吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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地球アゴラに出演しました [2008年05月19日(月)]
 
以前にお知らせしたとおり、NHK―BS1の番組、地球アゴラに出演しました。

今回、つくづく身にしみたのが、通信状況の変化です。

私が始めてアフリカに渡ったのは1986年でした。そのころ、新しい通信手段として、ファックスが登場しました。1986年、西アフリカ・リベリアに赴任した私たちは、当時としては最新だった、ファックス機能が備わった、今考えればとてつもなく大型のワード・プロセッサーを荷物の中に、意気揚々と詰めたのでした。

それから20年以上の年月がたって、この『地球アゴラ』という番組は、インターネット上の無料電話、スカイプを利用して、世界に住む日本人と東京のNHKのスタジオをつなぎました。インターネット上で、ユーザー同士であれば無料で話すことのできるスカイプは、普段も便利に使用させていただいています。日本に住む友人、知人、両親などとお金の心配をしなくても直接の声を聞けるのはとっても有難いのです。

友人の中には、「それって、ちょっと不気味」という人もいます。どうして、無料でそんなことができるのか、という疑問です。

う〜ん、そう言われればそうなんですが、コンピューターのことなど、何が何やらどうなっているのか、考えることさえ出来ない、器械オンチの私は、「う〜〜ん……」と唸るだけで何の弁護も反対意見も出ません。ただ単純に、最末端ユーザーとして、使わせていただいているだけです。スカイプさん、ありがとう。

さてさて、本番当日のことを少々お話しましょう。

実は、私はこのお話を引き受けてから、大変心配していたことがありました。

それはずばり南アの昨今の電気事情です。急な停電は結構頻繁に起きるのです。今年の冒頭に嵐のように起こっていた“計画停電”もこのごろは見直しがあって、影を潜めています。が、いつ再開されても不思議はありません。(それに、“計画”、と呼ばれていても、計画は突如発表されるし、計画以外の日でも停電は起きるので、こちらは計画できない、というおまけつき!)

また、この番組は、画像をスカイプで、音声を国際電話でつなぐのですが、電話回線が途中で切れることだって、皆無とは言えないのです。

アフリカに暮らす、ということはこういった基礎中の基礎の生活基盤に絶対の信頼をおくことができないのも現実です。

何回かのリハーサルのときも、電話線がクリアではなかったり、スカイプも途切れたり、ということがありました。

が、当日、南アフリカ、がんばりました。停電も起こらず、回線も落ちず、スカイプも途切れず、無事に番組を終了することができたのです。

番組の内容も、アフリカ各地に住んでアフリカの人たちと仕事をしている日本人が三人登場してなかなか面白かったのではないでしょうか。私以外の方々はご紹介されていた仕事が本業の方々でした。ですから、私のように週一回の支援でしかないのはちょっと申し訳ないような気もしていました。

南アフリカでも、エイズ患者さんの支援を専門にしている日本人の方はいるからです。でも、番組のディレクターの方に、「仕事ではなくて、自分の時間をこうやって作って、患者さんと関わっている人がいることも紹介したいんです」という言葉に励まされました。

そして、番組の最後に、司会の川平慈英さんから、

「アフリカに住んでいま、一番強く思うことはなんですか」と聞かれました。

実はこれ、カメラリハーサルのときに急遽、足された質問だったんです。元もとのエンディングの質問は、「これからのアフリカには何が必要と思いますか」でした。

でも、この急の変更、というのはいいものですね。だって、用意された答えではなくて、本当にいつも自分が考えていることがふっと浮かんでくるではないですか。

私はこの質問に、こう答えた、と思います(あまり、確証がないのは生中継なのでその場でたたた!と話したからです。記録と違っていたらごめんなさい!)。

「私は英語や日本語を教える語学教師です。かれこれ30年ほどいろいろな人に語学を教えてきています。ですから、私は語学を学んでいる人に、学んだ語学を使って、世界の人とつながって欲しい、と思っています。アフリカは遠いです。でも、ここにも人がいます。エイズで死にそうな人もいますが、彼らも夢や希望をもつ、私たちとまったく変わらない人間です。世界の人とつながって、そのつながりを大切にしてください」

実は今回のテレビ出演、いろいろな状況も重なって、かなり時間的には厳しいものがありました。最終的な台本を印刷する前に、プリンターがうんともすんとも言わなくってしまったり、という突発的なことも、もちろん、起こらないはずがありません、我が家では!

でも、放送終了直後からどんどんと私のメールに届き始めた多くの方のコメントがとっても嬉しかったです。

皆さん、ありがとうございました。特に、ディレクターの井上さんを始めとしたスタッフの方々、今回、とっても気持ちよくお仕事ができました。心から感謝しています。

それから、当日、スタジオで出演してくださった石弘之先生。石さんが冒頭で私のこのブログをご紹介くださったので、この番組のあと、新しい方からのアクセスがたくさんありました。ありがとうございました。

これからもアフリカからの発信をていねいに続けていきたいと思います。それから、皆様、患者さんの作ったビーズを販売してみよう!と思ってくださる場合は、ぜひ、私の個人メールまでご一報くださいませ。このブログのプロフィールのところに連絡先アドレスを書いています。番組でもお話したとおり、大量の在庫がありますよ〜。


生中継本番直前です。あああ、髪の毛も逆立っているし……

最後に、いろいろカメラの位置とか、音声とか、私の混沌とした事務所から本番用にPCやら電話線やらを居間に動かす作業をしてくれた家族にも感謝です。みんなありがとうね!

ひらがなOK、カタカナ少々、漢字はウ〜ン! [2008年05月12日(月)]
 
とっても楽しい、手作りの母の日のカードを娘・ショウコからもらいました。



でも、中身をよ〜く見てみると、あれれ、日本語におかしなところがたくさんありますよね。



でも、これこそが、ショウコ、14歳、幼いころから日本とアフリカを交互に生活してきて、いまは南アフリカに暮らす彼女の等身大の日本語の実力なのです。

前回の記事で、ショウコがいかに苦労して英語を身につけていったかを少しお話しました。その中で、学校の先生たちからの「家でも英語を話すように」というアドバイスも、私がきっちりと撥ね付けて、家族では日本語を話していたこともご報告しました。

その成果がこれ?
と、あきれますか?
なんだか……、とがっかりされますか?

ふふふ、でも、私は大満足なんですよ!

