たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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ソウルるん滞在記 '88 Z             オリンピック開幕前夜 [2008年06月29日(日)]
ソウルるん滞在記 '88 Z オリンピック開幕前夜 1988年9月16日(金)


市内数箇所で行われるオリンピック競技場のひとつ、オリンピック公園は百済時代のモンチョン土城遺跡を囲むように体操、水泳、テニスなど6つの競技場と人工湖が配置され、とても広く静かで、緑も多く快適な空間。時間がたつのを忘れてしまいそうだった。またあちこちにある彫刻物が芸術性もアピールしている(よく分からんが)。各国の取材団以外にまじって、TV局の取材中の日本代表選手を見かけ、オリンピックいよいよ本番、という雰囲気が伝わってきた。

続いて訪れたオリンピック・メインスタジアムがあるソウル総合運動場(チョンハプウンドンジャン)は、先ほどのオリンピック公園とはうって変わって、厳重な警備で、ゲートはバリケードをされ、中に入れなかった。これまでTVなどで見たメインスタジアムを、ついにこの目で見られる、と興奮気味で行ったものの、その気概を挫かれてしまい、遠目から見るしかなかった。とは言え、全く違う意味で、開幕を明日に控えているという緊張感を実感した。

ソウルを東西に流れるハンガン(漢江)をめぐる遊覧船に乗る。この時も夕暮れ時を狙うが、雲行きが怪しくなってきた。船に乗るたびに天候にたたられるな、と思うやパラパラ程度だった雨は、ついには激しいスコール状に。デッキにいた観客もみんな室内に引っ込んでしまった。幸い、夕立はまもなく止み、到着先のヨイド(汝矣島)が見える頃には、雲の切れ間から夕陽も見え、そのコントラストがとても美しかった。

ヨイドはソウルのマンハッタンと呼ばれ、副都心として急速に発展した。シンボル的なのがテハンセンミョン・ユクサム(大韓生命63)ビル。東京・池袋にあるサンシャイン60(239.7m)よりも少し高い(249m)のが、ソウルっ子の自慢のタネとなっている。もっとも63といっても、地上63階ではなく実際は60階で、あとの3階は地下階を足している。セコイというか涙ぐましいというか…。

暗くなり始めたヨイドでは、オリンピック前夜祭のイベントが始まり、ものすごい数の人であふれかえり、ほとんどパニック状態。そこから市中心部に向かおうとするが、タクシーはなかなか捕まらず、ようやく捕まえても、大渋滞でさっぱり進まない。メーターはどんどんと上がっていく。挙句のはて、前夜祭で打ち上げられた花火を見るため、運転手は車を降りて見物するしだい。おまけに相乗りしてきたアガシ(若い女性)は何も言わず、1円、いや1ウォンも払わずに降りていった。ちょっとかわいかったけど。

ソウル市庁前に来るとまた人だかりが。韓国全土を回ってきた聖火が、開幕式前夜最後の泊地として市庁前ロータリーに到着したところ。みんな聖火を見ようと、もみくちゃ、わやくちゃ。私も停車しいてたどこかのトラックの荷台に勝手に登って、聖火を撮影した。一方で、そのそばで綺麗に植えられていた花壇の花が記念のつもりなんだろう、あらかた引っこ抜かれ、めちゃくちゃになっていた。前日、そこを通った時、一生懸命に手入れしている様子を見ていたので、悲しくなった。

市庁舎に掲げられた700日前から始まったカウントダウンの電光掲示板がついに「1」を表示、世紀のイベント前夜は深夜になっても興奮に包まれていた。 写真編 ⇒ 9/16
ソウルるん滞在記 '88 Y  ソウル到着 [2008年06月28日(土)]
ソウルるん滞在記 '88 Y ソウル到着   1988年9月15日(木)


プヨからバスで3時間半、いよいよソウルに乗り込んできた。

見たいところはたくさんあるが、たぶん、ここが一番分かりやすいところと思い、ソウルど真ん中にある李朝時代の離宮、トクスグン(徳寿宮)に向かう。地下鉄シチョン(市庁)駅で降り、とりあえず背負った荷物をコインロッカーにしまおうとするが、どこもかしこも閉まっている。稼働率100%?! そんなに利用されるのかなあ、と思案するが、「そうか、テロ防止のためにすべて閉鎖しているのか」。オリンピックならではの光景なんだろうと、そのまま荷物を持っていった。

