| ブログの引っ越し |
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2010年11月23日(火) 07:03 [ ブログ ]
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| 幽閉、若しくは彷徨 七十九 |
――渦巻くところのみ《生》在りし、か?
――それは今のところ何とも言ひ難い。だが、此の宇宙は《存在》の濃淡があるのは確からしい。例へば銀河は此の宇宙に蜂窩状、若しくは網の目状に分布してゐるのは確実だ。
――それは二つの何かの流れがぶつかる処に銀河が生まれてゐるといふ事だらう?
――へっ、つまり、過去と未来の時間の流れがぶつかって現在といふ事象が銀河となって現はれるといふ事かもしれぬ、と言ひたいのだらう?
――ふっ、さうさ。流れがなければ渦は発生しない筈だ。
――その渦が時間の流れだといふ証拠は今のところないぜ。
――当然だらう。時間は《存在》に先立つだらう?
――時間が《存在》に先立つ? それは実存は本質に先立つといふ事の言ひ換へかね?
――さう捉へて構はない。
――つまり、時間は実存に先立ち、実存は本質に先立つといふ事だね?
――さうさ。先づ、時間の流れが《存在》しなければ此の世は生まれるべくもなかったのさ。
――そして、《存在》は絶えず時間に曝されて、やがては滅する宿命にある。
――つまり、現在は過去からも未来からも決して遁走出来ぬといふからくりが此の世の本質に違ひなく、現在は絶えず未来へ遁れ行きつつ、過去を振り返る。
――しかし、《個時空》といふ考へ方を持ち出せば、未来と過去は交換可能な《もの》といふ事だ。
――へっ、それが何を意味すると思ふ?
――つまり、《存在》には必ず寿命が《存在》するといふ事だね?
――さう。去来現の総体は《存在》が《存在》する以前に、それが発生した時には寿命は決まってゐるといふ事だが、現在に《存在》する森羅万象は未来が見通せずに己の寿命は解からず仕舞ひだ。
――しかし、ちぇっ、さうするとかうかな? つまり、或る一《存在》が去来現の総体を全うし、その寿命が尽きて滅するが、しかし、《他》が《存在》する故に時間の流れは《時代》へと、更には《紀》へと連綿と続く。
――つまり、時間は《存在》によってのみ体現される何かさ。
――すると、時間は時間のみでは《存在》出来ない、と断言してもいいかな?
――多分、それで間違ひない筈だ。だが、時間は実存に先立つ。
――その時間を体現するのが《存在》といふ時間のカルマン渦といふ訳か――。ふむ。
――だから、銀河もまた、《存在》のカルマン渦の一種に違ひない筈だ。
――そして、銀河と銀河の衝突時にStar burstによって爆発的に星星が出現す事を考へると、遠い将来衝突するかもしれぬ此の天の川銀河とアンドロメダ銀河の中に《未出現》の星星が現在数多《存在》する。
――それは矛盾した言ひ方だぜ。。《未出現》が《存在》するとは、一体全体何の事だね?
――つまり、未来が《存在》するといふ事だ。
――なあ、銀河は渦を巻くとしてだ、さうすると、銀河団もまた、渦を巻いてゐる可能性はなくはない筈だといふ事かね?
――多分ね。
――すると、大銀河団は渦の複合体かね?
――へっ、此の世の《存在》全てが渦の、ブレイク風に言へばMill(粉挽き機;私は敢へて歯車と訳す)複合体、つまり、ドゥルーズ・ガタリなどが言ふ機械といふ《存在》の様相を表象してゐるのかもしれぬのだ。
――さうすると、此の世は渦のFractal(フラクタル)な時空間といふ事だね?
――さうさ。渦が何処まで行っても渦に自己相似し渦ばかりのFractalな時空間さ。
(七十九の篇終はり)
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http://www.nihonbungakukan.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=4479
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2010年10月25日(月) 11:27 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 夢魔 六 |
――何故って、簡単な事だ。ふほっほっほっほっ。科学は神の摂理以上の公理や法則を見出せっこないと既に相場が決まってゐるぢゃないかね。
――神の摂理を超える科学的な論理か……。ふむ。
――所詮、人間の「智」は神には遠く及ばぬといふ事ぢゃよ。ふほっほっほっほっ。
――しかし、それでも、へっ、人間は神に敵はぬと知りつつも、此の世のからくりを解き明かしたい欲望を持った《存在》として此の世に生まれ出てしまった。
――ほう、それは初耳ぢゃ。人間が「智」でもって神に対峙するか、馬鹿らしい、ふほっほっほっほっ。
――何故に馬鹿らしいと即断できるのかね?
