ココロのバランスを。。。
2006-07-30 21:32:00
新潮文庫の夏のフェアにも理由があるのか、夏になると私は谷崎潤一郎や太宰治を読んでしまう。何かの映画で精神の病んだメル・ギブソン演じる主人公が何度も『らい麦畑で捕まえて』を購入してしまうエピソードがあった。それと同じように、私も何度も、何度でも太宰治の『斜陽』を買ってしまう。恐ろしい事に、自分が持っているのを知っていても買ってしまう。もはや病気である。
つい昨日気がついたんだけども特に、昨日のブログに書いたような心のバランスを崩しているときに、私はこの『斜陽』を読んでしまう傾向にあるようだ。一度、そんな事に気がつくと、後はもう、回復方向に向かうだけである。昨日ご紹介した坂口安吾の『不良少年とキリスト』はそんなときにはもってこいの1冊である。ご紹介し切れなかったので、もう一度書いちゃいますが。。。
この1篇との出会いは、太宰好きの私に古くからの友人O氏が薦めてくれたのがきっかけ。「『堕落論』の中にある」と教えてくれたのに、以前私の読んだ『堕落論』の中にあったかしら?なんて思って、もう一度本屋さんに行って購入してみたものの、家に帰って読んでみたらやっぱり無い。。。なぜかしら?と思っていたら、何のことは無いO氏と私の言っている『堕落論』は出版社違いで、その編集内容が少々違っていたのである。
ちょっと、話が横道にそれてしまったけども、そんな苦労して手に入れた本。この中で、坂口安吾は太宰のことを
「時々、本物のM.C(マイ・コメディアン)になり、光り輝くような作品を書いている−立派なものだ。堂々、見上げたM.Cであり、歴史の中のM.Cぶりである。−しかし、それが持続できず、どうしてもフツカヨイのM.Cになってしまう。−それを繰り返しているようだ」
と評する。
M.Cとは、生前、太宰が自称したマイ・コメディアンの略なのであるが、太宰は彼の抱える葛藤や生い立ちへのコダワリから、どうしてもコメディアンになりきる事が出来なかった。彼のコメディアン的要素を自ら笑う事が出来ずに、コダワリとして残したまま生み出した作品の事を、坂口安吾はフツカヨイと言っているのだと思う。
よく考えてみれば、私にしてもココロのバランスが崩れたときに太宰を読みたくなるのは、きっと太宰が生きていくうえで基本的に“迷子ちゃん”だからなのだと思う。人は、無意識に感情移入が出来たり、あるいは自分に考え方がどこかで共感してもらえるのを期待しているのだろう。だからバランスを失った“迷子ちゃん”な私は、知らず知らずのうちに、太宰を手に取る。そして、深く深く自己と対峙するのだ。そうして落ちるところまでココロが落ちると、今度はたとえ問題が山積みであろうと、一気に羽のように軽くなるのだ。山積みの問題がなんなのかが判るから。あとは、バッサバッサと片付けていくのみ!
と、それこそ坂口安吾の言うところの、フツカヨイ文になってしまいましたが、こんなフツカヨイも時には必要なのです。。。
さぁ、明日からは全開だ!!












