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本しゃべりずむ

『王様は。。。』

2007-08-24 00:43:30


先日、もう結構いい年なのに、書店で見かけて思わず姉にねだって本を買ってもらった。昨年このブログで紹介した『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』の著者、森達也氏の新刊『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』である。



もともと、森氏のドキュメンタリー映画『A』に興味を覚え、氏のマスメディアに対する姿勢やジャーナリズムの抱える諸刃の剣的な考え方に、普段から私の感じているモヤモヤを投影させて見ていたので、例えオサイフが少々頼りなげでも、是が非でも早く読みたかった本だった。だから、久々に会った姉にネダルなんて、強硬な真似をしたのだろうと、自分にいい訳しながら、むさぼり読んだ。

以前紹介した、森見登美彦の『新釈 走れメロス』も頭の中にあったので、オビ文句の「誰もが知っている15の物語に託した痛烈パロディ」という誘い文句にすっかり騙され「森氏は宗旨替えして、文芸にいったのか?」なんて激しい誤解をしていた事を、読み進めるうちに理解し、赤面する。森氏が試みたのは、寓話を元にした、独創的な社会論であった。

おとぎ話や童話の寓意を元に、現代のイデオロギーや事件・時事ネタと照らし合わせて巧みに紹介していく様は、読み進めて行くうちに思わず、前のめりの体制にさせる程、興味深く、読み応えがある。これまた、以前紹介したレーモン・クノーの『文体練習』の1遍を読んでいるかのようだ。「なるほど、立場を変えて、見方を変えればひとつの物語とは、こんなにも大きく膨らみ、また、全くちがう話になってしまうのだなぁ。。。」と。
絶品の1冊です。

『吉原手引草』

2007-08-12 01:25:39

先々月かな?浅田次郎の『月島慕情』を読んだのは。。。
それで吉原の話づいたのか、書店にて妙に気になって手にした本が、この『吉原手引草』である。



内容をアマゾンから転用すると
なぜ、吉原一の花魁葛城は、忽然と姿を消したのか? 遣手、幇間、女衒ーー人々の口から語られる廓の表と裏。やがて隠されていた真実が少しずつ明らかになっていく……。吉原を鮮やかに浮かび上がらせた、時代小説のあらたな傑作!


形態としては、有吉佐和子の『悪女について』や、映画『市民ケーン』を彷彿させるかのように、物語の主人公となる人は一切表に出ず、その人に関わった人々へのインタヴューによって話が進められて行く。それぞれの人の独白によって、花魁・葛城に興味を引かれ、次第に吉原の世界に惹き込まれて行くのである。

ぐんぐん読んでしまえる程、面白いが、ふと、思いを馳せる。花魁になった葛城の女としての哀しさや、賢さ、逞しさ。あの時代に、そうせざるを得なかった彼女は、自分の運命をどのように捉えていたのだろう?そして、全てが終わってしまった後、彼女は何を思ったのだろうと。ま、フィクションなんだけどね。

昔観たヴィヴィアン・リーの映画『哀愁』を急に観たくなる1冊である。


『斜陽日記』

2007-06-17 00:06:28


兼ねてから「太宰を読む時は、気分的に落ちている時」と書いているので、あれですが。。。最近の私は、精神的にも元気なくせに太宰関係の本を読んでいる。それもこれも、書店にて太宰関係の書籍を一気買いしたせいなのであるが、事の発端は森見登美彦の『新釈 走れメロス』だ。

もともと、太宰好きなくせに『走れメロス』は、どちらかというと嫌いなお話であった。自分勝手で我が儘で「なんで、あんな嫌なお話を教科書に載せていたんだろう?」なぁんて思っていたが、森見版のメロスを読み、そして最近になって檀一雄の『小説 太宰治』を読んだら、そんなに嫌いではなくなった。

