’60年代の音楽、ファッション、文化にこだわりを持ち続けて数十年!!

昭和レトロなるものが、ブームになっている昨今。
少し違った観点から、マイ昭和レトロともいうべきスタイルを、
〜遠い〜記憶をたどりながら綴りたいと思う・・・・・・。

2006年6月15日

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”青山VAN物語” [2007年02月28日(水)]

「青山芸術祭」に同封されていた、石津祥介氏のメッセージを併せて掲載しました。

B.D.C会員のみなさまへ
青山通りの街路樹が色づき始めた昨年の10月20日、草月会館で行われた「おかえりなさい石津謙介さん」の会から早くも一年になります。年令とともにゆっくりと流れる筈の時間が、思ったより速く過ぎるといささかアワテたい気持ちになり、これもせっかちな年寄りの兆候かと懸念している始末です。

2007年が近づくにつれ、世間では中高年向け雑誌が続々と発刊されたり、新聞のシニア欄が増えたりと、団塊世代ブームの様相をみせています。
お陰で私にもVANや中高年を語る仕事が次々と飛び込んでくる昨今です。

同封の「青山時間」122号では「VAN物語」の第15回が掲載されています。筆者の後藤氏によれば「まだまだ書くことに種はつきない」とのことなので期待している次第です。恒例の青山芸術祭も10月16日〜30日の間、青山通りを中心に「街頭フラッグ」が掲げられ、28日〜30日の3日間はイベントも開催されます。紅葉のケヤキ並木と、話題の「表参道ヒルズ」のショッピングも兼ねて、青山散歩などいかがですか。お待ちしております。
ボタンダウンクラブ会長  石津祥介

青山 物語 
連載第15回

VANの遊び心
その名もヴァンガーズ
 

文 : 後藤 健夫  1952年東京生まれ。『ポパイの創刊メンバー。マガジンハウス退社後「いろんなことあって」最近までは『ライトニング』編集長。現在、充電中。「青山のVAN本社の前は通学路(バスで通過)だった」というBDシャツ以外は着ないVANの学生。

「ネーミングとは、つまり、ボクにとっては遊びのひとつだから、とても好きで、これはもうボクのひとつの道楽、といってもいい」
ネーミングの天才=石津謙介が『石津謙介オール・カタログ』(講談社)で語っているように、遊びの心がいっぱいの名前はいつまでも流通している。例えば・・・。団塊世代なら懐かしいビジネスシーンでタイを合わせる半袖のシャツ=ホンコンシャツから始まり、ダブルブレストの4つボタンのブレザー=ニューポートブレザーやジップフロントのジャンパー=スイングトップという和製英語。コンサイスの英和辞典に載っていても不思議がないほど、見事な英単語だ。
しかし、石津謙介作成の和製英語の最高傑作は、そう、トレーナー!ニューヨークのブルックスブラザーズで「アイ・ウオント・トゥ・バイ・トレイナー」と汗流し真っ赤になりながら懇願している日本人は、まだ、いるはずだ。
対応する白人店員の顔が青くなる。トレーナー、通じません。スウェットシャツですもの。
「ボクがネーミングしたもので、いまだに残っているものはずいぶんある。例えばファッション物だと、代表的なのがトレーナーだ。最近はまた復活して、時々聞くけど、あいつの本名はスウェットシャツという。汗のにおいがしてきそうだし、いかにも語呂が悪い。だから、これはトレーニングする人のためのシャツだからトレーナーにしたわけだ。このシリーズでは、ほかにコーチをする人が着る、ということでコーチャージャケット、スポーツを観戦する人たちが着る、というのでスペクテイターコート、などおしまいにERのついたネーミングをずいぶん作ったものだ」
この石津謙介の解説からも、VANのスポーツに対しての強い愛情というかこだわりを感じる。そもそもアイビーというスタイルは、アメリカの東部8大学の学生&卒業生が好むファッションを指すが、その8大学(ハーバード、イエール、プリンストン・・・・・・以下省略)のことをアイビーリーグと呼ぶのは、釈迦に説法で申し訳ないがアメリカンフットボールの対抗戦リーグから来ている。日本にアイビーを布教した定着させたVANがアメリカンフットボールに関心がないはずはない。当然チームを結成しちゃいました。ヴァンガーズ!
石津謙介氏のユニフォーム

