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虚妄の迷宮

思索に耽る苦行の軌跡

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幽閉、若しくは彷徨 四十
――ふっふっふっ。《吾》に無や無限が飼ひ馴らせられると思ふかい? 

――う〜ん、それは……至難の業には違ひない。

――それでも《吾》が《吾》を存続させる為には無と無限、換言すれば《死》を一時でもその手で握り潰して、そして、それを捏ね繰り回しては何かを創造する外ないとすると、へっ、高々無と無限にすらてこずる《吾》に、さて、特異点と対峙する暇はあるのかい? 

――それは当然《他》と対峙するといふ意味も兼ねてゐるね? 

――ああ、勿論。特異点たる《他》と対峙する《吾》……くっくっくっくっ、その《吾》は内部にも特異点たる《他》を抱へる《吾》であるといふ皮肉! 

――ふはっはっはっはっ。ざまあ見ろかね? 

――馬鹿な! 俺もやはり特異点たる《他》といふ矛盾に振り回され、嘲弄される側の《存在》だぜ。

――《存在》とは元来嘲弄される《もの》ではないのかね? 

――ふっ、何に? 

――へっ、《他》だらう? 

――《他》かね? 《吾》ではないのかね? 

――どちらでも構はないんじゃないか。所詮、《吾》といふ《存在》は「先験的」に嘲弄されるやうに創造されてしまってゐる。

――そして、《吾》は《他》を愚弄する。違ふかね? 

――其処で愚弄するといふのは《吾》ではなく《他》かね? 

―― ああ。《吾》は《吾》として《存在》することで既に「先験的」に《吾》に嘲弄されてゐる上に、《他》にも嘲弄される故に、《吾》は仕方なく若しくは近親憎悪にも似て《他》を呪ひ、愚弄するのさ。さもなくば《吾》は《吾》自体を呪ひ、愚弄するといふ留まるところを知らぬ深淵に嵌り込むしかない。

――しかし、大概の《吾》は《吾》ばかりを呪ってゐるぜ。特異点たる《他》が《吾》の内部にも外部にも潜んでゐるにも拘はらず、《吾》は《他》の《存在》に目を閉ざして恰も《他》が此の世に無いかの如く《吾》にばかり執着してゐる。

――ちぇっ、その方が一見して《吾》には楽だからさ。

――楽? 

――ああ。楽だからさ。《吾》が《吾》にばかり目を向けて《吾》を呪ひ、嘲弄してゐる内に、何時しかそれが昂じてMasochism(マゾヒズム)的な自己陶酔に耽溺することになり、へっ、《吾》は《吾》の虜になって《吾》以外の《もの》を忘却出来るかの如き錯誤の蟻地獄ならぬ「吾地獄」から永劫に抜け出せなくなる哀れな末路を取ることになる。それはそれは楽に決まってゐるぜ、何せ《吾》以外に何も《存在》しないんだからな。

――しかし、大概の《存在》は、《吾》は《吾》に自閉してゐると端から看做してゐるぜ。

――さういふ輩は《吾》に耽溺しながら自滅すればいいのさ。

――へっ、《吾》に溺れ死ぬか――。

――Masochism的な自己陶酔の中で溺死出来るんだから、それは極楽だらうな。

――否、それは地獄でしかない! 

―― 《吾》が《他》に目もくれずに、自閉した《吾》に耽溺する不幸は、それが地獄の有様そっくりだからな。ふっ、何せ地獄では《吾》は未来永劫《吾》であり続け《吾》といふ自意識が滅ぶことは永劫に許されずに、その上で地獄の責苦を味はひ尽くす以外に《存在》し得ぬのだからな。

――しかし、《主体》は、耳孔、鼻孔、眼窩、口腔、肛門、そして生殖器等、穴凹だらけなのは厳然とした事実だ。

――つまり、《吾》もまた穴凹だらけであり、《吾》は《他》をその内部に《吾》の穴凹として抱へ込まざるを得ない。

――付かぬことを聞くが、《吾》に開いた《他》といふ穴凹は《対自》のことかね? 

――いいや、決して。《他》は《他》であって《即自》や《対自》や《脱自》等の如何なる《自》でもない。また、《他》が《自》であるかのやうに看做すやうでは、《主体》は精々穴凹が全て塞がれた幻影を《吾》と錯覚し、それは取りも直さずMasochism的な自己陶酔の中に溺れてゐるに過ぎない。

――だが、《吾》はその内部に《他》が潜んでゐる等とは夢にもこれまで考へた事はなかった。

――それは《吾》が《吾》で自己完結してゐると勘違ひしたかったからに過ぎない。

――つまり、《他》の《存在》には目を瞑って世界を独り《主体》のみが背負ふ世界=内=存在といふ自己陶酔の極致に《存在》は自らを追ひ詰めてしまったのだ。

――しかし、世界は《吾》などちっとも《存在》しなくても若しくは《吾》が死しても相変はらず存続する。

――つまり、世界もまた《他》といふことだらう? 

――さうさ。

(四重の篇終はり)

自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp

2009年7月6日(月) 05:54 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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水際 六
――へっ、そもそも《吾》とは《吾》に怯えるやうに創られてゐる《もの》じゃないかね? 

――それは「先験的」にかね? 

―― ああ。《吾》たる《もの》、《吾》が怖くて仕様がないくせに、否、《吾》が《吾》たることの暴走、へっ、それは《存在》を散々苦しめて来たのだが、例へば、それはユダヤの民におけるヒトラーの如き悪魔的《存在》へと不意に《吾》が暴走しないかと《吾》は絶えず《吾》に怯えてゐるくせに、それでゐて《吾》は《吾》に縋り付く外ない己を「へっへっへっ」と力無く薄笑ひをその蒼白の顔に浮かべて《吾》の《他》への変容を夢見る矛盾を抱へながら、此の世に《存在》することを強ひられてゐる。

――何に強ひられてゐるのか? 

