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虚妄の迷宮

思索に耽る苦行の軌跡

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2010年11月23日(火) 07:03 [ ブログ ]
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幽閉、若しくは彷徨 六十九
――パスカル『パンセ』(英訳より)

205

When I consider the short duration of my life, swallowed up in the eternity before and after, the little space which I fill and even can see, engulfed in the infinite immensity of spaces of which I am ignorant and which know me not, I am frightened and am astonished at being here rather than there; for there is no reason why here rather than there, why now rather than then. Who has put me here? By whose order and direction have this place and time been allotted to me? Memoria hospitis unius diei praetereuntis.

拙訳

205

「私の一生の短い期間が、その前と後に続く永劫に呑み込まれ、私が占有し、そして見る事さへ可能なこの小空間が、私には無知なもので、そして私に未知である空間の永劫の巨大さに呑み込まれてゐるのを思ふ時、私は其処よりはむしろ此処にゐる事に戦き驚く、何故なら私が其処ではなく此処にゐるべき理由などなく、何故にその時ではなく今なのかといふ理由すら存在しないからだ。誰が吾を此処に置いた? 誰の命令そして指図でこの時空間が吾に与へられしか? 〈ただ一日留まれる客の思いで〉(松浪信三郎訳参照)」

206.

The eternal silence of these infinite spaces frightens me.

拙訳

206

「その永劫無際限の空間の永遠の沈黙が吾を戦かす」

207

How many kingdoms know us not!

拙訳

「何と多くの数の王国を吾等は知らぬのだ!」

208

Why is my knowledge limited? Why my stature? Why my life to one hundred years rather than to a thousand? What reason has nature had for giving me such, and for choosing this number rather than another in the infinity of those from which there is no more reason to choose one than another, trying nothing else?

拙訳

208

「何故吾の認識には限度があるのか? 何故吾の身長に限度があるのか? 何故吾の一生は千年よりもむしろ百年なのか? 如何なる理由でそのやうに吾に与へられし自然の摂理があるのか? そして別のものでなくこれを選ぶのに何の理由もないといふことからして、それら無限の中にある別の数字の中からこの数字が選ばれし事に関して、他の選択肢を試みたところで他の選択肢はなしといふ事か?」

――ふん。パスカルの『パンセ』の英訳が如何したと言ふのかね? 

――いや、何、此処に既に無限に対するどう仕様もない怯えが書き記されてゐると思ってね。

――つまり、有限なる《もの》は否が応でも無限と対峙するそのどう仕様もない恐怖の在り処こそ虚数iの正体だと俺に同意を求めてゐるのかね? 

――へっ、虚数iの正体だと? 

――つまり、《存在》とは、その《存在自体》に怯える《もの》であるといふ命題が「先験的」に《存在》してゐるんぢゃないかと思ってね。

――それは、つまり、此の世に《存在》する森羅万象は、「先験的」に無と無限と、そし虚数iの《存在》を認識してゐるとしふ事かね? 

――さう看做しても構はぬのぢゃないかね? 

――つまり、「先験的」に認識してゐなければ《存在》は例へば無限に対峙する筈もなく、また、無限に否応なく対峙し、そして怯える筈もないと? 

――さう。「先験的」に認識してゐなければ、そもそも無といふ概念も、無限といふ概念も、虚数の《存在》も知る由もなかったに違ひない。

――それは、つまり、無と無限と虚数は何かしらの関連がある《もの》で、そして《存在》しちまった《もの》の思ひも及ばぬ処でもしかすると、これは皮肉に違ひない筈だが、その関連が《存在》する事の暗示かね、「先験的」とは? 

―つまり、

213

Between us and heaven or hell there is only life, which is the frailest thing in the world.

拙訳

213

「吾らと天国若しくは地獄の間に、此の世で最も羸弱であるのみの生命が存在する。」

におけるbetweenといふ此の世の森羅万象の有様故の、つまり、必然といふ事を意味してゐるのかね? 