日々の暮らしを英語圏で続けるうちに、ショウコだけではなく、兄のカンジも、だんだんと英語のほうが彼らの思いや心の動きを表すのによりしっくりとくる言語になってきました。

もちろん、家族の会話はいまだに日本語で話すように心がけています。が、家で家族が話すことって、実はたわいもないこと、毎日の繰り返しなどが多いのが実情です。そうすると、家族以外の人からの日本語の情報収集がどうしても限られる我が家の場合、込み入った話やアフリカ近隣の政情のことなどを話すのは、どうしても身近な英語のほうが便利、ということになります。

例えば、南アのかつての人種隔離政策(アパルトヘイト)のことなどを説明するのは、どうしても英語です。第一に日本語でこういった関連の本を読んでいない彼らは、日本語での語彙が徹底的に不足していて、それを英語抜きで説明するのは無理があるのです。ですから、歴史や人々の政治的スタンスなどを説明するためには、お互いがすんなり理解できる英語での話しとなります。

実は、海外に暮らすと、多くの人たちから、「家では徹底的に日本語を話しなさいよ、そうしないと子どもはすぐ日本語を離せなくなる」に始まり、日本からの通信教育のお勧めなどを聞かさせることになります。これは片方の親が日本人以外だと、さらに拍車がかかるようです。日本語を保持させないのは、まるで日本人のアイデンティティを放棄するとか、将来、祖父母と話せなくなるのは残酷だ、とか。

正直に言って、私はこれもかなり勝手な意見だと思っています。

気持ちは分かるのですが、子どもたちにだってそれなりの意見があり、また、能力の差だってあるのです。まして、片方の親が日本語を話さない場合、日本語学習を進めることで家族の中に溝を作ってしまうことだって、実際にあるのです。もちろん、海外で一生懸命子どもたちに日本語を教えているご家庭を非難しているのではありません。それはそのご家庭のそれこそ、優先順位の問題だと思うのです。

ただ、私は海外で暮らしながらも、「日本語を保持しなさい」と言われ、動揺している、悩める家族を「そんな無責任な意見は聞く必要なし!」と励ましてきました。だって、そこに悩みがあるのなら、何が一番大切か、と考えればいいことです。そして、私にとって大切なのは、その言葉を話す真ん中にいるその“子ども”です。いくら流暢に何ヶ国語が話せても、その子どもに中身がしっかり詰まっていなかったら、何にもならないのです。そして、その中身は、いかに子ども時代を過ごすか、にかかっていると思うのです。

さて、日本に帰ることを想定していない家庭ではなく、数年間ののち、日本に帰る予定の多くの駐在員の家庭では、日本の勉強に追いつけるようにと、通信教育は当然のこと、休みには日本へ帰国させ進学塾の集中講座に通わせたり……、と子どもたちに日本の受験を目的とした勉強を促します。

そういった人たちの気持ちもよく理解できます。ただ、日本に帰る、ということしか選択肢を持たないのは残念だと思いますが。

でも、私は自分たちが“駐在員の家族”という立場だったころから、日本からの通信教育やひらがな、カタカナの勉強を子どもたちに強いてきませんでした。理由は、我が家の子どもたちはそんなに器用なほうではなく、インターナショナルスクールや現地校で課せられる宿題で毎日が精一杯。学校の勉強以外の日本語の勉強などさせたら、それこそ、遊ぶ時間、ぼ〜っとする時間もなくなってしまうからでした。

せっかくの子ども時代です。彼らからこういった一見“無駄”とか、“ぼんやり”する時間を取り上げてしまったら、それこそ大人になってから取り返しがつきません。

子どもだからこそ、私は彼らにじっくり、十分、子ども時間を味わって欲しかったのです。

私は成人してからここ30年近く、ずっと教育関係の仕事に従事してきました。

その中で、どうして親は、教師は、大人たちは、子どもたちに教育を受けさせたいのか、という問いを日本で、米国で、欧州で、そしてアフリカで日々考えてきたのです。

私の答えはものすごく単純です。

「子どもたちに幸せな人生を送って欲しい」

これだけです。

大人として、教師として、親として、子どもたちの学びは、どんな種類の学びであっても、究極的に子どもたちが幸せな人生を送るための糧であり、源であって欲しい。

で、この“幸せ”が問題ですよね。

“幸せ”って何なのでしょう。

私にとっての“幸せ”とは、自分の存在を肯定できて、なお且つ、自分だけの利益や幸せだけに捉われていない状態なのだと思います。積極的に人の人生に関わっていけるだけの体力や知力、そして生きていくための資力も持ち合わせていることも大切です。

自分や自分の家族だけの世界、状態にあまりにも捉われていると、自分を客観的に観察することができません。そうすると、自分がどれだけ恵まれているか、ということも、なかなか理解できないし、実感もできないと思うのです。

だからこそ、14歳のショウコのいまの状態、年齢相応に人のことにも関心を持ちつつ、自分のできること、得意なこと、そしてやや困難と思えることにも果敢に挑戦していく前向きな姿勢の彼女のすべてを肯定してあげたいと思うのです。その中でのひらがなの間違いや漢字がまったく自由に使えていない、といった彼女の日本語レベルも私からみると、「天晴れ、よくここまで一人で学びました!」と拍手したいくらいなのです。

それに、南ア人に日本語の読み書きや話す能力を教える立場の人間として、もしも、カンジ・ショウコが、これから先、もっと深い日本語の能力を身につけたい、と思うのであれば、再度日本へ渡って勉強すればいいだけのことです。それは大きくなった彼らが判断すればいいことです。

「将来役に立つから」と言った、未来の経済的恩恵を優先するような都合で、私は子どもたちの時間を奪うことを私はしたくなかったのです。

だって、“子ども時間”は永遠には続かないのですから。


兄・妹のケンカもよ〜くあきずにしていますよ!
でも、母の日の晩、妹は兄から数学を
教えてもらっておりました。
ショウコ、14歳 [2008年05月05日(月)]
 
「お母さん、私のことはお母さんのブログにいつ書くの」

と言っていたのは、娘・ショウコ。5歳年上の兄カンジがこのブログに登場する機会が今まで自分より多い、と思っていたようでした。

ショウコのショウは飛翔の翔と書きます。ショウコは、1994年4月27日生まれで今年14歳になりました。

ショウコの生まれたこの1994年の4月27日は、南アで初の歴史的な、全人種参加の選挙が行われた日なのです。今ではこの日は、“Freedom Day”として南アの休日です。つまり、ショウコの誕生日は毎年、祝日ということです。

ショウコは生後三ヶ月でエチオピアに渡り、その後、マラウィでの2年半の生活を経てこの南アフリカ・ダーバンに来ました。

日本で通った小学校の日々はあまりにも短く、ショウコの脳裏に鮮明なのは、2歳途中から卒園までお世話になった日本の保育園です。その保育園で、きれいな優しいお姉さん先生たちとたっぷり遊んだあとに、マラウィの英国系インターナショナルスクールで学校生活が始まりました。

