たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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城郭探訪 山形城 [2008年09月30日(火)]
城郭探訪 出羽国山形藩 山形城(霞城) '07/8/29


お城は明治以降、陸軍駐屯地となったところが多い。それは、お城自体が元来軍事拠点であったという性格が、そのまま引き継がれたり、広大な敷地を活かして誘致したというケースもあるそうだ。山形城も例外ではなく後者のパターンで1898年、陸軍歩兵第32連隊駐屯地となり、その際、本丸のお堀や石垣が埋められてしまったという。この第32連隊は、太平洋戦争最後の激戦地、沖縄で全滅に近い犠牲者が出たようだ。お城は、現代史の舞台でもあるのだ。

戦後になって駐屯地あとは野球場や体育館、博物館など文化施設となり、二の丸の一部の石垣とお堀が残る程度だっが、ヘーセーの世になって二の丸東大手門が復元されるなど、近年再整備を進めている。発掘調査からは、運動公園だったところから本丸の一部の石垣が姿を現し、復原中。柵越しにその工事の様子が見られる。

さらには、本丸大手橋や櫓を復元の計画だというが、それを裏付ける詳しい資料がないため、市民に呼びかける立看板が、なんだか涙ぐましい。
小さなワールドカップ       ―女子野球W杯観戦記 その2 [2008年09月24日(水)]
マドンナ・スタジアム(手前)と坊ちゃんスタジアム(奥)

女子野球W杯の会場は02年、プロ野球オールスターゲームも行われた収容観客数3万人の坊ちゃんスタジアムと、隣接する同2000人のマドンナスタジアム。JR松山駅からひとつめ、無人駅の市坪駅を降りて目の前だが、電車は1時間に1本、バスも同様。地方都市ならまあこんなものかな。地元の人は自家用車か自転車で見に来ていたようだったが。

大会は全試合全席無料と、スポンサーさまさまであったが、それでも日本以外の試合の観客はまばらで、来ているのは選手の家族や日本在住の各国人くらいだろう。サッカーみたいに弾丸ツアーでサポーターが繰り出すなんて、ここでは見られない。だからワールドカップといったって、世界ではマイナーの、さらにマイナーの女子の大会となれば、ちょっとさみしくも、だがなんとものどかな雰囲気だった。練習中の選手たちも間近で見られ、その気になればサインももらい放題だったかもしれない。

野球経験のない人間が言うのもなんだが、出場全8カ国のレベルは高いとはいえないと思う。高校野球くらいか。しかも地方大会1回戦レベルから、全国大会決勝戦レベルまでと差が大きい(確証はないけど)。

「え、野球なんかやってんの?」と正直、出場が信じられなかったインドや香港、男子ではともにプロのある韓国や台湾も、女子はまだ発展途上で、女子野球先進国の日米加濠との試合は、「米対印 27-0」、「日対香港 24-1」、「加対韓 15-0」などと世界大会とは思えない大差をつけられていたことに、女子野球全体の底辺の小ささを感じた。そりゃあ地区予選もなし、いや、それができないくらいどの国にも普及していないんだから。だから、それらの選手にとっては、とても酷な試合だったに違いない。が、見方を変えれば、勝てる相手ではないんだから、臆せず勝負して、“世界”の野球を少しでも実感し、吸収できればいいんだろう、と思う。

大会6日目の8月28日、雨のため午前中の何試合かが中止になった。そのあおりを食ってか、18時半から始まる夕方の試合が、どういうわけか17時半開始となり、松山城を見学し終えた直後に慌ててタクシーで坊ちゃんスタジアムに駆けつけて観たのが予選最終ラウンド、ここまで4戦全勝、計57得点2失点と圧倒的な強さをみせる日本対3勝1敗のアメリカ。アメリカは過去の世界大会で何度も優勝した、日本最大のライバル国。まるで北京オリンピック、ソフトボール決勝を彷彿とさせるものだった。
二の丸御殿だってお城である [2008年09月20日(土)]
城郭探訪 京都 二条城 '05 10/16