――さうさ。必然だ。必然故に此の世に《存在》する森羅万象はbetweenといふ《存在》の仕方に我慢がならぬのだ。

――へっ、それでも《存在》はbetweenでしかあり得ぬ。

――多分、パスカルは《存在》の有様がbetweenでしかあり得ない事を自覚しちまった時、自嘲したに違ひない。

――それはまた何故? 

――《存在》の振幅が無から無限まであるといふ恐怖からさ。

――それは果たして恐怖なのかね? 

――ああ。それは底知れぬ恐怖であったに違ひない。それ故、パスカルは此の世にabyss、つまり、《深淵》を見ちまった。そして、その《深淵》が虚数の《存在》をも暗示した。

――はて、それは何故かね? 

――虚数iのi乗といふ《存在》が此の世に実在する事を暗示してしまったからさ。

――話を先に進める前に一つ尋ねるが、虚数iのi乗とは一言で言ふと一体全体何の事かね? 

――約めて言へば、虚数iのi乗が実数であるといふ事は、此の世、つまり、世界は何としても実在する《もの》である事を《吾》に強要する《もの》でしかないといふ事さ。

(六十九の篇終はり)

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2010年5月31日(月) 06:31 [ ブログ ]
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睨まれし 九
と、さう私が吐き捨てると同時に《そいつ》は完全に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中にその気配を晦(くら)まし、はたと消えたのであった。

――姑息な!

と思ひながら、私はゆっくりと瞼を開けて世界を眺めるのであった。

――ほら、其処だ! 

 私はぎろりと眼球を動かし、私の視界の縁に《そいつ》がゐるのを確認すると、

――何のつもりかね? 

と、私が問ふと《そいつ》がかうぬかしよるのであった。

――いや、何ね、俺も∞に重なってみたくなったのさ。

――∞? 

――それは、つまり、俺の瞼裡には∞はないと? 

――瞼裡の薄っぺらな闇も闇には違ひなく、へっ、詰まる所、闇といふ闇には零と∞の区別はないのさ。

――だから、また、俺の視界の縁をうろちょろし始めたと? 

――ふっふっふっ。何せ此の世の裂け目としてお前といふ《存在》は目を開けたのだから、つまり、お前は此の世に誕生してその目玉を開けて世界を見てしまったのだから、零と∞は、無限を内包し、既に開かれてしまったのさ。くっくっくっ。

――つまり、目玉を開けることが即ち世界を裂く行為に等しいといふ事かね? 

――さうさ。盲た人には誠に誠に申し訳ないが、眼球を此の世で開けるといふ事は、世界に《穴》を開ける事に違ひないからさ。

――《穴》? それは《零の穴》でも《∞の穴》とも違ふ《穴》かね? 

――つまり、その眼球といふ《穴》は、《闇》として重なり合ってゐた零と∞を仮初にも分かつ此の世に開いた《零の穴》、否、《一の穴》とでも言ふべきかな。

――へっ、《一の穴》? そもそも《一》に《穴》はあるのかね? 

――仮初にも《一の穴》は仮象は出来る筈だ。

――例へば? 

――例へば、此の世が複素数ならば、当然、此の世に《存在》する森羅万象は、己を《一》として自覚しながらも、その《一》は《零》にも《∞》にも仮象出来てしまふのさ。

――つまり、それは《存在》が特異点を内包してゐるからだらう? 

――さう。距離が《存在》しちまふが故に過去世若しくは未来世でしかない世界の中で、唯、《吾》を《吾》と自覚した《存在》のみは未来永劫に亙って現在に独り取り残されてあるのみ――。

――さうすると、現在とはそもそも世界=内においては特異な現象といふ事になるが、さう看做してしまって良いものか……? 

――ふっ。現在が此の世に《存在》する事がそもそも異常なのさ。

――異常? ふむ。現在は去来現(こらいげん)の中では異常な事象か――ね……。

――お前はすると現在を何だと思ってゐたのかね? 

――現在が此の世の度量衡だとばかり考へてゐたが、さて、その現在のみが去来現において特異な事象であるならば、ずばり聞くが、実存とはそもそも何の事かね? 

