吉村峰子のアフリカに遊びにおいで!

見る、触る、聞く、嗅ぐ、味わう、交わる、そして考えるアフリカ。大変なことも楽しいことも、“そのまんま”のアフリカをお届けします。

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夫が永眠いたしました

2010年3月17日(水) 11:34
夫、吉村稔が永眠いたしました。

アフリカが好きで、私と子どもたちのことを何より愛し、お酒が好きで、アフリカの人を幸せにする、という大きな野望を持った男でした。

Minoru Lesotho 1.jpg

享年53歳


稔は、無骨な男でした。

スマートな、という表現は彼には当てはまりません。何をしても不器用で、まぬけなところがあり、仕事でも“同僚”となった私にどれだけ叱責されたことか。無駄が多い、優先順位の付け方が悪い、英語の間違いが多すぎる……。

でも、どれだけ私に叱咤されても、怒鳴られても、まったくめげることなく、幾度となく同じ失敗を繰り返します。

何回、「もう嫌だ、あなたとはやっていけない」と三行半を私からつきつけたことでしょう。

真剣にこう聞いたこともあったのです。

「こんなに私に厳しくされて、嫌じゃない?自分のことを“すごい!”と思ってくれる可愛らしい女性と一緒のほうがいいんじゃない」

こういう時の夫の対応は、ひたすら無言でうつむき、私の怒りが収まるのを待ちました。そして、臆面もなく、

「俺はおまえが好きなんだ。絶対に離れない」

と怒りが収まらない私に平気で言うのです。

そして、夫は、とにかく勉強が好きでした。

疑問に思うことは徹底的に調べます。また、学生時代から続けているアフリカの土地に合ったマメ科の植物のことでは、こちらの大学院で博士課程まで進むことを老後の楽しみにしていました。

アフリカの歴史、政治、民族のことを広範囲に、深く、そして愛情を持って語る男でした。

でも、そのアフリカで彼は何回も生命の危険にもあっているのです。

ザンビアではスパイと間違われ、腿を銃で撃たれたこともあります。リベリアでは内戦の危機的状況を鋭敏に察知し、協力隊関係者を無事に国外へ脱出させました。重傷のマラリアにも罹りました。ダーバンでは、誤解から暴徒化しそうになった300名規模の群衆に囲まれ、暴力を振るわれたこともあります。

でも、そういった危機的状況への対応が的確な人間でした。決して、焦らず慌てず、暴徒化しつつあった300名の前で、相手に殴られながらも、一切自分は抵抗せず、その場を最低限の被害でくぐり抜けました。夫は柔道、空手の有段者でもありました。

彼は、まさに、危機的状況に直面したときにその真価を発揮しました。

そして、語学の勉強が大好きで、スペイン語、英語、チェチェワ語を話しました。でも、彼の英語の勉強はマニアックな方法でした。よく、私や子どもたちに、

「俺はお前たちのように、英語で学問を系統だってしてきているわけではないから、弱いんだ」

英語に関して、どこの誰よりも時間を使い、本を読み、資格試験をとり、という地道な勉強をしていました。私は教育の道を歩いてきて、彼ほど一般人でありながら、あれだけの勉強量をこなす人間を他に知りません。

南アフリカのダーバンの駐在員の方々にTOEFLの点数アップの講座を持たせてもらうようになってからは、生徒がどんなに少なくとも、その授業には、丹念に準備をしていました。準備にかける時間が授業時間の数倍はあったでしょうか。

最晩年、日本語の授業をする仕事に巡りあい、私から数週間、教授法を徹底的に仕込まれ、その後は自分の独自の指導法を磨いていきました。そのために幾晩も睡眠を削って、その準備に時間をかけました。

そういうことを厭わない人間でした。

夫の好きなスポーツは、荒波の海でのウィンドサーフィング、アフリカの大地での乗馬、そして、山スキーに登山、ロッククライミング。彼にとってのスポーツは、常に危険が伴いました。結婚した直後、駒ヶ根の千畳敷に一人でスキーに出かけ、雪に閉じ込められてあやうく遭難しかかったこともありました。夫に言わせると、「スポーツは、命の危険の可能性がないとおもしろくない」。