「ボクのネーミング術のセオリーは、いってみれば非常に平凡なことなのだが、@その名前の響きの良さ、Aもちろんその意味、B全体の字の形、C一度聞いたら絶対に忘れない響き、という四つの要素を、同時に満たすことのできるものでなければならない、ということだ」というのが石津謙介のネーミングの心得。VANGUARDSという名前もセオリー通り、直線片側3車線の王道です。VANの番兵という意味で韻を踏んでいる。
石津祥介氏が今年のパールボウルで100番を着てコイントス。
アメリカンフットボールのヴァンガーズが結成されたのは1965年。
1970年代、中期を代表するアメリカのイラストレーター=デイブ・ウィラードソンの作品。

長文のため、後の文章は割愛しました。

”青山芸術祭” [2007年02月26日(月)]


昨年10月に南青山の「ボタンダウンクラブ」から送られてきた雑誌、「青山時間」122号です。

HISTORY since 2001・アートイベント「青山芸術祭2006」 10月16日〜30日

青山に暮らす・働く・遊ぶ全ての人たちが同時多発的に「発熱」する場を創りたいという願いからはじまったこのイベントも今年で6回目を迎えます。
メインイベントの「デザインアワード」からはじまり、年々、多くの共催コンペ団体・企業が参加し、様々な分野の芸術を皆様に楽しんでいただけるようになりました。
「青山芸術祭」の6年のヒストリーは、多くの青山人達の熱い想いなしでは語れません。これからも、新しい何かが生まれる瞬間を共に体験し、記録し続けたいと思います。
(文中より引用)

昨年秋からの多忙続きで、この本も最近になってじっくりと読む事ができたので、昨年の青山芸術祭へは行けませんでした。

「デザインアワード」の審査員長は、中西元男氏(デザイン戦略コンサルタント)、コシノジュンコ氏(ファッションデザイナー)、浅葉克己氏(アートディレクター)、建築家の黒川紀章氏、日比野克彦氏(アーティスト)、審査員は、ヴァンヂャケット石津謙介氏の長男で「ボタンダウンクラブ」の代表であり、ファッションプロデューサーの石津祥介氏、大橋歩氏(イラストレーター)、渡辺貞夫氏(音楽家)、マイク真木氏(ミュージシャン/俳優)他、日本を代表する著名人、文化人です。
審査員のお三方は「ボタンダウンクラブ」の応援団会員でもあります。

国内外からエントリーされて、第一次審査を通過した133作品を拝見しましたが、私もクリエーターとして、グランプリ作品には興味津々です。

’76年頃にVANが出していたブランドで、現在は石津祥介氏がプロデュースする、ニブリックが、RENOWNから復活しています。昨年、Nib lick BAR表参道店をテレビで取り上げていました。ピュア・トラッドではありませんが、往年のVANファンが注目しそうです。私も懐かしく感じました。




「青山時間」122号では「VAN物語」の第15回が掲載されていますが、後日のブログに書きたいと思います。

”北の国から 最終章” [2007年02月25日(日)]

『たった一度の雪 SAPPORO・1972年』

2月25日(日)HBC北海道放送(TBS系列)で観た、札幌五輪をドラマ化した、35年前の切ない恋物語。「たった一度の雪」
テーマ曲は中島みゆきの『札幌SNOW』でした。

1968年にフランスで行われた、グルノーブル冬季オリンピックのドキュメント映画、「白い恋人たち」。その4年後が札幌オリンピックでした。テーマ曲はトワ・エ・モワの『虹と雪のバラード』。
福岡のSさんは札幌オリンピックの頃に、HBC札幌放送局でアナウンサーをしており、昨年、札幌でお逢いしたときに、当時のお話をされていました。

2010年の冬季オリンピックは、カフェブロ・ブロガーであるJoeyさんが住む、カナダ・バンクーバーです。
カナダと北海道は同じくらいの緯度に位置し、気候も似ているようです。


北一ガラス・ヴェネツィア美術館

札幌から電車で約30分の小樽は、商都として栄華を極めた明治、大正、昭和初期の面影を残す建物や町並がノスタルジックかつ、トラディショナルな町です。


日本銀行・旧小樽支店


旧三井銀行小樽支店


旧安田銀行小樽支店


”1968年” [2007年02月24日(土)]

1月14日(日)からオンエアされている「華麗なる一族」。
先週の放送分からは、いよいよ激動の昭和43年に入りました。


昭和43年の、思い出に残る1曲
たった一言/ザ・サマーズ

北海道・室蘭市出身のグループです。この曲の記事から、福岡の鮫島宗哉さんと知り合い、鮫島さんのブログから、札幌の「NEWYORK MINUTE」のママ、SETSUKOさんと知り合い、東京を挟んで、南と北でつながって出逢いました。以前のブログにも書いたように、不思議な縁を感じています。