――へっ、《吾》の泡沫の夢に過ぎぬ《もの》さ。

――泡沫の夢? すると、実存とは《吾》の勘違ひに過ぎぬと? 

―― 《吾》を《一》の《もの》と規定しなければ、《吾》は《吾》といふ《存在》に一時も堪へられなかったのさ。そして、これからも《吾》は《吾》を恰も《一》の《もの》であるかのやうに取り扱ふ以外に、最早、為す術がない! しかしだ、《吾》が《存在》である以上、《吾》は特異点を何としても内包せずば、これまた一時も《存在》出来ぬのだ。

――それはお前の単なる独断でしかないのではないかね? 

――ああ、さうさ。俺の独断論に過ぎぬ。しかし、此の世が去来現としてあるならば、現在のみが特異な現象でなければ《存在》は特異点をその内部に内包出来ぬ筈なのだ。つまり、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象群は、元来、因果律は壊れて表象されるだらう? 

(九の篇終はり)

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2009年12月5日(土) 07:03 [ ブログ ]
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睨まれし 六
――といふと? 

――つまり、《死》は全《存在》に平等に賦与されてゐるからね。だから、xの零乗が全て《一》に帰すことに、平等なる《死》といふ《もの》の匂ひが如何してもしてしまふのさ。

――さうか……。これは愚問だが、《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 

――《死》の様態? 

――さう。《生》が完全に《死》へ移行した時、その《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 

――それは俗に言ふ「死に様」ではないよな。Xの零乗が全て平等に《一》に帰す如き故の《死》の様態だよな。

――ああ。単なる「死に様」ではない。「死に様」には未だ《生》が潜り込んでゐるが、完全に《死》した《もの》の様態は、不図、平等なのかなと思っただけのことさ。

――くっくっくっ。それは《生者》が、若しくは此の世に《存在》した《もの》全てが死の床に就いた時に自づと解かることだらう。それまで《死》するのを楽しく待ってゐるんだな。

――それでは極楽浄土と地獄があるのは如何してだらう? 

――くっくっくっ。それはミルトンの四元数(しげんすう)とか八元数とか一見晦渋に見える《もの》を無視すると、数に実数と虚数が《存在》するからじゃないのかね? 

――実数と虚数? それじゃ、複素数は何かね? 

 その刹那、《そいつ》は更に眼光鋭く私を睨み付けたのであった。

――複素数こそ《生》と《死》が入り混じった此の世の様態そのものさ、ちぇっ。

――複素数が此の世の正体だとすると、それは実数部が《生》で虚数部が《死》を意味してゐるに過ぎぬのじゃないかね。さうすると極楽浄土と地獄は複素数の何処にあるのかね? 

――ちぇっ、下らない。複素数の実数部が《生》で《死》は零若しくは∞さ。虚数部は死後の《存在》の有様に過ぎぬ。

――さうすると、《死》の様態は±∞個、即ち∞の二乗個あることになるが、それを何と説明する? 

――此処で特異点を持ち出してくると如何なるかね? 

――特異点? つまり1/0=±∞と定義しちまへといふ乱暴な論理を展開せよと? 

――先にも言った筈だが、矛盾を孕んでゐない論理は論理たり得ぬと言ったらう。

――しかし、それは独り善(よ)がりの独断でしかないのじゃないかね? 

――独断で構はぬではないか。

――さうすると、∞の零乗も《一》かね? 

―― さう看做したければさう看做せばいいのさ。所詮、此の世に幸か不幸か《存在》しちまった《もの》は、その内部に特異点といふ矛盾を抱へ込んでのた打ち回るしかないのさ。さうして《生》を真っ当に生き切った《もの》のみが零若しくは∞といふ《死》へと移行し、さうしてその時、ぱっと口を開けるだらう《零の穴》若しくは《∞の穴》を《死者》は覗き込むのさ。其処で目にする虚数の世界が《死霊(しれい)》の世界に違ひないのさ。

――埴谷雄高かね? 

