’60年代の音楽、ファッション、文化にこだわりを持ち続けて数十年!!

昭和レトロなるものが、ブームになっている昨今。
少し違った観点から、マイ昭和レトロともいうべきスタイルを、
〜遠い〜記憶をたどりながら綴りたいと思う・・・・・・。

2006年6月15日

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60's Avenue [2007年03月24日(土)]

『TAKE IVY』U

‘65年6月、石津 祥介さんプロデュース。くろす としゆきさんのディレクション。村田 昭慶さんのカメラワーク。長谷川 元さんの英語力が加わって、伝説的写真集、そしてVANの販促ツール用の映画も出来上がったのでした。(監督は小澤 協さん。音楽は中村八大さん。演奏は当時の日本ジャズ界の大御所たち)

昨年のMENS CLUB 8月号の、石津祥介さんのコメントに、「VANが保管していたフィルムは劣化が進み、もう観ることはできないと諦めているところ、監督の小澤さんが亡くなられたあと、遺品の桐の箱の中から原版が見つかったんです。湿気の進入は防がれ、非常にいい状態のフィルムが見つかりました。なので、なんかの形でみなさんに紹介できるよう、いま企画を考えている最中です」とあります。写真集『TAKE IVY』と共に、映画のDVDがセットで復刻されることを、期待を大にして待ちたいと思います。

1965年当時のプリンストン大学。

クルーカット・ヘアーに、セル・フレームの眼鏡。プリンストン大のロゴ入りTシャツに、同系色のバミューダ。やはり素足にペニー・ローファーが多いですね。

プリンストン大の「P」をあしらった、レター・ド・セーターにホワイト・ジーンズ。短い丈と細さが60'sです。アイビーリーガーに、ブルー・ジーンズは邪道です。

ファッションも自転車のデザインも、42年前のものとは思えません。

ハーバード・カラーのブランケット。タペストリーかベッド・カバーに是非とも欲しい一品です。
高校時代に友人達と揃えた、胸に校章のエンブレム付きのアイビーリーグ・カラーのVセーター。私はエンジのハーバード・カラーのものでした。これも、もう一度着たいアイテムです。

60's Avenue [2007年03月23日(金)]

『ザ・ヴィレッジ・シンガーズ』


‘68年上映映画 『思い出の指輪』
当時のアイビー・ルックが爽やかです。

デビュー曲『暗い砂浜』(’66年10月)はヒットしませんでしたが、電子オルガン(キーボード)をフューチャーした、私の好きな曲です。

成城大学軽音楽部の清水道夫(ギター、ボーカル)元サベージで成蹊大学の小池哲夫(キーボード)明大卒業の笹井一臣(ベースギター)の3人を加え、小松久(リードギター)林ゆたか(ドラム)5人組で再スタートを計り、
1967年8月1日、CBSコロムビアより}『バラ色の雲』を発売し、これが大ヒットし人気グループの仲間入りとなる。

『亜麻色髪の乙女』(’68年2月)

『池袋アシベ』

60's Avenue [2007年03月21日(水)]

『TAKE IVY』


‘64年に海外旅行が自由化されたばかりの翌年‘65年、1$360円の時代にVANが総予算500万円で行ったプロジェクトが、アメリカ東部の8大学、アイビーリーグ・取材ツアーでした。
その写真集が’65年に発行された『TAKE IVY』です。タイトルはジャズの名曲『TAKE FIVE』から、当時VANの通訳を任されていた長谷川 元氏がつけました。私が持っていたのは’75年の復刻版です。

2006年8月号のMENS CLUBで“すべての原点は『TAKE IVY』に”という特集がありました。
‘65年のナッソー・ストリート。マドラスのバミューダ、素足にペニーローファーのファッションに、街路樹、アメ車、すべてが絵になっています。
無造作に着るステンカラー・コートが粋です。
イェローのレインパーカーと素足にペニーローファー。左の彼はバティック・プリントのプルオーバーにホワイトのバミューダ。
スクール・カラーがグリーンのダートマス大学のブルゾン。
‘73年に着たVANのウインド・ブレーカーがこのタイプでした。

”山崎豊子作品” [2007年03月20日(火)]

