一昨日は「神学校礼拝日」だった。神学生の4年生が我が教会で宣教をされた。牧師とは違う新鮮さがあった。
神学生が、何を話したかったのか、夜勤明けの頭で思いだそうとするが、なかなか思い出せない。話しを再構成するために友人に電話をかけた。
彼の妻は、
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸も頂こうではないか。」(ヨブ記2章9節)
神学生は、自分がクリスチャンとは縁遠い生活をしていた時、お父さんをクモ膜下出血で亡くされたのだという。日が経ち、この聖句とともに次の聖句を読み立ち止まったのだという。
「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名ををほめたたえられよ。」(ヨブ記1章21節)
「主は与え、主は奪う。」肉親や友人などの身近な、突然の死に接すると、「主は奪う。」という解釈はあり得るのかもしれないと思う。
そして、そんな時にも「無垢でいるのですか。」と悪魔の声が囁く。ラ・トゥールの描く、「妻に嘲笑されるヨブ」(ラ・トゥールがそう題名を伏したのではない。)のようにクリスチャンとは耐えなくてはいけないのだろうか?クリスチャンとは、ヨブのように、悪魔の囁きにも負けず、「無垢で」奪われた突然の事態にも動じず、神に従順に従うのだ。そう、牧師が解釈、説教することが多いらしいが、そのことに、神学生は疑問を投じたのだ。
クリスチャンとは、自己犠牲にもめげず、神に従い、隣人を愛する清き人と理解されているかもしれない。また、そうあるべきだと説教する牧師や教会もあるかもしれない。でも、実態は違うのではないかと言いたい。
私は神学生の話しを聴き思った。例えクリスチャンであっても、神に向かって、嘆き、哀しみ、呪い、怒ることがあってもよいのだ。そして、実際、神に向かって、「どうして、あなたは、私を守ってくれなかったのですか!」「あなたは何故最愛の者を奪ったのですか!」と叫ぶこともある。そうしていいのだ。逆に、無矛盾的に、いつもいつも神に従順であることは、危険なのではないかと思うのだ。原理主義に陥る危険性があるように思うのだ。どんな信仰にもそうした危険性がつきまとうことに注意することが大事だ。
神学生は、お父さんを失った時、ラ・トゥールの絵と出会ったそうだ。そして、ラ・トゥールの絵の特徴でもある、蝋燭の灯りの織りなす影のグラデーションに、神と人間との豊かで多様な関係性があるのではないかという。神を疑ってみたり、怒ってみたり、嘆いてみたり・・・・・
賛美したり、感謝したり、喜んだり。その人、その人の神との応答や関わり、分かち合いがあるのではないか、と言いたかったのかもしれない、と私は思った。そして、私たちが神にネガティブな感情を例え持ったとしても、哀しみや、苦しみのなかにあって叫び、嘆き、怒ったとしても、神は、共にいて下さる。そのことが大切なのだと思うのだった。
そんな気づきをさせてくれた神学生に切に感謝をしたく思った。
注)この文章を書くにあたり、神学生の宣教を再構成するために、教会の仲間と電話で話し合ってみた。ここに書いたことが、神学生の言いたかったことに一致するかどうか分からない。そう私が理解をしたということなのです。