――さう。するとお前も霊の《存在》は認める訳だね。

――ああ、勿論だとも。

 その時の《そいつ》のにたり顔ったら、いやらしくて仕様がないのであった。すると《そいつ》は

――しかし、虚数i若しくはj若しくはkは自身を二乗すると−1へと変化する。これをお前は何とする? 

と、私に謎かけをしたのであった。

――ふむ。−1、つまり、負の数ね。それは、影の世界のことではないのかね。

――ご名答! 闇の中にじっと息を潜めて蹲ってゐる影の如き《もの》こそ負の数の指し示す《存在》の様態だ。

――それは透明な《存在》と言ひ直してもいいのかい? 

――へっ、別にどっちだって構ひやしない。土台、全ては闇の中に蹲って《存在》する負の数といふ《陰体》なのだからな。

――《陰体》? 

――つまり、光が当たらなければ見出さぬままに未来永劫に亙って闇の中に蹲って息を潜めて《存在》し続ける《もの》を《陰体》と名指しただけのことさ。

――さうすると、極楽浄土と地獄とは一体何なのかね? 

――くっくっくっ。《死》した《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像のことに決まってをらうが。

――《死》んだ《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像? 

(六の篇終はり)

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2009年6月28日(日) 05:23 [ ブログ ]
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幽閉、若しくは彷徨 三十三
――一つ尋ねるが、《死体》はお前の言ふ処の《一》かね? 

――ふむ、《死体》か……。ふっふっふっ、多分、《一》の成れの果てだらう。

――《一》の成れの果て? 

――つまり、《一》の成れの果てとは《一》の零乗のことに外ならないに違ひない筈さ。

――《死体》が《一》の零乗とは初耳だが、それではその根拠は如何? 例へば《死体》が《一》の二乗ではいけないのかね? 

――正直に言ふと、数字の上では《一》の零乗と二乗の差なんかありはしない。しかし、何となく零乗に《死》の匂ひが漂ってゐるとしか俺には解釈できなかっただけの事に過ぎぬ。つまり、それは単なる直感に過ぎぬのだ。しかし、この直感といふものは侮り難い代物だ。

――それでお前は《一》の零乗に何となく《死》の匂ひを感じたと? それはまた何故に? 

――零乗だぜ。単純化して言ふと、正数の零乗は全て《一》に帰すんだぜ。これが《死》でなくて何とする? 

――つまり、《死》は《存在》に平等に与へられてゐる、ふっふっふっ、裏を返せばそれは《慈悲》といふことかね? 

―― 《慈悲》ね……。多分、さうに違ひない……。此の世に《存在》しちまった《もの》には全て平等に《死》といふ《慈悲》が与へられてゐる――か! へっ、如何あってもこの《死》といふ平等が、全ての《存在》を指し示す正数といふ《存在》の零乗が《一》に帰すことと同義語だと看做せるだらう? そして、《一》といふ《単独者》といふ幻影に苛まれながら、自同律といふ不愉快極まりない《存在》の在り方を強要された《もの》達は、己が《一》=《一》といふ呪縛から最早遁れなくされて仕舞ふ。そして、一生といふ生を一回転した時に己は《死》を迎へる。俺にはこの生の一回転が即ち零乗に見えてしまったのさ。

――しかし、それは非論理的だぜ。

――へっ、《死》がそもそも非論理的ではないのかね? 

――うむ。

―― 更に言へば、《存在》そのものが非論理的で不合理極まりない《もの》ではないのかね? ふっふっふっ、論理的といふのは、その論理の対象となった《もの》が既に《死体》といふ非論理的な《もの》と成り果ててゐて、つまり、論理的なるといふことは、先験的に非論理的な《死》を包含した《死に体》としてしか論理として扱へぬといふ、論理的なるものの限界を論理的に露呈してゐるに過ぎぬとは思はないかい? 

