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いさおなき-小春日和

”いさお(勲)なき”とは、あるがままという意味です。できたら、束縛をされず、解放された想いを、時々つづっていけたらといいなぁと想います。あるがままに・・・

人があるがままに生きられるように、へいわ、じんけん、日々の暮らしにも、ささやかですが目配りしてゆきたいものです。

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2月14日のお話を聞いて......
マルコ福音書2-10


六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

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 神秘主義的な物語に心酔して居られるほど、私たちの現実には余裕はない。あるいは、「雲の中から声がした。」だけを取り出すと、“幻聴”をイエスや弟子達は聴いたのでは?と疑われるかもしれない。故に、イエスの「今見たことをだれにも話してはいけない」との指示は適切だとも言える。
 ペトロの心性を詳しく私は知らないが、「仮小屋を三つ建てましょう。」等と言い、イエスに取り入れられたい、イエスに胡麻を擂るような、先の見えない、愚かな役をペテロに演じさせている。物語は、ペトロのような“おろかさ”をしてはならない、という教訓を述べるだけでは物足りないであろう。
 山上には神秘主義的な風が吹いていた。イエスは弟子達と山を下り、今なお、私たちが感じているような、罪や苦しみ、困難が“ドロドロ”と渦巻く“闇の中の現実”に入って行くのだった。“闇の中の現実”とは、私たちが、それぞれに、日々感じている“嵐の止まぬ現実”とも言える。そうであるから、「イエスだけが彼らと一緒におられた。」という言葉が活きている。イエスが、私たちとともに居て、なぐさめ、励まし、歩んでいて下さっているのだと信じたい。ただ、時には甘い風に身をまかせていたいと思うのは我が儘なことなのだろうか。
2010年3月16日(火) 22:56 [ 日記 ]
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繰り返すあやまちの そのたび ひとは ただ青い空の 青さを知る 


  謝罪とは、「求める」ものではなく、当事者が相手にすべきだと思い至った時にする行いなのではないか?と私は思い至りました。勿論、戦争犯罪被害者や犠牲者、差別により傷ついてきた人々が、国家や政治体制に、また、差別をしてきた、助長してきた側に、「謝罪を求める」ということは有り得るかもしれません。ただ、私の母のケースは個別的なことだったかもしれません。5年以上も、私の我儘を許し、誠心誠意母の治療、ケアをしてきてくれた病院側の誠意について、私は全く感謝の思いを見失っていたことに気付かされたのでした。なぜか私は「盲目的」だったのです。

  繰り返す私のあやまち。けれど、あなたは、私を見捨てず、もう一度ふり返りをする力を与え続けて下さっていることに感謝をします。
2010年2月27日(土) 00:12 [ 日記 ]
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母のこと。。。

 私の母は、長女だったせいか荒川の土手で、下の姉妹たちの子守をよくしていたそうです。だから。人に甘えるのが下手だったかも知れません。また、戦前、戦中、戦後を生き抜き、「子ども達のために」と思いながらも、結果的には過干渉な子育てをしてしまったのかもしれません。そんな母が病床に伏して5年が過ぎようとしています。

 そんなことを述べている私は、子どもの頃、父母が店の経営で忙しく、父母が仕事中、竹の籠のような中で過ごしたと母に聞かされていました。また、父母の関係は決してよくなかったのです。もしかして、私も、人に甘えるのが上手くないのかもしれません。そうは言うものの、私が強かに生きているのは、神さまの見守りがあるからでしょうか。

  昨日から今日の心境を振り返ってみました。そして、私の信頼するあなたに今語りかけています。人の誠意や愛を、そのままに受け止めて、素直に感謝できる、そう言う日が私にも来る日があることを信じています。

 すべての人に平和な神さまの御力が届き、ふり返りつつ何度も生き直しが出来るようにと祈ります。
2010年2月25日(木) 23:35 [ 日記 ]
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夕食は....
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今日の夕食は、玉ねぎ、鶏肉、茸をニンニク入りトマトソースで

しっとり煮てパスタにかけました。

周りの緑は、ホウレン草のお浸しです。

お浸しは明日のお弁当にも使えるので重宝しています。

記事はあまり書く元気がありませんでしたが、

少し陽が長くなってきたようなので

冬眠から少し醒めてきたカンジです

なかなか美味しく食べられました

2010年2月18日(木) 23:38 [ 料理・ご飯 ]
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2月7日のお話を聴いて。。。
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

【マルコによる福音書 2章1節〜9節(実は12節までだけど)】


今日の物語は、病や社会から疎外された人々で、常識や秩序という一線を越えてイエスに癒しを求めに来た人をどう考えるか、というものだった。一線を越えてきた人々にイエスはちゃんと応えていた。あるいは応えようとしていた。非情な状況を抱えた人が、どうにもならない病や困難から救いや癒しを求めたとしても、そして、その行為がたとえ、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあるように、常識や秩序という既成の価値観を超えるような事態だったとしても、イエスは「あなたの罪はゆるされた」と述べたという。そうした非常な行為はゆるされているから、もう心配しなくてもいいんだよ、とイエスは言っているのかもしれない。忌避せず、人を受け止めることの大切さ思うのだった。
さらに、一線を越えてまでイエスに癒しを求めるよう、突き動かした力とは、神の後押し、勇気を出して進みなさいという力だったのではないかと思った。

