おへそに手をあてて……

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細かくなくて、細かいもの [2008年04月26日(土)]
「どんぶり勘定」という言葉をご存知ですよね。

「私のことでございます」と正直に告白しながらも、「決して、お金に対して、理由なく無頓着ではないのです」と弁解したりしてしまう私です。どんぶり勘定とは、お職人さんたちが腹掛けのどんぶりにお金をいれて、無造作に出し入れをしたことから、その無造作加減を、大雑把なお勘定の意味として言い表すようになったようです。


細かい、細かくない……


勘定に細かい人は、すべてのことに細かい人。そう考える人はたくさんいます。つまり、どんぶり勘定、宵越しの金は持たぬ、などの言葉がぴったりといわれる私は、どうやら細かくない人の部類に入ります。

こうして、自覚症状があることを人に伝えないと、私が細かくない人の部類のなかでも、強度の大雑把だと思われてしまいます。

「確かに私は細かくないと思う。特にお金には。でも、仕事では細かい作業をしていると思うし、細かさには自信があるんだけど……」
「それは、訓練されたからであって、もともとは細かくなかったと思うよ」

「あのね、たとえば、原稿を書いているときは、句読点ひとつもこだわるし、踊っているときは、小指の第一関節まで気になるのよ」
「だから、それは、自分の仕事だからでしょう」

私と夫の朝食中の会話です。

というのも、実は先週、私のクム(フラの師匠)のアンティ・ケアラの飛行機のチケット手配を間違えるという大事件が勃発しました。なんと、マウイ島発・オアフ島行きの午前の便を手配したつもりが、午後の便を予約していたことが判明。出発五日前にくわえ、週末の便であること、いままでは島間を結ぶ飛行機会社が、ハワイアン航空とアロハ航空の二つあったというのに、アロハ航空は三月末で閉業したため、予約集中のハワイアン航空の便にまったく空席がないのです。


細かい文字、細かくない文字


アンティ・ケアラは、私たちのハーラウのシスターズ・ハーラウ「ナー・プア・リコ・ワイ・ホオラ」のダンサーにフラを教えるために日本にいくのですから、飛行機のチケットの予約ができないとなると計画は丸つぶれ。私とアンティ・ケアラは、まず空港の発券カウンターで直談判。ですが、同情たっぷりの空港職員のおばちゃまから、空席なしとの答えが。

そこで、私と夫は夜を徹してのチケット探しとなりました。

「あ〜、電話で予約していれば、午前と午後を言い間違えなかったのに」
「インターネットで予約って、便利だけど、間違えのもとね」
「どうしてすぐに、きちんと確認しなかったんだろう」
「だいたい、私、向いてないのよ、こういう細かいこと!」
「一緒に画面を見ていたのに、なんで二人そろって見間違えたのかしら」

に、はじまり、

「そもそも、このウェブサイトの画面、“am”と“pm”が見えにくいったらないわよ! 詐欺かもしれない!」と思いつくままに怒鳴ってみたり。

何を言っても、空席が見つからないので、口は閉じ、ひたすら作業をする私と夫。ほとんど徹夜に近いなか、翌朝も空港へ直談判にでかけ、空手で家に戻り、なんとか精神を集中させながらパソコンの画面をにらみ、四方八方の旅行会社に電話をしていた午前九時。

私の叫び声が響き渡りました。

まるで幻のように、一席のみの空席が、ハワイアン航空のウェブサイトの予約画面に現れたのです。私のパソコンに現れたそれは、不思議なことに、夫のパソコンには現れず、まさに幻そのもの。私は震える指で予約をし、興奮状態のまま、アンティ・ケアラに電話。

