| 意外な成長 |
人前で他人から激しく糾弾される出来事がありました。不愉快に感じましたが内容が支離滅裂で建設的でなく、私は反論しないまま相手の言いたいままにさせておきました。
近くにいた人から、「オトナですねー」といわれましたが、自分でもこの対応ができたことは成長だと思います。以前の私なら反論を重ねた挙句言い負かされたり、泣いたり、逆に相手を責め立てたり、他人のせいにしたり、きっと未熟な行動を感情任せにとっていました。それが今回は、相手が本当に言わんとしていることやその裏にある感情はナンだろうと考えたり、ここで大喧嘩になってしまった場合に失うものを想定したり、このときの私たちに注目している視線がなにを思っているか想像をめぐらせたりする余裕がありました。先々自分がやりたいことを実現していくためにはここでどんな態度をとることがベストなのか十分に考えました。そして、人前で悪評を立てるのは真っ平、あとで他の人がいないときにじっくり意見を交わそうと決めたのです。
感情任せの行動をせずにすみましたが、感情的なわだかまりを感じなかったわけではありません。こういうときは空中に想像する大きなゴミ箱に向かって強くため息を吐き捨てます。心の中の悪感情を息に乗せて吐き出してしまうと、どこかすっきりとするものです。 |
2009年8月8日(土) 21:55 [ ひとりごと ]
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| 一人でいると |
私は寂しいということが余りありません。一人の空間でのびのび過ごしている間、私はとても安心していられます。
寂しくなるのは、他人の幸せを見た後です。人と一緒にいすぎてつらくなることもあれば、人と離れることに辛さを感じることもあります。それでも、一人でいる時間はとても安定して安全であると感じます。
他の人と触れ合うことは私にとってとてもエネルギーの要ることです。それでもときどき、他の人の存在を感じたいと思うことがあります。本当に時々ですが・・・。その甘えを許してもらうには、「時々」という頻度以上の連絡ややり取りを通して関係を維持しておかなくてはいけないのかもしれません。
そのためにまたエネルギーを費やすなら、むしろずっと一人のほうが楽だなあと思ってしまう私です。 |
2009年6月23日(火) 00:43 [ ひとりごと ]
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| 困っている |
やたらと家に来たがる上司(既婚男性)がいます。私はとても困っています。何度も何度も何度も断ったのに、数日するとまた家に来たがります。私は一人暮らしで、家に人を入れることに大きく嫌悪感を持っています。宅急便や郵便が届いたとき、玄関先でサインをかわすのすら極力避けています。昔お付き合いしていた人が家で私にモノを投げました。家の前で待ち伏せをした人がいました。私が自分の家に求めるのは、「外の世界から隔離された安全」です。同僚、友達、お世話になっている人というレベルでは、私にとって安全な相手とは考えられません。断っても家に入りたがる上司には本当に困っているのです。
彼が本当に我が家に来るつもりはないのかもしれません。ただ日常の会話のネタにされているのかもしれません。それでも、私はとても嫌な思いをしています。私がいかに嫌がっているか、どんなにはっきり言葉にしても、十分伝わったという感覚がありません。「嫌です、私は人を家に入れません、来ないでください、呼ぶつもりはありません、誰も家には入れません」という言葉を何度面と向かって言ったことでしょうか。それなのに数日過ぎるとまた我が家を訪問するプランが彼の口から出てくるのです。聞くだけで、安全が脅かされていると感じます。この感覚は全く理解されないようです。
もうその話を聞くことすら嫌です。「転職すれば?」という声が聞こえてきそうですが、事情があって今はできません。これからの仕事のことを思うと内部告発(?)もよい解決策とは思えません。とても困っています。
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2009年6月11日(木) 23:23 [ ひとりごと ]
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| 疲れた |
