吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

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5年ぶりのオレゴン [2008年07月07日(月)]
 
5年ぶりに米国のオレゴンに来ています。

オレゴン州ポートランドは、私が高校を卒業した後日本を出発し、初めて踏んだ外国の土地です。私はこの街で英語を学びました。私が在学したのは、ルイス&クラーク大学(Lewis and Clark College)というリベラルアートの私立大学で、最初は大学の付属の留学生に英語を教えるALI(American Language Institute)の学生になりました。

私はそのALIの最下位のクラスから始めて、同大学に入学し、第三学年ではデンマークに再留学し、そして第四学年ではこの古巣のALIで半年間に渡り教育実習をさせてもらったのです。その後、ニューヨークのコロンビア大学の大学院で学びましたが、私にとって、このオレゴン州のポートランドは、19歳から23歳前後を過ごした思い出深い土地なのです。

今回の再訪でたくさんの懐かしい人たちと会うことができました。当時一緒に勉強していた友人や先生たち。当時のALIの秘書をしていたMarion Dodson さんとそのご主人、Arleigh Dodsonさん(彼もこのL&Cの化学の教授でした)が、自宅に私たちを招いてくださり、 ポートランド近隣に住む多くの人が集まってくれたのです。30年前の私たちの姿をよく覚えてくれていることも驚きでしたが、濃厚な時間を共に過ごした人たちとの久しぶりの一緒の時間は、くすぐったいような、故郷に戻ったような、何とも不思議なものでした。





そして、改めて、この米国の友人たちの在り方に、私の大人としての原型がある、と思いました。私はこの人たちとのつながりのなかで、どういった大人になりたいか、またなりたくないかを考えていったのです。

30年以上前、ルイス&クラーク大学は、遠く祖国を離れて米国で学ぶ留学生たちに、米国人のホストファミリーを紹介してくれました。学生たちは、通常は寮生活ですが、週末や休暇などに彼らの家族の一員となって、米国の文化や生活に触れることができたのです。実は、Beverly & George Nase 夫妻は、最初は私の友人に紹介された家族でした。が、私のホストファミリーがどうやら、私をベビーシッター代りに使いたいような気配があったので、私もNaseさんご一家にお世話になることになったのです。



それ以来、彼らは私を娘のように扱ってくれています。日本で行った結婚式にも来てもらいました。リベリアから避難してきた私たちの荷物を引き取ってくれたのもかれらです。二人の子どもたちも機会がある度に彼らに会わせてきました。私と私の夫が南アフリカに移住するときも、大きく背中を押してくれたのも彼らです。

「人生は一回きり。思うように進みなさい」と言う彼らの励ましがどんなに嬉しかったことでしょう。

私にとって、彼らは私の米国の両親なのです。ということは、彼らの周りの人たちも私にとっては親戚のようなもの。ここ30年間、彼らの結婚、離婚、孫たちの成長、卒業、さまざまな生活のシーンに関わらせてきてもらいました。

“両親”ですから、もちろん、彼らの意見全部に賛成するわけではありません。でも、彼らの生活や友人たちとの付き合いかたなど、私は多くの部分を彼らから学ばせてもらいました。

その中でも、私にとって、特に大切な“教え”は、「友人として付き合う、ということは、その人を丸ごと引き受けること」ということです。そして、来るものは拒まず、去る者は追わず、という潔い姿勢です。

その出会いが、たとえ偶然だったとしても、つながり会う機会のあった人たちとの関係を丁寧に、長く続けていく。そのつながりには、時間をかけること、手間をかけること、さらに金銭的にだって負担が来ることさえも拒まない。

彼らは米国の“大らかな良心”そのものだったのです。

今回も、80歳近くになった彼らと、彼らの70年にも及ぶ友人夫婦三組を見ていて、自分の家族でもないのに、その子ども、親戚までも含めた多くの人間たちのつながりに、心が暖かくなりました。小さな出来事、大きな出来事、友人の輪の中で繰り広げられるすべての出来事が、自分たちに関係のある大切なものとして語られていくのです。



日本からの留学生とホストファミリー。

もしかしたら、その時期だけで終わってしまったかもしれない“関係”です。でも、私は彼らとの関係をこうやって紡いできたことで、「私のもう一つの家族が米国にいます」と考えることが出来るのです。

この思いのおかげで、例えば、外交などの米国政府の方針を強く疑う場合などでも、一般の米国の人々に対する私の思いが変わることがないのです。

なぜなら、私には、米国人の家族がいるので、彼らを一括りにして、悲観的になる必要がないのです。

人とつながり、その関係をゆるやかに丁寧に維持する、ということが、もっともっと多くの人たちの間でも可能になれば、きっといつかは世界から戦争もなくなる、と私は真剣に考えています。

私の子どもたち、カンジ、ショウコが、彼らを自分の米国の祖父、祖母と思い始めているような気配にも心が弾みました。


子ども、孫たち!


子どもたちにとっても、30年以上前の私を知る彼らの存在は、“人とのつながり”の大切さ、心強さを、言葉よりも何よりも的確に教えてくれているようでした。
ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日 [2008年06月23日(月)]
 
南アフリカの隣国、ジンバブウェが大揺れに揺れています。

以前にも、ジンバブウェで大統領選が行われたにも関わらず、政府の選挙委員会がその結果を公表しない、というとんでもない状態になっていて、国中が混乱している、という記事を書かせていただきました。

選挙結果そのものは、現職のロバート・ムベキ大統領が43.2%、最大野党であるMDC (Movement for Democratic Change)のモーガン・ツァンギライ議長が47.9%を獲得、と選挙後1ヶ月以上たった5月に入ってから発表されました。が、双方が過半数を獲得できなかったので、2008年6月27日に大統領選決戦投票が予定されていたのです。

ところが、今週に行われる予定だったこの選挙に出馬するのが現職のムガベ大統領のみのなりそうなのです。このままだと現職のムガベ大統領の五選が決まってしまいます。

この決戦投票が危うくなったのは、対抗馬のツァンギライ議長が、投票日のわずか5日前の6月22日に、この選挙への参加を取りやめる声明を出したからです。



どうして彼はこの決選投票から撤退したのでしょう。

それは、彼のスピーチが端的にその状況を説明しています。

“We in the MDC cannot ask them to cast their vote on June 27 when that vote will cost them their life.”