森見版はコミカルで非常に楽しく、檀一雄の『小説 太宰治』は「えええ?『メロス』って、モデルになる元の話があったのね!」と私を妙に納得させる作品だった。こうした関連ものを読むと、「なんだ、結局情けない太宰自身が自分を言い訳する為の話だったんだ」なんて思うと元々の『走れメロス』もついうっかり肩の力を抜いて楽しめるから不思議である。

で、今読み終わったのは『斜陽日記』
ご存知の方も多いとは思いますが、太宰の『斜陽』は、この太田静子の『斜陽日記』を元に書かれていたのである。『斜陽』好きとしては、あえて読まないようにして来たのだけど、結局好奇心が勝ち、読むに至った。

内容をアマゾンから転用すると

太宰治が没する前年の12月、『斜陽』は大ベストセラーになった。この小説が、実在の女性・太田静子の日記をもとに書かれたことは文壇史に名高い。しかしこの日記は太宰治の亡くなった1948年秋に発表されて以来、版を重ねることはなかった。戦中の疎開先で淋しく母を看取る娘の心細く健気な心情を伝える日記から、いかに魅力的な小説に展開させたか、太宰の作家としての力量を見る上でも貴重な幻の資料が、没後50年の今、甦る。

ながらく避けて来たけど、読んでおいて良かったと思う。ますます『斜陽』が好きになった。あの作品が素晴らしかったから、きっとこの本もただの日記ではなく、価値あるものになったのだと思うのだ。

時として、私は人から「やや四角四面で頭が固い」と評される事があるし、自分でも自覚がある。そんな私の心地よい倫理観とは合致しない、不倫・妊娠・出産などの「モラルや思想の度外視」をしても、やっぱり『斜陽』は素晴らしいと思う。特に気に入っているのは、主人公のかず子が最後の手紙の中で書いている言葉である。

抜粋すると

この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治などがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてさしあげますわ、女がよい子を生むためです。

と、こんな一文である。美しく、か弱く、ひとりではとてもやって行けそうもない主人公が、こんな風に図太く達観した事に、清々しいたくましさを感じ、強烈に惹き込まれる。この一文があるからこそ、この本が好きなのだ。

で、『斜陽日記』に話を戻すと、この本は興味深いものの、やっぱり個人の日記に過ぎないと思って読み進めていたけども、この作品の最後に「『斜陽』のかず子の最後の手紙、あの一字一句、そのままに、生きようと思います」と書いてあった。もう、その一文だけで充分である。この一文だけで、私の本棚から消える事のない本になったのだと思う。

『夜は短し歩けよ乙女』

2007-03-12 01:41:45


最近、このブログを読んでくださった方々から嬉しいお便り、ちらほら有り。嬉しい。特に、私の大好きな池上永一モノの反応が好いようである。つい、本が人にもたらす連鎖反応についてなど、改めて思い莞爾する。そもそも、私に『風車祭』を「読んでご覧」と薦めてくれたのは、師匠Kである。それ以来というもの、池上永一氏の作品は追っかけ読みしていると、以前のブログでも書いている。そんな事も在ってか師匠から薦められる本には絶大な信用を持って読んでみているのである。

そんな師匠から薦められた『夜は短し歩けよ乙女』ちょっと文章に癖が在るけど、うまくそこにハマると、すごく面白いよ」との事。。。ハマりました。読んだ後も、ドキドキして胸に甘酸っぱいさわやかさが広がり、困ってしまうくらいにハマってしまったのである。何故、この作家を今まで読まなかったんだろう?他はどんなのを出しているのかしら?なーんて思わせる森見登美彦氏である。



アマゾンから内容を転用すると
鬼才モリミが放つ、キュートでポップな片想いストーリー!
「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めた。二人を待ち受けるのは奇々怪々なる面々が起こす珍事件の数々、そして運命の大転回だった!