事件はめでたく終結を迎えました。

その事件を踏まえ、私と夫は、「細かい性格とは?」をテーマに朝食の会話をはずませたというわけです。

「だいたい、どんぶり勘定だからね、君は」
「それは認める。宵越しの金は持たぬの江戸下町芸人の曽祖父母と祖母、職人一家の祖父たちや父の気質は、きっと脈々と受け継がれていると思う。でも、自覚しているんだから、いいでしょう」
「それを自分で言わないの」
「じゃあ、細かい人って、いったいどういう人よ。銀行にお勤めの人のこと?」
「義父さん、若いころに銀行に勤めたけど、すぐ辞めたってね」
「どうせ、私たちは細かくないわよ。でもね、目に見える細かいことだけがすべてじゃないでしょう」


細かいもの、細かくないもの、どちらも大切なもの


細かいのか、細かくないのか、という二者選択はしないほうがいいのかもしれません。何かと比較して細かさをはかるのも、無粋なのかもしれません。でも、今回のような出来事はもう二度と起こさないように、細かさを大切にすべきでしょう。

私は朝ごはんの片付けをしながら、どんな非常事態でも、協力を惜しまない夫と、私の祈りにこたえ、導いてくれる、大いなる存在に、心から感謝しました。

耳を澄ませば…… [2008年04月16日(水)]
最近、インタビューを受けることが増えています。

書く仕事をしている私は、取材などのときに、私がインタビューをすることはあったとしても、インタビューを受けるとなると、どうにも落ち着きません。

インタビューをしてくださったのは、港区青山にある出版社の雑誌編集者さんです。その出版社は、作家でもある落合恵子さんが経営されていて、子どもや女性の暮らしをテーマにした本屋さんを中心に、出版事業、レストラン、通販など、総合的にライフスタイルをサポートする、とても面白い活動をしています。居心地のよい本屋さんであり、美味しい食事もできて、ゆっくりお茶を楽しめるので、私が東京に住んでいたときにはよく通っていました。

以前、その雑誌にフラについてのコラムを書かせていただいたご縁があり、今回、インタビューをお受けしたのですが、まだ慣れない私は、いただく質問に答えられているのかどうか、と心配ばかり。

というのも、質問には質問する人の意図があるというのを、私が自分がインタビューをする経験から知っています。なので、すぐに意図をくむこともできるのですが、ときに、自分がその意図に対して十分な答えをもっていないことにも、気がついてしまうのです。

もちろんそのようなときは、正直にお伝えし、どのくらいその質問の意図に幅があるのかを伺って、対応するようにしています。そのことから、インタビューが長引くこともありますし、結果的に質問を変えていただくことも。私には、適当に対処するということが、あまり向いていないのでしょう。

いろいろなインタビューのなかで、よく質問にあがるのは、「リラックスするための音楽について」です。

いま、音楽を楽しむことがとても簡単になっていて、世界中の音楽をインターネットでダウンロードできるようになっています。ダウンロードした音楽を、小さな入れ物にたくさんいれて、どこにでも気軽に持ち歩くことができます。リラックスをするための音楽をそばに置いておくことができたら、いつでもどこでもリラックスできて、さぞかし便利なことでしょう。

ところが、私は、いわゆる「リラックス」をするために、音楽を聴かないのです。



そもそも、一般的なリラックスのイメージは、「静」でしょう。たとえば、読書をするとしたら、感極まって涙が止まらず胸が苦しくてたまらないような本や、問題を提議し弁論に及ぶような本をリラックスするために選びません。エクササイズをするとしても、重いバーベルを何回も持ち上げたり、著しく激しい動きが含まれるような運動も避けるでしょう。

つまり、イメージは、「動」ではありません。

そこで、私は、私にとって音楽を聴くことが、「動」のリラックスであることから話しはじめます。我が家は、夫の趣味のオーディオ機器がぎっしりと並び、さらに夫の仕事でもあるオーディオ関係のものが、それこそ家中にあるのです。スピーカーが数十、レコード針が数百……にはじまり、私には理解不能のたくさんの機材がそろい、いつも音楽が流れています。


何故かレコード針がかわいく思える今日この頃


しかし、私は、自分で彼のオーディオを使って、音楽を聴くことができません。それは、夫が私の仕事机にある原稿や資料にむやみにさわらず、私がショウで使う衣装や道具を使わないのと同じで、我が家の専門領域の縄張りの問題のようです。