あまりにもべったり、いつも一緒にいる人。
実力を認識して以来、敵視してくる人。
批判だけして、代替案を出さない人。
一方的に愚痴を言う人。
無茶な仕事の振り方をする人。
お礼もまともに言えない人。
彼らを黙らせるほどの、実力もない自分。
もっと、強くならなくては。 |
2009年5月30日(土) 01:00 [ ひとりごと ]
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| まだ追いつけない |
仮に仕事の出来が80点だったとします。これを、8割できたからOKと捕らえる人と、もう一歩高めなくてはと思う人では大きな差があります。さらに、そのもう一歩を具体的に考えることができる人とは雲泥の差。達成基準にはきっと20点以上の差があります。
今はある領域において、「具体的にもう一歩」を考えるところまでいたっていない私です。でも私の上司にはそれができます。具体的に「こうしたらもっと良くなる」というのを示してくれる人というのはとてもありがたいものです。盗みながら目線を高め、その達成基準の高さを自分のものにしていくことで、追いつきたいと思っています。
自分が80点だなんて思ってはいけないんですね、きっと。
80点だと思ってつくったら、きっとそれは上司の目で見ると60点。
自分に足りないのは何だろう?(今回は、違う立場で考えることかな・・・) |
2009年5月12日(火) 00:43 [ ひとりごと ]
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| 感情の塊とどう対峙するか |
私の仕事は専門職で、いわゆる「サラリーマン」と比較するとかなり実力主義の色濃い文化を持っています。年俸に値する結果を出せなければ解雇勧告や降格がされます。しかしながら、ときどきいるのです。年俸に値する結果を出してくれない人が。そして、結果を高めようと言う気持ちに欠けている人が。
その存在に気が付いてしまったとき、そして、その人と一緒に仕事をしなくてはいけないとき、私はどうしようもなく厳しく接してしまいます。議論は対等に行うべきなのですが、それを超えて、相手を叩きのめしてしまうことがあるのです。その根源は、「出来る人だけで仕事をしたい」「(今は出来なくても)近い将来克服する力と意志を持っている人だけを仲間として認めたい」という気持ち、それから・・・とてもブラックなのですが・・・結果を出していない人が出している人と同じメリット(評価や仲間内の楽しさ、一緒に働く歓びなど)を享受することが許せないのです。
上手に振舞える人たちは、結果のよくない人とも仲良く付き合いつつ、上手くあしらって自分が火の粉を被らないようにしています。そのスキルをまだ私は得ることが出来ません。それどころか、尻拭いが大変なので仕事上での関わりを避けるようになります。オフのお付き合いもしなくなり、目を合わせるのが嫌になり、「仲間として迎えるに値する職業人ではない」と認識し、「敵」とみなし批判的・攻撃的になってしまうのです。
それだけではなく、事後になって---ちょうど今のように---その態度をとても後悔し自己嫌悪に陥ります。悪いことをしてしまった、傷つけてしまった、そして、きっと怒らせてしまっただろうと。
理由は自分でもまだ分かりません。出来ない人が処遇されている理不尽さが許せないというのが最もそれらしい理由に思えますが、もっと深入り理由が潜んでいるように思います。 |
2009年5月8日(金) 22:54 [ ひとりごと ]
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| 距離のとり方 |
他人との距離感のとり方は私にとって難関です。知り合った人全員ではありませんが、ある「におい」のする人とは早いスピードで仲良くなってしまう私です(「におい」とは人が人に興味を持たせる雰囲気やオーラといったものです)。
仲良くなる過程は楽しいのですが、あるとき距離感がなくなっていることに気が付きます。「距離感がない」とは、自分が心地よいと感じる以上に一緒にいることが当然のこととして継続していたり、自分が予測できる以上にプライベートにつっ込んだ会話をしてしまっている状態です。予想していた以上に相手が近くにいることに気が付くと、私は急に息苦しくなってしまい距離をとろうとしてしまいます。