マラウィに行った当初は英語のエの字も分からなかったショウコ。彼女のように幼いころから徹底的なポジティブ思考の子どもでも、その英語を理解する過程は厳しく、つらいものがありました。

私は語学教育の専門家です。過去30年に渡り、子どもから大人の外国語学習を研究、実践してきました。ですから、以下のような巷に流れる、子どもと語学にまつわる“神話”には文字通り、体を張って異議を唱えてきました。

「子どもは語学の天才」
「その環境に投げ入れれば言葉はすぐ覚える」
「英語を学ぶのなら、幼いうちから英語漬けにすべき」

考えてみてくださいね。これらが、子どもの側に立ってみれば、いかに迷惑な「大人の側の思い込み」であるかがお分かりいただけるでしょうか。万人共通の学びなど存在するわけもなく、学びの過程はそれぞれユニークだと言うのに、どうしてこんな大雑把な思い込みで子どもたちを追い詰めるのでしょう。英語圏からの帰国子女の子どもたちが、もしも流暢に英語を話していたとしたら、それはその子たちの涙ぐましいほどの努力の成果なのです。決してある日突然英語が話せるようになったのではないのです。

はい、断言しておきましょうね。たとえ子どもでも、異言語の環境にただ身を置いただけでその言語を簡単に学べる、というのはありえないのです。まして、読み書きも含めた高いレベルでの言語能力習得には膨大な時間と多くの努力が必要なのです。

ショウコもこの例にもれませんでした。ただ、ショウコの場合、彼女の持つなみなみならぬ好奇心(兄に言わせるとお節介さ!)と、どんな状況にもめげない、くじけないという性格、そしてほぼ絶えることのない笑顔でもって、お友達にも先生たちにも愛されて、いつの間にか英語での授業にもついていけるようになりました。今では、生活言語としては日本語よりも英語のほうがスムーズになってきています。この言語の優先順位が逆転したのは、英語で学校に行き始めて5年ほど経ったころでした。

私は母として、語学教育の専門家として、異文化の中で育つ自分の子どもたちに身につけて欲しかったのは、英語を流暢に話すことでも、日本語と英語のバイリンガルになることでもありませんでした。

私は彼らに、自分たちの個性(日本人でありながらアフリカに生活することも含めた独自性)を肯定する能力を身につけて欲しいと思い、それが可能になるよう努力してきました。それが達成できて、初めて、他の人の人生にも積極的に係ることのできる力をつけることができる、と考えているからです。

その例を一つ紹介しましょう。マラウィで学校に行き始めたころ、インターナショナルスクールの先生たちから、「英語を学んでいるのですから、家でも英語で話すようにしてください」と言われました。でも、私は、きっぱりと、「いいえ、我が家の言語は日本語です。彼らは昼間、懸命に英語を学ぶ努力をしています。家は彼らがリラックスする場所ですから私は彼らが一番安心できる言語で彼らをサポートしたいと思っています。家では日本語を話します」と伝えました。

でもショウコと兄のカンジは、学校以外にもマザーテレサの子どもの家に毎週訪れ子どもたちと遊んだり、インターナショナルスクールに集う国際色豊かな友人たちと交わっているうちに、「しっかり英語を学ばなくては」という意識が芽生えてきました。子どもたち自身にこういった覚悟が出来てくると、その学びの速度もぐんぐんと速まっていくようでした。

さて、南ア生活5年目の今年、ショウコが入学したのは、家から50キロほど離れた女子高の寄宿学校です。南アフリカの学校制度は日本のそれと大きく異なります。小学校は1年生から3年生までが一区切り。この学年層をジュニア・プライマリーとし、4年生から7年生(日本の中学校1年)までをシニア・プライマリーと区別します。その後、8年生(日本の中学2年生)から12年生までが5年制の高校となるのです。


ホッケーのチームメイトと一緒に。
週一回の練習と週一回の対抗試合が組まれている。

ショウコは、自分からこの寄宿学校の入学を決めました。しかも、受験する前から、「私、高校はEpworth(高校の名前)に行くの!」と言い広めているではありませんか!日本での受験競争とは比べ物にならないまでも、さすがに、受験で振り落とされる場合だってあるはずです。

「ショウコ、きちんと試験を受けて、学校から入学許可をもらってから皆に言ったほうがいいんじゃないの?」

というと、本人はキョトンとした顔で、

「どうして、お母さん?私、成績は80%近いし、スポーツだって、ウォーターポロ(水球)、ネットボール、ホッケーの選手だし、お友達もいっぱいいるし、先生だってショウコのこといつもほめてくれるし、Epworthが私を入れてくれないはずがないでしょう?」
と真顔での答え。

う〜ん、確かに。しかし、私たちの日本文化には、“謙遜”という心構えもあるのだがなぁ、と説得力のないことを考えていました。

そして、筆記試験やら、上級生に混じって実際の寮での宿泊体験(これも寮担当の先生がその様子を観察している試験のようなもの)やら、一連の入学試験の最終テストは校長先生との親子面談でした。

その席で、校長先生が、
「ショウコ、ご両親から離れて寮生活をすることをどう思いますか」と聞きました。

すると、本人、笑顔満開、大きな声で、
「もう楽しみで、楽しみで、待ち切れません!」というではありませんか。

そこで、私とショウコは顔を見合せて大笑いをしてしまったのです。だって、家が嫌で離れたい、というのとはまったく違う、彼女の前しか見ない、肯定的なことしか考えない、という性格が見事に反映された答えだったからです。

涙が出るほど笑いあっているショウコと私を見て、校長先生も嬉しそうに頷きました。

「家族から離れた生活もあなたはまったく心配なさそうですね」

ショウコは本人の予測通り、めでたく合格しました。私は彼女が、自分の個性をきちんと見据え、毎日、24時間を共有する仲間たちと語り合い、競い合い、励ましあいながら、この貴重な5年間を過ごして欲しいと思っています。


ショウコの寮の部屋。
出入り口のドアはなく、カーテンで仕切られている。

南アの新学期は毎年1月で、もう早くも半年が過ぎようとしています。ショウコは金曜の午後学校のバスで帰ってきて、月曜の朝、また同じバスで学校に戻る生活をるんるんと楽しんでいます。

ショウコの学校での生活はまたの機会にゆずることにしましょう。


学校のあるダーバンから50キロ離れたピーターマリッツバーグ
は歴史のある街で、多くの寄宿学校があることでも有名。
ここは学校のとなりの広々としたスポーツ場
NHK BS-1の番組に出演します [2008年04月28日(月)]
 
まず、告白から始めましょう。

このブログに使っている私の写真、実は7年も前のものです。
で、私は、つい先日めでたく50歳になりました。
ですから、この写真に7年の歳月と幾ばくかの贅肉をぺたぺたと足していただくと、今の私の実像に近くなります。