――人間の「智」は高が知れてゐるからぢゃ。
――ちぃっ、ほら、此れでも喰らへ!
と、私は再びそれが何もない空を切るだけで「だん」と畳を殴る事にしかならない事を十分に承知しつつも、何としても神神しい光を放ってゐるその翁目掛けて殴り付けずにはゐられなかったのであった。
――ふほっほっほっほっ。何をまた無意味な事を繰り返すのかね。人間と言ふ《存在》はどうも断念する事が下手糞な生き物ぢゃな。所詮、お主には虚空は殴れぬよ。
――へっ、何ね、無意味な事を十分承知しながらも、人間っていふ《存在》は、此の世に《存在》しちまった以上、どうしても無意味な事をやらなければ気が済まぬのさ。
――ふほっほっほっほっ。それで何か解かったかね?
――いや、何も。唯、俺は確かに此の世に《存在》してゐる事を否が応でも自覚させられ、そして、その様に己を認識せねばならぬ《存在》として、俺は確かに《存在》してゐると自覚する外ない《存在》として《存在》してゐるに違ひなく、ちぇっ、Tautology(トートロジー)か、まあ良い、そして、お前は、私の幻でしかないといふ事もまた確かだといふ事が解かったぜ。
――ふほっほっほっほっ。お主は確かに此の世に《存在》してゐると己を自覚若しくは認識し、そしてどの口が言ふのか、わしはお主の幻でしかないぢゃと。ふほっほっほっほっ。それではお主は全く納得出来ぬのぢゃらう?
――ちぇっ、何でもお見通しか。その通り、私は全てが納得出来ぬのだ。私が《存在》してゐると私が認識してゐるといふ事は、もしかすると全て私の思ひ過ごしか?
――さて、それはお主が決める事ぢゃ。
――へっ、私は確かに言った筈だよな。私が此の世に《存在》してゐると認識してゐるのも、もしかすると私の気のせいかもしれぬと?
――だから?
――私は実際、ちぇっ、詰まる所、此の世に《存在》してゐるのかね?
――確かに《存在》してゐる筈ぢゃ。
――筈ぢゃ?
――さう、筈ぢゃとしかわしには言へぬのぢゃ。
――すると、やはり、私の《存在》は私の気のせいの可能性がないとは言ひ切れぬのだな?
――だとして、さうだとして、それが何だといふのかね?
――いや、何、単なる愚痴だ。
――cogito,ergo sumぢゃて。
――詰まる所、人間、否、《存在》が神に対して詰め寄れた結果が今も尚、デカルトのcogito,ergo sumか。はっはっはっ。ちやんちゃらおかしい、ちぇっ。
――まあ、短気は損気ぢゃぞ。
――しかし、《存在》は未だに「思ふ」といふ事でしか己の《存在》を肯んじないんだぜ。これ程の笑ひ話があるかね?
――それぢゃ、お主に訊くが、お主が《存在》すると認識する、つまり、「現存在」としてのお主の意識は、さて、確かに《存在》する《もの》として扱っていいのかな?
――え? 一体何が言ひたいのかな?
――つまり、お主の意識は、果たして、此の世の《もの》と規定するその根拠をお主は認識してゐるのかね?
――へっ、つまり、それは、私の意識がその意識の《存在》の根拠を吐露出来るかといふ事だらう?
――さうぢゃ。
――ちぇっ、それがはっきりと断言出来れば誰も悩まないだらうが!
(六の篇終はり)
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2010年10月18日(月) 11:12 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 幽閉、若しくは彷徨 七十八 |
――まあ、その自滅に関しては後で話すとして、先の最強の生き物が此の世の全生物を喰らって鏖殺するといふはのは、笑ひ話にこそなれ、真剣に取り上げる程の《もの》ぢゃないな。
――何故に?
――何故も何もなからう。その最強の生物は毒でも発してもこの世に数多ゐる微生物すらをも鏖殺するとでもいふのかね?
――ふっ、人工的に生み出された最強の生き物が仮に微生物だとしたならばどうかね?
――例へば此の人類はInfluenza Virus(インフルエンザ・ウイルス)のちょっとした変異にすらびくびくしてゐるだらう?
――ふむ。
――しかし、Virusは人体といふ宿主の中で爆発的に増殖しても、その宿主たる人間が死ねば、Virusもまた死ぬといふ、つまり、Virusは自滅する事を現代で最もよく具現化した《存在》の一Model(モデル)と思へるがね。
――すると、此の世の王は微生物といふ事かね?
――さうでないとすると外に何が考へられるのかね?
――昆虫!