「我々、MDCは、我々の支持者に、命と引き換えに投票してくれ、とは頼めない」

彼のこの撤退の発表は、いくつかのアフリカのメディアで、「ジンバブウェのデモクラシーが抹殺された日」と報道されました。

2008年6月23日現在、今回の選挙中に殺害されたMDCの活動家は90名にも上ります。ムガベ政権は、警察、軍隊を操り、MDC に賛同しているジンバブウェ人に暴力や迫害を絶え間なく続けているのです。その結果、現在、ジンバブウェ人は、憲法で保障されているはずの集会の自由も、自分の自由な意思で選挙に参加する権利も奪われているのです。

20日、金曜日には、MDC 支持者の首都ハラレ市の市長夫人の遺体も発見されています。いろいろなサイトを確認してみると、暴力の被害にあった3歳の幼い子どもの写真まであります。その中には、拷問を受けたことが明白なMDC支持者の遺体の写真も掲載されています。

どうしてこんなことになってしまったのか。

欧米メディアのインターネットサイトでは日曜の午後から、ジンバブウェのこの動きをトップニュースで伝えています。もちろん、こういった報道で糾弾されるのはムガベ大統領です。確かに、ムガベ大統領がしていることは無茶苦茶です。

ただ、ここまで混乱してしまった背景も無視することは出来ません。

実は、ムガベ大統領、1980年代に政治的に登場した際は、英国から独立を勝ち取ったアフリカのヒーローだったのです。ゲリラ戦を戦った後の独立、そして、彼が西洋的教養も身につけた弁舌さわやかな新しいアフリカのリーダとして脚光を浴びていた彼を、そのころアメリカで学生をしていた私は、一種の憧れを持って彼のスピーチなどを読んだり、彼の講演を聞いたりしていました。

その彼がどうして自分の祖国を、自国の人々をここまで苦しめる独裁者になってしまったのでしょう。

残念なことに、彼は、政権に固執するあまり、政敵を抹殺したり、自分の一族で側近を固めたり、と政治を完全に私物化してしまったのです。

また、素朴な疑問として、今年86歳という高齢のムガベ大統領、どうしてここまで権力の座に拘るのでしょう。

実は、アフリカに暮らし、アフリカの政治をいろいろな形で見てきているものとして、この「どうして権力にここまで拘るのか」への答えはそう難しいものではありません。

ずばり、彼が権力の座から降りれば、彼のこれまでの数々の犯罪に対し、司法の判断が下されるばかりではなく、“大統領”という役職が無くなると、身辺のガードが低くなり、彼自身が殺される可能性も極めて高くなるからです。

彼の周りで甘い汁を吸いつづけてきた側近、家族、一族郎党も同じ運命です。これだけ長い間、権力の座にとどまる、ということは、彼の周りでこれらの恩恵に与ってきた人間の数も半端な数ではないのです。

つまり、彼が権力にしがみつく一番の理由は、彼と彼の一族の安全や命を守るため、だと言っても過言ではないでしょう。

そして、これは何もムガベさんに限ったことではないのです。アフリカの多くのリーダがこの同じ運命をたどっています。

ここまで書いてきて、いま、モーガン・ツァンギライ議長が、自分の身の安全を守るために、首都ハラレにあるオランダ大使館に避難した、との情報が流れてきました。彼の家族はもちろん、現在、ジンバブウェから脱出しています。

欧米、欧州連合、国連などが一斉に今回のこの成り行きに非難声明を出しています。ところが日本では、大したニュースにもなっていません。福田首相は、アフリカ支援の政策を、過日横浜で開催された、第四回アフリカ開発会議でも明確にアフリカの首脳を前に語っているのです。どうか、日本も含めた国際社会が、ジンバブウェへの圧力を高めて、この混乱が一刻でも早く収まることを願うばかりです。

これは、確かに、遠い、遠いアフリカで起こっている理不尽な政争です。でも、ジンバブウェで起きているから、自分たちに関係ないと思わないでください。ジンバブウェや、アフリカの他の地域の混乱が、回りまわって、日本やアフリカ以外の場所に住む、あなたの生活に関係しないとは絶対言い切れないくらい、私たちの住む世界は微妙に関連しあって存在していると思うのです。


ジンバブウェの素朴ながらも、味わい深い石の彫刻は有名。
国名の“ジンバブウェ”は、現地の言葉で、
「石の家」を意味する。
アフリカ大陸、90キロマラソン! [2008年06月16日(月)]
 
南アフリカ・ダーバンの最大級の行事の一つともいえるイベントが毎年6月に行われます。それは、知る人ぞ知る、“コムラッズ・マラソン”です。

このレースは1921年に開始されて以来、第二次世界大戦時の休止を除けば、毎年、ダーバンとピーターマリッツバーグという都市をつないで行われる全長90キロ近い“鉄人レース”です。

“コムラッズ”とは、そもそも「戦争を共に戦った同士」といった意味を持ちます。1921年のレースは、第一次世界大戦で亡くなった戦友の霊を慰めるために34名がこの距離を走りました。

私たち家族の住むWinston Park と呼ばれるダーバンから内陸に30キロほど入った地域も、このマラソンのルートの一つに入っていて、レース中は道路が閉鎖されてしまいます。



2008年6月15日、今年のコムラッズ・マラソンが行われました。今年の距離は87キロ。毎年、どこのルートを通るかで、若干の距離の違いがでるそうです。

偶数年の2008年は、ダーバン出発の上り坂のレースでした。港町ダーバン、つまり海抜0メートルから、ピーターマリッツバーグまで、時には緩やか、時には険しい、延々と続く90キロを約5時間半から12時間かけて走るのです。ちなみに、ピーターマリッツバーグの標高は720メートルです。

このレースには、全世界40カ国から毎年1万5千人もの人が参加します。もちろん、日本からも熱心なランナーの方々が大勢参加されるようです。今年も何人かの日本人ランナーとおぼしき人を見かけました。

風光明媚なこの地域を走るのはさぞかし気持ちがいいだろうなぁ、と思います。が、繰り返します、それにしても90キロ。ただ歩くのだって、並大抵の距離ではありません。

朝の五時半に出発して、到着地点にはその12時間以内にたどり着かないと失格、という厳しいルールもあります。もちろん、通過地点ごとにも規定時間があって、何時間かけても完走すればいい、といったものではありません。

しかし、皆さん、楽しそうです。



オーソドックスなランニング姿の人もあれば、奇抜な衣装を着ている人もいます。



今年はダーバンが起点の“上り坂”レースなので、私たちの地域ではまだ30キロを過ぎた地点です。この辺を通り過ぎるランナーたちの表情もそう苦しそうではありませんでした。



街道には多くの人が出て、ランナーたちに声援を送ります。南アフリカ人はスポーツ観戦が大好きです。ラグビーやクリケットの大きな試合があると、みんながテレビに釘付けになります。そしてこのコムラッズ・マラソンも、ピーク時には街道沿いに観戦している人とテレビでの観戦をあわせると、100万人にも上るとか。

さて、私はこのところ、ぐんと増えてきた、南アフリカ人らしい黒人ランナーの姿を見ると、つい涙腺が緩んでしまうのです。

実は、このマラソンを国際的なイベントにしたい思惑があった歴代の組織委員会は、人種隔離政策中でも、1975年からは全人種がこのレースに参加できるようにしました。これは、当時としては「英断」でした。なぜなら、人種隔離政策下では、黒人が白人と競うことは禁止されていたからです。また、この全人種参加を決行する際、それまで正式には参加を認められていなかった女性の参加も許可したのです。1975年は、全人種、そして女性たちも正式にレースへの参加が認められた最初の年だったのです。

現在、このレースに出るためには、南ア人の場合、きちんと参加資格を与えられた“クラブ”に所属していることが条件です。また、過去一年間の公式のマラソンのタイムも提出しなくていけないとか。つまり、このコムラッズ・マラソンは、日ごろからかなり鍛えこんでいないと参加資格さえもらえない、という由緒正しきものなのです。

南アフリカでは人種隔離政策以前でも、白人政府は、黒人や非白人を自分たちと同じ“人間”として認めてきませんでした。一般の白人南アフリカ人は、政策の一環として、白人だけが知性、教養を持つ人種である、と信じ込まされていたのです。多くの白人が、1994年以降の政府の方向転換で自分たちがいかに、本当の情報から隔離されていたか、を知ることになります。