――さあ、何かな……。

――何かな? 

―― それが何かは解からぬが、《主体》はそれを或る時は《客体》と呼び、或る時は《対自》と呼び、また或る時は此の世の《摂理》と呼び、また或る時は《神》と呼んでゐるがね。なあ、ひと度此の世に《存在》した《もの》が、それ自身滅亡するまで《存在》することを強ひられる矛盾を、何としたものかね? 

――へっ、《存在》がそもそも矛盾だと思ふかい? 

――当然だらう。《存在》とは元来矛盾してゐなければ《存在》といふ、へっ、曲芸なぞ出来っこないぜ。

――《存在》は曲芸かね? 

――ああ。Circus(サーカス)の曲芸みたいに、時に空中ブランコの乗り手として、時に綱渡りの渡り手として、時に玉乗りの乗り手としてしか《存在》の有様なぞありっこないぜ。

――へっ、ひと度此の世に《存在》した《もの》は腹を括れと? 

――何をもってして腹を括れと? 

――《吾》をもってしてではないのかね? 

――へっ、「《吾》然り!」ってか? 

――ああ、「《吾》然り!」だ。

――しかし、その《吾》が元来矛盾してゐるんだぜ。

――だからこそ尚更「《吾》然り!」と呪文を唱へるのさ。

――呪文? 

――さう、呪文だ。

――「《吾》然り!」と呪文を唱へて何を呪ふのか? 

――当然、この宇宙自体さ。

――それは《神》ではないのかね? 

――別に《神》と呼んでも構はない。

――「《吾》然り!」は「《他》然り!」と同義語じゃないかね? 

――勿論。《吾》があれば必然的に《他》のあるのが道理だ。

――ちぇっ、《吾》は《吾》を是認する以外に《他》を是認出来ない馬鹿者か? 

――へっ、当然だらう。《吾》程馬鹿げた《存在》はありゃしないぜ。

――その大うつけの《吾》が「《吾》然り!」と呪文を唱へて《他》の《存在》を是認するとしてもだ、《吾》はそれでも《吾》たる《存在》をちっとも信用してゐないんじゃないかね? 

――当然だらう。《吾》が《吾》を公然と肯定してゐる有様程醜悪極まりなく反吐を吐きさうになる《存在》はありゃしないさ。

――それでも《吾》は「《吾》然り!」と呪文を唱へろと? 

――ふっふっふっ。何の為に《吾》は「《吾》然り!」と呪文を唱へるか解かるかい? 

――いや。

――創造の為には幾ら《存在》を滅ぼさうが何ともないこの悪意に満ち満ちた宇宙をびくつかせる為に決まってをらうが――。

――へっ、やっと本音を吐いたね。今こそこの宇宙に《吾》は反旗を翻せといふお前の本音を。

――この宇宙に反旗を翻すこと以外に《吾》の《存在》の意味があるのかい? ひと度此の世に《存在》してしまった《もの》は、次世代の創造の為にもこの宇宙に反旗を翻して痩せ我慢する以外に何かを創造することなんぞ不可能じゃないかね? 

――へっ、その創造の為に《吾》は人身御供になれと? 

――ああ。残念ながら《吾》たる《存在》は絶えずさうやって連綿と《存在》して来てしまったのじゃないかね? 

(六の篇終はり)

自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009年7月4日(土) 06:19 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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幽閉、若しくは彷徨 三十九
***************************************************
とある読者から

「難解なので私の想像です。
数式の単語を使用して「生と死」の問題を論議しているのですか?

このような文学のジャンルを「哲学」?
本も出版されいる様子ですが、素人に簡単に解説して頂ければ幸甚です。 」

という問いがありましたので、この場を借りてお答えいたします。

私が常に自問自答している事は「存在」についてです。時に数式なども持ち出すのはそれが哲学であれ、科学であれ、数学であれ、宗教であれ、「存在」を語れるのであれば私は何でも利用します。
そして、私がずっとこだわり続けている事は「1=1」が成立するのに1と記号化された「存在」は果たしてそれをどのようにそれを受容するのか。つまり、「1=1」における「存在」の情動について、唯、問うているに過ぎません。
それ故に私がこのブログで書き綴っているのは「哲学」や「小説」ではなく「思索」それも「夢幻空花な思索」としか言えないものです。因みに夢幻空花とは病んだ目にのみ見えてしまう夢や幻の類の事です。

簡単ですが以上をもって私の答えとさせていただきます。
***************************************************

――いや、それは解からない。唯、懊悩する《吾》が此の世に《存在》する以上、神もまた「《吾》とは何か?」と懊悩してゐると考へた方が自然だ。

――考へた方が自然だと? 何故かう言ひ切れぬのだ! 「神もまた《吾》たる己自身に懊悩し、己自身を呪ってゐる」と――。

――さう看做したい奴がさう看做せばいいのさ。へっ、神は神出鬼没 且、変幻自在だぜ。

――つまり、唯識がさうであるやうに《吾》次第で如何様にもなり得ると? 

―― 勿論。さうでなけりゃ、神といふ名若しくはそんな言葉は捨てるんだな。詰まる所、神自身が己に対して懊悩し、呪ってゐると神自ら自己告白して懺悔したとしても、それは神を神たらしめるだけの単なる神の更なる権威付けに過ぎぬのさ。何故って、さう神が告白すれば、ちぇっ、神が全《存在》の懊悩を背負ってゐると看做す事に逢着するだけに過ぎぬのさ。

――え? 神が全《存在》の懊悩を背負はずして、一体全体何が全《存在》の懊悩を背負ふのだ? 