――昆虫もVirusには勝ち目はないぜ。
――へっ、それ以前にVirusは微生物ではないではないか!
――しかし、virusもこの世に《存在》する《もの》の一つだらう。
――下らぬ。これまた、下らぬ議論に終始する外ないぜ。
――別に下らなくても構はぬではないかね?
――しかし、極論を言っちまへば、無機物に有機物は敵はないのは火を見るより明らかだらう。
――それぢゃ、一つ訊くが、無機物といふ《存在》は、例へばBlack hole(ブラックホール)の《存在》に対して勝ち目はあるかね?
――一気に宇宙の話かね? ちゃんちゃら可笑しい!
――土台、此の世の最強の生物などと言ったところで、その最強の生物について語り出した刹那、どうあっても《存在》の存在論的な問ひへと向かはずして、何が語れるといふのかね?
――つまり、《存在》と《無》と《無限》の問題なのだらうが、ちぇっ。
――さうさ、ふっふっふっふっ。それを一言でいへば《特異点》の問題に帰す。
――またぞろ《特異点》か……。ちぇっ、そもそも《特異点》とは何なのだ!
―― へっ、それは今まで散散話して来ただらう。《存在》には少なくとも《特異点》を担ふ事は不可能なのは自明の理の筈だか、それでも《存在》は《特異点》を内包せねば、《無》と《無限》の断崖を落ちる外ないといふ《存在》が「先験的」に付与されし《存在》の危ふさへと《存在》する《もの》は既に追ひ詰められてしまってゐる事が問題なのさ。
――それは危ふさかね? 《存在》が《特異点》を内包する義務など、そもそもありはしないし、それ以前に《存在》が《特異点》を担ふ必要なぞこれっぼっちもないのぢゃないかね?
――ふっふっふっ。その通りさ。しかし、お前はお前の《存在》を「《吾》然り!」と全的に肯定できるかい?
――へっ、それは先にも言ったが、否だ。
――さう、《存在》が己の《存在》を全的に肯定出来ないであれば、《存在》を問ふのに《特異点》の問題は避けられぬ宿命なのさ。
――宿命?
――さう。《存在》の宿命なのさ、《特異点》の問題は。
――それに《無》と《無限》の問題も必然的にくっ付いてくる、違ふかね?
――さうさ。そんな事は先に話してきた筈だがね。ふっ、やはり、堂堂巡りが最も思惟に似合ふ思考法なのか、ちぇっ、へん、所詮また、堂堂巡りぢゃないか!
――それで構はぬではないか。土台、《存在》はそれ自体が渦を巻く《もの》だぜ。ふっふっふっ。
(七十八の篇終はり)
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2010年10月11日(月) 17:28 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 黙劇「杳体なるもの」 十一 |
――∞の時間の相の下、特異点のみ《存在》若しくは《イデア》若しくは《物自体》に《存在》する事を許されたとして、詰まる所、その特異点のみが平安だと君は言ふが、さて、それはどうしてかね?
――それまで得体の知れなかった無と無限が確定するからさ。
――無と無限が確定する? お前は何を言ってゐるのだ。
――へっ、時間が∞次元の相へと変はるんだぜ。当然、時間が∞次元だとすると、それまで、無とか無限としか名指し出来なかった《もの》が、その不気味な姿を現はさざるを得なくなるのさ。
――つまり、∞次元の時間が森羅万象のその不気味な姿を炙り出すといふ事か――。その時、その《存在》自体が呪はれてゐた特異点がそれまでの束縛から解放される……違ふかね?
――へっへっへっ、さういふ事だ。しかし、幾ら特異点が平安だからといって《主体》が特異点に素手で触らうものなら《主体》は大火傷間違ひなしだ。
――何故大火傷すると?
――何故って《主体》なる《もの》全て《吾》への《収束》を冀(こひねが)って已まない《主体》は、特異点に触った刹那、∞へと《発散》してしまふんだぜ。
――それは光になるといふ事だらう?
――さうさ。光だ。最早収拾出来ぬ光へと《発散》してしまふ。
――つまり、それは物質と反物質が出合ふと光となって対消滅する如く、《主体》は特異点に触れた刹那、光となって消滅するといふ事だね。
――いや、《主体》は光となって《発散》はするが消滅はしない。
――では何になると?
――森羅万象全てさ。その時、《杳体》の何たるかの尻尾位は解かる筈さ。
――それは無限へと変化する事と同義語か?
――ああ、無限と言っても全体と言っても何でも構はぬ。唯、《主体》を除いてゐればだがね。
――《主体》が《主体》を除いた森羅万象に《発散》する? ふむ。特異点では《主体》は《客体》に変化するといふ事かな?