急に距離を置くのは難しいことです。つまり私が離れていくことを予期していない相手に、その予期されていない行動をとることに関してとても悪いことをしているかのように感じてしまいます。しかしその罪悪感に負けてしまうと、イヤイヤながらにその近い距離感を持ち続けやがて相手の顔を見ることすら嫌になってしまいそうです。
そんな気持ちの動きが面倒で、他人に対してClosedな雰囲気でいようと思うことがあります。そもそもフレンドリーな人、話しやすい人、聞いてくれる人という印象を与えないようにしたいと思うことがあるのです。でもそれだと「本当に自然に距離を飛び越えられる人」と出会う機会をなくしてしまいそうですね。
距離が縮みすぎて礼儀も遠慮もなくなった関係はとても醜いものです。他人どおしの関係として、どこかでしっかりと線引きをしたいのです。 |
2009年5月3日(日) 00:59 [ ひとりごと ]
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| 帰れる人 |
言いたいことが言いにくいということは誰にでもあることだと思います。。特にその主張が相手を批判する内容にすり替わりそうな危険をはらんでいるとき、主張するモチベーションが一気に下がってしまうのを感じます。
先週からどうしても人にわかってもらいたいことがあります。私は家に帰って自宅で食事をしたいのですが、ここ2ヵ月、仕事が終わるのがおなかの空く時間帯になってしまい、気が付けば同じ上司と毎日外食、当然お酒も入るという食生活担ってしまいました。それを脱出したいのです。早く帰って自宅で健康的な食事をし、お酒を飲まず、必要なら家で作業をするスタイルに切り替えるのが私の希望。一方相手の希望は毎日外食をし家族が寝静まった後に家に帰ることなので利益の一致は全くありません。
先日やっと、「早く帰りたい」という意志を声に乗せて発することができた私ですが、それで相手の行動が変わるとはとても思えません。相手からは「えーっ、なんでー?いいじゃーん」的な、軽い反応が返ってきました。正論で話をしてしまったら私を拘束する権利がないことを認めざるを得ないのでかわしに入っているのでしょう。
ここで難しいのは、相手の機嫌を損ねることなく積極的に主張を認めさせようという欲なのだと思います。相手が怒ったり私を嫌いになったとして、受ける可能性があるダメージが想像がついていないので踏み込めないのです。人間は感情の塊なので機嫌がこじれるのは損であることが多いのです。
けれど我慢を続けるのはもう嫌になってしまいました。明日から有無を言わさず帰れる人になります。私には私の食生活があり、上司にコントロールされない権利があるのです。 |
2009年4月29日(水) 23:24 [ ひとりごと ]
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| 贅沢な悩みごと |
新しい場所に行くと、なぜか「人の輪」を作ってしまう私です。新しい職場や、趣味の場で・・・。それまで「コミュニケーションが少ない」「ドライ」と言われていた場所に「人が集う空間」を作り出してしまうようなのです。毎日バラバラにお昼ゴハンを食べに行っていた人たちが集まってランチに出かけるようになったり、仕事が終わるとそのまま直帰していた人たちが、「ちょっと飲んで帰ろうか」と言うようになったり。私が誘っているわけではなくむしろ受け身な姿勢でいるのですが、いろいろなところで「aiが来てから、みんなの会話が増えて一緒になにかをする機会ができた」と言われることが良くあります。
それはとてもありがたいことなのだと思います。私の存在に気が付き、私のことを気にかけて話しかけてくれる人がいるというのは誰もが「普通に得られるなんでも」ではないのです。子供のころ、友達がほしくてもつくれなかった私には、そのありがたみが身に沁みて良くわかります。
でも・・・面と向かって口には出せませんが、本当はドライで人付き合いの希薄な場所でひっそりと過ごしたいと思ってしまう私です。ドライな空気がだんだん暖かく変化するのは大好きなのですが、いつか行き過ぎて息苦しくなってくるのが怖いのです。初めは楽しい人の輪も、やがてウェットな集団行動に発展し、甘えと依存に満ちた空気に支配され、「みんながこうだから」という理由で自由がなくなるという展開になることはよくあります。「No」ということがとても苦手な私には、集団行動はとてもとても憂鬱で気が重いことなのです。
