マルコ福音書2-10
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
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神秘主義的な物語に心酔して居られるほど、私たちの現実には余裕はない。あるいは、「雲の中から声がした。」だけを取り出すと、“幻聴”をイエスや弟子達は聴いたのでは?と疑われるかもしれない。故に、イエスの「今見たことをだれにも話してはいけない」との指示は適切だとも言える。
ペトロの心性を詳しく私は知らないが、「仮小屋を三つ建てましょう。」等と言い、イエスに取り入れられたい、イエスに胡麻を擂るような、先の見えない、愚かな役をペテロに演じさせている。物語は、ペトロのような“おろかさ”をしてはならない、という教訓を述べるだけでは物足りないであろう。
山上には神秘主義的な風が吹いていた。イエスは弟子達と山を下り、今なお、私たちが感じているような、罪や苦しみ、困難が“ドロドロ”と渦巻く“闇の中の現実”に入って行くのだった。“闇の中の現実”とは、私たちが、それぞれに、日々感じている“嵐の止まぬ現実”とも言える。そうであるから、「イエスだけが彼らと一緒におられた。」という言葉が活きている。イエスが、私たちとともに居て、なぐさめ、励まし、歩んでいて下さっているのだと信じたい。ただ、時には甘い風に身をまかせていたいと思うのは我が儘なことなのだろうか。