江戸幕府の京都における拠点であり、朝廷に睨みを効かせる役割もあった二条城は、江戸初期には将軍の出入りも見られ、1611年、大御所となった家康と豊臣秀頼が会見するなど歴史の舞台となったが、政治も経済も江戸への比重が高まるとともにしだいに顧みられなくなった。

その後、落雷で天守閣(1750年)を、洛中大火災の延焼で本丸御殿(1788年)を相次いで焼失したが、天下泰平となった江戸中期にはもはや、天守閣は無用の長物となり、お城の中枢機能を担う本丸御殿も、城主(=将軍)が常に不在なうえ、本丸に次ぐ二の丸御殿が残ったのであれば、あまり用を成さない。そのいずれもが再建されなかったのは幕府の財政事情もあるが、実情に即した判断といえよう。

時代は下って幕末の1867年10月、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還で政権を朝廷に返上したのが、残された二の丸御殿大広間。日本の歴史の大転換を見守ったわけだ。

二の丸御殿の大きさは半端じゃない。部屋の広さ、数、廊下の長さ、天井の高さや伏見城から移築したという唐門の重厚で壮大な造りは、いずれも息を呑むほどであり、木造としては破格。その醍醐味は、鉄筋コンクリート再建の天守閣などおよびじゃない。

明治以降、他のお城の建物が破却されたり、軍駐屯地になったり、官公庁の建物が建てられた中、二の丸御殿が残されたお城は二条城だけ。そういう意味でもっとも城郭らしいの姿を残しているともいえる。国宝だけのことはある。いや、世界文化遺産でもあるのだ。

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小学生のある年の秋の遠足が京都・二条城だった。そのころは「大阪=大坂城、京都=御所」という図式があり、天守閣のない、規模も小さい二条城は「お城」と思っていなかった。そんなことから、友達同士で「二畳」城と冗談を言っていた。こういう歴史の重さや奥深さを感じるのに、それから30年近い歳月が必要だったわけだ。
俺が死んだら 何人なくべ   特攻の町・知覧 * 三 *  [2008年09月18日(木)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 三 *  1999年8月16日

特攻隊の名前が刻まれた石碑

  「俺が死んだら 何人なくべ」
   − 前田啓大尉 23歳 北海道 第23振武隊 4月3日戦死 −


一見死を前にして、ふざけているようにみえる。差し迫った自分の死を客観的に捉え、あるいは茶化しているのか。相手を悲しませない気持ちが込められているようにも思える。そして彼は出撃前の3月25日付で、父親宛にこのような遺書をしたためている。

  <前略>
 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ御壁トナリ死ニマス。
 武人ノ名譽之ニ選ルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。
 今日ノ譽レ啓ゴトキ小臣、躯ニ余ル光栄ナリト存ジマス.我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、
 魂ハ遠古転地に止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。
 軍人タリ股肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
  
<後略>

特攻隊員の中には遺書ではなかなか思うことが伝えられず、周囲の人にふと気持ちを漏らしたり、それをこっそりと遺族らに伝えるよう託すものもいた。隊員らの身辺の世話をしていた地元・知覧高等女学校の生徒、教員らにその役割を担った者がいる。ある女性教師は知覧滞在中(3月28日〜4月3日)の上述、前田少尉(戦死後大尉に特進)から聞いた話を、後に北海道室蘭市の彼の両親宛に手紙を送っている。

<前略> 
 あんな朗らかな豪快な方はいらっしゃいますまい。ああ明日は死して護国の神となる方かしらと思うと、まことに感無量のものがありました。
 いろいろお話しているうちにお父様お母様のお話もなさいました。もう最後だという時、父を読んだが何もしらなぬちちを見て、だんだん置いてゆく父を見て、自分は特攻隊員で行くのだということはどうしても言うことができなかった。風呂に入って瀬をこすってあげながら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟ってくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。
<中略>
 夜お休みになる前、おれのばあさんいゝ人でな。災難よけの豆をくれたんだよ。これを毎晩寝る前に一つずつ食べて寝るんだ、おいしいぞとて飛行服の内ポケットから状袋に三分の一位入った豆を取り出し、私にも三個下さいました。
 一つ一つ御話を聴いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。
 明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンぴしゃり太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。