――《吾》さ。

――《吾》? 

――さう、神は神自身の事だけ背負へばいいのさ。当然、《吾》は《吾》の事だけ背負へばいいのさ。

――神自身の事や《吾》の事とは一体何の事かね? 

――約(つづ)めて言へば、《存在》する事の悲哀さ。

――そんな事は疾うに解かり切った事じゃなかったっけ? 

――さうさ。疾うに解かり切った事だ。しかし、その疾うに解かり切った事を未だ嘗て如何なる《存在》も背負ひ切り、また、語り課(おほ)せた《もの》は全宇宙史を通して《存在》した例(ため)しがない! 

――へっ、それは何故かね? 

――神自体が《吾》を《吾》と語り得ぬからさ。

――やはり、自同律の問題に帰すか……。神もまた、この宇宙を創ったはいいが、「私は私である!」と未だ嘗て言い切った例しがないといふ事か――。

――だとすると、《吾》のその底無し具合が《吾》にとって致命的だといふ事が解かるだらう? 

――つまり、《吾》は如何あっても特異点をその内部にも外部にも隠し持ってゐる事に帰すのだらう? 

――さう、《吾》を敷衍化して《存在》と換言すれば、《存在》はそれが何であれ全ての《存在》が底無しの穴凹若しくは深淵たる特異点を隠し持ってゐるのさ。

――ちぇっ、詰まる所、《存在》は無と無限を無理矢理にでも飼い馴らさなければ、結局、自滅するだけといふ事か――。

――へっへっへっ。大いに結構じゃないか、《吾》が自滅することは。

――それは皮肉かね? 

――いいや、本心さ。心の底から《吾》たる《存在》が自滅する事を冀(こひねが)ってゐるのさ。じゃなきゃ、《吾》が《存在》する道理が無いじゃないか? 

――《吾》が《存在》する道理? そんな《もの》が元々《存在》するのかね? 

――ふっ、いいや、無い。しかし、《吾》はそれが何であれ己の《存在》に意味付けしたくて仕様がないのも厳然とした事実だ。

――それは何故だと思ふ? 

――何かの創造の為にさ、ちぇっ。

――何の創造だと思ふ? 

――《吾》でない何かさ。

――ふっふっふっ。《吾》は《吾》でない何かを創造するべく此の世に誕生したか……。

――その為に《吾》は十字架の如く底無しの深淵たる特異点といふ大いなる矛盾を背負ひ切らねばならぬのさ。

――やはり、特異点は大いなる矛盾かね? 

――現状を是とするならば、特異点は此の世にその大口をばっくりと開けた矛盾に違ひない筈だが、しかし、それを《他》と言ひ換へると面白い事になるぜ。

――特異点が《他》? 

――さう。《吾》とは違ふ《もの》故に、つまり、《吾》が矛盾として懊悩せざるを得ぬその淵源に、そして、それを何としても弥縫しなければならぬ《もの》として特異点が在るとするならば、それは《吾》とは違ふ《存在形式》をした《他》だらう? 

―― つまり、その大いなる矛盾した形式を取らざるを得ぬ特異点といふ《もの》は、それを例へば、《反体》と呼ばうが、《反=吾》と呼ばうが、《新体》と呼ばうが、《未出現》と呼ばうが、とにかく、《吾》は猛獣遣ひの如く《吾》の内部にも外部にも《存在》するその《他》たる特異点を、飼い馴らすか、自滅するか、のどちらかしかないといふことか――。

(三十九の篇終はり)

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2009年6月29日(月) 06:02 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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睨まれし 六
――といふと? 

――つまり、《死》は全《存在》に平等に賦与されてゐるからね。だから、xの零乗が全て《一》に帰すことに、平等なる《死》といふ《もの》の匂ひが如何してもしてしまふのさ。

――さうか……。これは愚問だが、《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 

――《死》の様態? 

――さう。《生》が完全に《死》へ移行した時、その《死》の様態は《死》以外にあり得るのだらうか? 

――それは俗に言ふ「死に様」ではないよな。Xの零乗が全て平等に《一》に帰す如き故の《死》の様態だよな。

――ああ。単なる「死に様」ではない。「死に様」には未だ《生》が潜り込んでゐるが、完全に《死》した《もの》の様態は、不図、平等なのかなと思っただけのことさ。

――くっくっくっ。それは《生者》が、若しくは此の世に《存在》した《もの》全てが死の床に就いた時に自づと解かることだらう。それまで《死》するのを楽しく待ってゐるんだな。

――それでは極楽浄土と地獄があるのは如何してだらう? 

――くっくっくっ。それはミルトンの四元数(しげんすう)とか八元数とか一見晦渋に見える《もの》を無視すると、数に実数と虚数が《存在》するからじゃないのかね? 

――実数と虚数? それじゃ、複素数は何かね? 

 その刹那、《そいつ》は更に眼光鋭く私を睨み付けたのであった。

――複素数こそ《生》と《死》が入り混じった此の世の様態そのものさ、ちぇっ。

――複素数が此の世の正体だとすると、それは実数部が《生》で虚数部が《死》を意味してゐるに過ぎぬのじゃないかね。さうすると極楽浄土と地獄は複素数の何処にあるのかね? 

――ちぇっ、下らない。複素数の実数部が《生》で《死》は零若しくは∞さ。虚数部は死後の《存在》の有様に過ぎぬ。

――さうすると、《死》の様態は±∞個、即ち∞の二乗個あることになるが、それを何と説明する? 

――此処で特異点を持ち出してくると如何なるかね? 

――特異点? つまり1/0=±∞と定義しちまへといふ乱暴な論理を展開せよと? 