内容(「BOOK」データベースより)
私はなるべく彼女の目にとまるよう心がけてきた。吉田神社で、出町柳駅で、百万遍交差点で、銀閣寺で、哲学の道で、「偶然の」出逢いは頻発した。我ながらあからさまに怪しいのである。そんなにあらゆる街角に、俺が立っているはずがない。「ま、たまたま通りかかったもんだから」という台詞を喉から血が出るほど繰り返す私に、彼女は天真爛漫な笑みをもって応え続けた。「あ!先輩、奇遇ですねえ!」…「黒髪の乙女」に片想いしてしまった「先輩」。二人を待ち受けるのは、奇々怪々なる面々が起こす珍事件の数々、そして運命の大転回だった。天然キャラ女子に萌える男子の純情!キュートで奇抜な恋愛小説in京都。

独特な筆致で、とにかく美しく、もう廃れてしまったような日本語をスルリスルリと嫌み無く書き進める文体や、出て来る登場人物すべての愛おしさ、可愛らしさは、私の心を捉えて離さない。

ふと著者略歴を見れば、この方も日本ファンタジーノベル大賞出身(?)の作家である。恐るべし、ファンタジーノベル大賞。。。気がつけば、この大賞を受賞した作家にはハズレが無いような気がするのである。

師匠が私に勧め、作家や受賞者の追っかけ読みをし、ここで紹介し、また誰かがこれを読んで、新しい好奇心の芽が出て、また誰かに紹介する。。。口コミってひと言で言ってしまえる事だけど、これって素敵な連鎖よね?と思うのである。

原作と映画

2007-03-07 04:24:02


最近なんだか映画づいている。しかもそのほとんどにハズレが無いのが不思議である。3月は好い映画が多いと言われているそうだが、そんな定説を初めて身を以て感じたように思う。映画業界が頑張っているのか?たまたま好い映画に出くわしたのかは判りませんが。。。

先々週末『華麗なる恋の舞台で』、今週末『パフューム』と2週続けて原作に忠実な作品を観た。たいていの場合「映画化決定!」となると、私はいつも葛藤を覚える。「観たい」という気持ちと「絶対、がっかりする」という気持ちのせめぎ合いがあるからなのですが、やっぱり「観たい」気持ちが勝ってつい観に行ってしまうのだ。

『華麗なる。。。』は先日このブログでも紹介したサマセット・モームの『劇場』の映画版。ページのボリュームを見ただけでも、絶対に2時間強の映画では収まりきらないはずなのに、うまい演出がカバーして、おもわず唸ってしまう。何よりも主人公のジュリアをアネット・ベニングが演じているのも、原作にイメージとぴったり。彼女が恋する年下の青年役も、本を読んで想像していた通りの「見るからに馬鹿で軽薄そう」なキンパツ君だった事も、登場シーンからくすくす笑ってしまえるくらい。痛快で、ちょっと切なく素敵な映画でした。




で、面白かったのは一緒に行ったK氏との映画の後の会話。K氏も私も原作を読んでから行ったので、きっとお互いこの『劇場』の世界観が出来上がっていたから余計に興味深かった。実は私は「食べるという事」がこの本の裏のキーワードで、その流れで最大の山場はそこにアルと思っていたのに、映画では「飲む」に変わっていて、ちょっとだけ失望したのだが、映画化だから許容範囲と思い「原作に忠実でしたね」とK氏に声をかけたところ「食べるがカットになってましたね」と返事が返って来た。K氏も同じところを原作の同じシーンを山場と思っていた事に正直びっくりした。

私たち人は皆、それぞれ興味の範囲も違い、感じ方だって違う。よく「価値観が違う」と軽々しく人は言うが、違う人間なんだから、そんなことは当たり前である。でも、ごく稀に思ってもみなかった自分の「オタク」な部分や「ナナメにみる視点」に一瞬だけ他者と合致する瞬間がある。そんな時「ピンときた」が降臨するのだろう。ま、たまさか意見があっていただけで、逆に思いもしなかった箇所をつかれたりするのもまた、愉しいものである。そう思うと、本を読んだり映画を観たりした後に語り合える友人・知人がいる事は、けっこう幸せな事である。