ど、どうして、こんなことを書くかというと……。

はい、悪いことはできないものです。
Cafeglobe でのブログに使う写真を選ぶときに、日本と南アフリカの距離の大きさを理由に、

「お母さん、この写真、ちょっと、今と違うんじゃないのぉぉぉ」
という子どもたちのアドバイスを、

「う、うるさい!実際に見にくる人はいないからいいのだ!」
と無視した私にバチが当たったのです。

実は、今度、5月18日放送の、NHK BS-1『地球アゴラ』という番組に出ることになりました。この番組は、海外在住の日本人と東京のスタジオを結んで、海外の話題やそこに生きる日本人の活動を紹介する、というものです。

アフリカに住んでいると、アフリカがらみの原稿執筆の依頼だけでなく、日本のメディアからいろいろな形で出演依頼のお話をいただきます。始めのうちは、「声の出演だけなら」と思い、出来る限りお引き受けしていました。ですが、何と言っても南アと日本、時差があります。夕方から夜、あるいは録音で済めばいいのですが、いつもそうは行きません。

それに、このごろ仕事が超多忙になっていることもあって、コーディネイトの仕事も含めて、メディアのお仕事はあまりお引き受けしてきていなかったのです。

ところが、この『地球アゴラ』は、私の出番には、私の関係しているHIV/Aidsの患者さんたちのことを中心に取り上げてくださる、というのです。しかも、ビデオ撮りまでしてくださるというお話。HIV/Aids の患者さんたちの症状緩和施設、Dream Center で私が運営しているビーズワークショップ(このセンターのお話はここから)は、常に資金不足ですから、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうためなら、私はほぼ何でも!してしまうのです。

ただ、実際のビデオ撮りになって気がつきました。当然なのですが、ビデオは私が中心に撮影されていることを……。私は、普段、コーディネイトをする側に立つほうが圧倒的に多いし、また写真映りに自信があるわけでもないので、この展開に正直言ってうろたえたのでした。でも、この番組のことを一人でも多くの皆さんにお伝えするためには、このブログでもぜひ、宣伝しなくてはいけないじゃないですか。

……というわけで、今回のブログの冒頭の「告白」と相成ったのでした。


朝、Dream Center に入るところ


さて、この録画撮りの際、私は患者さんたちの言葉に改めて、深く心を動かされました。彼女たちの言語のズールー語を話せない私ができるのは、英語でのインタビューです。ですから、当然、彼女たちの思いのたけをすべて完璧にあらわしていたとは思いません。が、彼女たちの言葉の中には、私たちが「人として何をすべきか」という根源的な答えがあるのです。

今回のインタビューは、実は7ヶ月振りの作業再開でもありました。

7ヶ月も期間が開いたのには理由があります。

私は、去年、患者さんの一人の死にかなり打ちのめされました。この患者さん、ロクサーンは、こちらで言うところのカラード(混血)の女性で、その聡明さ、優しさ、美しさは他の患者さんとは違っていました。私とロクサーンはかなり親しくなり、彼女のだんだんと衰えていく心身状態をまじかで見ていくことは、私にとってかなりつらいことでした。

彼女の最後の言葉は「死にたくない」でした。
彼女のこの悲しいシンプルな願い。
わずか、29歳でこの世を去ったロクサーン。
私は約1年もロクサーンの死を引きずっていたことになります。
でも、思う存分時間をかけて、彼女の思いを引き受けよう、とも考えていました。これだけの時間が私には必要だったようです。

でも、いざ、「さあ、書き取り再開しよう」と自分を鼓舞するには、まだ何かが欠けていたようです。

ところが、今回、この番組が私の背中を押してくれました。

そうして、インタビューをしてきました。
この様子はぜひ、番組の中でご覧くださいね。また、書き取ったインタビューの内容は、ぜひ、このブログでも放送終了後に書いていきたいと思います。





番組の詳細は以下のとおりです。
5月18日(日)午後9時10分から午後9時59分の生放送。
元ザンビア大使、石弘之さんをスタジオゲストに、アメリカでくらす3〜4組の日本人を紹介し、クロストークをするアフリカ特集を放送する予定。

皆さんのご感想などもお聞かせいただければ幸いです。


カメラマンのDaneと一緒に


350名の子どもがウェイティングリストに名を連ねる学校 [2008年04月21日(月)]
 
自分たちの話す言葉の中に、新しい現象とか、新しい概念を表わす言葉がなかったとしたら、私たちはどうするのでしょう。

例えば、コンピューター。
例えば、クリスマス。

日本語には「カタカナ」があるために、外国産の言葉も比較的安易に日本語の語彙として登場する機会があるようです。

私たちのエチオピア訪問の最後にとっても印象に残る出会いがありました。

ゼミ・イェネスさん。



彼女は、自閉症、という障がいを表現する言葉が彼女たちの使うエチオピアの公用言語、アムハラ語になかったため、自閉症のその英語名、Autism(オーティズム)をそのまま“オーティズム”、としてエチオピアの社会に紹介した人です。

そして、彼女は、言葉を紹介しただけでなく、エチオピア初の自閉症児のための学校、J-CCARDD (Joy-Center for Children with Autism and related Developmental Disorders) を2002年に開設し、現在も活発にその活動を進めています。

ところが、彼女の本職は美容師で、アディスの街に美容師養成学校を経営するビジネスウーマンです。その彼女がどうして、自分たちの話す言葉の中にその名前すら、定義すら、存在しない「自閉症」を紹介し、学校を始めたのでしょう。

それは、彼女が自閉症児を持つ母親だったからです。

J-CCARDDのパンフレットには、そのセンター設立の由来が彼女と彼女のお子さんの物語と絡めて紹介されています。彼女自身も最初のころ、自分の子どもの障がいを認めたくない時期があったそうです。つらい時期を経て、彼女はエチオピアの自閉症を持つ子どもたちのために、このセンターを設立する決意を固め、がむしゃらにその先頭を走ってきました。

エチオピアの社会では、まだまだ自閉症に対する理解が圧倒的に足りないそうです。残念なことに、その無理解は、医療関係者、教育関係者にもおよび、きちんとした形で「自閉症」と診断されることのほうが珍しい、ということです。

私は、これまでも途上国に暮らし、各地で障がいを持った人たちにも会ってきました。ポリオなどの障がいを持つ人が、かなりの年季が入った車椅子を操る様子なども見てきています。また、多くのアフリカの都市で、障がいを抱えた人に物乞いをされた経験も頻繁にあります。