――先にも言った筈だが、矛盾を孕んでゐない論理は論理たり得ぬと言ったらう。

――しかし、それは独り善(よ)がりの独断でしかないのじゃないかね? 

――独断で構はぬではないか。

――さうすると、∞の零乗も《一》かね? 

―― さう看做したければさう看做せばいいのさ。所詮、此の世に幸か不幸か《存在》しちまった《もの》は、その内部に特異点といふ矛盾を抱へ込んでのた打ち回るしかないのさ。さうして《生》を真っ当に生き切った《もの》のみが零若しくは∞といふ《死》へと移行し、さうしてその時、ぱっと口を開けるだらう《零の穴》若しくは《∞の穴》を《死者》は覗き込むのさ。其処で目にする虚数の世界が《死霊(しれい)》の世界に違ひないのさ。

――埴谷雄高かね? 

――さう。するとお前も霊の《存在》は認める訳だね。

――ああ、勿論だとも。

 その時の《そいつ》のにたり顔ったら、いやらしくて仕様がないのであった。すると《そいつ》は

――しかし、虚数i若しくはj若しくはkは自身を二乗すると−1へと変化する。これをお前は何とする? 

と、私に謎かけをしたのであった。

――ふむ。−1、つまり、負の数ね。それは、影の世界のことではないのかね。

――ご名答! 闇の中にじっと息を潜めて蹲ってゐる影の如き《もの》こそ負の数の指し示す《存在》の様態だ。

――それは透明な《存在》と言ひ直してもいいのかい? 

――へっ、別にどっちだって構ひやしない。土台、全ては闇の中に蹲って《存在》する負の数といふ《陰体》なのだからな。

――《陰体》? 

――つまり、光が当たらなければ見出さぬままに未来永劫に亙って闇の中に蹲って息を潜めて《存在》し続ける《もの》を《陰体》と名指しただけのことさ。

――さうすると、極楽浄土と地獄とは一体何なのかね? 

――くっくっくっ。《死》した《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像のことに決まってをらうが。

――《死》んだ《もの》が《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込んだ時に目にする絶対的に《主観》の世界像? 

(六の篇終はり)

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2009年6月28日(日) 05:23 [ ブログ ]
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幽閉、若しくは彷徨 三十八
――きちんと破滅しちまへばいいのさ。秩序と渾沌の間で唯々諾々と黙して己が破滅する様を噛み締めてゐればいいのさ。

――破滅をきちんと噛み締める? 

――滅することは《存在》の宿命だぜ。如何(どう)足掻いたところで、己の破滅から《吾》は遁れやしないのさ。《存在》することの悲哀を感じずして《吾》に《存在》する資格は、さて、在るや否や、さ。

―― つまり、秩序に渾沌が、渾沌に秩序が内在する若しくは紙一重の違ひでしかないやうに、《吾》は《生》に「先験的」に内在する《死》を己の全的剿滅までしかと目に焼き付けるのが《存在》しちまった悲哀を「へっへっへっ」と力無く嗤ふしかない《もの》の、即ち《吾》の折り目正しき《存在》の姿勢ならばだ、何故《吾》なる《もの》は《存在》しなければならなかったのだ? 

――へっ、また堂々巡りだぜ。まあよい。《吾》なる《もの》が《存在》しちまったその理由を単刀直入に言へば、創造の為に決まってをらうが! 

―― へっへっへっ、創造と破壊は太古の昔から、否、此の世の開闢の時から既に表裏一体を為すと相場が決まってゐるとしてもだ、また、換言すれば、盛者必衰、且、諸行無常が此の世の常としてもだ、創造の、ちぇっ、何の創造かは知らぬが、その創造の途中の中途半端なところで《存在》するしかなかった殆どの《もの》達は、さうなると、この宇宙を悪意に満ちた邪鬼の如く呪ふしかないぜ。

――へっ、呪ふがいいのさ。

――簡単にお前は呪へばいいと言ふが、中途半端に《存在》する外ない《もの》達は、己の中途半端なことに嘆き、此の世を呪ふだけ呪ったところで、へっ、それは虚しいだけだぜ。

――だから如何した? 

――ちぇっ、暖簾に腕押しか――。

―― 《存在》しちまって中途半端に《存在》するしかない《もの》達は、この宇宙といふ名の神を呪へばいいのさ。それが無駄なことだと知ってゐてもだ。呪ふだけ呪って、この悪意に満ちた宇宙をほんの一寸だけでも震撼出来さへすれば、中途半端に《存在》しちまった《もの》達は、満足だらう? さうして、また、《吾》は如何してもこの悪意に満ちたとしか名状出来ない宇宙を震撼させねばならぬ宿命を負ってゐるのさ。

――それは宿命かね? 

――ああ、宿命だ。何かをこの宇宙に創造させる為には、《吾》なる此の世に《存在》しちまった《もの》達は、この悪意に満ち満ちた宇宙を震撼させねばならぬのだ。

――しかしだ、全宇宙史を通してこの悪意に満ちた宇宙を一寸でも震撼さぜた《もの》は《存在》したのかね? 

――いや。

――いや? へっ、それじゃ、《存在》しちまった《吾》は、その屍を死屍累々と堆く積み上げてゐるだけで、ちぇっ、つまり、《吾》たる《もの》は、詰まる所、犬死する外ないといふことかね? 

――さうさ。

――さうさ? これまた異なことを言ふ。お前は《存在》が犬死して行くのを是認してゐるのかね? 

――いいや。

――いいや? 