私たち人は、時には、一線を越えて、救いや癒しを求めたくなることがある。そうした時にも、常識や秩序を守るという価値観と相克して、諦めてはいないだろうか。相克して諦めてもこと足りる程の困難や試練なのだろうか。

仕事柄、一線を越えてしまった精神に病を持つ人々とよく出会う。一線を越えるまでに、家族を含めて、様々な救いを求めるサインを出していたのだろうと想像できる。だが、周りの人々で救いの手を差しのべる人は少ない。それは、常識や秩序に縛られていることや、恐怖感を持ってしまうためなのかもしれない。

人を操作するような意図ではない限り、私たちは、病や困難、どん底に陥った時に、「助けて下さい。」「もう、私をゆるして下さい。」そう叫んでもよいのではないだろうか。自分が苦しい時に自己規制をしなくてもよいのではないか。そして、困難の極みで救いを求めてきた人に対し、より寛容に迎え、自分自身が困惑しつつも、手を差しのべる勇気があってもよいのではないか。今日の牧師の話を聞き私はそんなことを考えていた。

2010年2月12日(金) 23:31 [ 日記 ]
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「人はよく畑を耕し」
石地の上におちた麦の種は意味がないのだろうか。

石の上では実も花も付けられないだろう。

けれど、石の上におちたことによって、

畑や土におちた麦の種はしることがない、

豊かな経験をするのかもしれない。

「豊かな」と言ったが、それは困難を伴うものであり、

試練でもあるのだろう。

そして、多くの人々が、石地の上におちた麦なのかもしれない。

困難や試練であるが故に生きていこうとしているのかもしれない。

生きていこうと神さまがささえているのかもしれない。

そういう感想を持ちながら牧師のはなしを思いだしていた。

まぁ、喜んでばかりいられないのも現実であるのだが。


「人はよく畑を耕し」

1 人は畑を よく耕し、
  よい種子 蒔いて、実りを待つ。
  陽を輝かせ、雨を降らせ、
  ただ、神だけが 育てられる。

(くりかえし)
  良いものみな 神から来る。
  その深い愛を ほめたたえよう。

2 冬の寒さも 春の風も
  秋のひざしも 夏の露も、
  花も木の実も 神の恵み。
  日ごとの糧は そのたまもの。

3 人ははたらき 汗をながし、
  しずかなタベ 眠りにつく。
  恵みの神は 昼も夜も、
  み守りあたえ 支えられる。

4 信じて生きる このしあわせ。
  ゆたかな実り 与えられて、
  まごころをこめ 主に感謝し、
  み前に祈る このよろこび。

  



2010年1月31日(日) 23:53 [ ブログ ]
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美しき青きドナウ
子どもの頃、姉が聴いていたので、よく覚えている

春が近づいてくる感じがする曲です

2010年1月30日(土) 13:10 [ 音楽 ]
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I LOVE YOU - Yutaka Ozakiを聴きたい
とってもこの曲を聴きたい気持になりました。

刺激的な歌でしたよね。。。

I LOVE YOU。。。

尾崎は違うと想いますが、

”愛”を無限のものだと思いこんでしまうと、

ボーダーライン・パーソナリティに陥る危険があります。

自分を見つめる目が大事です。

でも、名曲ですね。。。
 








歌:尾崎豊 作詞:尾崎豊 作曲:尾崎豊

I love you 今だけは悲しい歌聞きたくないよ
I love you 逃れ逃れ辿り着いたこの部屋
何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは小猫の様な泣き声で

※きしむベッドの上で優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に※

I love you 若すぎる二人の愛には触れられぬ秘密がある
I love you 今の暮しの中では辿り着けない
ひとつに重なり生きてゆく恋を

夢みて傷つくだけの二人だよ
何度も愛してるって聞くおまえは
この愛なしでは生きてさえゆけないと

(※くり返し)

それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に


2010年1月27日(水) 23:39 [ 音楽 ]
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Love in beach
この歌を聴きたく、探していました。。。



海辺の恋    佐藤春夫


こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ
2010年1月23日(土) 20:31 [ 音楽 ]
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Blood drips.
血しおしたたる

1.
血しおしたたる主のみかしら
とげにさされし主のみかしら
悩みとはじにやつれし主を
われはかしこみきみとあおぐ
2.
主の苦しみはわがためなり
われは死ぬべき罪人なり
かかるわが身にかわりましし
主のみこころはいとかしこし
3.
なつかしき主よはかり知れぬ
十字架の愛にいかに応えん
この身とたまをとこしえまで
わが主のものとなさせたまえ
4.
主よ主のもとにかえる日まで
十字架のかげに立たせたまえ
み顔をあおぎみ手によらば
いまわのいきも安けくあらん



2010年1月19日(火) 21:25 [ 日記 ]
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