『パフューム』の原作『香水-ある人殺しの物語-』は、私が未だ実家暮らしだった何年前かももう忘れてしまうくらい昔に、父の書斎から拝借し、貪り読む程あっという間に読み終えてしまった本である。読後の一番最初の印象は「エンターテイメント性が高く、面白くあっという間に読んだけど、嫌な本を読んだ」だった。父にそのままの印象を伝え「なんであんな本を大事に取っているの?ちょっと気分が悪くなった」と聞いたところ「君が、嫌だ嫌だと思いながらも、夢中で最後まで読んだなら、そこにはきっと何かがあるんだよ。落ち着いたらもう一度読んでみると良いよ」との答え。





その後、父の言う事を聞かず、すっかりこの本の存在を忘れていた昨年の暮れに友人であるR氏から、この映画化を知らせれる。実家に帰って探してみてもなかなか見つからず、書店で購入したものの、もう一度読んでみる間もなく映画を観に行ったのだが、非常に面白かった。細かいディテールも脳の記憶を連鎖して呼び起こすような、そんな作品だった。思わずあちこちの匂いをつい嗅いでしまいたくなるような、匂いたつ映画だった。残念なのは、父と一緒にこの映画を観に行けなかった事。というか、誘いもしなかった事。きっと一緒に行ったら、帰りがてら愉しい話しが出来たに違いないのに。。。
うーん。どうして思いつかなかったんだろう?残念である。

出合いについて思う

2007-02-22 01:18:42


別に、世の中をナナメに見ている訳ではありませんが、このブログで何度も書いているように所謂「出合い」「きっかけ」「気づき」「ヒント」という言葉は嫌いである。どうも胡散臭い気がするからである。。。しかしながら、そんな私も衝撃が走るくらいの不思議な縁に感動する事だってある。私のごく個人の覚え書きの意味も含めて、こんな不思議な縁に付いてご紹介しようと思う。

その縁が色々な化学反応を起こし、一つの特集記事が出来上がる事になった。女性向けウェブマガジン『verita(ヴェリタ)』の記事である。。。



そもそもの始まり「きっかけ」は何だったのだろう? 以前ご紹介したように、今から一年半前に映画『約束の旅路』観て深い感動を覚えた。その時には思いもよらなかったブログを、今から半年前から書く事になり、それと同時にこの映画が日本で配給が決まった事を知る。どうしても、ブログで紹介したいと思いたち、画像使用の許諾の為、配給会社を調べると、偶然にも以前、前職についていた頃に仕事で知り合い、名刺交換をしていた方がその会社の社長だった。と、ここまでなら、普通の偶然。

早速、ご挨拶をかねてアポ取りをし、久方ぶりにお目にかかる。その時にご紹介を受けたのが、このブログによく登場し今では私の大切な友人R氏。それと同時進行で、ちょうど今から一年前にPRを担当した『カイト・ランナー』との「出合い」もあった。兼ねてから、この書籍をきっかけに「亡命作家の括りで何か特集ができないだろうか?」との思いがあり、R氏と知り合った頃にそんな話をしたのである。

そしてそれから半年。。。R氏より「『約束の旅路』を軸に、3回連載で特集を組もうと思っているが、知花さんが以前言っていた「亡命作家」はどうだろう?」とのお申し出があったのだ。第1弾は『観る』つまり、この映画の作品紹介などなど。第2弾は『読む』文章力に於いてもまだまだな私だけど、思い入れいっぱいのコラムを書く事になった。第3弾は『語る』この映画を通して感じた事をめいめいが話し、更なる広がりを持たせるという企画である。