――先づ、俺が《存在》が唯犬死するのを是認する訳が、そして、己の《存在》に満足してゐる訳がなからうが! 俺とてこの悪意に満ちてゐるとしか認識しやうがないこの宇宙を何とかして震撼させるべく、ちぇっ、詰まる所、思案してゐるのさ。

――へっへっへっ、思案だと? 何を甘っちょろいことを言ってゐるのか! 思案したところで何にも変はりはしない筈だぜ。

――さうかな? 俺は、この《考へる水》たる《皮袋》として《存在》する《吾》は、思案することで、へっ、この悪意に満ちた宇宙は、もうびくびく《もの》だと思ふのだがね。

――《吾》が思案することで、この宇宙がびくびくしてゐる? 思案が《吾》の武器? それは、さて、何故かね? 

――この宇宙も《吾》として存続することを切に冀(こひねが)ってゐるからさ。

――すると、この宇宙もまた、それは換言すれば神に違ひないが、「何故に《吾》は《吾》として《存在》しちまったのか」と、へっ、神自らが神を呪ってゐると? 

(三十八の篇終はり)

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2009年6月22日(月) 06:31 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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ざわめき 六
――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着いた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 

――ふっふっ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬことを聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 

――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 

――へっ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかったならば? 

――宇宙の《餌》? それは一体全体何のことだね? 

――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。

―― 生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふことは、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばっくりと開けてゐるといふことじゃないかね? 

――ふっふっ、それはまた如何して? 

――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》することを許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。

――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 

――当然だらう。

――当然? 

――《他》の宇宙、ちぇっ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふことを認識する屈辱を味はひはしないじゃないか! 

――やはり、《吾》が《吾》を認識することは屈辱かね? 

――ああ。屈辱でなくして如何する? 

――ふっふっ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 

――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。

――それはまた如何してさう言ひ切れるのかね? 

――それは、この宇宙に《吾》であるといふことを屈辱を持って噛み締めながらも如何しても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。

――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。

――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 

――へっ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開いた穴凹じゃないかね? 

――それは《特異点》の問題だらう? 

――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。

――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちっともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふことだね? 

――例へば、巨大Black hole(ブラックホール)は何なのかね? 

――ふっ、Black holeが《他》と繋がった此の世に開いた、若しくはこの宇宙に開いた穴凹であると? 

――でなくて如何する? 

――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 

――ああ、さう考へた方が自然だらう? 

――自然? 

――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》することで颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 

――ふっ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 

――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。

―― さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹することが可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げっぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げっぷ》じゃないのかね? 

―― ふっふっふっ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げっぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 

――無難? へっ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。

――嘘? 如何して嘘だと? 

――へっ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。

――へっへっへっ、図星だね。

(六 終はり)

2009年6月20日(土) 06:28 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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幽閉、若しくは彷徨 三十七
――やはり秩序無くして《主体》は此の世を受け入れられぬか? 

――人体を見ればそれは火を見るよりも明らかさ。

――ふっふっふっ。人体ね。

――さう含み笑ひをするところを見ると人体は無秩序だと? 

――いや、何、人体の秩序とは、所詮、細胞が如何に《死》するかの問題に行き着いてしまふのじゃないかと思ってね。

――受精卵といふたった一つの細胞が細胞分裂を繰り返し、様々な機能の臓器へと分化する《発生》の問題でなく、細胞の《死》が問題だと? 

――ああ。臓器がその機能を保持出来るのは細胞が、つまり、癌化する《傷付いた》細胞が自死、即ちApoptosis(アポトーシス)する故に人体といふ秩序は何とか保たれてゐるに過ぎず、更に言へばこの人体の姿形は、細胞がApoptosisと細胞分裂との鬩(せめ)ぎ合ひの結果球体とは全く異なる姿形になったのじゃないかね? さうすると如何しても秩序には《死》がくっ付いて離れないのじゃないかと思ってね? 

――つまり、《死》無くして秩序はあり得ぬと? 

――ああ、さうさ。《死》あればこそ秩序は保たれる……。付かぬことを尋ねるが、《死》は秩序かね、それとも渾沌かね? 

――ふっふっふっ。《死》は秩序でも渾沌でもないのじゃないかね? 

――すると《死》は何かね? 

――《生》を《生》たらしめるその礎さ。

――《死》が《生》の礎だとすると《死》は間違ひなく秩序の領分だぜ。

――へっ、どっちでも構はないじゃないかね? 所詮、秩序と渾沌は紙一重の違ひしかないのさ。

――つまり、秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、換言すれば、《生》は《死》を、《死》は《生》を内包してゐなければ、そもそも《存在》は《存在》し得ぬといふことかね? 

――へっ、《存在》は詰まる所、《虚しいもの》ではないのかね? 

――それは、ちぇっ、約(つづ)めて言へば二元論的な考へはそもそもあり得ず、もしも二元論的なる《もの》があれば、それは捨て去れと? 

―― ああ。秩序は渾沌を、渾沌は秩序を、《生》は《死》を、《死》は《生》を、そして、《存在》は《虚無》若しくは《無》を、《虚無》若しくは《無》は《存在》を「先験的」に内包してゐる。つまり、《吾》は《他》を、《他》は《吾》を元来内包せずには此の世に出現すらしてゐない筈さ。

――それは、詰まる所、陰陽五行説の太極に至るといふことかね? 

――ああ、さうさ。陰陽魚太極図こそ、此の世といふ《もの》の正体を象徴的に表はした《もの》の一つだ。

――へっ、弁証法ではやはり駄目かね? 

――弁証法では此の世を論理的には絶対に語れない。つまり、正の中に反が、反の中に正が内在してゐる前提で物事を語らなければ、何事も始まらないのさ。

――へっ、つまり、正反合は嘘っ八だと? 

――ああ。正反合こそ物事の正体を捕まへ損ねる諸悪の根源さ。

――つまり、此の世の事は二律背反からでしか語り始められぬと? 