テレビドラマ「華麗なる一族」(原作:山崎豊子)が最終回を迎えました。学生時代に原作を読んだときの、クライマックス・シーンでは涙が流れましたが、“映画は原作を越えられない”といわれるように、長編物を短縮した、初の(‘73年)映画化のシーンは物足りなさを感じました。
今回のテレビドラマ版も、関西のお笑い系タレントがシリアスな役柄で出演していたりと、この小説の内容に見合った重厚な演技が出来るキャスティングではなかったので、感情移入はありませんでしたが、一昨夜のクライマックス・シーンでは、やはり涙腺がゆるみましたね。

『白い巨塔』原作:山崎豊子

先日GEOで、ビデオ版「白い巨塔」が安価で販売されていたので購入しました。’66年のモノクロ作品ですが、キャスティングが重厚で内容とともに、リアルタイムの60年代の家屋や家具、照明などを観るのが懐かしく、楽しいのです。これも原作は高校時代に読んでいました。

<キャスト>田宮二郎・東野英治郎・田村高廣・小沢栄太郎・藤村志保・小川真由美

昭和38年、サンデー毎日に連載され、社会に大きな波紋を投げかけた小説を、「砂の器」の橋本忍が脚色し「戦争と人間」「金環触」「あゝ
野麦峠」の社会派監督として名高い山本薩夫が挑んだ問題作。‘66年度キネマ旬報賞作品賞および監督賞に輝き、大病院の権威を指す“白い巨塔”という言葉は当時の流行語にもなった。
大阪・浪速大学医学部は東教授(東野英治郎)の定年を控え、後任をめぐり揺れていた。若きエリート助教授・財前五郎(田宮二郎)が有力だったが、東教授は自信過剰な財前に反感を持っていた。義父(石山健二郎)の力を借り裏工作に走る財前。
その渦中、同期の里見助教授(田村高廣)の忠告に耳も傾けずに、ある患者の手術を強引に進めてしまう。これが後に誤診の疑いで裁判にまで発展。そびえたつ白い巨塔の内部で何が起こったのか!?欲望に狂う人間医師を、田宮二郎が迫真の演技で迫る戦慄のヒューマンドラマ。

” 熊本芸術祭 ” [2007年03月17日(土)]

『熊本芸術祭』

昭和56年9月、日本初のミラノの『スカラ座』公演がありました。
当時は大規模なコンサート・ホールが無かったため、東京のNHKホールと大阪フェスティバル・ホール、2箇所だけの公演でした。
大規模なスカラ座の大道具はすべて、ミラノから船便で搬送されるほどで、舞台美術の大御所、朝倉 摂(あさくら・せつ)さん他、各界の著名人、文化人が多く観劇されたそうです。

当時、天草在住の知人H先生が地元で熊本県芸術祭参加作品の、オペラ、ミュージカルの歌曲などを作り、地元の民話など、歴史的な題材をモチーフにした、劇団公演をおこなっておりました。その劇団には東京・吉祥寺の『前進座』から、トップ俳優の方々が参加されておりました。H先生と制作の女性Yさんが上京し、私は当時札幌に赴任中でしたので、このために帰京して、スカラ座東京公演を観劇しました。

そのあと、Yさんのお姉さまの嫁ぎ先である、高円寺のお宅での会食に招待をされて、大変お世話になりましたが、そこのお嬢様が、青山の『田中一光』(archive89)事務所に勤めていて、玄関には田中一光先生の原画が飾られていました。当時、グラフィック・デザイナーの駆け出しだった私にとって、雲上人だった田中一光先生の作品を、個人のお宅で拝見できてとても感激したものです。

公演:昭和56年11月11・12日

文政四年、八代郡鏡町の七百町新地干拓に従事した潟いない。
潟切り人夫達によって創作された労作唄「大鞘(おざや)節」の物語。

公演:昭和57年5月9日

H先生から依頼されて私が描いたポスター、チラシ、チケットのデザインです。潟切りの頌歌のベースはオイルパステルを指ですり込み、オリーブグリーンと黒で有明海の干潟をイメージしました。当時はすべて手描きで、題材のテーマなどを考慮すると、思うようなデザインにはなっていませんが、未熟さが表れています。
[言い訳です(笑)]

左下にデザイン○○○○と私の名前が印刷されていますが、ネーム・バリューがないのでカットしました。(笑)

60s Avenue [2007年03月16日(金)]

