがぜんぜん嫌ではない。

最初の二つは分かりやすいと思う。
が、最後の「繰り返しが嫌ではない」には説明が必要かもしれない。

私は、同じことを何回も繰り返すこと、またはひとつのことを継続することの大切さを自分の仕事や自分が関わってきたさまざまな人とのつながりの中で学んできた。

仕事でも、仕事以外の場でも、一回、「やりましょう」と決めたことを、愚直に、誠実に、実行することの大切さだ。

そして、この、一回限りではなくて、「継続する」ということが、どうして「元気に見える」ことにつながるか、というかと……。

継続してひとつの行動をする、ということは、その同じ人がコンスタントにその“場”にいる、ということになるのではないだろうか。もちろん、それが毎日でなくてもいいのだ。だが、多くの人、特に助けを必要としている境遇にいる人たちにとって、同じ人が同じ笑顔でそこにいる、ということは、大きな励ましになるのだと思う。何をするか、ということの前に、「そこにいる」という単純な行動。

つまり、“安心感”なのだと思う。

私はこれが得意なのだ。体の大きさ、声の大きさとあわさって、私の元気に見えるヒミツは、この「継続することによって、人に安心感を与える」ということなのだと思う。

そして、これが「言うが易し」であることも私は知っている。

仕事が終わらない、とか、急な用事ができた、とか。
私たちの毎日は本当に忙しい。

でも、私は人とした約束を破ることはめったにない。破るときはその理由を明確に説明して、平謝りする。時にはどうしても約束を破らなくてはいけない場合もあるが、信頼関係があればそれは後で何とでもなるものだ。

そして、目の前に次々に起きてくる用事をなるべくその重要さにおいて順序をつけないようにしている。たまには、「うわ〜、あと一日早くそれを言ってくれていたら!」とため息をつくこともあるが、基本的に約束をしたらそれを守る。

つまり、自分のできること、約束したことを単純に愚直に実行する、というきわめてシンプルな生活信条が私の“元気”を支えている、ということなのかもしれない。

そうしてもうひとつ、実はマウイの神宮寺愛ちゃんに指摘されたことがある。

「私たちはたぶん、ずっと火事場の馬鹿力のまま進むんだと思うよ」

実は、彼女もライター家業の他に、プロのフラダンサーとして毎日ショウに出演している超多忙な毎日を送る人だ。その上、彼女の愛娘はまだとっても幼い。ウチの大学生と中学生の子どもたちの世話にかかる時間の数倍はまだかかって当然の年齢だ。彼女こそ、毎日の仕事や約束の他に、別のことなど考える隙間がないくらい忙しいと思う。

でも、愛ちゃんも私も、仕事とか、金銭的な優先順位とか、一切関係なく、

いざ、

「これは私の出番だな」

と思うときは、後先関係なく、それこそ、“火事場の馬鹿力”を出して首を、頭を突っ込んでいく。それを支えてくれている家族友人には多くの迷惑をかけているのも承知の上で。

そうなのだ。

私の“元気の素の処方箋”とは、実は、この“無計画性”にあると言ってもいいのかもしれない。“継続すること”と“無計画性”、一見、相容れないような性格のものだが、私はこの二つの状態で自分が生活していることにそう矛盾は感じていない。

そして、確かにじっくり考えてみれば、私には、長期的展望、というものがない。困ったことに、夫婦揃って、ない。正直言って、家族で南アまで移住してきても、仕事以外の面で、「10年後にはこういうことをしよう」とか、「こういう老後を送りたい」といった生活設計など立てたこともないのだ。老後はどうやって過ごすべきか、経済的なことはどうするのか、などということも考えたことがない。

ただ、戦争がない世の中になって欲しい、世界中の子どもたちが夜お腹をすかせたまま眠りにつくことがないような世の中になって欲しい、というかなり大規模な願いがいつも心にある。でも、自分のすぐ先の未来の計画はあまり考えたこともない。恥ずかしながら、目の前に起きる仕事やら出来事を懸命にこなしている、といったほうがいいのかもしれない。

だが、今年、50歳にもなる私。もうちょっと分別が出てきてもいいのかも知れないとも思い始めている。




“同じこと”の繰り返しが自分の好きなことなら
まったく苦にならない大将がここにも。
大学生になったいまでも、
スケボーへの情熱は冷めませんとも!

