私の職場は病室。1960年代に建てたので狭く、汚く、使いにくい。自分が具合が悪くなったら入院したくない。そんな病室を改善しないで、利用者に社会復帰を求めるのは、職員側のエゴだ。療養環境を整えようとしない、私たちの仕事はマヤカシに思える。
気分転換に、職場のテラスに出て空を見上げる。地球というマクロからみれば、私たちの仕事は小さなものなのだ。イライラしたり、他者に批判がましいことを言うなんて小さなことなのだ。と春の空は教えてくれる。
教会という組織も派閥があったり、「一人ひとりを大切にする。」といいながら、また牧師の宣教で、「献金なんていくらでも構わないのです。」といいながら、教会を背負って立っていると自負するオバサンが、頑固で、自分の「非」など認めようとしない。そして、オバサンと私のバトルを見ている聴衆は、オバサンの肩を持つ。穏便に済まそうとする。かなりの保守的体質だ。だから、日本のプロテスタント教会では、献金問題で嫌気がさし教会を離れることはよくあるらしい。最も救われるべき人々は、教会に来られない、無縁な、社会から、小さくさせられた人々かもしれない。病気をもった女性が私に言った。「一人で(議論を)頑張りましたね。」と。哀しみに共感してしてくれていた。
空はいい。人間の惑い、つまずき、葛藤、いざこざ、恋に失恋、争い・・・・人間の所業をみいんな知っている。そして、その所業の小ささを知っている。そしてまた、神もそれを知っており、笑っているのかもしれない。と少し寂しそうな空と雲は教えてくれる。
僕が、この街に引っ越してきて1年が経った。短すぎる。最近、心から笑えることが少ない。職場のサッチーが私にニックネームをつけてくれた嬉しかった。「あなたはきっと短命よ。理由はやさしいから。」ある利用者がそう言ったが短命はお断りだ。もう少ししたいことがある。人が去った房総の拙宅の周りでは、蛙が鳴き出しているだろう。連休には田植えが始まる。水路の土手には菜の花が咲き誇っている。5月には勝浦の港に活きのいいカツオが上がる。
空はいい。都会の暮らしでは空を見ることが少ないが、田園では、海から朝陽がのぼり、山に陽が落ちる。昼間は、田畑に恵みの光を与え、見守っている。物質的には豊かかもしれないが、消費によって物を手に入れるだけでは、人間としてのトータル性が減じるのではないか。自然と対話し、命同様に自然を愛する心を持たなければ、セカセカとその日を生き、精神的疲れの抜けない日々になる。そんな危険のあることを、初夏に向かわんとする空は教えてくれる。