――否、特異点には《客体》が《存在》する余地は残されてゐない。
――え? 《客体》が《存在》しないだと?
――ああ、特異点では、《客体》なる《もの》は《存在》しない。《存在》するのは《主体》を除いた、例へば《主体》の《抜け殻》のみが森羅万象と重なり合って《存在》する、何とも狐に化かされたやうな話だ。
――それは仮に名付けてみれば《反=主体》といふ事かね?
――否、《杳体》さ。
――え? つまり、《杳体》は《主体》の《抜け殻》として《存在》する外ない《主体》といふ事かね?
――へっへっ、何のことか君には解かるかね?
――へっへっ、本当のところは何のことかさっぱり解からぬ。
――だから《杳体》なのさ。
――先づ、《主体》除いた《主体》とは何かね?
――渦巻きで例へると渦の腕の部分の事だ。
――つまり、《主体》を除いた《主体》とは渦の中心の如く渦たる《主体》とは別次元の何かといふ事かね? つまり、仮に《主体》が四次元ならば《主体》を除いた《主体》は五次元の《存在》としてある事か?
――或るひはさうかもしれぬ。
――或るひはさうかもしれぬって、そんな言ひ種はないだらう。《主体》を除いた《主体》を《杳体》と言ひ出したは、君なのだから。
――実のところ、俺に解からないんだ、《杳体》が何かが――。
(十一 終はり)
自著『審問官 第一章「喫茶店迄」』(日本文学館刊)が発売されました。興味のある方は、是非ともお手にどうぞ。詳細は下記URLを参照してください。
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2010年10月4日(月) 23:10 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 幽閉、若しくは彷徨 七十七 |
――だが、直立歩行を始めた人類は、どうあっても 己自体の進化よりも環境を己のままに変へたい性(さが)はどう仕様もないのだらう、それが人類が誕生した「意味」だとしたならば?
―― はて、それは人類の性かね? つまり、環境がこれ迄生き物がその環境に順応するべく進化と言ふものは進んできた筈だが、人類が誕生したことで進化の過程は全生物史を通じてコペルニクス的転回をしてしまってゐて、《存在》が心身を進化させるのぢゃなく、人類は環境を徹底的に人工的な《もの》へと変へる事で、へっ、さうした結果、人類は生物学的な進化を已めてしまった《存在》として此の世に君臨したのだ。
――へっ、でも、人類は生物学の目覚ましい進歩により、人工的に生命を弄(いぢ)る技術を手にしただらう。
――すると何かね、人類にかかれば生物は如何様にも創り出す事が可能、つまり、到頭人類に至って生き物は創造主たる《神》をその玉座から引き摺り下ろしたと?
―― さあ、それはどうかな? つまり、人類が遺伝子操作をした生き物が、此の人工的な環境に適応出来るどうかは、譬へそれが人工的に遺伝子操作されてゐやうが、その生物次第だと言ふ事には何の変りもなく、つまり、《神》のみぞ知る以外に、今のところ何とも言へないのが本当のところかな。
――ふっふっふっ。つまり、人間が幾ら遺伝子操作を出来やうが、その遺伝子操作された《存在》が此の世で生き残れるか、死滅するかは今も未だ、《神》の御手のままとしか言へない、ちぇっ、博奕みたいな《もの》と言ふ事か――。
――つまり、《存在》の鬼子を人類は生み出してしまふ可能性を手にしたのだ。
――《存在》の鬼子とは?
―― 多分、人類によって遺伝子操作されて此の世にいやいや出現させられた数多の《存在》の中で、此の世の人工的な世界に最も巧く適応する《存在》たる生き物は貪婪極まりなく、庶民を含めたその他大勢の《存在》が反対したとしてどう足掻かうが、科学者の性としてその貪婪極まりない未知の生き物は誕生させずにはいられぬ筈だが、へっ、さうするとその此の人工的な世界に巧く適応出来たその遺伝子操作された《存在》たる未知の生き物は、その外の生き物全てを喰らふことで全生物を鏖殺(あうさつ)し、、己の種のみ繁殖させる事だけを第一に、最早自身では種の繁殖に歯止めがかからず、とどのつまりは、その生物のみがこの世に《存在》することから、その遺伝子操作された未知なる貪婪極まりない生き物たる《存在》は共食ひをする外なく、つまり、他の《存在》たる生き物を全て喰らって鏖殺してしまった暁には、同類のその《存在》たる生き物を喰らふしかその《存在》たる生き物は《存在》する術がなく、さうなって初めて《存在》は同種の《他》の餌になる可能性を秘めたまま《存在》する、つまり、共食ひによってしか生き残れない生き物たる《存在》を誕生させて初めて、《存在》は己の《存在》の何たるかの一端が垣間見られる筈だぜ。
――それが《存在》の鬼子?