――はっはっはっ。論理的なことが既に論理的なることの限界を露呈してゐるとは――。しかし、《存在》は何としても世界を論理的に認識したくて仕様がない。

――《存在》はそもそもからして矛盾してゐる《もの》さ。さうでなければ《存在》は一時も《存在》たり得ない。

――つまり、それを単純化すると矛盾を孕んでいない論理は、論理としては既に失格してゐて、それを唾棄したところで何ら《存在》に影響を及ぼさないといふことかね? 

――ああ、さうさ。端的に而も独断的に言へば此の世に数多ある論理的なる《もの》の殆どは役立たずさ。

――それでは、例へば、量子論に出くはしたことで人間は論理的なることが《死に体》しか扱ってゐないことに漸くだが、ちらりと気付き始めた……かもしれぬと考へられはしないかい?  

――否! 今もって人間は論理的な世界の構築に躍起になってゐる。

――しかし、それは《死に体》の世界に過ぎぬと? 

――ああ。論理的な世界の認識法の中に《主体》はこれまで一度も生きた《主体》として登場したことはなかった……。つまり、《主体》は解剖された《死体》としてしか論理の中には登場出来なかったのだ……。

――ふっ、それは当然だな。だって《主体》は絶えず生きてゐる《もの》だもの。生きてゐるとは即ち非論理的なことだぜ、へっ。

――其処で愚問をまた繰り返さざるを得ぬが、その《主体》とは一体全体何のことかね? 

――ふっ、己のことを《吾》と名指してしまふしかない哀しい《存在》全てのことさ。

――へっへっへっ、かうなるとまた、堂々巡りの始まりだな。

――へっ、論理的とはそもそも堂々巡りを何度も何度も繰り返さないことには、論理的飛躍が出来ぬやうに出来てゐるのさ。

――また、やれ《反体》だ、やれ《反=吾》だ、やれ《新体》だ、等々の繰り返しかね? 

――ああ、さうさ。

――しかし、それでは出口無しだぜ。

――否! お前には今この堂々巡りの自問自答の《回転》する論議の中にその《回転》の方向に垂直に屹立する、つまり、この回転する自問自答の回転軸方向に論理的なる《縄梯子》が仮初にも屹立してゐるのが見えぬのか? 

――《論理的縄梯子》? それは蜃気楼若しくは幻影と似た《もの》かね? 

――蜃気楼若しくは幻影と言へばそれはさうに違ひないが、へっ、論理的な飛躍といふのは、元来錯覚若しくは幻視無くしてはあり得ぬと思はぬか? 

(三十三の篇終はり)

2009年5月18日(月) 06:23 [ ブログ ]
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水際 五
――ああ、醜悪極まりない! 《吾》が質量零でしか決して成し遂げなれぬ光速度までに加速し続けながら《パスカルの深淵》を自由落下した挙句の果てに、《吾》が《吾》に尚もしがみ付くことに、はて、何の意味がある? 

――しかし、《吾》とはそれでも《吾》であり続けたい《存在》ではないのかね? 

――《吾》が地獄の別称でしかないとしてもかね? 

――ああ。《吾》たる《もの》は飽くまで《吾》にしがみ付く筈さ。

――さて、その根拠は? 

――《吾》の外に《他》が《存在》するからさ。

―― 宇宙の涯を其処に見出さずにはゐられぬ《他》が《存在》するが故に、《吾》が《吾》にしがみ付くといふ愚行において、さて、《パスカルの深淵》を自由落下し続けた果てに光となりて此の世に遍在可能な《存在》へと変化してゐるに違ひない《吾》をその《吾》が解脱せずして、何が《存在》から解脱するといふのか? 

――へっへっへっ、《吾》さ。

――はて、《吾》は尚も《吾》にしがみ付くのじゃないかね? ふっふっふっ。

――《パスカルの深淵》を自由落下し続けて光速度を得た《吾》はその刹那、此の世から蒸発するが如く《発散》し、それでも尚《吾》は《吾》にしがみ付くのだが、しかし、《吾》は否が応でも《吾》から引き離される。

――つまり、《吾》といふ《状態》と《反=吾》といふ《状態》が《重ね合は》されると? 