私が60年代からずっと好きな、タッターソール・チェック。
襟のバックボタン、センターボックスプリーツにハンガーループ。

60年代IVYのエッセンスが強い、プルオーバーのボタンダウン。

60年代のIVYファッションをコンセプトに、ブランドを立ち上げる企画をしています。
当時の洋服の現物は残っていませんので、私の遠い記憶を辿ってデザイン画を描いています。まだ公開はできませんが、カジュアル・ウエアーを中心に、B・Dシャツではなく、ニット製品をメインにするつもりです。私が今、あの頃のものをもう一度着たいと思うものが現状的にはありません。私と同じように思っている方々がいるはずです。それを自分で作ろうという発想です。

サイズ展開は“ユニセックス”(男女の区別のないこと。特に、服飾で男女両性に向くもの)。今は普通になっていることですが、国内のファッション・ブランドではヴァンジャケットの、スタジアム・ジャンパー、クルーネック・セーター、トレーナー、ボタンダウンシャツなど、男性ものを女性も着ましたので、ユニセックスのはしりと云えるでしょう。
60年代初期の頃は、アイビーシスターが未だ無くて、ニューヨーカーが女性物のアイビーブレザーなどを出していましたが、かなり高額だったそうです。

当時のVANは、全体的にタイトに出来ていましたので、太め体型や高身長の人にはサイズ的に難しかったようです。当時VANショップだった銀座の帝人メンズショップに、西郷輝彦さんがよく来ていましたが、背が高いので合う洋服が少なく、主にVANの小物を購入していたそうです。(当時の若者の平均身長は165センチ前後でした。)
当時のテイメンは、有楽町にあった渡辺プロのなべおさみや、ザ・ワイルドワンズ。広告代理店の電通、博報堂のクリエイターなどが来ていました。時代の先端をゆくVAN全盛期でした。

60年代スタイルを忠実に表現して、販路はショップを1店舗、ネット販売を中心に多角化はしない。店舗地のロケーションも少し角度を変えて、都心のファッションタウンではなく、たとえば地方の財政困難に陥っている町などの、活性化につながるようなプランニングをしたいと考えています。

バブル全盛の頃に、大手広告代理店が町興しを手掛けた時代がありましたが、
その辺りの経験を活かすことが出来ればと思います。
製造ルートも含めて青写真が出来ていますが、まだまだ構想の段階です。
マーケティングに時間をかけて、煮詰めてゆくのには数年かかりますし、
私の副業としての事業考案です。
アイビー・スピリッツ、アメリカン・トラディショナルは流行に左右されることがないのです。

60's Avenue [2007年03月15日(木)]

60's HITSTUDIO
ブルーコメッツはG・Sのなかでも大人のイメージが強く、“ジジコメ”と言われていましたが、アメリカの人気番組「エド・サリバン・ショー」に出演し、G・Sでは唯一、NHK紅白歌合戦に出演したグループでした。フルートなどの管楽器を用いた井上忠夫(作曲家:井上大介)さんは、後にC・Mの代表曲を数多く残されて、私も職業柄、面識がありましたが、惜しくも早くに他界されました。原因は自殺でした。

昭和41年、勝呂誉などが出演していた、とても懐かしい青春ドラマ「何処へ」のテーマ曲。
DISC 1SINGLES 1966-1972
01 青い瞳(日本語)02 青い渚03 何処へ04 ブルー・シャトウ

05 マリアの泉
06 北国の二人07 こころの虹08白鳥の歌09 草原の輝き10 さよならのあとで
11 雨の赤坂12 涙の糸13 ブルー・シャンソン
14 海辺の石段
15 それはキッスで始まった
16 泣きながら恋をして17 むらさき日記18 雨の賛美歌
19 津軽の海20 生きるよろこびを21 その時雲は流れてた
22 虹と雪のバラード23 愛の子守歌24 希望にみちた二人のために
25 想い出の彼方に26 雨の朝の少女*

DISC 2
RARITIES 1965-1972
01 青い瞳(英語)02 ヘルプ・ミー・ロンダ03 ミスター・キス・キス・バン・バン04 シャウト・アンド・ブルース・ビート05 ウェルカム・ビートルズ06 密の味07 ダンス天国(未発表ライブ)08 バラ・バラ(未発表ライヴ)09 マイ・オールド・タウン10 太陽の娘11 ラヴァーズ・シェイク12 若いクリスマス13 ロンドン慕情14 サイケデリック・マン15 ルート6616 ラヴ〜ライト・ショウ17 トライ・ア・リトル・テンダーネス18 絶望の人生19 若者たちのメロディー20 さすらいの小径21 監獄ロック22 ブルー・シャトウ(1971 version)23 イントロダクション〜キャント・ターン・ユー・ルース(未発表ライヴ)