――さう。俺には究極的には《存在》は己を餌にして生きる《存在》を誕生させる事を最終目標にしてゐる節があるとしか思へぬのでね。
――己を喰らって生きる《存在》? 馬鹿らしい!
―― 何故馬鹿らしいと言い切れるのかね? 人類は遺伝子操作する事で此の世で最強の生物を創り得る術をとっくの昔に手にしてしまったのだぜ。其処で、仮にその最強の生物をこの世に誕生させて解き放せば、詰まる所、その最強の生き物は最強故にその生き物の種以外は全て喰らって鏖殺せずば最強たる所以である筈もなく、さうすると生物多様性は完全に消滅し一種の生き物のみが此の世に君臨する単調極まりない世界が到来するに違ひなく、その時、最強の生き物たるその《存在》は己と同類の《もの》を共食ひする外なく、しかし、生き物の本質に《他》を喰らふ事を何としても回避する性が潜んでゐるならば、その最強たる《存在》の生き物は、最終的に己を喰らって生きる、へっ、大いなる矛盾を生きる生き物をもしかすると人類は遺伝子操作によって生み出すかもしれないんだぜ。
――ちぇっ、それはお前の単なる妄想でしかない!
――だが、妄想は、生物の進化に関はってゐるのぢゃないかね? でなければ、闇の中にある深海の生き物がGrotesque(グロテスク)な姿形である筈がない。そして、人類は人類の妄想をすら遺伝子を操作する事で、人類の妄想を具現化した生物を、つまり、《妄想=存在》を創り出す術を手にしちまったのさ。
――しかし、それは《存在》の自滅でしかないのぢゃないかね?
――勿論、さうさ。しかし、《存在》が究極的に望む事は《存在》の自滅ぢゃないかね?
(七十七の篇終はり)
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2010年9月27日(月) 20:14 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 水際 十一 |
――ふむ。人口減少社会の突入か……。
――さう。人間が生物に対してしてきた報ひとしか俺には思へぬ人口減少社会へと移行する外ない此の社会では、これから圧倒的に《死》の《存在》が多くなる。つまり、《生者》は生存する限り《他》の《死》を何度となく見届けなければならぬのさ。
――それには、勿論、富の移動も必然と言ふ事だね。?
――ああ、当然だ。これまで貧困に喘いでゐた国国の勃興で富は其方へ移動する筈さ。そして、人口減少社会へと突入した此の国は徐徐に貧しくなるのが道理だ。
――へっ、さうなって初めて此の国の《生者》は切羽詰まった上での自棄のやんぱちででも存在論を、その言説が誰にも理解可能な言質で新たなる存在論を立ち上げるしかない、かな?
――既に此の国には貧困が厳然としてあり、その悲惨な現状が社会問題化してゐるが、こんな《もの》でこの国の貧困が済む筈がない。
――ふっふっふっ。衰退をとことん味ははなければならぬ定めなのだらう?
――さうさ。《生者》の論理ばかりが罷り通ってきたその報ひを《生者》は生き残るために受容しなければならない。
――つまり、何を《生者》は受容しなければならぬのかね?
――諦念、若しくは悲哀、それも《存在》する事の悲哀さ。
――そんな事は、既に現在《存在》してゐる《生者》は嫌と言ふ程に味はひ尽くしてゐる筈だがね?
――へっ、これからはそれがもっと露骨になるのさ。衰退し始めた国から富が逃げ出すのに一日もゐらなんだぜ。
――それぢゃ、《生者》は子を産めよ殖やせよと?
――いいや。子を儲けるのは既に《生者》の裁量に、つまり、《生者》が《自由》に決定する《もの》に成り下がっちまった故に、子供が増へるなんてあり得べくもないお手上げ状態と言ふのが正直なところさ。しかし、《生者》が《生》の《自由》を味はふには、《生者》は《自由》である事の全責任を担はざるを得ぬのさ。
――《自由》の全責任とは?
――つまり、徹頭徹尾独りで死ねことさ。
――ちぇっ、そんな事はお前が言はずとも太古の昔より《死》は死して行く《もの》しか解からぬ《もの》ぢゃないかね?