トクスグンは1590年、第9代ソンジョン(成宗)王の時に造られ、壬申倭乱後の一時期や大韓帝国と改称した1897年以降王宮となったもの。ソウル市庁やプラザホテルのすぐ西隣、他にも大きなビルやホテルに囲まれているオアシス的な存在だ。

この日から1週間、オリンピック期間中急増する外国人旅行者向けの一般市民宅での民泊となる。旅行社でもらった手書きメモを片手に、ソウル郊外で地下鉄とバスを乗り継いで1時間ほど、ごく普通の住宅地の光景に戸惑い、道に迷い、不安と期待が入り混じるなか、そのC氏宅へと向かう。

C氏は30歳過ぎくらい、高校で工業技術を教える先生。個人的に日本語を学習中で、簡単な会話なら問題なかった。まだ日本には行ったことがないので、早く行きたいという。そして希望していた日本人の滞在を喜んでくれていた。お連れ合いさんは大学時代に知り合ったというひとつかふたつ年下、初めての赤ちゃんがお腹にいる。二人とも気さくでご主人、奥さんというよりも、お兄さんお姉さんという感じで、不安は解消された。

歓迎酒としていただいた初めての高麗人参酒は、ちょっときつく飲み切れなかった。
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ソウルるん滞在記 '88 X百済の古都・プヨ [2008年06月25日(水)]
ソウルるん滞在記 '88 X 百済の古都・プヨ 1988年9月14日(水)


もうひとつの百済時代の遺跡、人工池のクンナムチ(宮南池)を目指し、市内を南下。市街地を抜けるともう道は舗装されておらず、ジャリジャリと踏みしめる音が心地よい。辺りにはところどころ釣り人がいる程度で、ひたすら田んぼ、田んぼ、田んぼばっかりの、のどかで静かな田園地帯、ゆったりした気分に浸れるところだった。

近くにある望海亭は表示があるわけじゃなく、ここでいいのかな。「望海」といってもプヨは内陸だし、樹木ばっかりで見晴らしも効かない。「亭」といっても休憩所程度で何もすることがない。おまけに落書きがいっぱい、周囲はゴミだらけ…。

途中、道を塞ぐ形で標識板があった。通っていいのかどうか躊躇われたので、一つ一つハングルを解読していくと、「車両通行禁止」と判った。ならば人間なら通ってもかまわない。道すがら、こんなふうにして何でもないことでも、新しい発見をしているようで楽しかった。さらに、昼食を食べた食堂で会った二人のハラボジ(おじい)に又会う。「日本人ですか?」と、すぐに見破った二人は、ここでも日本語でいろいろと聞いてきた。この世代の人に日本語で話しかけられると少し心苦しいが、いい感じの人たちで、なんだか心が和んだ。

が、しばし上空をジェット戦闘機がすさまじい爆音とともに飛び去っていくことで、情緒を壊わされることもあった。このときばかりは、日本との国情の違いを感じた。

その後に向かったプヨ国立博物館では銅鏡や瓦、壷といった多数の展示物が、奈良の博物館にある古代日本の出土品を見ているような錯覚に囚われ、改めて百済時代の両国の交流の深さを実感。また、博物館の背後、プソ(扶蘇)山にあった百済王宮の栄華も今はわずかな遺構を残すだけ。サビ楼や迎日楼などの建物はどれも復元で、しかも同じ形に見えて区別がつかない。道に迷いそう…。そんな時、「日本人ですか」と呼び止められた。売店のハラボジだった。ハラボジは百済時代のプソ山の逸話を話してくれるとともに、若い頃日本に連れて行かれ、日立で働いていたとも語った。
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排出ルールを守りましょう [2008年06月24日(火)]

ネコは置いても、「ゴミを置かない」。
ソウルるん滞在記 '88 W 百済の古都・プヨ [2008年06月21日(土)]
ソウルるん滞在記 '88 W 百済の古都・プヨ 1988年9月13日(火)


プサンから特急列車「ムグンファ」に乗る。滞在3日目、まだ不安があるなか、横にいた幼児連れの若い母親が、私を日本人旅行者と知ってかジュースをくれ、ちょっと嬉しかった。プサン-ソウルの中間、テジョン(大田)で下車後、高速バスでかつての百済の古都、忠清南道プヨ(扶餘)に行く。ほぼ、半日がかりの移動となった。