ところが、彼女との出会いで、そういえば、自閉症のような障がいを持った子どもや大人には、あまり出会ってきてこなかったことを思い出しました。

でも、街であまり見ないから、よく声を聞かないから、彼らが存在していない、と思うのは間違いでした。

彼らはいたんです。

このポスターを見てください。




ここに書かれているのは、自閉症の子どもたちを自由にしてあげて、というメッセージです。

ゼミさんに聞きました。本当に子どもたちはこうやって写真のように鎖につながれているのかと。

「残念ながら事実です。エチオピアの多くの人たちにとって、彼らの症状はまったく理解できないものなのです。奇声を上げる、コミュニケーションを取れない、行動を予測できない、といった行動を繰り返す彼らを危険から守るため、また、他の人からの批判を避けるため、彼らは自分の子どもたちをこうやって紐や鎖で縛り付けているのです」

ゼミさんにとって、自分の子どもの自閉症という障がいに向き合うことは、他の多くのこの障がいを持った子どもたちの現実を知ることにもなりました。現在、J-CCARDD在校生は40名。今の体勢ではこれが精一杯、ということですが、なんと、この学校に入学したい、と待機リストに名前を載せている子どもは、2008年4月現在350名もいるのです。

多くの、声も上げられない、暗い部屋の中で閉じ込められている子どもたちのことを考えると足がすくみます。どれだけの絶望の中にいるのでしょう。そして、そのそばで声を殺して泣いている母親の姿も見えてきます。残念ながら、エチオピアでは、いまだに、障がいを持つ子どもを生んだ母親が、夫から離縁される、という話を聞きました。

「生きる権利」という言葉を知っていますか。
「基本的人権」とも言われます。

この世に生まれてきたからには、誰にでも与えられるべき権利です。障がいの種類とか、程度とか、またまた経済的な状況とかに左右されるべきものでもないはずです。でも、いま、この同じ地球で、障がいを持って生まれてきた子どもたちが、紐で、鎖で縛られて、暗い部屋で泣いている、という現実があることも事実なのです。

重くて辛い現実です。

「知りたくなかった」
と思いますか。

「自分には関係ない」
と思いますか。

私はそうは思いません。

そして、同じ女性で、私と同じような年頃のゼミさんが、こうやってエチオピアの子どもたちに光を与えようとして活動する姿を頼もしく、嬉しく思います。私も精一杯、彼女を応援しようと思います。

ジンバブウェの大統領選、大混乱! [2008年04月14日(月)]
 
エチオピアでの旅行記をちょっと一休みして、今日は南アフリカの隣国、ジンバブウェの大統領選挙のことをお伝えしましょう。

実は、ジンバブウェの経済の混乱ぶりは、2006年6月にCafeglobe のWorld News Café で、『南アフリカから緊急レポート、ジンバブウェの経済混乱』という記事を書かせていただきました。

今回、このほぼ1年前に書いた記事を自分でも読み返してみて、さらにびっくりしました。2007年6月の段階で、「ジンバブウェのインフレ率は1700%!」と書かせていただいていたのです。ところが、なんと、現在のジンバブウェのインフレ年率は10万%にもなっているのです。これがどんなに天文学的な数字かは、想像に難くないと思います。ガソリンも外交官用に発行した特別なチケットがないと、まったく一般庶民には手に入らない様子です。これでは、経済が困窮しているどころか、まったく停滞している、と言ったほうが正確でしょう。

何が原因か。それもこの World News Cafe でお読みいただきたいのですが、ジンバブウェはロバート・ムガベ大統領が28年にも渡る独裁政治を強いていて、各国、国連からも経済制裁を受けているのです。ところが、あまりの独裁振りに国民はこれまで恐れをなして、反ムガベ的行動は大きなうねりになってこなかったのです。一般国民は戦うにも、もう疲れ果てている、と言ったほうがいいのかも知ません。


ここ2週間ほど、ジンバブウェの大統領選挙のことは
南アのメディアではトップニュース。この新聞でも、
「この吸血鬼から私たちを助けて!」
と、ものすごいコピーが使われている


ところが、今回の選挙では、ついに、一般のジンバブウェ人も行動に出たのです。

そうです。ジンバブウェ人はムガベ大統領に「NO!」の意思を叩きつけたのです。ところが、当のムガベ氏、一向にその「負け」を認めようとしていません。3月29日の選挙のあと、もう2週間余が経過しているというのに、ジンバブウェの選挙管理委員会は、選挙の結果を公表していないのです。

ところが、出口調査(ムガベ政権はこれを禁止しているが)では、ムガベ氏もムガベ氏の率いる与党もこの野党に負けているのです。当然、反対勢力のジンバブエの最大野党「民主変革運動」のツァンギライ議長(56)が勝利宣言をしているのですが、正式にはムガベ氏も与党もこれを認めていません。南アフリカの公共放送でも、選挙の次の日から選挙の勝敗を報道していましたが、そこでも、ムガベ氏と与党は劣勢でした。

4月13日には、ムガベ大統領に南部アフリカ開発共同体の首脳たちも、ザンビアの首都ルサカで会議(ムガベ大統領は欠席)を開き、早急に選挙結果を公表するよう共同声明を出しています。ところが、ムガベ大統領、「選挙結果には計算ミスがあった」と主張し、今から、再集計が全国で行われるようにしてしまったのです。これは、あきらかにここで不正な集計を試みようとしている、と反対勢力から糾弾されています。

ムガベ大統領、84歳です。「もう、いい加減に引退して欲しい」と思うのは私だけではないはず。世界中の人を敵にし、自国の人間をこれほどまで困窮させても、なおしがみつきたい権力とは、いったい何であるのか。人間の果てしない権力への欲望をこうまであからさまに見せつけられて、皆が途方に暮れている、と言えばいいのでしょうか。でも、その影で多くの罪のない一般ジンバブウェ人、特に幼い子どもたちが、食べ物もなく、毎日その命を終えている現状を私たちも知らなくてはいけません。

そもそも、ジンバブウェは緑豊かな美しい国です。ジンバブウェ遺跡という、世界遺産にも登録された、独特なアフリカの歴史を表現する遺跡もあります。もともと、ジンバブウェとは「石の家」を意味し、素晴らしい石の細工を施した建築物でも有名です。

また、経済が混乱する前のジンバブウェは、農業が盛んで、アフリカ各国にその農産物を輸出する豊かな国でした。私たちがマラウィに住んでいたとき、ジンバブエから輸入されていきた農産物や加工品(マヨネーズ、ケチャップなど)にどれだけお世話になったことでしょう。人々は穏やかで、また、見目麗しく、心優しい人々です。どうして、どうして、こんなことになってしまったのか。一刻も早く、ジンバブウェの人々に平和が訪れることを願ってやみません。どうか、どうか、暴動などが起きませんように。ムガベ氏が軍隊を民衆に向けませんように。