今回は、まさにこれに足をすくわれたのです。

父親としての夫は、子どもたちに彼流の惜しみない愛情を注ぎました。カンジもショウコも、母親の私が見ても、惚れ惚れするくらいいい子たちです。まだ20歳、15歳ですが、人々への優しさがあります。でも、あれだけの超強烈な個性を持った父親から、これだけの愛情を注がれていたら、彼らの魂の芯の部分が正しく育たないはずがありません。

彼が子どもたちに教えたことはたくさんありますが、その背中から、その行動から、人を分け隔てなく大切にすること、物を大切にすること、どんな食事もありがたくいただくこと、できることは何でもすること、を伝えていたように思います。

子どもたちが幼いころ、夫は、仕事が忙しかった私に変わって、週末の時間は寝るとき以外、起きている間中、子どもの世話をしていたのです。夫と子どもたちのしていた数々のびっくり仰天のお話しはまた機会を見てお話ししたいと思います。

子どもたちの面倒をみる中で家事もよくやりました。お皿洗いには一家言あり、よそ様のお宅にお呼びいただいても、いつの間にはキッチンに入り込み、お皿洗いをしていました。また、女の人との話は自分のダイエット話できっかけを作るのが得意でした。

いま、ダーバンで日本食ビジネスに進出したい、と言っていたのはまぎれもなく夫で、実は握りスシの練習も始めていたのです。でも、いまの店はたったの4席のカウンター形態。彼のような不器用な男が、一遍にラーメンを作り、カレーライスを出し、巻きスシを切れるわけがなく、出番を却下されていたのです。

夫は夫を理解する心優しい人にたくさん愛されました。

亡くなった翌日、お通夜をさせていただきましたが、この人種差別のまだ厳しい南アで、これだけ人種、職業を超えて、多くの人が彼のために集まり、心からのお悔やみを届けてくれました。皆さんとのお付き合いの中で、彼がどれだけ、公平にそして楽しく人々と接していたかが手に取るように分かるお通夜でした。

同時に、イランから、アフガニスタンから、パナマから、米国から、欧州から、日本から、私の携帯電話には、彼の死を受け入れられない人たちからどれだけ多くの電話がかかってきていることでしょう。

でも、こういう破天荒な人格、個性ですから、誤解されることも多かったのです。夫を疎い、組織の中で失脚させようとした人までいました。確かに、日本の官僚組織では、あの個性を生かすのは難しかったのでしょう。

ただ、夫は、そういったマイナスのエネルギーを形にするような人々の中で埋もれていく人間ではありませんでした。

組織に頼らず、自分の力で自分の思った通りにアフリカで生きていくのが、最良の道、という選択をし、家族も全員大満足で賛成したのです。

私たちがアフリカで叶えたい、と願ったのは、収入の安定した家族を一つでも二つでも増やして、夜空腹を抱えて眠りにつく子どもの数を減らしたい、安心して学校へ行くことが叶うような社会にしたい、ということでした。

私はいまはまだ悲しみで心が一杯ですが、必ず、これは私の命がつきるまで実行するつもりです。

ただ、夫と私は、お互いを精神的に支えてきたのか、というとそうではないのです。

夫も私も人格的にかなり独立した人間であり、することなすこと、それぞれのやり方があります。

どんな些細なことでも、笑顔で妥協、納得、ということがない二人。でも、彼の場合、妥協はしたくない、と思って妥協をしないのではなく、自分は妥協して、周りとうまくやりたいのに、どうもそれが空回りする、といったらいいでしょうか。

今日、これを書いてきて、よく理解できました。

夫と私は表面的、精神的な部分を超えて、お互いの魂の奥の奥での共通点でつながっていたのでしょう。

夫と私の共通点は、英語で表現するほうがぴったりくるのですが、Compassion for People, ――人々への思い、だと思います。

私は生前、このことを言語化も意識化もしていなかったので、夫には厳しい妻でした。文句も遠慮なし、夫が精神的に未熟なことを口にする時は、あきれて叱責をすることも多々ありました。