――へっへっへっ。さうぢゃないさ。誰にも看取る《生者》が《存在》しない中で、その死に行く《生者》はたった独りで《死》を迎へるのさ。
――だが、孤独死の話なんぞは今に始まった事ではないぜ。
――誰も孤独死の話なんぞしてやしないぜ。
――ぢゃ、お前の言ふたった独りでの《死》とは何かね?
――神も仏も《存在》せぬ《死》さ。
――神も仏も《存在》せぬ《死》? そんな《死》が《存在》するのかね?
――へっ、人類史の残酷さを見れば神も仏もない《死》なんぞ珍しくとも何ともないぜ。
――しかし、それは、これまでは特異な《死》であったに違ひない筈だが、これからはその特異な《死》が普通一般の《死》となるのは間違ひないと言ふ事か……。
――何故さう思ふ?
――《生者》は何としても《死》を此の世から隠し通したいからさ。それ故に《死》を迎へる最期の《生者》は《生》とは隔絶した処で、ひっそりと独りで死んで行くのさ。
――つまり、それは《生者》が《自由》に対して最期まで無責任極まりなかったことの哀れなる最期と違ふかね?
――さうさ。その通りだ。これ迄《生者》は《自由》に途轍もない、《生者》独りでは背負ひきれぬ《生者》たる事の責任が厳然として《存在》してゐるにも拘はらず、其処から目を背けてゐたし、これからも《死》ばかりが増える衰退して行く社会でも《生者》たる事の責任をどんな手を使ってでも回避する事ばかりに現を抜かす筈だ。
――それぢゃ、《生者》は如何に《死》から逃げられるかばかりを追ひ求める卑劣な《存在》に等しい、ちぇっ、つまり、下らぬ《存在》に成り下がっちまっただけぢゃないか!
(十一の篇終はり)
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2010年9月20日(月) 14:32 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 幽閉、若しくは彷徨 七十六 |
――例へばそれを人類に絞った処で、その残虐非道な出来事を語るのに枚挙に暇がないのは勿論だらう。
――そのために基督、並びにその外大勢が殉教と言へば聞こえはいいが、詰まる所、人類史は即ち、死屍累累の歴史に外ならない《存在》の皮肉!
――一つ尋ねるが、これから生まれ出る未来人は、その残虐非道を極めたとも言へる人類史のその残虐非道の歴史を背負はざるを得ぬかね?
――どうあっても《存在》する以上、それから遁れられない!
――すると、未だ生まれもせぬ未来人は、生まれる以前に《存在》に呪縛されてゐるといふ事になるが、さて、未来人はそれを受け容れるべき宿命として認めるしかないと?
――ああ、未だ生まれざる未来人は、全宇宙史を背負ふやうに強要されてゐる。
――それは何故にかね?
――へっ、簡単さ。《存在》する故にさ。
――つまり、《存在》は「先験的」に呪はれた《もの》でしかないと?
――ああ。だから宗教が《存在》するのだらう。
――しかし、《存在》にとって宗教では未来永劫に救はれぬのだらう? へっ。
――勿論だとも。《存在》は、宗教といふ《もの》に縋り付いた処で、最後は《弧》に帰す。その《弧》が独りで全宇宙史における《存在》の残虐非道ぶりに愕然とし、それでも尚、《存在》する事を自ら選ぶのさ。
――そこに、例へば、《存在》するかはないかの選択の自由が《存在》するとしたならば?
――《存在》せぬ方を選ぶ腑抜けは、さっさと自殺でも何でもしちまへばいいのさ。
――へっ、つまり、お前は自殺も《存在》に「先験的」に備はった選択肢の一つだと?
――勿論。自殺は何の悪い事がある《もの》か。むしろ、現在では、自殺をする人間の方が正常ぢゃないかね?
――しかし、自殺は地獄行きなんだらう。
――当然だ。しかし、生きるも地獄ぢゃないのかね?
――つまり、それは《存在》は絶えず自死するか存続するかを問はれ続ける《もの》として、「先験的」に決められてゐる事になるが、《存在》はそれが《存在》する以前に「先験的」に決まってゐる事が余りにも多過ぎやしないかね?
――ふっ、お前は少ない方がいいとでも考へてゐるのかね?
――ふむ。成程、「先験的」な事が多過ぎる故に《存在》が成立するか……。
――「先験的」といふ制約が多岐に亙ってゐなければ、《存在》は《存在》の影すら此の世で拝めないとすると、つまり、此の宇宙の秩序に忠実に従へられる《もの》しか此の世に《存在》せぬとしたならば、へっ、《存在》とはそもそも何なのかね?