超不人気のムガベ大統領婦人、グレース。
“アフリカのイメルダ”と異名をとる彼女がパリの高級ブランド
ショップで買い物をするところが掲載されている。


幸せな子どもたち [2008年04月07日(月)]
 
日ごろ、

「ああ、私は幸せだなあ……」

と、思うのは、世界各地にその名前を口にするだけで、暖かい気持ちになることができる友人や知り合いがたくさんいることです。

その地に駐在する外国人として、外国人同士の付き合いもたくさんありました。でも、現地の人たちからも多くのことを学びました。

その中、途上国暮らしをしていく上で、どうしても避けられないのが、現地のお手伝いさんや庭師、運転手さんといった家で働いてくれる人たちとの人間関係です。

日本では、「自分のことは自分でする」という考え方が一般的。でも、途上国で暮らす日本から来た私たちには、どうしてもその経済格差から、自分たちの身の回りの世話をしてくれるスタッフを雇用することが求められている場合があります。

我が家もリベリアを皮切りにさまざまなスタッフとの出会いがありました。そして、私たちはどれだけこの現地のスタッフに恵まれてきたことでしょう。

私夫婦が心がけたのは、心をこめて働いてくれているスタッフには、私たちが駐在を離れたあとも他の家庭で喜んで雇用してもらえるような特技を身につけてもらうことでした。例えば、夜勤の門番をしていた人に車の免許を習得してもらい、運転手という技能職に職種替えを果たした人も数人います。

ツァハイは、私たちがアディスで生活していた時の我が家のお手伝いさん。いや、お手伝いさん、というよりも我が家の二番目の子ども、ショウコの第二の母、と言ったほうが正解だと思います。

生後三ヶ月でアディスに連れていかれたショウコはエチオピアの主食のインジェラをマッシュしたものが“離乳食”というなかなかディープなアフリカ食生活を経験してきています。それもこの“第二の母”ツァハイのおかげです。


姪のHannaとともに。ツァハイはいま、
薬剤師になるために夜間の大学に通っている。

今回の私たちのアディスアベバ訪問の大きな目的は、カンジ、ショウコに、自分たちの育ったこの地をもう一回見て欲しい、ということの他に、自分たちが幼いときに係ってくれた人々に再会してもらいたい、という母の願いが強くあったのです。

私は子育てにおいてつくづく「大切だなぁ」と思っているのが、子どもたちに与える、両親以外の、できれば血のつながりのない他の大人たちの影響なのです。

昔の日本にも、遠縁のおばさん、とか、親戚のつながりの友人とかが、同じ家の中に住んでいるような時代もありました。いわゆる大家族制度の元では、誰がどうつながっているのか理解できないような関係の大人が、子どもたちが育つ周りにごちゃごちゃといたと思うのです。

そういった一見混沌としたような人間関係がどうして子育てに必要なのでしょう。

もちろん、人間が多く集まれば、肯定的なことも否定的なこともあるのは世の常。でも、それを差し引いたとしても、子どもにとって、両親や祖父母以外の人間から、「ああ、自分は愛されている、大切にされている」という思いをもらえるのはとっても幸せなことだと思うのです。

母の愛は母の愛。
父の愛は父の愛。
祖母の、祖父の愛は、またそれぞれ。

そして、他人でも、心のつながり方一つで、

「ああ、私はこんなにこの人に可愛がってもらっているんだ」

という嬉しい実感にくるまれることの素敵さ。

もちろん、それが起こるためには、家族以外のそれらの大人も、その家に居ること、またはその家族に係っていることに対する充足感や満足感が必要であることは当然のことですが。

今回、12年ぶりに再会したツァハイとショウコ。

ショウコに会った瞬間にツァハイの目にあふれて、止まることの無かった大粒の涙がすべてを物語っていました。

12年ぶりに会った、ということは、別離の際、ショウコはたったの2歳です。ですから、当のショウコ自身はその当時の記憶として、自分とツァハイの関係を覚えていることはないはずなのです。彼女がツァハイを覚えているのは自分の経験から、というよりも私たち家族のするツァハイの思い出話から、と言ったほうが正確でしょう。

でも、ショウコは、ツァハイの

"Do you remember me?"--- 私を覚えていますか?

という質問に、何回も自信をもって、

"Yes, of course!" --- もちろん!

と答えていました。

でも、今回の再会で、ショウコはショウコ自身、自分がどれだけこのもの静かで聡明なエチオピア人女性に愛されていたか、ということを実感したと思います。


ショウコ、エチオピアにて。
もうすぐ14歳。すべてにおいて徹底的なポジティブ娘。
14歳にして、足のサイズがもう27センチ近いのはどうして?

自分が人に愛されている、と感じることができるのは、その人にとって、何よりの心強い応援ではないでしょうか。

私は途上国に住んできたことで、自分の子どもたちがこうやって、多くのアフリカ人に愛されてきたことを何よりも嬉しく思っている母なのです。


エチオピアで再会した人たち
皆さん、お世話になりました
エチオピアの美味しいコーヒー [2008年03月31日(月)]
 
香り高い街角のコーヒー。
コーヒーの香りに和む食卓。

これは欧米や日本のような先進国だけの話ではありません。

エチオピアの首都、アディスアベバには、いたる所にブンナ・ベット(コーヒー・ハウス)があります。また、各個人の家でも、人が集まれば、すぐ、コーヒーのおもてなしが始まります。


現地の人でにぎわう街中のカフェ。
生の豆やローストした豆も買える。現地の価格で
1キロの生のコーヒー豆は2008年3月現在400円程度

エチオピア人は、コーヒーはエチオピアが発祥の地と信じています。実際、紀元前にコーヒーの実をつぶして携帯食にもしていた文献もあるようです。

エチオピアの州の一つカファ州でヤギ飼いの少年が、ヤギがこげたコーヒー豆を食べると興奮状態になるのを目撃してから、という“コーヒー発見”の話はたくさんのエチオピア人に聞かされました。

そして、何よりもここエチオピアにコーヒー文化が色濃く残っていること自体がエチオピアとコーヒーの深くて長い関係を物語っていると思います。

まず、あなたがエチオピア人に「コーヒーでもどうですか」とお誘いを受けたら、最低でも2時間から3時間はその後の予定を入れてはいけません。

エチオピアでコーヒーはブンナ、と呼ばれます。
そして、ブンナを客人に供するためには、ブンナ・セレモニーが必要なのです。

ブンナ・セレモニーの最初は、まず、生のコーヒー豆をお客に見せることから始まります。

「この豆でいいでしょうか」

客は、もっともらしく、

「はい、結構です」

と答えます。

そのあと、ホスト側は豆を焙煎します。小さなブリキのおなべにコーヒー豆を入れたものを炭火でローストしていくのです。そして、香ばしく焙煎が終わって、煙が出ている状態のコーヒー豆をまたまた客に見せに来ます。