その中でも、彼らが何にびっくりしたか、というと、1994年以降、ありとあらゆる職種で、大学教育を受けた黒人の存在が目立つようになったのです。彼らは、自分たちの通う大学の他に黒人学生が大学教育を受けることのできる大学が南アフリカに存在していたことさえ、知らなかったのです。

ノーベル平和賞の受賞者、南アの元大統領ネルソン・マンデラ氏のことだって、一般の白人南アフリカ人は、「恐るべき共産主義のテロリスト」というイメージを植え付けられていたのです。

そういった社会で、自分の体と心を鍛えるスポーツ、というものが、いかに、黒人層には遠い存在だったかを理解していただけるでしょうか。

だからこそ、引き締まった筋肉質の体に、スポーツクラブの名入りのタンクトップを着、足は最新のNikeやら一流のカラフルな運動靴に守られた黒人のランナーを見かけると、私は心の底から、「ああ、いい時代になった」と胸が熱くなるのです。

南アフリカ社会の人種差別はなくなったわけではありません。この土地に住むものとして、その根深い人種間の隔たりに残念な思いを抱くことは大げさでなく、毎日のことです。

でも、少しずつ、少しずつ、社会は変化しています。このレースにもその兆しを感じます。



そして、もうひとつ忘れていけないのは、例年コムラッズ・マラソンが行われる6月16日は南アの『Youth Day―若者の日』という祝日だということ。ただ、今年は休日の関係で、マラソンは15日に行われました。

この『Youth Day―若者の日』とは、1976年に起きたソウェト動乱の際、命を落としたたくさんの黒人の子どもたちを哀悼する日なのです。ソウェト動乱とは、1975年から1976年にかけてヨハネスブルグ近郊のソウェトで起こった、子どもたち・学生たちの人種隔離政策への抗議デモを指します。

特に1976年6月16日に組織されたデモ活動では、2万人の子どもたち・学生たちが抗議活動を行い、警察がそのデモに発砲し、約700名の彼らの命を奪いました。自国の子どもたちに銃を向けた当時の南アの国家権力はこの動乱のあと、国際社会から厳しい批判を受けることになりました。

このソウェトの子どもたち・学生たちは、何をきっかけに、このデモ活動に参加したと思いますか。

もちろん、当時の黒人のための学校というのは、設備の劣悪さ、生徒数の多さなど、さまざまな問題を抱えていました。が、このソウェト動乱は、そういった環境面での不平等に端を発したものではなかったのです。これは、時の政府が、高校以上の学校で、授業で用いられる言語、つまり生徒たちが教えられる言語に白人の言語である“アフリカーンス”を使用することを義務付けたことに対する抗議が発端となったのです。

私は長い間いろいろな場所で言語を教えてきた教師として、一人の大人として、この歴史を忘れることができません。「自分たちの言葉で学びたい」と願って行動を起こし、命を奪われた子どもたちのことを。

そして、2008年6月15日、32年前にソウェトに散った多くの子どもたちのことを思いながら、青く澄み切ったダーバンの空の下、私は世界各国から集まった多くのランナーたちに心からの声援を送りました。


日本語とお箸 [2008年06月09日(月)]
 
去年の秋ころから始まった何組かの日本語クラスの訓練終了の時期が近づいてきました。私の日本語の生徒さんとその家族には、彼らの日本出発直前に、我が家に来てもらって日本食の食べ方などの特別レッスンをします。

まず、お箸の使い方から。



欧米ではもう普通にお箸を使える人が多くなりましたが、南アフリカではまだまだお箸は“未知との遭遇”に近い人もいます。

これも訓練の一環ですので、簡単なものを食べてもらうわけにはいきません。今日のメニューはてんぷらと冷たいうどんです。別テーブルではダーバン近海で上がったばかりの中トロや庭でとれたアボカドなどがネタの手巻き寿司の実演も。

さて、この冷たいうどんの食べ方は特に大変です。何が大変かというと、“音”を立てながら食べ物を食べる、ということが習慣になっていない人が多いからです。南ア人もほとんどの人が、「食事のときに立てる音は失礼にあたる」という家庭でのしつけを受けてきた場合が多いのです。

日本人からすると、そば・うどん類を、音を立てずに食するのはあまり美味しそうな食べ方ではありません。試してみてくださいね。どんな上品な食べ方をしたとしても、まったく音を立てずに麺類を食するのは、かえって不自然なのです。

しかし!こういうと、中には、
「おおお!これぞ私の出番!」というように、盛大な爆音を立てて麺類をすする人が必ずいるのです。

いえ、いえ、爆音は立てないのです。
それに、爆音を立てると、汁が飛びますよ!

適度なすすりで、適度な音を立てて召し上がれ、と言っても、なかなかコツがつかめません。そこで、日本人登場で、デモンストレーションをするのですが、これがまた、全員に注目されていると、けっこう意識してしまうものです。毎回、咳き込んだり、噴出したり、……日本語の先生も大変です。


そ、そんなに見つめないで欲しいのに……。


次に、南ア人が不安に思うのが、なんとこの食器です。



取っ手のないお茶のみ。

「どこに手を添えるのですか」
「熱くないのですか」
「砂糖を入れるためにはスプーンを頼んでもいいのですか」

といった質問が出ます。最初の二つは実際に熱い緑茶をそそぎ、それを飲んでもらいながら説明します。

最後の質問にはもちろん、「日本茶にはお砂糖はいれないです」と念を押すのも忘れません。

私は言語を学ぶ、ということはその言葉を話す人たちの文化も一緒に学ぶことが大切、と思っているので、私の日本語の生徒たちには機会があるごとに自宅に来てもらって、日本人の家庭の雰囲気を味わってもらうようにしていいます。

それに、日本へ行くことに不安も抱えた彼らです。こういった機会で彼らのこれからの日本での生活に対して度胸をつけてもらえれば、とも思います。

ただ、“日本人家庭”といっても、我が家はアフリカ生活が長いので、私たちが正真正銘の日本人家庭なのか、と聞かれてしまうと、ちょっと自信がないのも事実です。夫婦揃って日本人なので、人種的には間違いなく日本人なのですが、文化的にはかなり複合的になってきています。

特に我が家の二人の子どもたち。こういう場にも母からの指令で必ず参加させられるのですが、その発言行動は確実に南ア人になりつつあります。

彼らの発言の中で、「ああ、こいつらはもう100%日本人ではない!」と関心?したことがあります。

まず、カンジの発言。

「ボクはキューピーちゃんのマヨネーズよりも南アのマヨネーズの方が好きだね」

え?なんでこれが非日本人発想なの?と思いますか。

実は、海外駐在の日本人家庭で、日本よりご用達の食料品で人気ランクに常に上位を占めるのが、あのプラスティックの容器に入った、キューピーちゃんの絵のついたマヨネーズなのです。

多分、あの独特の酸味が他の追随を許さない所以なのかもしれません。その独特さの証拠には、南ア・ダーバンのお寿司を出すレストランでも、「ジャパニーズ・マヨネーズ」は追加料金でオーダーもできるほど。

しかし、世の中には“マヨラー”と異名を取るほどマヨネーズが好きな人たちもいるというのに、カンジはつい最近までマヨネーズが苦手でした。だから、キューピーちゃんのマヨネーズにも感化されていなかったというわけです。