――生老病死だらう。
――そして、諸行無常か! はっはっはっは。
――しかし、《存在》は時空間を自らの望むやうには全く手出し出来ぬ故に、つまり、時空間を思ひのままに変容させることは不可能だらう。
――だが、この愚劣な人間は、環境を人間の頭蓋内で明滅した表象を具現化して、環境を内界を外在化するべき《もの》と人間が勝手に看做して、環境を勝手気ままに変へ放題だらうが!
――つまり、それは内も外も脳の中といふ何とも異常な世界の事だらう。
――さう。愚劣な人間は《存在》が背負はずにはゐられぬ呪縛が少しでも解放されるのではないかと、環境を人工化した、その結果どうなったかね?
――更に《存在》の苦悩は深まった……。
――さうさ。環境が人工化すればする程、愚劣な人間の孤独感は深まるばかりで、世界を《吾》以外が《存在》する処としてしか、実感する事がいつの間にか出来なくなってしまってゐた。へっ、もう手遅れだらう。環境が自然に戻るのは?
(七十六編終はり)
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2010年9月13日(月) 11:35 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 雑談 二 |
(これから複数の者らしき存在が出てきますが、敢へてそれらを一人物として分けせずに書いています。この「雑談」がたった一人なのか幾人もの「雑談」なのかは読者の判断に任せます)
――おっと、お前ら二体で何を話してゐるのかね?
――いや、何、《神》についてさ。
――《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとって、その《存在》が楽、若しくは気休めになると話してゐたのさ。
――ふむ……。《神》ね……。
――何、何、何?
――今、此奴にも言ったのだが、《神》が《存在》した方が《主体》にとっては気休めになると話してゐたのさ。
――ふむ。《神》か――。また、余りに人間臭い事を、へっ。
――そして、さうしてゐる内に《実存》といふ現在では人間の手垢に塗れた時代錯誤の世界認識の方法を再び此奴が持ち出したのさ。
――それにギリシア哲学もだぜ。
――早い話が人類史を、否、此の宇宙史全史を問ひたいのだらう?
――さう! 此の宇宙史全史だ。
――さうすると、此の世に《存在》する森羅万象のその《存在》を問ふてゐるとていふ訳か……。
――へっ、《杳体御仁》!
――《杳体御仁》とは私の事かね?
――へっ、私って一体誰の事だい? 全員が《吾》だらう。
――さういふお前は一体何を話さうとしてゐたのかな。
――つまり、《神》は数学を《超越》出来るかね? 《杳体御仁》ならば、何と答へる?
――ふっ、それこそ不確定な事しか言へぬぞ。
――ゲーデルかね?
――ゲーデル?
――誰だ、ゲーデルとは?
――いや、ゲーデルの不確定性原理をここで持ち出すのは危険だ。
――しかし、《神》に関して言へば、《神》が《存在》するとも《存在》しないとも、いづれも証明不可能だ。ならばだ、《神》は数学を《超越》するかどうかは気になるのが自然な事だらう?
――それぢゃ、お前が今言った様にゲーデルを持ち出す以前に既にカントが《神》についてアンチノミー(二律背反)として、《神》に関しては手を出さない方が身の為だと警告してゐるぢゃないかね?
――ふっ、《杳体御仁》よ、しかし、《存在》にとって、それは森羅万象について言へるのだが、《神》は《存在》した方が《吾》たる《主体》にとって気が楽だらう?
――何の事かね、それは?
――ふむ。
――何、何、何? 《神》が何と?
――つまり、《神》が《存在》した方が《主体》は楽だといふ事さ。
――何を根拠にさう言へるのさ。
――さうだ。《神》が《存在》した方が《吾》といふ《主体》、または《他者》と共有する世界=内=存在する「現存在」にとって気が楽といふその根拠を示せよ。
――《個時空》をここで持ち出せばハイデガー的な《時間》では最早世界認識は永劫に不可能と言ふ事だ。しかし、《死》を《神》と共有するのであれば、もしかすると「現存在」にとって《存在》することは気が楽なのは確かなのかもしれぬ。
――さうなんだ。《神》を媒介としてこの世界=内=存在と呼ぶところのその《世界》を《他者》ばかりでなく《死》とも共有した《世界》であった方が自然な気がする。
――しかし、《死》の可視化は金輪際出来ぬぜ。
――へっ、そこでだ、《杳体御仁》よ、《生》と《死》について考へると《神》が此岸と彼岸を繋ぐ或る何かだとして、その《神》が《存在》すると看做した方が、「世人」にとっては此の《世界》は断然意味深い《もの》へと変貌する筈だが、どうかね?