それでは不自由だからと、ipodなどの何か便利なもの買うことも考えるのですが、なかなかそれに至らないのは、我が家のスピーカーから流れる音に私が惚れているからに違いありません。

クラッシック、ジャズ、ハワイアン、オペラなどコンサートのレコードをかければ、その臨場感は最高。観客の息から、演奏者の動きまで、目に見えるように、肌で感じるように聴こえるのです。時代をこえて、距離をなくす、我が家のコンサートホールを、家にいる限りはいつでも楽しめるのですから、便利な小さな音楽の入れ物に手が伸びないわけです。

私にとって、音楽を聴くことは、食べたいものを食べる、読みたい本を読む、踊りたい踊りを踊る、話したいことを話すこと、会いたい人に会う、などのように、「動」のリラックス。

質問には、こう答えます。

CDやパソコンからダウンロードした音は、デジタル信号だということを考えるきっかけを持ってみてください、と。お気に入りの音楽をいつも身近におくのは素敵なこと、でも、同時に、デジタル信号であることも知っておくと、デジタル信号を生の音に近づけて音楽を聴くにはどうしたらいいのかな、レコードを聴いてみようかな、コンサートに行ってこの曲を聴いてみたい、などの、聴く広がりが増えると思うのです。

そして、生の音を聴きたいという気持ちがわいてきたら、楽器をそばに置くこともできます。私は、楽器をたしなむ夢はあるのですが、なかなかたどり着かないので、裏庭で洗濯物をほしながら、仕事に行くときに子どもと手をつなぎながら、私のまわりにある生の音を楽しんでいます。


木のざわめきの音楽もおすすめです!


いい音のある生活は、耳を澄ますところからはじめたいですね。

花冷えのころ [2008年04月09日(水)]
花冷えのマウイはここ数日、春雨が降ってはやみ、朝晩は首をすくめたくなるような空気が流れています。

桜の花の咲くころ、雨や寒さが舞い戻る花冷え、花が散り急ぐのをと心配しながら空を眺めることもしばしば。しかし、マウイ島の花々は、日本のそれに比べて、ちと丈夫でありますから、そのような気遣いは無用。花見の宴はいつでも大丈夫のようです。

私は山育ちですから、私にとっての桜は山桜、もしくは濃い紅色の八重桜。ソメイヨシノのようにはらはらと散り急ぐことを心配する必要はありませんでした。小さかったころに、花の下でお弁当を広げ、梅、桃、桜の花を何度も楽しんだのを覚えています。

この島で桜などの花にかわって、私がお花見にいそしむのは、高原に咲く藤色のジャカランダをはじめ、裏庭のククイの優しい乳白色の花まで。子どもたちに人気のお花見はエンジェルトランペットの花。名前の通り、トランペットのかたちの花がぶらんぶらんとさがり、風が吹けば音が聞こえてきそうな花で、花が奏でる演奏とともに、お花見の宴を楽しめます。


エンジェルトランペットの音が聞こえる


週末、私の友人のお誕生日のお祝いとククイのお花見をかねて、我が家で宴会が催されました。雨が降りそうな雲行きだったので、ククイの花をゆっくり眺めることのできるリビングルームでの食事会です。

集まったのは、私のフラの先生でありハーナイ・ママでもあるアンティ・ケアラ、夫の親友のハワイアンミュージシャンのペケロ、ペケロの息子さん、コメディアンのブライア、ロミロミやハワイの薬学を伝承しているブラと内科医の美穂さん夫婦。私たち家族と家族ぐるみでお付き合いのある人ばかりです。

そして、宴には欠かせないお料理は、蒸し蟹をほぐしたものとキュウリとアボカドを巻いたお寿司、バーベキュービーフ、シュウマイ、トマトと山芋とらっきょうのサラダ、鳥のささ身とアスパラガスとキュウリとレタスの千切りサラダ、ロールキャベツ。お料理の上手な夫に手伝ってもらって、手作りしました。