私が尊敬し、懇意にさせて頂いている医師の一人に、北海道立札幌医科大学から、長いこと室蘭市に赴任して、退官後の現在も室蘭市の総合病院で、副院長として外来をやりながら、老人医療に専念している先生がおります。
今回もお会いしましたが、医師としてだけではなく、人間的な資質にも優れたK先生とお話をしていると心が和みます。

私のブログ・タイトルにしている「ivy scene1968」(昭和43年)は、私にとっての、青春の大きな転換期でもありました。
音楽やファッションなど、時の流行に翻弄されることなく、勉強を持続して成績を落とさずにいたら、親孝行を含めて父の跡を継ぎ、ケーシー・スーツを着ていたことでしょう。

厚生労働省が2004年から、大学病院での2年間の医師研修を民間病院でも行えるようにした為、大学病院に残る医師が少なくなり、出先の民間病院から研修医師を大学に引き戻す事となるが、実家の病院を次いだり、開業の理由などで辞める医師も多く、その結果、地方の総合病院などは、専門の科に医師がいない為、閉院を余儀なくされているのが実情です。このような医師不足の現実を知ると、私のブログのプロフィールに書いているように、以前から考えていたが、これから医学部を受験して、辺地医療に従事したいとの思いが募ります。

大阪の主婦が45歳で医学部を受験して、現在は大阪に家族を残し、単身で北海道の襟裳町で辺地医療をされています。
このお話を聞いたときは感動しました。95歳の現役医師・築地、聖路加病院の「日野原 重明氏」のように、医学者としての使命を全うする人生を送りたいものです。

”ソウル・トレイン” [2007年02月21日(水)]


1970年代初頭のディスコは、モータウンレーベルを中心とした、フィラデルフィア・サウンドが爆発的に流行しました。
1968年、赤坂にオープンした「MUGEN」も'70年代にかけて、グッチ雄三がボーカルだったバンドなどの、ソウルミュージックで踊るのが全盛でした。

ザ・スリー・ディグリーズ

特に女性のトリオ・ボーカル・グループ「ザ・スリー・ディグリーズ」の『荒野のならず者』が好きでした。他に「ソウル・トレインのテーマ」「ミッドナイト・トレイン」「ラヴ・トレイン」「天使のささやき」などがあります。


ハロルド・メルビン&ザ・ブルーノーツ


ビリー・ポール&ハロルド・メルビン

当時の私たちのファッションは、カジュアルはアイビー。ドレスアップはコンポラ(コンテンポラリー)のスーツでディスコへ行きました。白やヘアライン・ストライプのタブカラーかピンホールカラーのシャツに、色はモスグリーン、エンジ、黒などの、玉虫と呼ばれる光沢のある生地のコンポラ・スーツに、共地で出来た細いネクタイをします。
ディテールはアイビースーツ同様に、パイプドステムで丈が短めのスラックスに、襟幅の細い一つボタン、上着丈は短めの、浅いサイドベンツです。コンポラシューズはイタリア、マレリー社のものでした。


当時は第二次のアイビー(VAN)ブームで、'60年代のアイビー全盛期よりも、ヴァンヂャケットの売り上げ額は最高だったそうです。価格帯としては全盛期に比べると低かったので、購買層の幅が広がったのでしょうね。その5年後に、当時のアパレルメーカーとしては最高額、500億の負債で経営破綻しました。私は社会人二年目の年でしたが、'60年代、中学生の頃からVANファンでしたので、強いショックを受けましたが、私の'60年代におけるVAN Sceneは、いつまでも心に残っています。

”街のアイビーリーガース” [2007年02月20日(火)]


一昨日、八丁堀のメンズショップ『 B・D・CLUB 』に、全国からミドル、シニアのアイビー・リーガースが集いました。
日経新聞による取材があるとのことで、私も連絡を頂いていたのですが、北海道にいるため参加できませんでしたが、北海道トラッド・ファンクラブの方が参加されていました。札幌 ― 東京、とんぼ返りでも参加するべきだったと後悔しています。


数人の方々は昨年の暮れ頃に決めた、「アメリカン・トラッド・クラブ」のユニフォームである、赤のブレザーを着ての初集合が、雨上がりの東京の街に映えていました。次回の集まりには、私もエンブレム付きの赤のブレザーを着て、60年代 IVYのドレスアップをして参加したいものです。