<後略>

強がっている自分、大義に殉じようとする自分、女性を前にしているせいだろうか、気を許し本音をのぞかせてたり、逆に茶目っ気を見せて相手を心配させまいと気遣う自分…。それぞれの瞬間瞬間、めまぐるしく入れ替わる気持ちが垣間見られる。そこに一人の“人間”前田啓の存在がおぼろげながらも見えてくるように思う。

薩摩富士とも称される薩摩半島南端に位置する開聞岳を目印に特攻隊は、南シナ海へと抜け、沖縄海域に針路をとった<撮影:05年5月>
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特攻の町・知覧 * 二 * [2008年09月14日(日)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 二 *  1999年8月16日

九州南端・鹿児島県薩摩半島の知覧町(07年12月自治体合併により現南九州市)は、1945年、敗色濃厚の日本が最後の抵抗となった沖縄戦のさなか、陸軍航空隊特攻作戦の中心的な基地が置かれていたところだ。特攻隊員たちの遺書、遺品を中心に知覧特攻平和会館には、その記録が今に伝えられている。

特攻戦死者数に匹敵する石灯ろうが、特攻平和会館への道路に献納されている

  「所謂“生”なり
  凡悩を満足し得る地上なり。
  改めて己が足下を眺め、衣食住に未練を感じ、恋々たる執着を残すは自明の里なり
  宜なり 宜なるべし
  然りといえども生を求むるのあまり理論を並べ詭弁のを備ふるは卑劣の極 男子にあらず。
  国破れて何の山河ぞ。
  春来れども城跡痕を止めず草木根を絶つべし、勝つべし。
  只勝利あるのみ。
  大和男子 三千年の斗魂を傾中すべし。

  来る日 又風吹き荒るる大陸に
  花ぞ咲かせむ春を待たずとも

  殉皇の大儀に生くるの悟開かずとも、只 大命の下に行動せば可なり。
  己が死する時 命の下命の如く死すれば、
  己が命は悠久なるべし。
  馬鹿者になるは難し、されど馬鹿者となる事肝要なり。
  思索を捨つべし。而して“無”に帰り
  空白の頭脳もて、
  笑みて大儀に生くべし」
   − 西崎重男大尉 東京 第112振武隊 6月3日 −


特攻隊員の中、特に学徒兵(大学在学中に召集された兵士)には、特攻作戦に疑念を感じ、日本が負けると考えるようになった者も少なからずいた。しかし、そのようのことは口外できるわけもなく、理不尽、矛盾、無念を抱え、生への未練を絶って自らの死を受け入れなければならなかった。そのためには、それが偽りとわかっていても何か“大儀”を見つけ、それに自分が殉じることで“納得”させるしかなかったのでは、と思う。


  「あんまり緑が美しい  
  今日これから
  死にに行く事すら
  忘れてしまいそうだ。
  真っ青なそら
  ぽかんと浮かぶ白い雲
  六月の知覧は
  もうセミの声がして夏を思はせる
   作戦命令を待っている間に 6/5」

  「小鳥の声がたのしさう
   俺もこんどは
  小鳥になるよ
  日のあたる草の上に
  ねころんで
  杉本がこんなことを云ってゐる
  笑わせるな  6/5」
   − 枝 幹二大尉 22歳 富山 第165振武隊 6月6日戦死 −


自らの死を受け入れるということは、努めて冷静なり、無の境地になるのかもしれない。あまりにも日常すぎる、誰も気に留めないことに気持ちがいくのだろうか。ここで出てくる杉本(同日同部隊で特攻に参加した京都出身の杉本明大尉のここと思われる)への惜しみない友情と同時に、どこか突き抜けた静寂感が漂っている。

毎年5月3日に行われる特攻基地戦没者慰霊祭には、高齢者が目立つ<撮影:05年5月>
特攻の町・知覧 * 一 *  [2008年09月11日(木)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 一 *  1999年8月16日