人との距離を縮めるにあたってどこまでが楽しく、どこから先が苦しいのか、その微妙なバランスが人によって違っているためでしょう。私は特に・・・苦しいと感じ始めるのが他の人より早いのではないかと思います。
うまくバランスがとれずいずれ苦しくなることを考えると、あまり仲良くなるのも考え物だと思ってしまう私です。自分にとっても相手にとっても適度な距離感を保つと言うことはとても難しいことなのだと思います。厄介なことに、「そのときは一緒にいて楽しかった、でも後から思い出すと実はストレスだった」ということも有得ます。仲良くなりすぎないように気をつけることも、長い目で見たときに良い関係でいるためには必要なんだと思います。
週に一度は一緒にランチを食べない日を作ったほうが良いかもしれません。高校生のころまで、お弁当を一緒に食べる友達が見つからなくて悩んだ私が、贅沢な悩みを持つようになったものです。 |
2009年4月12日(日) 23:52 [ ひとりごと ]
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| PCをはさんでも気になっている |
今日は言葉にしたいことがいろいろありましたが、どれも断片的な表現でしかなく、思いや考えを過不足なくあらわす文章に変換することができませんでした。なにかを適切に表現しようとすると、ある程度成功したと思えたタイミングをきっかけに、言葉と事実の細微なずれが非常に気になり始めるものです。100%正確な表現は不可能なのかもしれませんが、自分に納得がいく程度には正確に心のひだを言葉にしたいと思う私です。
なぜこんなにも表現が進まないのだろうと自問していて気がついたのですが、私はこうしてブログを書いているときでも人目をとても気にしているようです。匿名性に守られているというのに、別のPCを通してこの文章を見た人が持つ感想がネガティブである可能性をとても恐れているのです。
誰かが読むかどうかもわからない、誰かの目に留まったとしても顔は見えない、コメントも受け付けないから反応は私の元には届かない。そう承知していても、世間のどこかで笑いものにされる可能性に考えがおよび、緊張を感じます。
その理由はなんだろうと考えてみました。思い当たったことが二つあります。まずひとつは、小学校の絵の宿題を母に手伝ってもらったことです。経緯は覚えていないのですが、花瓶に生けられた花をまず母が描き、それをお手本にみながら自分で描いて提出したことがありました。何でも器用にこなす母への劣等感と、「ずる」をしてしまったような罪悪感とがありました。
さらに、学校の廊下に張り出された全員の絵を見ながら「お手本がなかったら、張り出されても恥ずかしくないような絵は描けなかったかもしれない」と心の中で思い、その気持ちを「下手な絵を提出するなんて、よく恥ずかしげもなくできるものだ」と心の中で他人を卑下することで罪悪感と自信の無さをごまかしてしまいました。そんなことがあって、自分の手で作ったもの、考えたものは実は粗悪品なのではないかという恐れが出来上がったように思います。
ふたつめは、正確な表現を追うことで共感する人が少なくなる事実を理解しているためです。「うれしい」といったあいまいで大くくりな感情は誰にでも共通したものですが、「どううれしいのか」を掘り下げるほど他人と自分の感じ方の違いは鮮明になるものです。事細かに自分を表現すればするほど理解する人は減ってきます。理解されないとわかっている以上、PCの向こう側の人が持つ感想がポジティブだとは想定できません。それもまた、緊張感の理由です。
緊張する中で文章を公開するというのもおかしな話ですが、書き終えて公開すると、「気が済んだ」気になります。この文章の存在を内部に隠さないことで、主張が下手な自分が、何かをもっとわかってほしかった人や伝えたかった相手に「本当はこうだったんだよ」と無念を晴らしているような気分です。 |
2009年4月7日(火) 22:08 [ ひとりごと ]
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