―― さうさ。《吾》は、二重、三重、四重、五重等々、多様な、ちぇっ、それを無限と呼べば、その無限相を自在に《重ね合は》せては、その一方でまた自在に《吾》を《吾》から《分離》させる魔術を手にした《吾》は、《吾》にしがみ付きつつも此の世に遍在するといふ矛盾を可能にするその無限なる《もの》を、自家薬籠中の《もの》にする。

――へっ、無限ね? それを無限と呼ぶのはまだ早過ぎやしないかね? 

――では何と? 

――虚無さ。

――虚無? 

――端的に言ふと、《吾》が《吾》であって而も《吾》でない《吾》といふ《もの》を形象出来るかね? 

――ふむ。《吾》であって《吾》でない《吾》か……。ふっ、しかし、《吾》とは本来さういふ《もの》じゃないかね? 

――ふっふっふっ。その通りさ。《吾》とは本来さういふやうに《存在》することを強要される。まあ、それはそれとして、さて、その虚無の《状態》である《吾》の《個時空》が如何なる《もの》か想像出来るかい? 

――《個時空》は普遍的なる《時空》へと昇華してゐる筈さ。

――つまり、此の世全てが《吾》になると? その時《他》の居場所はあるのかね? 

――……《吾》と……《他》は……つまり……《重なり合ふ》のさ。

――それは逃げ口上ではないのかね? 

――へっ、つまり、《吾》と《他》は水と油の関係の如く《重なり合ふ》ことなんぞ夢のまた夢だと? 

――ああ、仮令、《吾》と《他》が《重なり合っ》たとしても、結局、《吾》は飽くまで《吾》のままであって《他》にはなり得ぬ。

――それで構はぬではないか? 

――構わぬ? 

――断念すればいいのさ。「《吾》は何処まで行っても《吾》でしかない」とね。

――それは断念かね? それは我執ではないのかね? 

――我執で構はぬではないか? お前は《吾》に何を求めてゐるのかね? 

――正覚さ。

――正覚者が《吾》であってはいけないのか? 

――いいや、別に《吾》であっても構はぬが、しかし、……。

――しかし、何だね? 

――《吾》が虚妄に過ぎぬと《吾》が《吾》に対して言挙げして欲しいのさ。

――別にそれは正覚者でなくとも可能ではないかね? 

――ああ、その通り、正覚者でなくとも簡単至極なことだ。しかし、《吾》なる《もの》を解脱した正覚者が、「《吾》は虚妄の産物に過ぎぬ」と《吾》に対しては勿論のこと、《吾》を生んだこの悪意に満ちた宇宙に対して言挙げして欲しいのさ。

――それは何故にか? 

――《吾》自体が虚妄であって欲しいからさ。

――《吾》自体の虚妄? 

――最早《吾》が虚妄でなければ、《吾》は一時も《吾》であることを受け入れられぬからさ。

――それは《吾》が《吾》に対して怯えてゐるといふことかね? 

(五の篇終はり)

2009年5月16日(土) 06:51 [ ブログ ]
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幽閉、若しくは彷徨 廿一
――其処に滅び行く《もの》の悲哀はあるかね? 


――へっ、ありっこないさ。仮にその《悲哀》があったとしてもだ、《主体》はとことん《主体》であり続けたいが為にその《悲哀》に冷笑を浴びせ掛けるに違ひない。それ程まで《主体》は醜い生き物なのさ。つまり、《新体》は夢のまた夢だ――。


――……、ところが仮に《世界》が先に相転移をしたならば、《主体》は尚も《主体》であることは不可能なのだから《主体》も変容せざるを得ないのじゃないかね? 


――もしさうだとしてもだ、《存在》は《自意識》から遁れられはしない! 《世界》もまた己の《自意識》から遁れられやしないのさ。《自意識》に例外はあり得ぬのだ。


――つまり、《主体》の解脱、つまり《新体》は泡沫の夢だと? 