少年の心を持ち続けるおじさん達は素敵です。

”定年後の人生を考える” [2007年02月19日(月)]

(新聞コラムより)

“生きる” 『団塊世代の心と暮らし』 〔3〕
明治学院大学教授 佐藤眞一

定年退職に関する調査のいずれをみても、定年後にしたいことの第一位は、常に「旅行である」

私は学生時代、観光事業を研究するサークルに所属していた。
新入生のだれもが、最初に先輩から「旅」の定義を教わることになっていた。旅とは、日常生活圏から離れること ― これが、旅の定義だった。解放、冒険、そして出会い。旅の内包するイメージは、確かに非日常的である。

民俗学者の神崎宣武氏によれば、江戸中期には、年間60〜70万人(当時の人口の約25人に1人)が、伊勢参りに出かけたという。そのほか、善光寺参りや金比羅参りなど、江戸時代は寺社詣でが旅の方便に使われ、人々は盛んに観光旅行をしていたようである。

旅は、いつの時代も人々を魅了する。それは、日常生活から離れることの魅力にほかならない。定年後の希望として旅行を挙げるのも、長年の日常であった職業から遂に離れるという退職者心理の表出かもしれない。「定年後」は、まさに新たな出発(たびだち)なのである。

大手製薬会社の役員だったBさんは退職後、妻と月に一度は旅行することに決めた。ホテル・旅館は一流、列車もグリーン。とても贅沢な旅行である。毎月、旅行を計画し、出かけるのは楽しかった。しかし結局、この旅行は半年も続かなかった。飽きてしまったからだ。
私がBさんに取材した時、彼は近所の高齢者を毎日、病院に送迎するボランティア活動に従事していた。大手企業の元役員が退職後、このようなボランティアをする例は、あまり多くない。Bさんは、旅行という非日常の生活には飽き足らず、会社勤務の時分の縁で、いわば、日常生活に戻ったのである。ボランティアを始めてからというもの、たまに行く旅行が楽しくなったそうだ。

非日常的なイベントは、日常では味わえないからこそ、魅力的なのであろう。その意味で、旅行の喜びとは、日常の生活があって初めて成り立つものといえる。新たな出発である定年後の生活も、まずは日常的であるべきことを、この旅行の例は示しているように思えてならない。

北の国から 20章 [2007年02月17日(土)]




広告会社のクリエイティヴ局でS・P(セールス・プロモーション)企画に携わっていた頃に、四季を大きく分けた年間行事である、正月、バレンタイン、桃の節句、端午の節句、七夕、ハロウィン、クリスマスなどのプランニングとディレクションをやっていました。
私が手掛けたひとつは、大型量販店の、バレンタインのS・Pツールで、神社の巫女さんをモチーフにした、おみくじ式の立体P・O・P(ポイント・オブ・パーチェズ)がヒットしたことがありました。

バレンタインが過ぎると、次は春の訪れを知らせる、『桃の節句』ですね。
今日は私の父の月命日ですが、父の誕生日が3月3日でした。
女の子の節句に生まれた父の性格はというと、柔道、空手の有段者で非常に厳格な人でした。
性格は少し違うようですが、顔立ちや、立ち居振る舞いがよく似ていると言われます。
因みに私の誕生月は父とは対照的な『端午の節句』の5月です。

私の両親は他界しましたが、親孝行らしい事が出来なかった事に今、後悔の念が強いです。親孝行は親が健在のうちにしておくべきですね。亡くして、初めて解る親の有り難みとは愚かな事です。

北海道へ来て3ヶ月近くになります。地方都市は勝手が違うので、とても不便な部分が多いのですが、東京を離れてみて、自分の人生を冷静に見つめる心の余裕ができました。ポジティブ・シンキングです。
このような時間も人生には必要なのかもしれませんね。


「薫風の五月晴れ」

'60s Avenue [2007年02月11日(日)]


『サンライズ・ツイスト』
ジャンニ・モランディ

映画『太陽の下の18歳』挿入歌、巨匠エンニオ・モリコーネ作曲の「Go-kart twist(サンライズ・ツイスト)」で1962年にデビュー。

アメリカン・ポップスが主流だった時代に、カンツォーネとは違う、軽快なイタリー語のポップスが新鮮に感じました。
ヴェンチャーズ、ビートルズ全盛の少し前にラジオから流れていた懐かしい曲です。