――さうさ。カントはそれに薄々気付いてゐた筈さ。此の世を語るには二律背反から始めるしかないとね。

――しかし、人類に二律背反を語り果せる語彙若しくはその言語を基にした思考があるかね? 二律背反は何処まで行っても二律背反のままだぜ。

――無いならば新しく創出すればいいのさ。

――創出すればいいとお前は簡単に言ふが、新たな言語若しくはその言語を基にした思考法を創出するのは困難極まりない難事だぜ。

―― しかし、《吾》は、へっ、《存在》の縁に既に追ひ詰められてしまってゐる《吾》は、最早、その難事を成し遂げなければ生き残れないのさ。人類は元々言語が音声といふ《波》と文字の字画といふ《量子》から成り立つやうになったことからも思考は必然的にさうなるに決まってゐた一つの例証として、科学の分野での量子「色」力学若しくは場の量子論へと漸く行き着いたじゃないか。更に更に人類は超弦理論や過剰次元といふ理論へと飛躍を遂げて、へっ、さうなれば《吾》が生き残るための新たな言語若しくはその言語を基にした論理的なる思考法を創出するのは簡単至極なことさ。

――えっ、生き残る為の言語若しくはその言語を基にした思考法? ……別に《主体》が生き残る必然性は……何処にも無いのじゃないかね……? 

――ちぇっ、俺は《主体》とは一言も言ってないぜ。へっ、むしろ《主体》なんぞはさっさと死んでしまへばいいのさ。しかし、此の世の森羅万象に《存在》する《吾》といふ代物は、此の世の衰滅を見届ける義務がある。

――これは愚問だが、《主体》は《吾》ではないのかね? 

――《主体》は《客体》を排他するから《吾》ではないよ。

――つまり、《吾》とは「先験的」に《他》を内包してゐる《もの》だと? 

――ああ。《吾》こそ《他》を内包してゐる、例へば陰陽魚太極図のあの目玉模様そのものさ。

――そして、秩序の中には渾沌を、渾沌の中には秩序をだらう? しかし……それは《破滅》を意味するのではないのかい? 

(三十七の篇終はり)


2009年6月15日(月) 06:04 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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嗤ふ吾 四
 そもそも《吾》を嗤ふ《吾》は、さうとは知らずにそれは無意識のことだとは思ひたいのであるが、結局のところ、《吾》に対しての根深き侮蔑がその根底には厳然と《存在》してゐるのは確かなやうである。つまり、《吾》は倦むことを知らずに只管(ひたすら)《吾》を嗤ひ侮蔑するやうに生まれながらに創られてしまった《存在》に過ぎぬのかもしれぬのである。更に言へば、多分に《吾》たる《もの》は絶えず《吾》を侮蔑してゐないと不安な《存在》に違ひないのである。では何故《吾》は絶えず《吾》を侮蔑してゐなければ不安な《存在》として此の世に在るのであらうか。多分、それは《主体》に対して慈悲深き神にも、将又(はたまた)邪悪な邪鬼にも変幻するこの宇宙若しくは世界若しくは《自然》と呼ばれるその変幻自在なる百面相を相手に《存在》することを余儀なくされてゐる故にであらうと思はれる。しかし、頭蓋内の闇は宇宙全体をも更には無限をも容れる器と化すことも可能な《五蘊場》なのである。するとこんな問ひが自身の胸奥で発せられるのである。

――宇宙における想像だに出来ぬ諸現象は果たして《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に浮かぶ形象を遥かに超えた《もの》なのか? つまり、この宇宙は本当に《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する形象若しくは表象を超え出ることが可能なのであらうか? 

 すると、

――へっ、宇宙の諸現象と《皮袋》たる《一》者として《存在》する《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に明滅する《もの》を比べること自体無意味だぜ。

といふ自嘲が私の胸奥で発せられるのであるが、しかし、どちらも《吾》を超えるべく足掻くやうに創られてしまったことは紛れもない事実であって、更に言へば、遁れやうもないその事実は、此の世に《存在》するあらゆる《もの》たる《主体》に刃の切っ先が首に突き付けられてゐるやうに突き付けられてゐるのは間違ひないのである。そして、それは私の場合は《闇の夢》として象徴的に表はれてゐるのかもしれないのである。

 そもそも「闇」を夢で見て、それを《吾》と名指して嗤ってゐる《吾》とは一体全体何なのであらうか。

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

 此の時、《吾》は《吾》をすっかり忘失してしまってゐるのかもしれない。否、《吾》は、あり得べき《吾》と余りに違ふ《闇の吾》を見出してしまったが故に ――一方で其処には多分に《吾》が予期してゐた筈の《闇の吾》がゐるのであるが――己の内から湧いて来て仕様がない寂漠とした感情の尽きたところでは最早嗤ふしかないどん詰まりの《吾》を見出してしまったが故に、《吾》は《闇の吾》を嗤ってゐる筈である。

 さて、其処でだが、《闇の吾》以上に的確に《吾》といふ《もの》を表象する《もの》が他にあるのであらうか。

――分け入っても 分け入っても 深い闇

 種田山頭火の有名な「分け入っても 分け入っても 青い山」といふ一句を捩(もぢ)るまでもなく、《吾》とは何処まで行っても深い闇であるに違ひない。その《吾》の当然の姿である《闇の吾》が《吾》として《吾》の前に現はれたのである。当然ながら《吾》は腹を抱へて嗤った筈である。否、最早どん詰まりの《吾》は其処では嗤ふしかったのである。

 尤も其処には《吾》に絶望してゐる《吾》といふ《存在》を見出すことも可能であるが、既に夢で《闇の吾》を夢見てしまふ《吾》は、《吾》にたいして何《もの》でもないと断念してゐる一方で、また、何《もの》でもあり得るといふ自在なる《吾》を、《吾》は、《闇の吾》を《吾》と名指すことで保留して置きたい欲望を其処で剥き出しにしてゐるのである。闇程《吾》を明瞭に映す鏡はないのである。つまり、私が《闇の夢》を見ながら

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

と嗤ってゐるのは、何《もの》にも変化出来る《吾》を其処に見出して悦に入ってゐるのかもしれぬ、いやらしい《吾》を嘲笑してゐるに違ひないのである。そもそも《吾》とは何処まで行っても《吾》であるいやらしい《存在》なのである。

――しかし、《吾》は《吾》以外の何《もの》になり得るといふのか? 