60's Avenue [2007年03月14日(水)]

60's HITSTUDIO
昭和42年
恋のハレルヤ / 黛ジュン
昭和43年
夕月 / 黛ジュン

愛の奇跡 / ヒデとロザンナ

昭和45年
京都の恋 / 渚ゆう子

長崎の夜はむらさき / 瀬川映子

当時のシンプルな、長崎の夜景が美しい。

60's Avenue [2007年03月13日(火)]

60's HITSTUDIO
(歌謡曲編)

昭和40年

妻を恋うる歌 / フランク・永井

フランク永井の「おまえに」「君恋し」と、この曲は私のカラオケの定番です。24年前に象足さんの叔父上達とよく行っていた、向島のスナックで、「妻を恋うる歌」を歌ったときに、何故か理由もなく涙腺がゆるみ、二番目からは歌えなくなったことがありました。その場に居合わせた女性達からは、その後とてももてました。当時はまだ妻はおりませんでした。因みにやらせではありません。(笑)

昭和42年

君こそわが命 / 水原 弘

象足さんの高橋英樹似の叔父様である、旧友のカラオケ定番曲です。


銀色の道 / ダーク・ダックス


小指の思い出 / 伊東ゆかり


世界は二人のために / 佐良直美

羽田 健太郎 [2007年03月12日(月)]


私が音楽に興味を持つようになった、60年代のロック、ポップス以降は、ジャズ、ワールド・ミュージックのカンツォーネ、シャンソン、ボサノバ、フォルクローレ、日本の民謡など、全て好きで聴きますが、行き着くところはクラシック音楽でした。

特に好きな日本のピアニストは羽田健太郎。
明るくユーモアに富んだ人柄の、1949年生まれの団塊世代である。

東京都出身。高校、大学と桐朋学園に学び、有賀和子、故井口基成両氏に師事。大学4年の時、第39回「音楽コンクール」(主催:NHK、毎日新聞社)でピアノ部門第3位入賞。大学卒業と同時にスタジオ・ミュージシャンとして数多くの歌謡曲やポップスのレコーディング参加。

30代半ば頃から、再びクラシックのピアノ演奏に力を入れ、NHK交響楽団定期演奏会(指揮:ウォルフガング・サヴァリッシュ)にてR.シュトラウス「ブルレスケ」を演奏、その後日本の全てのプロ・オーケストラと共演。2004年には、モスクワ・フィルハーモニー交響楽団(指揮:ユーリ・シモノフ)と、ラヴェル「ピアノ協奏曲 ト長調」、ガーシュウィン「ラプソディー・イン・ブルー」(弾き振り)で、また2005年もラフマニノフ「ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調」で2年連続して共演。
2006年春には音楽家生活満35年を迎え、近年は指揮者としても新境地を開拓している。


「ニュースステーション」(テレビ朝日)での“ピアノ生中継”では、富士山頂やグランド・キャニオンでの演奏など毎回センセーションを巻き起こした。


初恋の人 / 昭和44年

そよ風みたいに偲ぶあの人はもう 
私のことなどみんな忘れたかしら

野バラをいつも、両手に抱いて
朝の窓辺に届けてくれた

なぜだか会えなくなって
さみしい人なの


羽田健太郎と小川知子は小学生時代の幼なじみで、羽田健太郎が初恋の人だったそうです。小学生の頃から秀才で、ピアノをやっていた羽田健太郎に憧れていたそうです。小学生の頃は学級委員、ピアノが弾ける、スポーツ万能などのお坊ちゃまが人気者でした。スポーツ万能ではありませんが、私もそうでした(笑い)
ちなみに私の初恋はバイオグラフィーに書いています。

ゆうべの秘密でデビューしていた頃の小川知子の恋人、世界的に有名な人気カーレーサー、福澤幸雄(福澤諭吉の曾孫)は、1969年2月、テスト走行中の事故で若くして他界しました。
直後の「夜のヒットスタジオ」の収録で「初恋の人」を歌いながら泣き崩れた事件は、テレビ界に新鮮な衝撃を与え伝説化しました。
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