――どうかね、だってさ。
――《杳体御仁》よ、ずばりと言っちまひな、つまり、《神》は何として《存在》してゐた方が絶対的に自然だ、と。
(二の篇終はり)
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2010年9月6日(月) 10:29 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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| 幽閉、若しくは彷徨 七十五 |
――しかし、或る種の人間は人身御供としての生贄を欲せざるを得なかった。
――それは何故かね。
――つまり、己の《存在》するといふ事態に堪へられなかったのさ。
――つまり、私は、私によって躓いてしまった。それ故に《吾》が《存在》する担保として基督を、人類を救ふべく生贄として差し出してしまった。
――そして、今も尚、基督は磔刑されたままの姿の塑像となってまで人前にその無惨極まりない姿を曝すやうに強要され続けてゐるのは一体全体何としたことか!
――つまり、それは、人類がさうである事を欲してゐるからか……。
――さう。基督が死んでから既に二千年以上経ってゐるのに、《存在》の全苦悩を背負へる《存在》は、基督や釈迦牟尼仏陀やムハンマドなど、哀しい哉、ほんのほんのほんの一握りの《存在》だけなのさ。
――つまり、それはドストエフスキイが図らずも予言してゐた一握りの人々、それを猊下(げいか)と称すれば、そのほんのほんのほんの一握りの猊下が人類をはじめとするあらゆる《存在》の全苦悩を背負ひ、それ以外の大多数の「世人」若しくは《もの》は、苦悩から全的に解放されるといふ考へへとどうしても至らざるを得ぬと言ふ事だね?
―― 現実が既にさうなってゐるぢゃないか。それを何とか変へやうと自然、もしくは《神》に言挙げしたのが、ドストエフスキイやニーチェなど、極極少数の人間といふ意識体で、しかし、《存在》は《存在》する事で「先験的」に背負ふ苦悩をその極極少数の猊下に帰して、その苦悩を自分の事ではなく、つまり、他人事の《もの》として仮象する何とも便利な思考法を身に付けてしまった。
――では、何故に基督は今も磔刑された姿で人前に曝されなければならないのか?
――見せしめさ。
――見せしめ? それぢゃ、基督は晒首と同じ事ぢゃないのかね?
――当然だらう?
――当然? これは異な事を言ふ。
――逆に尋ねるが、何故に異な事なのかね?
――基督は、磔刑にされたその時、罪人だったかね?
―― 其処さ。今もってよく解からないのは。福音書を読む限り、基督は「ローマ政府への叛逆」がその罪状となってゐるが、それは、しかし、後付されたものに過ぎぬだらう。するとだ、何故に基督は磔刑にされ、現在に至るまでその惨たらしい磔刑像として、その御姿を人前に曝し続けなければならないのかね?
――基督教徒にとっては、今も尚、基督しか《存在》する事の苦悩を全的に背負ひ切れぬからさ。
――それで、基督教徒たちは自己卑下して己を「羊」と名指すのか――。
―― だが、「羊」と己の事を名指す《もの》は、へっ、一皮捲れば、いやらしい醜悪、且、狡猾な此の世の支配者然として、己の《存在》を誇示して已まないといふ矛盾を、ちぇっ、矛盾だとこれっぼっちも気付かぬ振りをして、自然に対峙するといふ愚劣な事を平気でやってのけるのさ。
――そのための免罪符としての基督の磔刑かね?
――さう、どんな宗教も同じだが、「全ては神の子、イエス・キリストの為」といふ、若しくは「全ては天皇の為」といふお題目は、全て、残虐行為をなす為の目隠しとして機能する、ちぇっ、大儀なのさ。
―― つまり、全《存在》が行ふ残虐非道な行為へと《存在》がひょいっと簡単に踏み出す己の正当性を、例へば基督に求めて、へっ、此の人類史、否、此の宇宙史でなされた残虐非道で愚劣極まりない行為のその罪過を全て基督など極極少数の、それも基督に至っては無実の罪で磔刑にされたのだか、つまり、人間が残虐非道な行為を行ふその免罪符として基督は磔刑にされ、「神の子」といふ《神=人》へと昇華させざるを得なかった程に、へっ、《存在》は己の為ならば《他》を平気で殺す己の残虐非道性に酔ひ痴れたかったと?
――さうさ。歴史とは元来がさういふ残虐非道な《もの》ぢゃないかね?
――ふっふっふっ。さうだな。残虐非道な事を《存在》が行はなければ己が滅んでゐたに違ひないからな。
――すると、《存在》が尚も《存在》を続ける為には必ず基督などの人身御供たる生贄が必要だと?
(七十五の篇終はり)
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2010年8月30日(月) 15:35 [ 哲学 文学 科学 宗教 思索 ]
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