見かけは日本人なのに、彼に郷愁を誘うマヨネーズは、キューピーちゃんではないんだなぁ、と実感してしまいました。ふふふ、ちょっとおかしいですね!でも、現地調達に勝るものはないので、これはこれでいいことです。

さて、ショウコの発言。

南ア人の生徒さんたちに、「日本人は面倒くさいよ。あのね、一回断られても、それを信じてはいけないよ」と力説しています。

何のことを言っているのだろう、と聞いてみると、それは彼女の友達とのある“事件”でした。

日本の小学校に数ヶ月お世話になったショウコは、昨年帰国したときに、その当時のお友達と一緒に遊んでもらったのです。そのとき、南アからのおみやげのチョコレートを一緒に食べよう、とお友達に差し出したそうです。

すると、お友達は、「ああ、いいです」と断ったそう。

ショウコは、それを聞いて、「そう、じゃあ、私が食べよう!」と言って、その子の目の前で、美味しそうにそのチョコレートをぱくり。

そのお友達は目を真ん丸くして、「ああああ、食べちゃった」と驚いたそうです。

ショウコはショウコで、驚かれたことにびっくり。

「だって、いらないって、言わなかった?」

う〜ん、ショウコの描写ですから、細かいところはぶっ飛ばされているだろうとは思いますが、その状況はくっきり理解できます。

でも、これを聞いた南ア人は、おののきました。

「えええええええ、じゃあ、どんなに嬉しくても、日本人から何かをもらったら、私たちも最初は断らなくてはいけない、ってこと????」

いえいえ、そうではありません。

南ア人には、日本人の行動様式を真似する必要はないことをしっかり伝えました。ただ、もし、日本人がこういった行動をしたとしたら、それは文化的に、いったん辞退するのは礼儀のひとつだと思っているから、と説明しました。

しかし、確かに、ショウコのような文化的背景を持っていると、この状況は、

「日本人は面倒くさい!」

に、なるのだろうなあ、と納得してしまったのでした。




賃金50%アップ! [2008年06月02日(月)]
 
地球アゴラに出演してから、嬉しいお申し出を新たに何件かいただきました。
 
地元のボランティアのバザーで販売してみよう、というものと、ファエトレードに興味を持つ東京の雑貨屋さんからのものです。こちらは実際の販売が始まりましたら、またこのブログでもお知らせしたいと思っています。



さて、こんな新しい動きがあったことにも背中を押されて、患者さんたちのビーズの賃金を50%アップすることにしました。

実は、ここ数ヶ月、患者さんたちから賃上げの要求が出ていたのでした。でも、安易に大盤振る舞いしても、後が続かなくなってもいけない、と思い、患者さんには我慢してもらっていたのです。

しかし、私たちが暮らすダーバンでもこの頃の物価の上昇は本当に情け容赦がありません。

世界的な食料の値段の高騰による影響をこのドリームセンターの患者さんたちももろに受けているのです。

2008年1月初頭に食パン(日本の8枚切の薄さのものが20枚くらい入った大きさのもの)がこちらの値段で4〜6ランド(日本円で56円〜84円)だったものが、2008年6月現在では7〜11ランドにも値上がってしまったのです。

アゴラの放送では「はい、パンの値段は50%も上がっています」と物知り顔にお話したのですが、これは実は100%上昇、いやもっと分かりやすく言えば倍近くに値上がっていたのでした。

患者さんたちは、政府からエイズを発症している、と認定を受けると、Disability Grant と呼ばれる生活援助金を受け取ることができます。これが、一ヶ月約1万円弱です。が、患者さん一人でこのお金を使って生活しているわけではないのです。この1万円弱のお金をそれこそ、10人を超える人数で使っている場合もあるのです。

だからこそ、どんな形でも現金収入は嬉しいのです。

実は、ダーバンの他の病院でも、患者さんのためのこういった工作教室のようなものはいろいろな団体が実施しています。でも、多くの場合、患者さんの足は最初の数回で途絶えてしまうのです。

それなのに、どうして私たちのビーズ教室は患者さんが途切れず参加してくれるのでしょう。

それは、もちろん、たとえどれだけ少ないお金でも、患者さんたちに、彼らの労働に対してお金が支払われるからです。

私はこのシステムをこの活動が続く限り守りたいと考えています。途上国の多くの貧しい人たちが、「援助なれ」といった状況に置かれていることを私はここ20年以上のアフリカ暮らしで嫌というほど見てきました。

「私たちは貧しいの、援助してちょうだい」といった態度です。

でも、これも、こうさせてしまった側にも責任があります。

もちろん、私がしていることも、“援助”といった行動に分類されてしまうのかもしれません。でも、私はこれを私個人と、私を支えてくれる友人たちだけで運営しています。職業的にしている“援助”とは一味違う活動をこれからも続けていきたいと思っています。

でも、どんぶり勘定の極めつけのような私ですので、長期展望などはありません。自転車操業と呼ばれようと、これ以上の時間が費やせない状態では、しばらくはこのままの形態で突っ走るしかないでしょう。

さて、そんな中、実はもう一つ、困ったことが起きてしまいました。

現在、患者さんたちの作成するビーズは、ブレスレットのみなのですが、これはメモリーワイヤと呼ばれる形状が記憶されているコイル状に曲がったワイヤを使います。



このワイヤはビーズと同じ、中国からの輸入です。このメモリーワイヤがダーバンの街から消えてしまったのです。実は去年もこの時期にワイヤが街から消えたことがあったので、いつもワイヤの入手は先手を打って数か月分は確保していたのでした。




ですから、今回は7月の中旬くらいまでは大丈夫な量を確保しています。でも、問題は次の入荷時期がまったく読めないことです。

しかし、こんなことでくじけているわけには行きません。自転車操業の、小規模活動のよいところは、とにかく小回りが利くことではないですか!

そこで、今回、このビーズワークショップの生みの親、名古屋のヤス子さんとも相談して、なんと、新作に挑戦することにしました。

それは、ビーズの暖簾です。

患者さんたちの中には脳溢血を患っていて、手足の自由が利かない人も多いので、複雑な作業はできません。

その点、暖簾であれば、しっかりとした釣り糸のようなものにビーズを入れていくだけの作業ですので、このブレスレットと同じように単純作業で大丈夫なはずなのです。

試作品さえもまだ出来上がっていませんが、どうぞ、ビーズの暖簾に興味のある方はご連絡くださいませ。日本の色使いとはちょっと趣の違う“アフリカ〜ンな暖簾”をお届けいたします!