九州南端・鹿児島県薩摩半島の知覧町(07年12月自治体合併により現南九州市)は、1945年、敗色濃厚の日本が最後の抵抗となった沖縄戦のさなか、陸軍航空隊特攻作戦の中心的な基地が置かれていたところだ。特攻隊員たちの遺書、遺品を中心に知覧特攻平和会館には、その記録が今に伝えられている。

特攻銅像・とこしえに

若者の肖像写真がずらり並べられていた。みな20歳前後の、幼さの残る人もいたがそのほとんどが、しっかりとしたりりしい顔立ちをしている。憂いなど微塵も感じさせない彼らは太平洋戦争末期、沖縄戦のころ、生きて還ることを許されなかった旧日本陸軍航空隊の特攻隊員たちだ。

1999年8月16日、鹿児島市の南西約30キロ、その特攻隊員を送り出した山あいの小さな城下町、知覧町にある知覧特攻平和会館には、おりからの熱帯低気圧による激しい雨にもかかわらず、お盆休みのため多くの人が訪れていた。特攻という非情な作戦に駆り出された彼らの、出撃を前にした心境はいかほどのものだったのか、遺書などを通じて知りたかった。

特攻平和会館に保管されている遺書等の資料だけでも、一回の見学で全てに目を通すことはできない。また、文語体で書かれるなど難解なものが多く、集中力と読解力を強いられたが、そうした中からも印象に残った彼ら直筆の言葉を、ここに記したい。
(誤字脱字はそのまま。かな使い、旧漢字も極力そのまま。-氏名、階級、出身地、参加部隊名、戦死日−)

「死する者は強し」
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」
「悠遠の勝利」
「武運長久」…。


遺書、絶筆に多く見られた文言だ。
それは当然軍国主義、忠君愛国的な風潮を前面に出した当時の世相を色濃く反映したもので、親に孝行できなかったことを侘びながらも、大君(=天皇)のために、皇国のために死ねる誇りが高らかに詠まれているものが多く見られた。これらは特攻隊員に限らず誰もが口にした言葉であり、裏を返せば建前でもある。ここから彼らの本音は見えてこない気がする。

知覧飛行場跡地。今は名産品である茶葉を中心とした田畑が拡がっている
<写真は05年5月再訪時のもの>
青葉城だってお城である [2008年09月10日(水)]
城郭探訪 陸奥国仙台藩 仙台城(青葉城) '07/8/28


30年ほど前のヒット曲、仙台出身の歌手、さとう宗之の『青葉城恋唄』で、大阪の人間でもその存在を知られる仙台城は、独眼流政宗の築いた城である。
したがって仙台市は東北有数の城下町、城跡は市の中心部にあるものだと思って、地図を見るが、おやおや、見当たらない。青葉区があって、青葉通という名称の大通もあるので、その近辺かと思ったが、そうでもない。

いや、少なくとも内堀くらいは埋立てられず残っているものなので、いかにも人為的な鍵型や“ロ”の字型の水面なんて一目瞭然、すぐに見つかりそうなものだが、やはり見つからない。唄に謳われながら、実は現存するほどの大きな城でなく、再開発等で影も形もなくなってしまった幻の城なのか、と妙なことを思いながら、視線をやや郊外に移してようやく見つけた。

近世城郭のあった街は多少の差はあっても、明治以降は県庁や市役所といった行政機関等が周辺に置かれるなど、そのまま今の市街地形成の中核となっているが、仙台は少し違うようだ。城の西側が広瀬川、背後の東側が青葉山と地形が自然自体が要害となっており、旧城郭区域がどこまでなのか定かじゃないが、二の丸跡にはかつて旧陸軍第二師団、戦後は東北大学川内キャンパスが入り、三の丸跡に仙台市博物館があるので、市街地の外れとまでは言わないが、中心地とも言えない。

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天守閣は造られず、そのほかの建物も取り壊されたり戦災で焼失したので、緩やかな傾斜を登りながら見える石垣にわずかな面影を残すのみで、城としての華やかさはもう見られないが、本丸跡の築城主・伊達政宗騎馬像前では、記念写真を撮ろうと観光客が連なっていた。さすが伊達者である。
ホークス今昔物語 [2008年09月07日(日)]
福岡市中央区ホークスタウンにて 2008/9/7(日)
 