ザ・スパイダーズがデビューする前に、浅草のジャズ喫茶などに出演していた頃、堺正章がソロボーカルで歌っていた曲が「サンライズ・ツイスト」でした。当時、井上順は六本木族の「野獣会」で安岡力也、等とバンドをやっており、デビューの企画があったそうですが、井上順はスパイダーズ、安岡力也はシャープホークスで66年にデビューしました。

六本木野獣会は芸能界への登竜門と言われ、故和田浩二、現在も活躍されている峰岸徹など、大物俳優がいます。私がファンだった大原麗子もそうで、archive3に書いた平尾時宗のライヴハウス、六本木「ゴールデン・カップス」でのエピソードに登場する女性は、60年代にファッションモデルやっていて、大原麗子や当時のトレンドを良く知る、私の飲み仲間です。

'63年頃にアイビールックで銀座に出没していた、初期の「みゆき族」は野獣会のメンバーから始まり、大原麗子はみゆき族の女王的な存在でした。

そもそも六本木野獣会は、当時六本木に集まるファッショナブルな若者達をターゲットに、渡辺プロダクションの社長夫人「渡辺美佐」さんが新人発掘の為に付いていたそうです。

テレ朝、報道ステーションの「古館伊知郎」は私と同年齢で、以前トーク番組をやっていた頃に、六本木野獣会の話をしていたことがあり、テンポの良い話しぶりに親近感を覚えました。
六本木に都電が走っていた時代。まだ閑静だった頃の六本木。懐かしく、良き時代の出来事です。

余談ですが、10年ほど前に若くして他界した、テレ朝の敏腕プロデューサーだったO氏は私の義兄の従兄弟で、六本木の交差点角に、「泥棒貴族」という店を経営するなど、とてもパワフルな人でした。
彼の仲人が当時の渡瀬恒彦、大原麗子夫妻でした。渡瀬恒彦が俳優になる前は電通マンです。双方共、早期に離婚しました。

聖・バレンタインデ− [2007年02月09日(金)]

明日から3連休。週明けは、バレンタイン・デ−です。
神戸に本社がある、洋菓子メーカー「モロゾフ」の先代社長がセールス・プロモーションの一環として、考案したことは有名ですね。
私の知人が3年前にモロゾフを退職しましたが、よく頂いて食べたレアチーズケーキは絶品です。

私が好きなチョコレート・ブランドのひとつに、サンフランシスコの「ギラデリー」があります。

●サンフランシスコの漁業産業が栄えていた中心地にある、「ギラーデリースクエア」(Ghirardelli Square)
かつてのチョコレート工場が、ショッピングとレストランの複合センターへと変わったギラーデリースクエアは、この都市の素敵な食事と眺めが楽しめます。夕暮れ時の散歩も素敵です。

日本での入手はむずかしいので、サンフランシスコへ行った際は是非お勧めです。プラスティックのケースに、ミント、クラッシュナッツ、ビター、ミルクなどがアソートで入ったスティック・チョコレートが好きです。


大好きなコニャックとの相性が良いチョコレート。好きなのはゴディバ、リンツ、ギラデリーです。

ベルギー王室御用達「ゴディバ」


スイ ス/ リンツ

私が25歳から2年余り、札幌赴任をしていた頃に通っていたスナックのオーナーママが、薔薇が好きなことから、店の名は「薔薇館」、「薔薇(そうび)」、「ラビアン・ローズ」でした。客層は当時の流行語にもなった、”ナイス・ミドル”(40代)が多く、私はクライアントの社長に連れて行って頂き、後に常連になりましたが最年少でした。
私は当時、キリン・シーグラムから発売されたばかりのウィスキー、「ロバート・ブラウン」を飲んでいましたが、店の雰囲気の割にはリーズナブルでした。

「薔薇(そうび)」のカウンターは総大理石。「ラビアン・ローズ」の吹き抜けの天井にはめ込まれた4枚のステンドグラスはイタリア製。油彩の絵画も趣味の良いもので、インテリア、調度品などすべてにハイセンスな店でした。
私より4歳年上だったママは、シャネル・スーツがお似合いの美人で、当時としては珍しかった、リンツの薄い小さな正方形のチョコレートをよく出してくれました。
ママとの若大将シリーズの話題から、私のボトル・ネームは”田沼雄一”。
私が東京へ戻ったのは昭和56年10月。その翌年くらいに、北海道の店を売却して、赤坂に店をオープンしたという噂を聞いておりましたが、その後再会することはありませんでした。
27,8年前のバレンタインに因んだチョコレートの思い出です。
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