宴は、午後三時にはじまり、まずは米大統領選談義、次に、ハワイアン・コミュニティーがいかに文化損失の危機に面しているか、さらに、どのようにハワイの文化を次世代に継承していくべきか、など。話好きの面々は熱弁をふるい、お誕生日を迎えた美穂さんや満開のククイの花を横に置き、お花見にふさわしい講談だともいわんばかりに、釈台(しゃくだい)を張り扇で打たんばかりの大騒ぎ。

ひととおり話し終えたころ、マンゴーとバナナと生クリームをくるりと巻いたロールケーキに、キャンドルをたててテーブルに運ぶと、お喋りはバースデーソングに変わりました。お誕生日は何歳になってもうれしいものですよね。



お酒好きの人は甘いものを好まないという定義は、ハワイの人々にはあまり当てはまらず、ワインやビールのグラスをひとまずテーブルにおいて、ケーキに舌鼓。お腹に甘いものがおさまると、やっと花を眺める余裕と、ひとときの静けさが訪れました。

「ククイでレイを作りたくなったわね」というアンティ・ケアラと、「写真でしか見たことがないから、今度作ってみたいなぁ」「お店で売っているお花のレイよりも、身近にある植物で作るレイのほうが素敵よね」などと、花の話がしばらく続きます。「あの葉っぱは、髪に飾るのに最適」「愛の家の裏庭の眺めは最高ね。マウナレオの山もよく見えるし」と、突然、ペケロがギターを片手に歌いだしました。


満開のククイナッツの花


夫がにんまり。どうやら、ソファに沈み込むペケロのお腹にのっていた赤ワインのボトルを、さっとギターに変えたら、条件反射で歌いだしたようなのです。ペケロのギターと歌に聞きほれていたアンティ・ケアラのところに、娘のアイナがウクレレを持ってきました。

あの歌は、この歌は、と十数曲ほど続いたでしょうか、ふと、アンティ・ケアラがこう言いました。

「昔、私が小さいころに、おじさんやおばさんたちが、こうやって週末に集まっては、食事をして、お酒を飲んで、ギターやウクレレを弾きながら夜まで歌っていたのを思い出していたの。それで、いま、ふと、横を見たら、アイナが愛の膝の上で、一生懸命に音楽を聴いていて、あっ、自分はあのときのおじさんやおばさんたちになっているんだなって、気がついたわ」

未成年と呼ばれなくなり、経済的に独立もし、子どもではない年齢になっても、自分のなかで何かが変わったようには思わなかったのに、親になった途端、まるで二つの目を持ったように視点が増えたのは私だけでしょうか。

子どもに話しかけている自分、子どもに言い聞かせる自分、子どもの叱りつける自分。そんな自分を別の誰かがみているような気分になり、「あれ、私、誰かみたい? 誰だろう」「あ、私ったら、ママみたいなこと言っている」「やだ、私、いまパパみたいだった」と、どきり、とするのです。

あのときを見ていた目は、確かに子どもだった自分の目なのに、まるですり替わったかのように、今度は同じあの風景を違う自分が見つめているような気分。

アンティ・ケアラとペケロの奏でる音、深い歌声は、夜中まで続きました。

「アンクル・ジョージ・ナオペが教えてくれた、今日のパーティはもうお終い、というときに歌う曲を歌うわね。もうHana hou(もう一度!)は、今度会うときまでなしね」

と、宴もたけなわでございますが……、の曲が流れるまで。

プロフィール
神宮寺愛
エッセイスト×フラダンサー
東京での出版社勤務を経て、現在はエッセイストとして活動。マウイ島ワイルク在住。著書『心と体がピュアになるハワイアンな暮らし』(青春出版社・刊)他。フラやハワイ語等を学ぶダンサーでもあり、カノエアウダンスアカデミー所属。現在カアナパリビーチホテルのディナーショーにレギュラー出演中。