「焙煎状態はこれでいいでしょうか」

客はまたまた深く頷き、

「はい、大変いいですよ」

と答えます。

その後は、この豆を棒でつぶします。そして、エチオピア・コーヒーを淹れる独特のポットで温められている水の中に、いま砕いたばかりのコーヒー豆を入れて、炭火でポット全体を温めていくのです。



そうして、しばらくするとコーヒーがポットの下に沈殿します。そのポットをゆっくりかしげて小さめのカップにコーヒーを入れれば、香り高きエチオピア・コーヒーの出来上がりです。



この小さなカップには最初からたっぷり砂糖が入っていることが多いので、砂糖を控えたい人はあらかじめホスト側にそのことを伝えておく必要があります。

こうやって淹れてもらうコーヒーがいかに美味であるか。強い香りと深い苦味のコーヒーを口にすると、遠い昔のヤギ飼いの少年に感謝したい気持ちになります。

また、ブンナ・セレモニーでは、床に花を敷き詰めたり、松脂のお香を焚いたり、その場を整える様式にも伝統的なルールがあるようです。



客人をとにかく大切にするエチオピア人。特に今回の私たちのように何日も宿泊すると、実は、毎食後にこの「コーヒーはいかが」と誘われるのです。もちろん、そのあとに用事が入っていなければ、ありがたくお受けします。毎回の食事のたびに、この豆の焙煎から始まるコーヒーによばれる贅沢さはどうでしょう。こうして手間隙をたっぷりかけていただくコーヒーは私たちをゆっくりと別の世界に誘ってくれるようです。

家に帰ったら、せめてコーヒー豆は挽いたものではなくて、直前に挽くようにしよう!と決心しました。

エチオピアのブンナ・セレモニー。日本の茶道にも通じるものがありますね。
12年ぶりのエチオピア [2008年03月24日(月)]
 
「この人たち、どうしてこんなにボクたちに親切にしてくれるの?」

が、今年19歳になる息子カンジが最初に発した言葉でした。

私たちはいまエチオピアを訪問しています。


エチオピアのコーヒーセレモニー


私たちに親切をしてくれている人たちとは、私の友人のエチオピア人ご家族です。ずうずうしいことに、私たちは、この日本人の友人の12年ぶりのエチオピア訪問に便乗させてもらっているのです。

私たち家族は1993年から1996年にかけて、エチオピアの首都アディスアベバに滞在していました。ショウコは、生後3ヶ月でエチオピアに連れて行ったので、彼女の人生の最初の日々はこのアディスで始まった、と言っても過言ではありません。

さて、この友人とは、エチオピア人の夫を持つ日本人女性、ヨシコさん。二人のお子さんとともに、現在は英国に住んでいます。彼女の夫、エフレムは、仕事の都合で英国とアフリカを行き来する毎日です。


アディス市内のセントメリー教会


同じような年頃の子どもを持つ私たちは、お互いがエチオピアに滞在している時に知り合い仲良くなったのです。そして、偶然なのですが、彼女たちも私たちもちょうど12年前にエチオピアを離れました。彼女たち一家はネパールへ、私たちは日本へと移動したのです。

私たちが日本での仕事を整理して、南アフリカに移住した理由の中のひとつに、アフリカの各国で知り合った人々のつながりがあります。

アフリカでの人と人とのつながりは、先進国で住む人にはもしかしたら、“わずらわしい”と感じるようなものが含まれているかもしれません。または、密度が濃い、とも言えるかもしれません。

今回の私たちの訪問でも、私たちはこのテゲレ一家の兄嫁の友人、ということだけで、上げ膳据え膳の大歓迎を受けているのです。

「ヨシコの友人は私の大切な客人です。ここでの滞在を心から楽しんでください」

とのテゲレの一言。良くも悪くも家長制度がまだまだ色強く残っているエチオピア。私たちは、ただただ単純に、兄嫁の友人、ということだけで、本当に冒頭のカンジのコトバ、

「この人たち、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

という大変幸せな毎日を送らせてもらっているのです。しかも、朝昼晩、美味しい自家製インジェラ食べ放題というおまけつきで!もちろん、この一家に私の友人ヨシコさんがいかに大切にされているか、ということを忘れてはいけませんが。

実は、エチオピアを訪問した目的のひとつは、ずばり、こういったアフリカの人々の生活を子どもたちに実際に見て欲しかったからです。


テゲレ家の末娘ミトゥ


今回、ホテルに滞在することもできたのですが、ホテルに滞在してしまうと、現地の普通の人の生活が見えてきません。もちろん、テゲレ一家は裕福な開業医ですので、テゲレ一家が一般的なエチオピア人家庭かというとちょっと語弊がありますが。

でも、一家が、お父さんのテゲレを中心に、早朝から深夜まで一定のハーモニーを保ちながらそれぞれの役割を機嫌よくこなしているのがよく分かります。皆が自分の一族の中での役割に充足しているかのようなハーモニーです。

まだ数日しか滞在させてもらっていないのですが、このリズムは南アフリカで核家族として生活している私たちには味わえない種類の心地よさのような気がします。

どの家族にも問題はあるでしょう。テゲレ一家にも、私がうかがい知れない悩みだってあるでしょう。でも、ここには、ご主人を亡くされた、テゲレの奥さんのお姉さん一家も自然に一緒に住んでいます。また、テゲレの病院で働く多くのスタッフが始終出入りしています。

血のつながりのあるかどうかは関係なく、皆の関わり方が本当に自然で、大きな傘の下で、ひとつの家族としての揺ぎ無い“核”が確立されているようなのです。

我が家の二人の子どもたちはこういったアフリカの多くの善良な人々に、様々な形で関わってもらいながら育ちました。私は、先進国の都市ではもうめったに見ることができないこういった家族のあり方を、今年19歳と14歳になるまでに成長した彼らにぜひもう一回身近で体験して欲しかったのです。
あるお母さんからの感想 [2008年03月17日(月)]
 
経験主義、という言葉を聴いたことがありますか。 これは、経験至上主義、とも言われる場合もあります。つまり、自分の経験することしか信じない、自分の経験でもってのみ、物事の判断をしてしまうことを指します。

私はこれをなるべくしないように努力しています。確かに、私は考えるより行動が速いタイプの人間です。特に、大きな問題にあたるとき、うだうだ考えて実際の実行をしない、というのは私の行動パターンの中ではあまりないことかもしれません。
 