外国人恐怖症から来る暴動 [2008年05月26日(月)]
 
「xenophobia ---- ゼノフォビア」
という言葉をご存知でしょうか。

いま、南アフリカではこのゼノフォビアを原因に、都市部で暴動が起こっています。発端は南ア最大の都市、ヨハネスブルグ近郊のアレキサンドリアと呼ばれる不法占拠の家が多く立ち並ぶ貧しい地域でのジンバブウェ出身の移民への攻撃からでした。

ゼノフォビアとは、外国人や外国のことを一方的に嫌悪したり、恐怖心を持ったりする感情のことを意味します。

そして、残念ながら、今回のこの暴動は、南アフリカでも多くの貧しい人が住む地域のさらに貧しいアフリカ各国の移民の人に向けられています。中でも政情不安から大量に南アになだれ込んできたジンバブウェ出身の不法移民の人々が最大のターゲットになっているようです。南アとジンバブウェは陸続きです。歩いて、国境を越えてきた人々です。

2008年5月26日現在、今回の暴動で死亡した外国人は50人に上ります。今もヨハネスブルグでは3万人以上の人が自宅に戻ることができずに、教会の敷地内などで様子を伺っています。この暴動で、ターボ・ムベキ大統領の手腕にも大きな不満が湧き上がっており、25日の全国的な新聞では一面を使って、ムベキ大統領に辞任を要求していました。現在は不穏地域に軍隊も派遣されています。


銃を持った兵士が座り込んでいる
新聞の見出しは、「これは非常事態宣言」

私たち家族の住むダーバンではまだそれほどの暴動は広まっていません。このまま沈静することを祈るばかりです。

この暴動は実は国際社会にも大きな影を投げかけています。でも、その心配も、二種類に分かれているようです。その一つとは、2010年のワールドカップは大丈夫か?という具体的なイベントを心配してのもの。そして、あとの一つは、「アフリカは自分たちの真のパートナーになりうるのか」といったアフリカの持つ不安定さそのものに対する信頼の揺らぎです。

アフリカは確かに、南アフリカの隣国、ジンバブウェの民主化の問題もそうですが、まだまだ汚職がはびこり、自分たちの責任を明確にしないリーダーたちなどが大手を振って存在しています。でも、これはアフリカに限ったことではないですね。

2010年のワールドカップが成功するかどうかは当の南ア人たちでも意見が分かれています。外国人たちが犯罪に巻き込まれることの心配がその最大のものです。また、宿泊施設などのハード面が追いつかないのではないか、といった心配も聞こえてくるようになりました。

ただ、もう一つの「アフリカはこれからの国際社会できちんとその役割を果たすことができるのか」という心配。これは正直言って、お門違いだと思います。地域の特殊性は確かにあるでしょう。でも、これこそ、何をして、アフリカを誰のパートナーと捉えているのかが疑わしい。自分たちを絶対的な位置において、アフリカ全体をまるで“子ども”のような存在に例えている傲慢さがこの心配に見え隠れします。“グローバリゼイション”という先進国からの押し付けが途上国で嫌われる一つの理由がこの傲慢さにあると言っても過言ではないでしょう。

南アのゼノフォビアに戻りましょう。CNNなどの外国メディアの特派員たちが、暴力を振るっている人にその訳を聞くと、

「外国人が自分たちの仕事を奪っている」
「外国人が治安を悪くしている」
「外国人が病気を流行らせている」

といった、根拠のないものがほとんどでした。

結局、自分たちの置かれている立場への不満をさらに弱い立場の人へ向けている、という構図が暴露されています。

でも、これはアフリカだけのことでしょうか。

実は日本でも、米国でも、欧州でも、自分たちの生活が安定していなければ、社会の不安要因を自分たちと違うもの、異質なものに押し付ける傾向があると思います。例えば、テロリストといえば、イスラム教徒、というような911以降に世界各国で起こった、イスラム教徒への言われのない攻撃などがその筆頭です。

私は異文化の世界に身を置くようになって、かれこれ30年以上の年月が過ぎました。他の人と同じようなことをすることを特に好まない性格からなのでしょうか。自分と違う生活習慣や考え方を持った人たちと一緒に仕事をしたり、お付き合いしたりすることに何の不都合も感じないのです。

「人は違って当たり前」

という考え方を基本に持っていると、人との相違点が苦痛ではなくなります。もちろん、日本で同じような時代に育った人間同士だからこそ分かりあえる文化的な共通点とか、同世代の友人と子ども時代のテレビ番組の内容などで盛り上がる時間とかの楽しさは十分承知しています。気の置けない友人とのおしゃべりくらい楽しいことはないですもの。

でも、それでも、私は自分と違う考え、違う生活信条を持つ人とのお付き合いも楽しいと思うのです。統一された見解しか存在しない世の中はつまらないです。

アフリカ、と一口に言っても、それこそ、この大きな大陸にはたくさんの人種が住んでおり、統一された文化などありません。それだからこそ、今回のアフリカ人が他のアフリカ人を攻撃する構図がつくづく残念なのです。

アフリカを永住の地と思ってやってきた私たち。でも、これを錦の旗とは思っていません。もしも、この暴動がアフリカ出身以外の移民にも向けられ始めたら、自分たちの行動範囲の見直しなども迫られるでしょう。これもアフリカに住むということに付随している現実の一つです。

南アフリカは全人口の14%が“先進国”に住み、50%が“発展途上国”に住む、と言われています。ですから、人口の半分の人が目の前に自分たちの持っていない類の富を持つ人を毎日見て暮らしているのです。

格差社会の実態は日本のそれをはるかに上回ります。

ということは、その14%に入ってしまう私たちは、常にある一定の緊張感を強いられることになるのです。持つ側と持たざる側の距離が犯罪につながる、という緊張感です。その緊張感を持ちつつも自分がこの社会で何をすべきか、を常に思いながら、このゼノフォビアが一刻も早く収まることを願ってやみません。
地球アゴラに出演しました [2008年05月19日(月)]
 
以前にお知らせしたとおり、NHK―BS1の番組、地球アゴラに出演しました。

今回、つくづく身にしみたのが、通信状況の変化です。

私が始めてアフリカに渡ったのは1986年でした。そのころ、新しい通信手段として、ファックスが登場しました。1986年、西アフリカ・リベリアに赴任した私たちは、当時としては最新だった、ファックス機能が備わった、今考えればとてつもなく大型のワード・プロセッサーを荷物の中に、意気揚々と詰めたのでした。

それから20年以上の年月がたって、この『地球アゴラ』という番組は、インターネット上の無料電話、スカイプを利用して、世界に住む日本人と東京のNHKのスタジオをつなぎました。インターネット上で、ユーザー同士であれば無料で話すことのできるスカイプは、普段も便利に使用させていただいています。日本に住む友人、知人、両親などとお金の心配をしなくても直接の声を聞けるのはとっても有難いのです。

友人の中には、「それって、ちょっと不気味」という人もいます。どうして、無料でそんなことができるのか、という疑問です。

う〜ん、そう言われればそうなんですが、コンピューターのことなど、何が何やらどうなっているのか、考えることさえ出来ない、器械オンチの私は、「う〜〜ん……」と唸るだけで何の弁護も反対意見も出ません。ただ単純に、最末端ユーザーとして、使わせていただいているだけです。スカイプさん、ありがとう。

さてさて、本番当日のことを少々お話しましょう。

実は、私はこのお話を引き受けてから、大変心配していたことがありました。

それはずばり南アの昨今の電気事情です。急な停電は結構頻繁に起きるのです。今年の冒頭に嵐のように起こっていた“計画停電”もこのごろは見直しがあって、影を潜めています。が、いつ再開されても不思議はありません。(それに、“計画”、と呼ばれていても、計画は突如発表されるし、計画以外の日でも停電は起きるので、こちらは計画できない、というおまけつき!)