といふ反論じみた嘲笑が再び私の胸奥で発せられるのであるが、《吾》のことを自発的にそれは《吾》であると嘯くしかない《吾》は、尤も一度も自発的に《吾》=《吾》を受け入れたことはなく、何時も受動的に《吾》なる《もの》を《吾》として受け入れるのである。それは諸行無常の世界=内に《存在》する《もの》の当然の有様で、世界=内に《存在》する以上、つまり、絶えず《吾》を裏切り続ける形で《吾》の現前に現はれる《現実》を前にして、《吾》はあり得た筈の《吾》を絶えず断念しながら《吾》を尚も保持しつつ、此の《吾》を容赦なく裏切り続けて已まない諸行無常の世界の中で世界に順応する外ないのである。そして、その《現実》での憤懣が《闇の吾》となって私の夢に現はれるに違ひないのである。

――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。

(四の篇終はり)

2009年6月13日(土) 06:43 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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幽閉、若しくは彷徨 三十六
――へっ、神は計測できるといふのかね? 

――例として解かり易く重力と時間を出しただけで、《神=重力と時間》ではないぜ。だが、神もまた計測可能で論理的に理解可能な何かなのは間違ひない。

――それはお前が一人合点してゐるだけじゃないのかね? 

――へっ、そもそも神を語るといふことは一人合点することじゃないのかね? 

―― つまり、神もまた悪魔の如く万物に変幻可能な、そして「ファウスト」のメフィストーフェレスの言葉を持ち出せば《常に悪を欲して、しかも善をなす、あの力の一部です》といふことから神を類推すれば《常に善を欲して、しかも悪を為す、あの力の一部です》といふ言説が出てくる訳だ。違ふかね?  

――ふっ、勿論だとも。そして神は《存在》に坐し、《非在》に坐し、《未存在》に坐すのさ。

――神もまた《主体》次第といふことか――。

――へっ、神が《存在》すると思へば神は《存在》し、神が《存在》せずと思へば神は一切《存在》せずさ。

――しかし、全てを《主体》に帰すのは危険極まりないことじゃないのかい? 

――ちぇっ、既に《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に全てを担はなければならぬ運命にあったのさ。だから、《主体》は神をも担ふそれこそ《神業》若しくは《インチキ》を何としても成し遂げねばならぬのさ、へっ。

――へっへっ、つまり、《主体》自体が《インチキ》だと? 

――ああ、勿論。《主体》こそ此の世の中での《インチキ》の中の最たる《もの》さ。

――しかし、《主体》自体は、その《インチキ》な《主体》に振り回され、神に振り回される。それを全て《インチキ》に帰して済ますのは問題があるのじゃないかね? 

――へっ、済む訳がなからうが! しかし、《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に、それが《インチキ》の汚名を受ける覚悟をし、腹を括った筈さ。さうせずには此の不合理極まりない世界に《存在》など出来やしなかった筈だからね。

――へっ、つまり、此の世そのものが《インチキ》だと? 

――それは解からない……。

――解からない? 此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切ってしまへばいいだらうが――。

――へっ、さう言ひ切ったところで何も変はらないし、ましてや《主体》は此の世から遁れられやしないぜ。此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切って全てを神の気紛れに過ぎぬと看做したところで、この宇宙も《存在》も痛くも痒くもないぜ。

――しかし、《インチキ》ならば手品の種の如くその《インチキ》のからくりは解かるだらう? 

――つまり、此の世の森羅万象が論理的に理解可能だと? 

――ああ。

―― しかし、さうやって此の世の《インチキ》のからくりが論理的に理解出来たところで、《主体》は生きた《主体》としてこの世界のからくりに組み込まれやしないぜ。つまり、《主体》は論理的かつ存在論的な《死》を宣告されて初めて《インチキ》な此の世に登場可能な《存在》に変化出来るに過ぎぬ。そもそも《主体》が、ちぇっ、《インチキ》な《主体》が、「此の世の森羅万象は《インチキ》だ」と言いひ切ることは存在論的に無責任だらう? 

――存在論的な無責任? 

――つまり、全てを邯鄲の夢の類に看做したい《主体》は、それでも厳然と此の世に《存在》しちまってゐるのさ。

――つまり、「然り」から始めよと? 

――へっへっ、土台、此の世が《インチキ》で済む訳がない! 

――詰まる所、《主体》は事実がそもそも嫌ひなのか――。

――例へば、科学的に論理的にどんなに精密に此の世のからくりを説明されても、《主体》は内心では「へっへっへっへっ」と嗤って、その科学的な論理をせせら笑って端からそんな《もの》で《存在》に肉薄など出来っこないと高を括ってゐる。

――それは何故かね? 

――つまり、《一》=《一》がそもそも《インチキ》だからさ。その《インチキ》の上に築かれた《もの》が《インチキ》でなくて如何する? 

――へっ、《吾》=《吾》の自同律も《インチキ》だらう? しかし、《主体》はその《インチキ》に縋り付くしかない――。

――それは何故かね? 