――違ふかね? 先づは《主体》をとことん生き抜いてみるんだな。それで己の醜さをその目に焼き付けるんだ。さうしなければ何にも始まりはしない! 


――後世出現する《主体》の為に? 


――ああ、さうだ。死んだもの達と未だ出現ならざる未来の《主体》の為に、己を生きる《主体》はその醜悪極まりない生き方を味はひ尽さねばならない。それはこの《世界》も《宇宙》も例外ではない。全ての森羅万象は愚劣極まりない《自意識》の傍若無人ぶりを味はひ尽くさねばならぬ定めなのだ。


――それが現在存在する《もの》の存在せざる《もの》達への礼儀だとして、例へば《自意識》を徹底的に虐待するとすれば、その時《主体》は尚も《主体》であり続けるのかい? 


――ふっ、既に《自意識》は虐待の極みを受けてゐるじゃないか? 


――それは《存在》すること自体がそもそも《自意識》への虐待だといふことかね? 


――違ふとでもいふのかい? 


――へっへっへっ、また堂々巡りだね。


 彼の闇の視界は既に闇である事に堪へ切れず、多分、脳といふ五蘊場が勝手に網膜に刺激を与へてゐるに違ひないのだが、薄ぼんやりと淡く更に淡い極小の光の粒子群の帳を彼の視界に浮かび上がらせてゐたのであった。彼は再び瞼をゆっくりと閉ぢて彼の闇の視界に自発した淡い淡い淡いその光の帳をぼんやりと眺めるのであった。


――へっ、どうも《世界》の方が《主体》よりも先に相転移しさうだね。


――その時、《世界》は物理的変化を劇的に遂げるが、そんな環境に順応すべく《主体》も変はらざるを得ないのじゃないかね? 


――……、多分、《主体》は《存在》が《存在》する限り《世界》が相転移しようがしまひが存続するに違ひない。但し、《実体》は最早相転移以前の《実体》と同じではあり得ない《何か》に《世界》と同じく相転移を遂げる。そして《反体》も然りだ。


――すると《魂》も相転移する? 


――《魂》は、つまり、相転移し見事《変容》を成し遂げた《実体》と《反体》による対消滅から派生するSolitonの如き未知の孤立波は、未知の《何か》に変化はするかもしれぬが、多分、その実質は何の変化もないに違ひない筈だ。


――何故変化はないと? 


――相転移したとはいへ、《世界》は相変はらず《世界》として、そして《宇宙》は相変はらず《宇宙》としてしか《存在》しないからさ。それに《魂》は未来永劫消えぬ未知の孤立波だと言った筈だがね。


――それは相転移によって滅亡した《前世界》についても、滅亡した《前宇宙》についても同じだと? 


――ああ、同じだ。相転移によって滅亡した《前世界》の、そして《前宇宙》の《魂》は不滅の孤立波として此の世を彷徨ふ……。


――Solitonの如き孤立波は如何あっても未来永劫此の世を彷徨すると? 


――特異点とて同じ事だ。


――つまり……《存在》は無と無限の間を尚も揺れ続けると? 


――さうでなくて《存在》が《存在》を味はひ尽くせるかい? 


――それは詰まる所、《存在》がその内部に特異点を隠し持ってゐる故に必然の事といふことだね? 


――ああ、《存在》にとって無と無限は何としても捩じ伏せておかねばならぬ鬼門に外ならない――。


(廿一の篇終はり)

自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp






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2009年3月2日(月) 07:31 [ ブログ ]
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Laser(レーザー)光の悲哀



※ 註 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のレーザーの項目を参照



※ 簡単に言へばウィキペディアによるとレーザー光は、レーザー発振器を用ゐて人工的に作られる光である。






時折河原を宵闇の中逍遙してゐる時に天空に向かってLaser光が発振されてゐるのを目にすることがあるが私にはそれがとても切ないのである。



それは何故かと考へるのだが、どうやら人間によって無理矢理に此の世に出現させられた上に光共振器内で増幅されつつ二枚の鏡の間を何度も何度も往復するといふ、それを例へて言ってみれば合せ鏡の中に突然置かれ二枚の鏡に向かって全速力で突進し、鏡にぶち当たる度に『定常波』といふ平準化される宿命を負ひ、其処で目にするものと言へば唯唯《己と仲間の哀れな姿》のみであるといふ切なさ、更に言へば光共振器から発振されてからも《直進》することを運命づけられた哀しさ等等、Laser光は哀しさに満ちてゐる。