また、この番組は、画像をスカイプで、音声を国際電話でつなぐのですが、電話回線が途中で切れることだって、皆無とは言えないのです。

アフリカに暮らす、ということはこういった基礎中の基礎の生活基盤に絶対の信頼をおくことができないのも現実です。

何回かのリハーサルのときも、電話線がクリアではなかったり、スカイプも途切れたり、ということがありました。

が、当日、南アフリカ、がんばりました。停電も起こらず、回線も落ちず、スカイプも途切れず、無事に番組を終了することができたのです。

番組の内容も、アフリカ各地に住んでアフリカの人たちと仕事をしている日本人が三人登場してなかなか面白かったのではないでしょうか。私以外の方々はご紹介されていた仕事が本業の方々でした。ですから、私のように週一回の支援でしかないのはちょっと申し訳ないような気もしていました。

南アフリカでも、エイズ患者さんの支援を専門にしている日本人の方はいるからです。でも、番組のディレクターの方に、「仕事ではなくて、自分の時間をこうやって作って、患者さんと関わっている人がいることも紹介したいんです」という言葉に励まされました。

そして、番組の最後に、司会の川平慈英さんから、

「アフリカに住んでいま、一番強く思うことはなんですか」と聞かれました。

実はこれ、カメラリハーサルのときに急遽、足された質問だったんです。元もとのエンディングの質問は、「これからのアフリカには何が必要と思いますか」でした。

でも、この急の変更、というのはいいものですね。だって、用意された答えではなくて、本当にいつも自分が考えていることがふっと浮かんでくるではないですか。

私はこの質問に、こう答えた、と思います(あまり、確証がないのは生中継なのでその場でたたた!と話したからです。記録と違っていたらごめんなさい!)。

「私は英語や日本語を教える語学教師です。かれこれ30年ほどいろいろな人に語学を教えてきています。ですから、私は語学を学んでいる人に、学んだ語学を使って、世界の人とつながって欲しい、と思っています。アフリカは遠いです。でも、ここにも人がいます。エイズで死にそうな人もいますが、彼らも夢や希望をもつ、私たちとまったく変わらない人間です。世界の人とつながって、そのつながりを大切にしてください」

実は今回のテレビ出演、いろいろな状況も重なって、かなり時間的には厳しいものがありました。最終的な台本を印刷する前に、プリンターがうんともすんとも言わなくってしまったり、という突発的なことも、もちろん、起こらないはずがありません、我が家では!

でも、放送終了直後からどんどんと私のメールに届き始めた多くの方のコメントがとっても嬉しかったです。

皆さん、ありがとうございました。特に、ディレクターの井上さんを始めとしたスタッフの方々、今回、とっても気持ちよくお仕事ができました。心から感謝しています。

それから、当日、スタジオで出演してくださった石弘之先生。石さんが冒頭で私のこのブログをご紹介くださったので、この番組のあと、新しい方からのアクセスがたくさんありました。ありがとうございました。

これからもアフリカからの発信をていねいに続けていきたいと思います。それから、皆様、患者さんの作ったビーズを販売してみよう!と思ってくださる場合は、ぜひ、私の個人メールまでご一報くださいませ。このブログのプロフィールのところに連絡先アドレスを書いています。番組でもお話したとおり、大量の在庫がありますよ〜。


生中継本番直前です。あああ、髪の毛も逆立っているし……

最後に、いろいろカメラの位置とか、音声とか、私の混沌とした事務所から本番用にPCやら電話線やらを居間に動かす作業をしてくれた家族にも感謝です。みんなありがとうね!

ひらがなOK、カタカナ少々、漢字はウ〜ン! [2008年05月12日(月)]
 
とっても楽しい、手作りの母の日のカードを娘・ショウコからもらいました。



でも、中身をよ〜く見てみると、あれれ、日本語におかしなところがたくさんありますよね。



でも、これこそが、ショウコ、14歳、幼いころから日本とアフリカを交互に生活してきて、いまは南アフリカに暮らす彼女の等身大の日本語の実力なのです。

前回の記事で、ショウコがいかに苦労して英語を身につけていったかを少しお話しました。その中で、学校の先生たちからの「家でも英語を話すように」というアドバイスも、私がきっちりと撥ね付けて、家族では日本語を話していたこともご報告しました。

その成果がこれ?
と、あきれますか?
なんだか……、とがっかりされますか?

ふふふ、でも、私は大満足なんですよ!

日々の暮らしを英語圏で続けるうちに、ショウコだけではなく、兄のカンジも、だんだんと英語のほうが彼らの思いや心の動きを表すのによりしっくりとくる言語になってきました。

もちろん、家族の会話はいまだに日本語で話すように心がけています。が、家で家族が話すことって、実はたわいもないこと、毎日の繰り返しなどが多いのが実情です。そうすると、家族以外の人からの日本語の情報収集がどうしても限られる我が家の場合、込み入った話やアフリカ近隣の政情のことなどを話すのは、どうしても身近な英語のほうが便利、ということになります。

例えば、南アのかつての人種隔離政策(アパルトヘイト)のことなどを説明するのは、どうしても英語です。第一に日本語でこういった関連の本を読んでいない彼らは、日本語での語彙が徹底的に不足していて、それを英語抜きで説明するのは無理があるのです。ですから、歴史や人々の政治的スタンスなどを説明するためには、お互いがすんなり理解できる英語での話しとなります。

実は、海外に暮らすと、多くの人たちから、「家では徹底的に日本語を話しなさいよ、そうしないと子どもはすぐ日本語を離せなくなる」に始まり、日本からの通信教育のお勧めなどを聞かさせることになります。これは片方の親が日本人以外だと、さらに拍車がかかるようです。日本語を保持させないのは、まるで日本人のアイデンティティを放棄するとか、将来、祖父母と話せなくなるのは残酷だ、とか。

正直に言って、私はこれもかなり勝手な意見だと思っています。

気持ちは分かるのですが、子どもたちにだってそれなりの意見があり、また、能力の差だってあるのです。まして、片方の親が日本語を話さない場合、日本語学習を進めることで家族の中に溝を作ってしまうことだって、実際にあるのです。もちろん、海外で一生懸命子どもたちに日本語を教えているご家庭を非難しているのではありません。それはそのご家庭のそれこそ、優先順位の問題だと思うのです。

ただ、私は海外で暮らしながらも、「日本語を保持しなさい」と言われ、動揺している、悩める家族を「そんな無責任な意見は聞く必要なし!」と励ましてきました。だって、そこに悩みがあるのなら、何が一番大切か、と考えればいいことです。そして、私にとって大切なのは、その言葉を話す真ん中にいるその“子ども”です。いくら流暢に何ヶ国語が話せても、その子どもに中身がしっかり詰まっていなかったら、何にもならないのです。そして、その中身は、いかに子ども時代を過ごすか、にかかっていると思うのです。

さて、日本に帰ることを想定していない家庭ではなく、数年間ののち、日本に帰る予定の多くの駐在員の家庭では、日本の勉強に追いつけるようにと、通信教育は当然のこと、休みには日本へ帰国させ進学塾の集中講座に通わせたり……、と子どもたちに日本の受験を目的とした勉強を促します。

そういった人たちの気持ちもよく理解できます。ただ、日本に帰る、ということしか選択肢を持たないのは残念だと思いますが。

でも、私は自分たちが“駐在員の家族”という立場だったころから、日本からの通信教育やひらがな、カタカナの勉強を子どもたちに強いてきませんでした。理由は、我が家の子どもたちはそんなに器用なほうではなく、インターナショナルスクールや現地校で課せられる宿題で毎日が精一杯。学校の勉強以外の日本語の勉強などさせたら、それこそ、遊ぶ時間、ぼ〜っとする時間もなくなってしまうからでした。