でも、夫の私へ対する愛情に揺らぎ、というものがありませんでした。

私はちっとも美人ではないのに、夫には私は美人にさえ映っていたようです。そして、共通の友人、私の生徒さんたちにも、私のことをこう言っていました。

「僕は妻を尊敬しているんです」

彼を「ソウルメイト」と言ってしまうと、その語感に戸惑います。いわゆる、すべての面で何の問題もないソウルメイトではまったくなかったのです。

おっちょこちょいで、お酒が入ると陽気で、でも、家族の前では年がら年中仏頂面。一緒にいて、心が休まるような男ではありませんでした。

未熟な私は、夫がこの世からいなくなるまで、彼の本当の意味での私への愛情を理解してあげていなかったのですね。

でも、子どもたちの言葉に救われました。このことを泣いていたら、こう言うのです。

「お母さん、あのね、お父さんはお母さんに怒鳴られたって、まったく気にしていなかったよ。まったく、全然、そりゃあ、その瞬間は嫌だったろうけれど。でもお母さんは、すぐ忘れちゃうからさ、どんな失敗でも。お父さんは、お母さんと一緒にいることが好きだったんだよ。どんな時でも。家族でいることが何よりも好きで、身体を鍛えて、みんなのお役に立ちたかったんだよ。でも、おっちょこちょいだから、ちょっとすべっちゃったんだ」

ああ、本当に大馬鹿モノの夫でした。

でもね、いつでも、私の誕生日には、「僕と結婚してくれてありがとう」と言っていましたから、許すことにします。それに、今頃は、天国で、半年ほど前に行った母に厳しく叱られているでしょう。どうしてこんなに早くこっちに来たんだと。

昨日は私たちの結婚25周年日でした。


☆☆☆☆☆☆


お知らせ:4月4日(日)に「吉村稔を語る会」を名古屋で開きます。生前の夫とお付き合いをしていただいた皆様、もしも可能でしたら、お出かけください。

参加ご希望の方は、発起人の一人、瀧上珠緒さんまでメールをいただけたら幸いです。tamao621☆yahoo.co.jp (☆を@に変えてください)
[ アフリカの空のした ]
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チャリティって?ボランティアって?

2010年3月8日(月) 01:16
“チャリティ”と“ボランティア”。

この二つのコトバを聞くたびに、私は居心地の悪い思いをします。どうしてでしょう。

でも、先日、この二つのコトバを軽やかに使う女性とお話しをしました。

彼女の名前は、ヘレン・オブライエンさん。その名も明快な、『ロビンフッド財団』というダーバンのチャリティ団体の唯一の専属のスタッフです。

Helen.jpg


この団体は、とにかく透明性が売りものです。いろいろな団体から寄付をもらい、それをどこの組織も通さずに、一人ひとり、援助する物資を手渡しています。

私がこれからお手伝いしよう、と考えているのは、この団体の活動の一つ、『GO GO BAGS―おばあちゃんバッグ』です。

Panphret 2.jpg


これは、エイズを発症して亡くなるか、またはとても赤ちゃんを育てる状態にない母親に代わって、GOGO(ゴーゴ)、こちらのズール語で“おばあちゃん”を応援しよう、という目的で、赤ちゃんが病院から帰宅するときに、そのおばあちゃんたちに一つのバッグをプレゼントするのです。

バッグの中にはこんなものが入っています。

*トウモロコシ粉 2.5キロ
*砂糖 2.5キロ
*米 1キロ
*クッキー 1箱
*キャンディ 1袋
*ティーバッグ 100個
*魚の缶詰 1個
*固形洗濯石鹸 1個
*浴用石鹸 1個
*歯磨き粉 1つ

こういったおばあちゃんたちの多くは、政府の援助金、月額9,000円で何人もの生活を賄っている場合が多いので、これがどんなに喜ばれるかは簡単に想像できると思います。

私はこのバッグがもっと頻繁にこのおばあちゃんたちに行きわたるよう、何とか援助をしようと思っています。

実は、彼女に会ったことで、私がそもそもなんで南アフリカに住んでいるか、ということを今更ながらに考えました。

私たちは、夫がJICAの職員だったこともあり、家族でアフリカの都市を転々としました。また、ずっとアフリカ暮らし、というわけではなく、このアフリカ転々の間に日本での生活を挟む、という落ち着きのなさでした。

私たちの最後の赴任地マラウィで、夫に帰任命令が出た時、子どもたちが叫んだのです。

「もうこんな生活は嫌だ、一つの場所に長く住みたい」
「日本の学校に戻りたくない」

この時、私も夫も仕事上に転換期を迎えていました。

夫は、このまま官僚組織にいても、自分のしたい仕事は回ってこない、という現実。

私は、日本での英語教育で、自分のしたいこと、挑戦したいことは一回りしたぞ、という実感。

子どもたちは、英語での勉強の方に慣れてきつつあり、日本に戻る、ということはこれまでこんなに苦労した英語での勉強を一旦中断し、またまた日本を一から勉強し直す、ということになったのです。