まさか、外野席で入場できないとはね。球界屈指の人気球団、福岡ソフトバンク・ホークスの日曜日の昼間の試合とはいえ、ほぼ満席、そんなに観客が来るとはさすがに思わなかった。

そのホームスタジアム、ヤフードームのそびえるような巨体に圧倒される。こりゃあ、まるで要塞だ。スタンドを一周する形で明るく広い通路と各種売店が並び、たくさんの人で賑わい、これまでの球場と趣を異にする。

ホークスの攻撃の時、スタンドでは入場時にもらったチームカラーであるイエローのポスター大の紙で彩られ、雰囲気を盛り上げる。イニングの間にはスコアボードの大型ヴィジョンに、訪れた観客を映し出し、そこへスポンサーからのプレゼントが贈られる。対象は小さな子ども連れの家族のようだ。ほかにも、カップルや女性客も多く見られ、スタンド全体が明るい雰囲気だ。数は少ないけど、対戦相手、千葉ロッテのファンの応援ぶりも熱がこもっている。

かつて南海ホークスだった頃、大阪球場に2、3度だけ試合を観にいったことがある。おっさんの野次と打球の音だけが響く、がらんとした外野席は夜風が吹くと、少し寒かったような記憶がある(試合内容も?)。あの頃とは全然違い、福岡のホークスは何もかも洗練されている。その大阪球場も、今はもうない。

そういや万年Bクラスだったチーム事情を指して、誰かが自嘲的に言ってたな。「能ある鷹はツメ隠す」って。すると横にいた奴がすかさずツッコんだ。「そのツメどこやったんや!」

福岡へ移転して20年、球団創設70年のうち、もう4分の1以上もたっているだな。ホークスは、すっかり、しっかり、そしてどっしり福岡に定着し、愛されているようだ。

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せっかくの晴天なのに、開閉式ドームを閉めっぱなしだったので、何でかって聞いてみたら、今はホークス勝利の時にイベント的に開けるだけだそうな。ちぇっ、開いているドームでの試合を見たかったのに。
小さなワールドカップ       ―女子野球W杯観戦記 その1 [2008年09月02日(火)]

北京オリンピックで金メダルを期待された野球の星野ジャパンは、4位で終わった。世界の中での4位なので、けっして恥じるような数字ではないが、誰もが不本意であったことは確か。さまざまな要因があるだろう。

近年はTV視聴率が振るわないながらも、国内スポーツにおけるプロ野球の人気はなお高い。つまりは国内市場だけで十分なので、国際スポーツとして拡がらない野球競技が、北京オリンピックで最後となることへの危機感が薄かったのでは、と思う。実業団チームをプロ化、年間を通して各種カップや国際試合を組み合わせてその底上げを図り、ワールドカップ出場を果たしたサッカーJリーグとは状況がまったく異なる。

星野監督にしても、その人選の時点で疑問に思った。氏の人気や人望は認めるが、野球は監督がやるものではない。監督が広告塔になってしまい、肝心なチーム強化や戦略が見えてこない。上層部がどちらを向いているか分からないなか、おそらく監督自身もやりづらかったのではないかと思う。

選手たちにしてプロ12球団からの選りすぐりであり、ペナントレースという本来の持ち場からの長期離脱は、チーム成績にも影響する。敗退してもぶっちゃけ選手たちは億単位の年棒が待っているので、大きなマイナスにならない…。

チーム全体を覆っていた、そんなちぐはぐさを象徴するのが、主将・宮本選手の語った「相手の方が勝ちたい気持ちが上だった」という言葉だと思う。それを実感したのが、松山市で開催された女子野球ワールドカップだった。

ほとんど全てのスポーツで男女の垣根は取り払われているのに、野球に限ってはいまだほとんど認知されていない。それでも野球をやりたい女性は多くいる。小学生くらいまでは少年チームに混じってプレーできるが、それ以上になると、彼女たちの活躍の場は極端に少ない。ようやく日の目を見たこの舞台で勝って、その存在を示さなければ、「女の子が野球なんて」と言われかねないからだ。
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