先日、この第3弾の座談会に出席して来たが、そこでも、若輩の私が言うのは失礼かもしれないが、内に外にキラキラと輝く素敵な女性たちと知り合う事になった。

で、話しを急に「出合い」に引き戻す。「出合い」や「きっかけ」の言葉を安売りしている人たちに私は問いたい。こんな場合「出合い」は、「きっかけ」は、なんなのだろう?「この映画を観る事を進めてくれた人」「配給会社の社長」「この社長をご紹介くださった人」「R氏」「このブログを書くように勧めてくれた友人N氏」「カイト・ランナーの仕事を私にさせてくれた編集者H氏」「書籍の仕事をするきっかけをくれた師匠K氏」「その人を紹介してくれた友人O氏」「その他、私が核となる人間関係の中で関わった人全て」????

このように、そもそも「出合い」や「出合いの芽」なんて生きて普通に生活をしていれば、当たり前にある事である。他者と関わりを持ち話しをすれば「気づき」や「きっかけ」もゴロゴロとある。逆にそれが無いようなら、おかしいのである。「他者とコミットする」生きて行く中で、それこそが醍醐味ではないだろうか?世の中には人も物も沢山あふれている。その全てに深く関わりを持つ事は、不可能であるし、だからといって損得勘定で関わる事は、醜い。損得ではないのだ。
ようは、ピンと来るか来ないかである。

言葉は、多用するとその意味を薄らげてしまうきらいがある。「出合い」や「気づき」もそう。ひと昔前に濫用された「カリスマ」だってそうである。本来、口に出せないくらい人を圧倒させる程の特殊な資質を云うのに、何でもかんでも濫用してしまっては垣根がグンと低くなってしまう。最近で云うところの「品格」だってそうである。私も使い方を良く間違えてしまうが、言葉は、大切にしたい物である。

と、ここまで読んで、鼻じらんだりされなかった方は、是非その思い入れたっぷりの記事を読んで頂きたい。上の画像をクリックすると記事にジャンプします。

卒業

2007-01-18 01:18:51


年明けのご挨拶で、尊敬する師匠K氏と会った所、重松清の『卒業』を貸してもらった。たいていの場合、K氏から薦められた本は間違いなく私の心にヒットするのに、今回はちょっとした不安があった。「読んでも、鬱になりませんか?」と率直に聞いた所「この作品に限っては無い」とのご返答。短編4話からなるこの本を、期待して読み始め、短編にも関わらず休憩を入れる事も無く、一気に4編とも読んでしまった。



冒頭で書いた、ちょっとした不安は全くなかった。重松作品が好きなのに、たいていの場合、読むとそこには救いが無く、八方手詰まりで行き場が無く、ヒリヒリとした息苦しさを感じるからである。しかも、文章がめちゃくちゃうまいから、途中で辞める事は出来ない。そんな訳で、読後しばらくは鬱状態に突入するのが、私と重松文学のつき合い方なのである。

しかし、どうだろう。。。この『卒業』は違い、木漏れ日のような柔らかい希望がどれも感じられるのである。あとがきで、著者自身もあげているが、全編通して共通しているのが、「出発へつながる旅立ち」や「ゆるし」である。

この本の中で、好きだったのは『まゆみのマーチ』と『追伸』。
特に響いたのは、1話目にある『まゆみのマーチ』である。きっと、これが最初の話だったから、その後読み進める手を止められなかったのだろうと、心憎い編集者の術中にはまったんだと思う。

この短編の主人公は男性なのであるが、主人公が改めて知る“母と娘(主人公の妹)”の話がベースになっている。現在、33歳で子供を持った事の無い私には、想像しか出来ない母親になると云う事、全て受け入れ包み込むという“母親の愛情”の素晴らしさを教えてくれた作品だと思う。

最後に、ちょっと個人的な話をしてしまうが、私より先に“お母さん”になり、日々母親として成長・変化している妹を、今までの「妹」としてだけで無く「母親」として、しみじみと感心して見ていたからなのかも知れないが、“他人を全て受け入れ包み込む”という、簡単で単純なようで一番難しい行為を難なく出来てしまう「母親」の素晴らしさをシンミリ感じる作品だった。そして、この作品の母親のように私を生んで、認め受け入れ、愛し育ててくれた母にも「お母さん、ありがとう」と言ってしまいたくなる作品だった。