せっかくの子ども時代です。彼らからこういった一見“無駄”とか、“ぼんやり”する時間を取り上げてしまったら、それこそ大人になってから取り返しがつきません。

子どもだからこそ、私は彼らにじっくり、十分、子ども時間を味わって欲しかったのです。

私は成人してからここ30年近く、ずっと教育関係の仕事に従事してきました。

その中で、どうして親は、教師は、大人たちは、子どもたちに教育を受けさせたいのか、という問いを日本で、米国で、欧州で、そしてアフリカで日々考えてきたのです。

私の答えはものすごく単純です。

「子どもたちに幸せな人生を送って欲しい」

これだけです。

大人として、教師として、親として、子どもたちの学びは、どんな種類の学びであっても、究極的に子どもたちが幸せな人生を送るための糧であり、源であって欲しい。

で、この“幸せ”が問題ですよね。

“幸せ”って何なのでしょう。

私にとっての“幸せ”とは、自分の存在を肯定できて、なお且つ、自分だけの利益や幸せだけに捉われていない状態なのだと思います。積極的に人の人生に関わっていけるだけの体力や知力、そして生きていくための資力も持ち合わせていることも大切です。

自分や自分の家族だけの世界、状態にあまりにも捉われていると、自分を客観的に観察することができません。そうすると、自分がどれだけ恵まれているか、ということも、なかなか理解できないし、実感もできないと思うのです。

だからこそ、14歳のショウコのいまの状態、年齢相応に人のことにも関心を持ちつつ、自分のできること、得意なこと、そしてやや困難と思えることにも果敢に挑戦していく前向きな姿勢の彼女のすべてを肯定してあげたいと思うのです。その中でのひらがなの間違いや漢字がまったく自由に使えていない、といった彼女の日本語レベルも私からみると、「天晴れ、よくここまで一人で学びました!」と拍手したいくらいなのです。

それに、南ア人に日本語の読み書きや話す能力を教える立場の人間として、もしも、カンジ・ショウコが、これから先、もっと深い日本語の能力を身につけたい、と思うのであれば、再度日本へ渡って勉強すればいいだけのことです。それは大きくなった彼らが判断すればいいことです。

「将来役に立つから」と言った、未来の経済的恩恵を優先するような都合で、私は子どもたちの時間を奪うことを私はしたくなかったのです。

だって、“子ども時間”は永遠には続かないのですから。


兄・妹のケンカもよ〜くあきずにしていますよ!
でも、母の日の晩、妹は兄から数学を
教えてもらっておりました。
ショウコ、14歳 [2008年05月05日(月)]
 
「お母さん、私のことはお母さんのブログにいつ書くの」

と言っていたのは、娘・ショウコ。5歳年上の兄カンジがこのブログに登場する機会が今まで自分より多い、と思っていたようでした。

ショウコのショウは飛翔の翔と書きます。ショウコは、1994年4月27日生まれで今年14歳になりました。

ショウコの生まれたこの1994年の4月27日は、南アで初の歴史的な、全人種参加の選挙が行われた日なのです。今ではこの日は、“Freedom Day”として南アの休日です。つまり、ショウコの誕生日は毎年、祝日ということです。

ショウコは生後三ヶ月でエチオピアに渡り、その後、マラウィでの2年半の生活を経てこの南アフリカ・ダーバンに来ました。

日本で通った小学校の日々はあまりにも短く、ショウコの脳裏に鮮明なのは、2歳途中から卒園までお世話になった日本の保育園です。その保育園で、きれいな優しいお姉さん先生たちとたっぷり遊んだあとに、マラウィの英国系インターナショナルスクールで学校生活が始まりました。

マラウィに行った当初は英語のエの字も分からなかったショウコ。彼女のように幼いころから徹底的なポジティブ思考の子どもでも、その英語を理解する過程は厳しく、つらいものがありました。

私は語学教育の専門家です。過去30年に渡り、子どもから大人の外国語学習を研究、実践してきました。ですから、以下のような巷に流れる、子どもと語学にまつわる“神話”には文字通り、体を張って異議を唱えてきました。

「子どもは語学の天才」
「その環境に投げ入れれば言葉はすぐ覚える」
「英語を学ぶのなら、幼いうちから英語漬けにすべき」

考えてみてくださいね。これらが、子どもの側に立ってみれば、いかに迷惑な「大人の側の思い込み」であるかがお分かりいただけるでしょうか。万人共通の学びなど存在するわけもなく、学びの過程はそれぞれユニークだと言うのに、どうしてこんな大雑把な思い込みで子どもたちを追い詰めるのでしょう。英語圏からの帰国子女の子どもたちが、もしも流暢に英語を話していたとしたら、それはその子たちの涙ぐましいほどの努力の成果なのです。決してある日突然英語が話せるようになったのではないのです。

はい、断言しておきましょうね。たとえ子どもでも、異言語の環境にただ身を置いただけでその言語を簡単に学べる、というのはありえないのです。まして、読み書きも含めた高いレベルでの言語能力習得には膨大な時間と多くの努力が必要なのです。

ショウコもこの例にもれませんでした。ただ、ショウコの場合、彼女の持つなみなみならぬ好奇心(兄に言わせるとお節介さ!)と、どんな状況にもめげない、くじけないという性格、そしてほぼ絶えることのない笑顔でもって、お友達にも先生たちにも愛されて、いつの間にか英語での授業にもついていけるようになりました。今では、生活言語としては日本語よりも英語のほうがスムーズになってきています。この言語の優先順位が逆転したのは、英語で学校に行き始めて5年ほど経ったころでした。

私は母として、語学教育の専門家として、異文化の中で育つ自分の子どもたちに身につけて欲しかったのは、英語を流暢に話すことでも、日本語と英語のバイリンガルになることでもありませんでした。

私は彼らに、自分たちの個性(日本人でありながらアフリカに生活することも含めた独自性)を肯定する能力を身につけて欲しいと思い、それが可能になるよう努力してきました。それが達成できて、初めて、他の人の人生にも積極的に係ることのできる力をつけることができる、と考えているからです。

その例を一つ紹介しましょう。マラウィで学校に行き始めたころ、インターナショナルスクールの先生たちから、「英語を学んでいるのですから、家でも英語で話すようにしてください」と言われました。でも、私は、きっぱりと、「いいえ、我が家の言語は日本語です。彼らは昼間、懸命に英語を学ぶ努力をしています。家は彼らがリラックスする場所ですから私は彼らが一番安心できる言語で彼らをサポートしたいと思っています。家では日本語を話します」と伝えました。

でもショウコと兄のカンジは、学校以外にもマザーテレサの子どもの家に毎週訪れ子どもたちと遊んだり、インターナショナルスクールに集う国際色豊かな友人たちと交わっているうちに、「しっかり英語を学ばなくては」という意識が芽生えてきました。子どもたち自身にこういった覚悟が出来てくると、その学びの速度もぐんぐんと速まっていくようでした。

さて、南ア生活5年目の今年、ショウコが入学したのは、家から50キロほど離れた女子高の寄宿学校です。南アフリカの学校制度は日本のそれと大きく異なります。小学校は1年生から3年生までが一区切り。この学年層をジュニア・プライマリーとし、4年生から7年生(日本の中学校1年)までをシニア・プライマリーと区別します。その後、8年生(日本の中学2年生)から12年生までが5年制の高校となるのです。