ダーバン・バス事故のその後 [2008年02月27日(水)]
 
皆さんにご心配をいただいたダーバンで起きた日本人観光客が巻き込まれたバス事故のその後のご報告です。

2008年2月27日、最後まで残っていらした4名の患者さんを無事、日本へ見送りました。

私は事故2日後から医療通訳者としてお手伝いをさせていただいたのですが、二週間を超える毎日の病院通いで、皆さんとすっかり仲良くなってしまいました。

遠いアフリカの地で、こんな大きな事故に遭う、ということはどんなに不安だったかと思います。中でもお二人の方は大きな手術も避けられない状態でした。

が、皆さん、全員が前向きに治療、リハビリに向き合ってくださいました。病院の南ア人スタッフにもびっくりされるほど皆さんが明るく毎日の病院生活を乗り切りました。入院生活の後半では、多くの方がこちらの現地語であるズールー語も学ぼうとされて、本当に模範的な患者さんたちでした。


まだ顔には事故のあとがありありと……。
でも、とっても元気な患者さんたち


でも、南アの病院は、日本の病院とはいろいろな面で違いがあります。皆さんきっと、かなり戸惑われたはずです。

まず、最初のうちはどんな治療、ケアについてでも、決まって質問されるのは、
「誰がこの費用を払うのか?」でした。

南アは日本のように公的な医療保険がないので、個人的に医療保険に入る必要があります。大人2人と18歳の子ども、13歳の子ども2人の合計4名の我が家の場合、月額の医療保険料は日本円にして約3万円です。これは、ホスピタルプランといって、万が一の入院治療のときは全額が保障される、というものです。でも、この費用は南アの一般的な月収から考えるとかなり高額で、こういった保険に加入できない人がたくさんいます。

保険に加入していなければ、今回、事故の被害に会われた方々が入院した病院に入るのはまず不可能です。こういった私立の病院での入院加療は非常に高額なのです。

というわけなので、今回、皆さんは、
この、「誰が払うの?」を何回も聞かれるはめになったのでした。

そして、ややこしいのが、南アの病院での支払いです。実は、南アの私立の病院では、医者の診察代、手術代などは、病院の施設使用料とは別建てで請求がくるのです。病院に支払う項目の中には、施設使用用、看護の費用、食費などが含まれています。が、医師や理学療法師への料金や、治療に必要な器具などはまったく別なのです。

個人事業者としての医師が、私立の病院の建物を利用して、自分の担当の患者を診る、とでも言えばその雰囲気が伝わるのかもしれません。

ただ、通訳泣かせだったのは、それぞれの患者さんについた各医師の診察の時間です。そもそも南アは朝が早い。学校の授業だって、朝7時半からです。それにしても、今回の医師たちの中には、朝、6時半くらいに診察に回る人がいたのでした。手術の前に、回診したいのは重々理解できるのですが、それにしても、早すぎる!

さて、帰国の前日、一人の患者さんからこんな素敵な感謝のお便りを渡されました。
〜〜〜〜〜〜〜〜
……(略)日本での日々が毎日追われるように過ぎていって、自分を可愛がることが出来ず、結局他の人へも愛情が注げなくなるようで苦しくなっていました。でも、南アで遭った峰子さんや他の日本人の方々や、現地の方々と触れ合うと、気持ちが楽になって、細かいことが気にならなくなり、他の人へも優しくできるようになってきました。……10年以上振りに本来の自分自身に帰れたような、開放されたような気分を味わいました。(略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は彼女の文章の中にある、「10年以上前の自分を取り戻せた」という表現に感激しました。

10年前の自分をしっかり肯定して、その自分が好きな“10年前の自分”に戻れたことを、このあってはならない事故を恨むのではなく、そのおかげで戻れた、とする潔さ。素晴らしい心構えです。

また、難しい手術の説明を受けても、堂々と、その現実にひるむことなく、自分の納得のいくまで質問をされ、そして果敢に手術を受けた方もいらっしゃいました。手術後のリハビリへの取り組みもそれはそれは真剣にされていました。

日本にお孫さんを持つ患者さんのお一人は、廊下に子どもの声がすると、思わずご自分の持ち物の中のお菓子を探してしまうような優しさに溢れていらしゃいました。

そして、ダーバン在住の多くの方が心づくしのお見舞いを携えて何回も足を運んでくださいました。複数の南ア人医療スタッフが、私に、「日本人コミュニティは素晴らしいですね。親戚でもない人たちがこんなに親身に患者さんたちのために動くなんて」と感嘆のため息をもらしていました。

最後に、裏方に徹してくださった、日本の旅行会社のスタッフの誠意のこもった事故の対応の見事さ丁寧さ、そして現地で今回の旅行を手配してくださった南アのツアー会社の担当の宮田さんの、誠心誠意患者さんの立場に立った働きぶりは、私に久しぶりに日本人でいることを誇りに思わせてくれるくらい素晴らしいものでした。

皆様、お疲れ様でした。そして、事故に遭われた皆様、どうぞ、日本でリハビリをしっかり続けてくださいね。皆様がお元気になって、南アを再訪してくださることを心からお待ちしております。


退院の前日、看護スタッフとともに


患者さんと日本人裏方組み


文中の患者さんの写真掲載は許可を得ています。

プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。