テヘランで

2006-12-13 02:13:35
ツカ(本の分厚さ)はけっこう普通サイズなのに、1ページ1ページが恐ろしく薄くて、気がつけば488ページもあって少々ひるむ『テヘランでロリータを読む』をやっと読み終える。師走のこの時期にはちょっと向かないくらいの分量ではあるが、最初の100ページを超えてしまえば、あとはすんなりペースがつかめて、一休みしたくなくなる1冊だった。



アマゾンで内容を転用すると
イスラーム革命後のイラン、大学を追われたひとりの女性知識人は、「ロリータ」「グレート・ギャツビー」などの禁じられた小説を読む、女性だけの読書会を開く。監視社会の恐怖のなか、精神の自由を求めた衝撃の回想録。

とちょっと素っ気ない紹介が載っているが、その内容はきわめて濃い。どんな環境でも、人は探究する心や知的欲求心があって、たまさかその対象が発禁処分になっていようとも、渇望を止める事が出来ないのだと、改めて知る。命の危険さえある中でこの読書会を続ける彼女たちの読書解釈は、宗教的にも倫理的にも制約の多いイラン女性たち特有のものがあるが、それがまた斬新で、これまた心に響くのだ。

マルケス

2006-11-09 23:22:04
久しぶりに、大量買い目的で本屋さんへ行ったら、G.ガルシア.マルケスとアゴタ.クリストフの新刊を見つけた。マルケスは『百年の孤独』や、私の好きな『予告された殺人の記録』の作家。恥ずかしい事にとっくにお亡くなりになっている方だと勝手に勘違いしていたので、非常に驚いた。『わが悲しき娼婦たちの思い出』である。ものすごく美しい装丁のこの本を手に取り、最初のページの出だしで、いきなりぎょっとする。



アマゾンから転用すると内容は

これまでの幾年月を表向きは平凡な独り者で通してきたその男、実は往年夜の巷の猛者として鳴らしたもう一つの顔を持っていた。かくて昔なじみの娼家の女主人が取り持った14歳の少女との成り行きは…。悲しくも心温まる波乱の恋の物語。2004年発表。 川端の「眠れる美女」に想を得た、悲しくも心温まる波乱の愛の物語。

とあるが、先に挙げた私のぎょっとしたくだりを抜粋するとこうである。

満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生日祝いにしようと考えた。

マルケスは川端康成の『眠れる美女』に想を得たと、巻頭にもこの『眠れる美女』の冒頭を引用しているが、この本文冒頭の一節を読んでふと私が思い出したのはブエナビスタ・ソシアルクラブの「チャンチャン」たしか、90歳のおじいちゃんが「体の中を血が流れている限り私は女性を愛す。人生で素敵なものは女と花とロマンスだ。」と、ロマンスをうら悲しく渇望する微笑ましい歌だったような。。。

同じ南米だからか?妙な共通点を見いだしてしまったが意外とこの曲を聴きながらの読書は楽しいものだった。

とても短く、あっという間に読み終えてしまったが、マルケスの独特なファンタジーが詰まっている素敵な作品だと思う。ちなみに作品が短いせいか、その分余韻を楽しんだり、妙な考えなんかが浮かんで楽しめるおまけつきである。

私の頭に浮かんだ妙な考えとは、マルケス文学は何となくボリス・ヴィアンに通じるファンタジーだ。という事である。最近、「ボリス・ヴィアンと小川洋子の作品を読むと妙にカラフルな情景が読書中に広がる」「小川洋子さんがヴィアンの解説に『彼にとっては、あのちょっと不均衡なファンタジーが創作ではなく、すべてノンフィクションだった」と、こんなことをヴィアン・ファンの編集者M氏とお話していたからだろうか?
マルケスの作品も、ちょっと信じがたい荒唐無稽と思われるエピソードが満載だったり、妙に彩り感があるのである。