ホッケーのチームメイトと一緒に。
週一回の練習と週一回の対抗試合が組まれている。

ショウコは、自分からこの寄宿学校の入学を決めました。しかも、受験する前から、「私、高校はEpworth(高校の名前)に行くの!」と言い広めているではありませんか!日本での受験競争とは比べ物にならないまでも、さすがに、受験で振り落とされる場合だってあるはずです。

「ショウコ、きちんと試験を受けて、学校から入学許可をもらってから皆に言ったほうがいいんじゃないの?」

というと、本人はキョトンとした顔で、

「どうして、お母さん?私、成績は80%近いし、スポーツだって、ウォーターポロ(水球)、ネットボール、ホッケーの選手だし、お友達もいっぱいいるし、先生だってショウコのこといつもほめてくれるし、Epworthが私を入れてくれないはずがないでしょう?」
と真顔での答え。

う〜ん、確かに。しかし、私たちの日本文化には、“謙遜”という心構えもあるのだがなぁ、と説得力のないことを考えていました。

そして、筆記試験やら、上級生に混じって実際の寮での宿泊体験(これも寮担当の先生がその様子を観察している試験のようなもの)やら、一連の入学試験の最終テストは校長先生との親子面談でした。

その席で、校長先生が、
「ショウコ、ご両親から離れて寮生活をすることをどう思いますか」と聞きました。

すると、本人、笑顔満開、大きな声で、
「もう楽しみで、楽しみで、待ち切れません!」というではありませんか。

そこで、私とショウコは顔を見合せて大笑いをしてしまったのです。だって、家が嫌で離れたい、というのとはまったく違う、彼女の前しか見ない、肯定的なことしか考えない、という性格が見事に反映された答えだったからです。

涙が出るほど笑いあっているショウコと私を見て、校長先生も嬉しそうに頷きました。

「家族から離れた生活もあなたはまったく心配なさそうですね」

ショウコは本人の予測通り、めでたく合格しました。私は彼女が、自分の個性をきちんと見据え、毎日、24時間を共有する仲間たちと語り合い、競い合い、励ましあいながら、この貴重な5年間を過ごして欲しいと思っています。


ショウコの寮の部屋。
出入り口のドアはなく、カーテンで仕切られている。

南アの新学期は毎年1月で、もう早くも半年が過ぎようとしています。ショウコは金曜の午後学校のバスで帰ってきて、月曜の朝、また同じバスで学校に戻る生活をるんるんと楽しんでいます。

ショウコの学校での生活はまたの機会にゆずることにしましょう。


学校のあるダーバンから50キロ離れたピーターマリッツバーグ
は歴史のある街で、多くの寄宿学校があることでも有名。
ここは学校のとなりの広々としたスポーツ場
NHK BS-1の番組に出演します [2008年04月28日(月)]
 
まず、告白から始めましょう。

このブログに使っている私の写真、実は7年も前のものです。
で、私は、つい先日めでたく50歳になりました。
ですから、この写真に7年の歳月と幾ばくかの贅肉をぺたぺたと足していただくと、今の私の実像に近くなります。

ど、どうして、こんなことを書くかというと……。

はい、悪いことはできないものです。
Cafeglobe でのブログに使う写真を選ぶときに、日本と南アフリカの距離の大きさを理由に、

「お母さん、この写真、ちょっと、今と違うんじゃないのぉぉぉ」
という子どもたちのアドバイスを、

「う、うるさい!実際に見にくる人はいないからいいのだ!」
と無視した私にバチが当たったのです。

実は、今度、5月18日放送の、NHK BS-1『地球アゴラ』という番組に出ることになりました。この番組は、海外在住の日本人と東京のスタジオを結んで、海外の話題やそこに生きる日本人の活動を紹介する、というものです。

アフリカに住んでいると、アフリカがらみの原稿執筆の依頼だけでなく、日本のメディアからいろいろな形で出演依頼のお話をいただきます。始めのうちは、「声の出演だけなら」と思い、出来る限りお引き受けしていました。ですが、何と言っても南アと日本、時差があります。夕方から夜、あるいは録音で済めばいいのですが、いつもそうは行きません。

それに、このごろ仕事が超多忙になっていることもあって、コーディネイトの仕事も含めて、メディアのお仕事はあまりお引き受けしてきていなかったのです。

ところが、この『地球アゴラ』は、私の出番には、私の関係しているHIV/Aidsの患者さんたちのことを中心に取り上げてくださる、というのです。しかも、ビデオ撮りまでしてくださるというお話。HIV/Aids の患者さんたちの症状緩和施設、Dream Center で私が運営しているビーズワークショップ(このセンターのお話はここから)は、常に資金不足ですから、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうためなら、私はほぼ何でも!してしまうのです。

ただ、実際のビデオ撮りになって気がつきました。当然なのですが、ビデオは私が中心に撮影されていることを……。私は、普段、コーディネイトをする側に立つほうが圧倒的に多いし、また写真映りに自信があるわけでもないので、この展開に正直言ってうろたえたのでした。でも、この番組のことを一人でも多くの皆さんにお伝えするためには、このブログでもぜひ、宣伝しなくてはいけないじゃないですか。

……というわけで、今回のブログの冒頭の「告白」と相成ったのでした。


朝、Dream Center に入るところ


さて、この録画撮りの際、私は患者さんたちの言葉に改めて、深く心を動かされました。彼女たちの言語のズールー語を話せない私ができるのは、英語でのインタビューです。ですから、当然、彼女たちの思いのたけをすべて完璧にあらわしていたとは思いません。が、彼女たちの言葉の中には、私たちが「人として何をすべきか」という根源的な答えがあるのです。

今回のインタビューは、実は7ヶ月振りの作業再開でもありました。

7ヶ月も期間が開いたのには理由があります。

私は、去年、患者さんの一人の死にかなり打ちのめされました。この患者さん、ロクサーンは、こちらで言うところのカラード(混血)の女性で、その聡明さ、優しさ、美しさは他の患者さんとは違っていました。私とロクサーンはかなり親しくなり、彼女のだんだんと衰えていく心身状態をまじかで見ていくことは、私にとってかなりつらいことでした。

彼女の最後の言葉は「死にたくない」でした。
彼女のこの悲しいシンプルな願い。
わずか、29歳でこの世を去ったロクサーン。
私は約1年もロクサーンの死を引きずっていたことになります。
でも、思う存分時間をかけて、彼女の思いを引き受けよう、とも考えていました。これだけの時間が私には必要だったようです。

でも、いざ、「さあ、書き取り再開しよう」と自分を鼓舞するには、まだ何かが欠けていたようです。

ところが、今回、この番組が私の背中を押してくれました。

そうして、インタビューをしてきました。
この様子はぜひ、番組の中でご覧くださいね。また、書き取ったインタビューの内容は、ぜひ、このブログでも放送終了後に書いていきたいと思います。





番組の詳細は以下のとおりです。
5月18日(日)午後9時10分から午後9時59分の生放送。
元ザンビア大使、石弘之さんをスタジオゲストに、アメリカでくらす3〜4組の日本人を紹介し、クロストークをするアフリカ特集を放送する予定。

皆さんのご感想などもお聞かせいただければ幸いです。


カメラマンのDaneと一緒に


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プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。