―― つまり、此の世は渾沌に違ひないが、それでもその渾沌を宥めすかして小さな小さな小さな糸口かもしれぬが、秩序を此の世に与へたいのさ。それは、何処まで行っても虚無でしかないことを知りつつも如何あってもその《インチキ》のからくりは解明して、而も何処まで行っても深い闇に包まれたままの《吾》を白日の下に曝したいのさ。しかしながら現時点では、自身には秩序あると考へてゐる《主体》には此の世を渾沌のままでは担へぬ矛盾に《主体》は直面してゐるといふのっぴきならぬ処へと追ひ詰められてゐる。

(三十六の篇終はり)

2009年6月8日(月) 04:36 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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蘗(ひこばえ) 一
 既に薪を使ふ日常を已めてしまった現代において雑木林は、その落ち葉を田畑の肥料に使ふ以外にその存在意義を失った感があるが、それを映すやうに大概の雑木林は荒れてゐるのが当たり前の風景となって仕舞った時代に生まれ落ちてしまった彼にとって、しかし、雑木林の中を逍遥するのは、日々新たな発見に出くはすので、彼にとっては荒れてゐるとはいへ、雑木林を逍遥するのは止められないものの一つであった。

 さうした或る日、彼は大きな虚(うろ)が根元近くにある一本の櫟(くぬぎ)に出くはしたのであった。

――あっ、零だ! 

と、彼は思はず胸奥で叫んだのであった。彼は樹の虚を見ると何時も

――零だ! 

と感嘆の声を秘かに胸奥で上げては、

――樹もまた《吾》同様《零の穴》をその内部に持ってゐる……。

と、何とも名状し難い感慨を持ってじっと樹の虚を眺めることになるのであったが、つまり、彼にとって樹の虚は或る種の親近感を彼に覚えさせるものの一つであったのである。

 虚の出自は零の出自に或るひは似てゐるのかもしれない。その初め一本の細い幹でしかなかった櫟等の広葉樹は、十年から二十年かけてしっかりとした幹に生長を遂げると、薪か炭の材料としてその一本の幹は切り倒される運命にあるのが、雑木林に存在する広葉樹の常であった。

 そして、眼前のその虚を持つ櫟の樹もまたしっかりとした樹に生長を遂げると《一》たる幹は薪か炭の材料になるべく切り倒された筈である。しかし、櫟等の広葉樹は主幹を失ったとはいへ死することはなく、かつて存在した《一》たる主幹の切り株から蘗(ひこばえ)の小さな小さな小さな未来の幹たる芽を出すのであった。さうして再び立派な幹に生長を遂げた蘗の幹もまた薪か炭の材料として切り倒された筈である。しかし、当然櫟の樹は再びその切り株から小さな小さな小さな蘗の芽を出した筈である。けれども、時代はBiomass(バイオマス)の時代から石油の時代に移り行き、その櫟の樹は長くそのまま放置されてしまった筈である。さうして《一》たる幹の切り株の跡は虚となって、つまり、「零の穴」となってその櫟は生き続けることになったのであらうといふことは想像に難くない。虚とは、大概、《一》たる幹を人工的に切り倒され、その切り株がその失った《一》たる幹の存在を埋めるべくその切り株から蘗が芽を出したその証左でもある。

 また、《零の穴》とはいへ、虚は様々な生命の揺り籠でもある。虚は、或る時は鳥の巣となり、或る時は動物の寝床となり、そして昆虫の棲処となり、と、虚はその様態を変へ生命の揺り籠になるのである。

 さて、其処で此の世に存在する森羅万象は、それが何であれ、《吾》や《他》や《主体》や《客体》等の在り方を暗示して已まない《もの》であると看做してしまふと、蘗もまた《存在》の在り方を、つまり、《吾》や《他》等の在り方を暗示する《もの》に違ひないのである。

 《吾》は《吾》の内部に《零の穴》たる《虚》、それを《反=吾》と名指せば、《吾》の内部には《零の穴》若しくは《虚》たる《反=吾》がぽっかりと大口を開けて厳然と《存在》する《存在》の在り方も在り得る筈である。それは喩へると、主幹が折れてしまふと必ず枯死する或る種過酷極まりない《世界》に《存在》し、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》として、一本の主幹のみを頼りにして此の世に屹立し生きる《存在》の在り方がある一方で、一度や二度の《吾》といふ主幹が折れようが、再びその折れた主幹の跡から蘗なる《吾》が芽を出すのを許容する何とも慈悲深い《世界》に屹立し生きる《存在》の在り方もある筈である。そして、《吾》とは、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》しか存続出来ない過酷な《世界》にありながら、最早、不意に《吾》たる主幹を何かに折られた《存在》でしかなく、それでも《存在》することを必死に而も喜んで欣求する蘗たる《吾》を芽生えさせるといふ、或る種の《インチキ》を成し遂げてしまった《存在》しか此の世は最早受け入れなくなってしまったやうに彼には思へて仕方がなかったのであった。しかし、さうなると、《吾》には《零の穴》若しくは《虚》がぽっかりとその大口を開けて《存在》してゐる筈で、彼には如何してもその《吾》の内部の《零の穴》若しくは《虚》ではまた《吾》ならざる《反=吾》の《存在》を棲息させ育む《存在》の揺り籠として《吾》には厳然と《存在》してゐるとしか思へないもまた事実なのであった。

――《存在》の《零の穴》若しくは《虚》には何が棲むか……。

と、彼は己に問ひを発するのであったが

――へっ、《吾》ならざる《異形の吾》に決まってらあ――。

と、せせら笑ふ《異形の吾》が不意にその顔を出すのであった。

(一の篇終はり)

2009年6月6日(土) 08:44 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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