一度Laser光が発振されると反射、散乱させる物質がその進路に存在しなければ《無限》に向かって進むことがLaser光の宿命である。その中には一緒に発振させられたが直進することから《脱落》する《仲間の光》の《宿命》さへをも背負ひ続け唯只管に《無限》の彼方に向かって進まざるを得ない哀しい《宿命》、これは《永劫》に長い直線道路をマラソンする人々に似てゐる。その虚しさは計り知れないのだ。



尤も、この宇宙が閉ぢてゐるとすると一度発振され《脱落》せずに《無限》に向かって進み続けたLaser光はあはよくば何百億年後かに元の場所に戻って来る筈であるが、さて、しかし、その時既に発振された場所、つまり、人類も太陽系も此の世から消滅してゐるとすると尚更Laser光は哀しい存在である。さう、一度発振されたLaser光は《永劫》に此の世を《直進》しなければならない何とも何とも哀しい存在なのであるる






またLaser光の一条の閃光が天空に向かって発振された……。



――底なしの哀しさとは彼らLaser光の為にあるのか……。






そもそも職人の手以外に強制的に人間の愚劣な《便利》のためにある機能を背負はされ此の世に生み出される電化製品等はLaser光のやうに哀しい存在である。その製造段階では金型職人等の何人かの職人は関わるには関わるが、それは極々少数で、例へば徹頭徹尾職人の手になる万年筆や陶磁器などに比べると工場で生産された製品には愛着といふ《魂》が宿らず哀れである。それら工業製品はDesign(デザイン)といふ意匠を仮面の如く付せられるが、その薄っぺらさがまた哀れを誘ふのである。



人工物は職人の職人気質といふ《魂》が籠ってゐなければそもそもが哀しい存在である。



すると、此の世の現代的で先進的な生活は悲哀に満ちてゐることがその前提といふ誠に誠に哀しい現状に人間は置かれてゐるのであるが、それに気付かぬ振りをしてか人間は《現代》の哀れな存在物の中で《文明的》に生活するこれまた哀れな存在である。つまり、極端なことを言へば他者が考へた製品や建築物や街並み等等といふ《他者の脳内》に棲むのが人間といふ哀れな生き物である。



――さて、ドストエフスキイ著「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフが接吻した《大地》は何処に消えたのか……。



――ふふ。人間は既に《他者の脳内》といふ世界を造り上げ其処に引き籠ってしまったのさ。生の《大地》といふ《現在》からの遁走が人間には心地良いのさ。



――そんな馬鹿な事が……。



――実際、生の《大地》といふ《現在》とは距離が生じた《文明的》である《過去》へ逃げ込んだのさ。ふっ。考へてもみ給へ。面倒臭い《不便》な《現実》を誰が好む? 《便利な生活》といふ《現実逃避》こそ人間の《夢の世界》なのさ。



――そんな馬鹿なことが……。それでは尋ねるが《現実逃避》した《現代》に生きる実感はあるのか?



――ふつ。人間はもう既にそんなものなど望んでなぞゐない。何しろ《文明》といふ甘い蜜の味を、それが失楽園とも知らず知ってしまったからな。



――それでは人間は生きることをとっくに已めた哀れ極まりない生き物に成り下がってしまったのか……。



――ふつ。さうさ。人間は生きながら死ぬといふ離れ業を生きる奇妙奇天烈な生き物に《進化》したのさ。嗚呼、哀れなるかな、人類は……。



またLaser光の一条の閃光が天空に向かって発振された……。


2007年11月19日(月) 09:49 [ ブログ ]
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