とは言っても、彼の場合、自身の著書『物語の作り方』でフィクションとノンフィクションのぎりぎりの狭間を見極める話をしているので、マルケスにとっては完全なフィクションであったのであるが。。。

対局にいるマルケスとヴィアンの共通点を見いだす楽しい時間であった。
こういうところが読書の楽しみの一つでもあるのである。

これって。。。

2006-10-07 23:53:18


日ごろより、読書習慣のある方は殆ど読むことが無いと思いますが、題名と装丁に惹かれてつい買ってしまった本。
『百年の誤読』




お酒を嗜まれる人は知っているかもしれないが、この題名、完全に焼酎『百年の孤独』のパクリである。この表1もパクリである。耳で聞くと、うまいネーミングだけど。。。何故?と読んでみても焼酎とのつながりが見出せずに読み終えてしまった。

ところで、私にマルケスの『百年の孤独』を薦めてくれたフリー・ジャーナリストのO氏は、この焼酎のネーミングでさえ、「ふざけるな!」とお怒りになっていたが、私にとっては、この焼酎が果たしてマルケスの『百年の孤独』からとったネーミングかどうか判別つかずに、どうでもいいことの一つと心の中の“どうでもいい箱”の中にそっと入れてしまった経験がある。
そんなことも在ってか、なんとなく今回は記憶のそこにあったその名前連鎖がちょっと引っかかり、手にとってみたのである。

友人知人たちから最後のオチを聞かされてしまっても、本自体を愉しめる私でも、この手の所謂“あらすじ本”や“ネタばれ本”はちょっと敬遠してしまう。オビには「あらすじだけでわかると思うな!」と、“あらすじ本ではないぞ!”と、ちょっと挑戦的なことも手伝ってか、つい買ってしまったのである。

確かに、あらすじ本とは違う。
「ダ・ヴィンチ」に連載されていた岡野氏、豊崎氏による過去百年のベストセラーをメッタ斬りにする文芸対談である。
実際、著者のお二方の頭の中には沢山の本の情報があるけど、この本を読んだ私の感想としては、イヤナモノが心に残った。

普段、読んだ本の批判はしないように出来るだけしないようにしてきたと思う。それは、日々数多くの本が出版されているのだから、気に入らないものは紹介しなければいい。それに、本の読み方なんて一つだけが正しいのではなく、読み手の心情や状況にも多く左右されるからだと思う。

で、なんでこの本に関してはこんな風に書くのかというと、ひとつはオアイコだからである。私の勝手な思いだけども馬鹿にしたり茶化したりと、平気で評論する人はきっと無神経だから、私みたいな小さな意見ごときには、痛みもかゆみも感じないだろうと、あえて同レベルに立ってみる。

もうひとつは。。。

とはいっても、イヤナモノが残ったけども、事実面白いのである。
両著者のいやらしいほどの知識のひけらかしは、バーで独りで飲みながら若い女の子に世間を語る説教好きなオジサンのそれであるが、過去百年における名作家の舞台背景などの面白いトリビアも沢山詰まっているのである。ようはこの本が言っていることを鵜呑みにさえしなければ、価値のある本と言ってもいいと思うのだ。

それに、限界ギリギリを超えてしまうぐらいの、ばかばかしい批判が満載のこの本を「いったい版元はどこだ?」と思い、遅まきながら『ぴあ』と書かれた背表紙に拍子抜けしてしまった私のちょっとした笑いに、この本について書こうと思ったのだ。

あれ?このネーミング。
もしかして、焼酎『百年の孤独』を飲みながらこの本読めって事?

どうせ焼酎の見ながら読むんなら、『百年の誤読』ではなく、マルケスの『百年の孤独』を読んでほしいところなのですが。。。



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