普段の家での会話は日本語を使っていますが、特に高校生の年齢に近かった息子は、「ボク、高校で使う漢字なんか全然わからないよ」状態だったのです。

私は自分の子どもたちのその頃の「勉強の限界」というものをよく理解できたので、インターナショナル・スクー-ルで出される毎日の宿題にへとへとになっていた彼らに、日本の通信教育の教材などを使って進める日本語の勉強をあえて強いてきていなかったのです。

その時は、「その時になったら最善の方法を皆で考えよう」と思っていました。

そして、その“時”が、来て、皆で考えた末、「よし、南アに行こう!」と、他の家族から見れば、とんでもないほど大胆に、夫は勤務先を辞職、私は自分の組織を閉鎖し、アフリカ移住を決定してしまったのです。

もちろん、こういった「分かりやすい理由」以上に、私たち夫婦はアフリカに定住して、アフリカの発展のために、個人として何かをしたい、という強い思いを抱いていたこともあります。

そして、今回、何を考えたかというと、「私が南アに移住したい」と思った一番のきっかけの、マラウィのマザーテレサの子どもの家で出会った、数多くの文句も言わずに亡くなっていったエイズに罹った子どもたちのことだったのです。

彼らの小さな体の軽さは、いまだに私の腕の中に残っています。

彼らの多くは、自分たちが何のために生まれてきたかを問う時間も、力もないまま、そして文句も言わずに、その何年かの短い命を終わらせました。

私は、教師として、大人として、これをこのまま知って知らんふりをしていたら、自分はこれまでの自分の受けてきた教育やら、志やら、理念などが全部木っ端みじんになるだけだ、と思ったのです。

アフリカから遠く離れたこういったことを知らない人たちに、この子たちのことを知らせる、連帯感を持ってもらう、そして何かの行動をしてもらう、その真ん中に立つことこそ、これまでの私のすべてが生かせることだ、と思ったのです。

南アに来て、実はいろいろな団体や活動に、首や足や手やお金を突っ込ませました。その中でも私の活動の中心はドリームセンターでした。実は、ドリームセンターはいまだに閉鎖されたままです。ここの顛末についてはこちらをご覧ください。

私はまだ自分の子どもたちに学費がかかる年齢で、彼らが独り立ちするまでには、まだまだお金が必要です。

でも、初心を忘れたらいけないですね。

どんなに普段の生活が忙しくても、仕事が不景気の波にざんぶりこんと巻きこまれたとしても、私たちは自分の志したことを継続して実行していかないといけない、と強く思います。

そうでないと、日常のつまらないことに足をすくわれてしまいからです。

いま、私は本業である、日本語、英語教育、通訳、翻訳、そして、かねてからの企画であった、ダーバンでの日本食ビジネスで、これでもか、これでもか、と仕事が目の前に積まれます。

仕事をひとつひとつ誠意をこめてこなしていくことは当然のこと。でも、仕事だけでは人生は片手落ちです。

自分のできることで、やはり世の中を少しでも良い方へ変えて行きたい、と思います。

だから、私にとって、この「チャリティ」や「ボランティア」が運んでくる、「持てる側がする施し」というようなニュアンスに、抵抗してしまうのです。だって、自分ができることを実行するのは、持てる側だからすることではないからです。

私はマラウィの死んでいく子どもたちから、どれだけの勇気をもらったことでしょう。

私が人生に必要とする勇気の100倍くらいの勇気をあの子たちは私にくれたのです。ただ、そこにいてくれるだけで。

でも、この『ロビンフッド財団』のヘレンは、「私たちはチャリティよ」と堂々の発言。

そうですね。そう言いきれる人はそうでいいのかもしれません。

さあ、私もできる限り、このおばさんロビンフッドたちを応援することにしましょう。


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プロフィール
Profile
吉村峰子
(日本語/英語教師・ライター・通訳)
東京都生まれ。1980年頃より日本語・英語教育に関わる。教えた国は、日本、米国、デンマーク、ドイツ、リべりア、エチオピア、マラウィ、南アフリカなど。1986年頃より、アフリカと日本を交互に生活した後、2003年、南アフリカ・ダーバンに家族とともに移住。現在はダーバンで日本語・英語教育、執筆業、通訳業で大忙しの毎日を送る。

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