古都といっても百済(ペクチェ)の滅亡に伴い、当時のものはあまり残っていない。その数少ないひとつがチョンニムサ(定林寺)址。街中心部、いやそこから先はもう街の外れになるという広場に、高さ数メートルの五層石塔と、風化し表情も分かりにくい石仏が向かいあってぽつんと立っているだけ。一応国宝だそうだが、入場料もなく、少しさびしいところ。その由来も詳しくは分かっていないという。その広場は市民の憩いの場でもあり、この時も数人の人がくつろいでいた。周囲も石の壁で囲まれているだけで、まったく歴史的遺構があるという感じがしない。大切にしようという気があるのかな、と正直思ってしまった。

プヨの市街地は10分ほど歩けば終わってしまうような静かでのんびりした小さな街。車の人もうんと少ない、はっきり言ってしまえばド田舎だが、道幅がやたら広いのが印象に残った。チョンニムサに近い市場も昔ながらの光景で、散策するも旅行者なので特に買える物がなく、おやつにとブドウを買うくらい。あっという間に終わってしまうので何回か行ったり来たりした→ 写真編
ソウルるん滞在記 '88 V [2008年06月18日(水)]
ソウルるん滞在記 '88 V プサン 9月12日(月)

プサンのランドマーク、ヨンドサン(龍頭山)公園のプサンタワーに行く。海抜180メートルの展望室からは港が一望、さらには天気のいい日は対馬まで見えるそうだ。タワーからの写真撮影は軍事上の理由から禁止のはずだが、みんな撮りまくっていた。警察が監視しているわけじゃなし、あれなら撮っておけばよかった。

市中心部からバスで30分の釜山一のリゾート地、ヘウンデ(海雲台)に向かう。大変に美しい海岸で、はだしでビーチを歩く。これまた、とても気分爽快。あちらこちらにカップルがいたのは、まるで京都の賀茂川べりのよう(?)。海水浴シーズンは過ぎていたが、子どもたちが海に入って遊んでいた。私も水着があれば、すぐにでも飛び込みたい気持ちに駆られ、はじめは30分ほどいれば充分と思ったが、居心地のよさに次第に延びていった。

しばらくして話しかける男性がいた。釜山で行われるオリンピック・ヨット競技場の警備に当たる地元の警察官で、横には弟を連れていた。こちらが聞き間違えたのか、向こうが言い間違えたのか、勤務中と言ってたが、カメラを持ってぷらぷらし、「写真を撮ってくれ」と言い出す始末。まあ、他の競技会場でも警備中の警官がヨーロッパ系の外国人旅行者と写真を撮ったり、撮られたりという光景をしばし見かけたので(旅行者からの依頼もあるだろうが)、またとない大きなイベントだから仕方ないのかなあ、と思った。

また、その人は習い始めて3ヶ月というわりにはうまい日本語で、暇さえあればソニー製ラジオ付ウォークマンで九州あたりのラジオ放送で生の日本語を聴いていると話してくれた。この時もラジオを聴いていたので、たぶん暇だったのだろう。ちなみに当時韓国では日本のラジオ放送を聴くのは禁止されていたが、プサンあたりだと地理的に近いせいもあり(私も聴かせてもらったが、まだ明るい時間だというのにくっきりと聞こえたことに、距離の近さを感じた)、日本語の分かる年輩の人とか日本に興味を持つ若者の間でそれらを聴くのは、いわば公然の秘密で、そういったことを平気で口にするようだ。

ともかく、終始、勤務中とは思えない雰囲気だった。

夜、宿のユースホステルにて同室のパキスタン学生が「日本は1990年、アメリカから独立して軍隊を持つ」と言いだした。どうやらパキスタンの学生はそう噂しているようだ。他の日本人同室者とそれは違うと言うが、実質アメリカに従属し、自衛隊というややこしい軍隊を持つ日本の実情を英語で説明できず、彼も頑なに信じているようで、話は並行線のまま深夜まで及んだ。  ⇒写真編 9/12
ソウルるん滞在記 '88 U [2008年06月14日(土)]
ソウルるん滞在記 '88 U プサン 9月11日(日)、12日(月)
今から20年前の1988年9月、東京大会以来24年ぶり、アジアで2番目の開催となったオリンピックに沸く韓国に単身乗り込み、18日間躍動するこの国を見聞してきた。韓流ブームなどはるか以前、あのヨン様だって高校生だったころの韓国は、隣国でありながら、日本からはその存在が見えにくかった。それを自分の足で歩き、目で見て、耳で聞き、言葉を交わしたその時の感動や興奮は、これまでにないものだった。