とにかく、

動いてみる

ということが私には大切です。

この動いてみる、ということの中には、もちろん、体を動かすことだけではなくて、“心”を動かしてみることも含まれます。

というと、まさに、動いて経験してみてから自分の判断を出しているようで、まさに、この「経験主義」なのでは?と思われるでしょうか。

それが、違うのです。

私にはそれこそいろいろな経験から、自分のしたこと、経験したことが、別の人にとってはまったく別の意味を持つことがあることをよく知っています。だからこそ、「自分で経験したことだけが真実だ」、という捉え方をしないのです。

そして、自分が一人で経験できることは本当に狭い、ということも骨の髄から味わっています。

そういった理由からも、私は自分の知っていることしか、得意なことしか、または、慣れ親しんでいることにしか自分の行動を広げない、または生活を限定してしまうような生き方を選びたくないのです。

具体的に、私は医療関係者でもないのに、HIV/Aidsの問題にも首をつっこみます。患者さんの枕元にたって、病院の関係者に意見を言うこともあります。

障がいを持つ子の親でもないのに、障がいを持つ子のお母さんに、「私に何ができますか」と話しかけることもあります。

実は、私はかなり以前より、"障害”の害の字は人を形容する際に使いません。"障がい”と書くようにしています。それは、この感想をくれた友人を始めとして幾人かの障がい児を育てている人が身近にいるからです。


ダーバンの郊外で。
年齢差のある子どもたちがとっても仲良く遊んでいた。
この中には足の不自由な子もいた。


私たちはときに、自分と境遇の違う人や自分とはまったく別の人生を歩く人たちに、「価値観が違うから」といってあえて距離を置くような行動をとる場合があるような気がします。

また、同じ境遇ではないから、と言って、手を差し伸べようとしている人たちを排除してしまうこともあるようです。

でも、それでは何も始まらないように思います。

私はどんなに入り口が見えにくくても、自分が何かできそうだ、という場合はそこで自分のできることを探していきます。

また逆に、相手がどんなに、勘違いに近いところで興味を持ってくれているようでも、「何かをしたい」というエネルギーを感じることができれば、そのお手伝いをするようにしています。

2008年2月18日に書かせていただいた「ザ・メモリー・キーパーズ・ドーター」の記事に友人から感想をいただきました。彼女の文章をお読みください。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


うちの小6の息子は自閉症。このところ話題の「軽度発達障がい」と呼ばれる部類の子で、一見するとそうとはわかりません。

日々、よく思い出すのは、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まる。」という、先輩お母さんの言葉。きっとそう。
 (中略)
 
今、幸せなことに私はその息子が生まれてきてくれて本当によかった、と思えるけれど、でも、やはり、うちの子自身が「生まれてきてよかった」と本当に思えるのにはやはりしんどいだろうな、と思うことはある。それには、やはり周りの理解や手助けが必要だろうな、と。
 
うちの子と暮らしていて、障がいとは、その人の中にあるのではなく、この世での生きづらさ、生きにくさとしてその人の外にあるものだと思う。たとえば、自閉症の人たちの行動、考え方などは、その独自の世界があり、それはある意味一つの「文化」とも言えるものがある。

そして、同時に自閉症はイマジネーションの障がいをもっているから、あちらの側から、こちらの側の文化を理解することが極めて難しい。要は、マジョリティとマイノリティの問題でもあり、こちらの側の理解が進めば、自閉症は生きることへの「障がい」ではなくなる日もあり得るのだと思う。
 
誤解を恐れず言えば、今は「障がいも個性」と言うにはまだ早すぎる。生きづらさとして外にある「障がい」が「障がい」でなくなったとき、初めてどの障がいについても、「障がいも個性です」という表現がマジョリティの側でもマイノリティの側でも使えるのではないか。
 
「うちの子の障がいは、きっと不妊治療に関係があると思う。どうしてもちゃんと生んであげられなくてごめんね、って思っちゃう」というお母さんの言葉も聞いたことがある。このお母さんのことを「その子を受け入れてない、障がいを受け入れていない」と非難するのは簡単だし、私自身も「『ちゃんと』って何だろう、この世に生まれることができなかったたくさんの命もある中、こうして『ちゃんと』この世の中に生まれてきたんだよ、そんな言い方したら生まれてきた子もかわいそうだよ」と答えはしたけれど……。

でも、うちの夫が言ったことがある。「不幸だと思うことから不幸が始まるのも真実。でも、誰一人として、障がいを持つ子をもちたい、と思って障がいのある子を産んだ人はいない。」それもきっと本当。
 
「他の人とはちょっと違うかもしれないけれど、でも、きっといい人生が送れると思いますよ。」と言ってくれた人もいる。本当にそう。でも、それを支えてくれているのは、他ならぬ周りの人のネットワークだ。理解してくれる、理解しようとしてくれる、困ったときに相談できる、助けてもらえる、…そんな人に囲まれてこそ、「障がいを持つ子をもっても不幸じゃない。」と言える。それ以上に、息子がいたからこそ出会えた本当にいい人、素敵な人にどれだけ恵まれていることか……。

だから、ありきたりだけれど、やっぱり一人で抱え込んで大変な思いをしている人がいるなら、まずはまわりの人とネットワークしようよ、って伝えたい。

やはり、始めに戻って、「障がいを持つ子をもったことが不幸なんじゃない。障がいを持つ子をもって不幸だと思うことから不幸が始まるんだよ」って……。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


障がいを持った人、障がいを持った子どもを持った人。生活の環境、家族の状況が異なれば、人々が同じ経験をしていないのは当然のことです。

だからこそ、私たちは別の立場からお互いを支えることができるし、助けてもらうことができます。

いつも、いつも支える側だけにいるものしんどいし、いつも、いつも支えてもらうだけじゃつまらない。

私は友人の「ネットワークを……」の声に耳を傾けたいと思います。アフリカにいて、何ができるか、またこの Cafeglobe のコミュニティで何ができるのか、いろいろ考えていきたいと思います。

立場が違うから、とか、私には想像もできない世界だから、としり込みしていたら世界は広がりません。自分の世界を広げれば、時には痛い傷を負う場合もあるけれど、未知の世界で味わうや空気は極め付きに新鮮で素敵な場合が多いと思うのです。

人と人とのつながりは間違いなく私たちを豊かにしてくれます。

それでも、

「自分に何が出来るかわからない」
「何から始めればいいかわからない」

と考えていませんか?

できることはたくさんありますよ。

まず、自分とはまったく関係ない人のことを自分のことを考えるように考えてみる、ということから始めるのはどうでしょう?


障がいのあるおばあちゃんを囲んで。アフリカでは
長老は大事にされる。このおばあちゃんも大勢の
孫に囲まれてとっても幸せだという。

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プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。