プサンのランドマーク、プサンタワーと、豊臣秀吉の文禄・慶長の役で秀吉軍をコブッソン(亀甲船)で蹴散らした韓国の大英雄、イ・スンシン(李舜臣)の銅像。今なお日本を睨みつける


「日本人ですか? 学生ですか?」
プサン港からほど近い街の中心部へと歩き始めてしばらくして、40歳すぎくらいのアジョシ(おじさん)が、そう尋ねてきた。オリンピア88がプサンに着いたころ、大阪から途切れることなく続く雨雲からこぼれ落ちた小雨が、入国手続きを終え、両替をすませ港を出た頃にはやみ、ホッとしていた矢先だった。

アジョシは大阪都島生まれの韓国人、今はソウルで働いており、出張でプサンに来たが、仕事が早く片付いたので日本海側を旅行しながら帰るという。そこで「いっしょに行きませんか、せっかく韓国を観光するならいろんなところを見て勉強しなさい。費用は出すからあなたはできるだけ節約をしなさい。私は日本のことをいろいろ知りたい」と言ってきた。

韓国人の外国人旅行者に対するホスピタリティー性は承知していた。大阪生まれのアジョシが、大阪から来た若者に親近感を覚えたとして不思議ではないが、偶然会ったばかりの人に対し、自分の都合で旅行に誘う感覚は理解し難がった。私は「すでに行程を組んでおり、宿の予約もしている」と言うと、「そんなの私が電話で断わります」と、なおも誘い、郊外にある高速バスターミナルまでタクシーで連れて行かれた。右も左もわからぬ外国で、見ず知らずの人間に身を委ねるわけにはいかない。一瞬、北朝鮮にでも拉致されるのでは、とも思った。そこで丁重にお断りをして、やっと解放された。「やれやれ、来た道を戻らねばならないな」。

開通したばかりの地下鉄の駅が近いはず、確かめようと地図を広げると、今度は30歳くらいのアジョシが近づいてきた。道でも教えてくれるのかと思ったら、「車に乗っていけ、案内してやる。No money!」ということらしい。駅が近いんだからその必要はないし、その車を見れば、日本でいう「白タク」?!。まさか、こんなものを相手にするわけにはいかず、無視して歩き出すと、なんとその白タクはついてくるではないか! それでもしばらくすれば諦めるだろうとそのまま行くと、ずっとついてくる。方向を変えるなり小さな道に入るなりすれば、相手に地の利がある以上かえって袋小路になりかねない、見通しの効くその大きな道沿いを行くほうが賢明と思い、しばらくと歩いていくと警察官がいた。ここはすがるしかない、と足早に。ふと振り返ると、それを察知したのか白タクはいなかった。これでは訴えようがない…。

もう大丈夫だろうと安心したのも束の間、その白タクは先回りをし、何食わぬ顔をして車内で新聞を拡げ、私が来るのを待っていたのには、たまげた。これ以上こんなクレイジーなヤツに付き纏われてはかなわん。目には目をならば、タクシーにはタクシーを、だ。「白」じゃないタクシーを捕まえ、ようやく振り切ることができた。

おかげでずいぶんと時間をとられてしまった。市中心部に戻って少し観光してから、予約していた宿泊先に向おうとまた地図を見ていると、数人の若者が声を掛けてきた。「ここなら判るよ」と私に、彼らの車に乗るよう促した。とたんに、こんな若い連中が車を持っているのか、といぶかった。
車に乗ってしまえば逃げ場がない。グルになっている店で土産物ものを無理やり買わされるというのは、よく聞く話。疑いたくはないが、そうなれば、後味悪いばかり。ここでも、申し出を断った。すると彼らは、私のノートに宿の場所を地図に描いてくれた。悪い連中じゃなかったんだろうな。

宿についた後、9時ころだったか近くの小さな食堂にて夕食。子どもたち数人が路地で遊んでいた。こんな遅い時間なのに、と驚いてしまった。

時としてカメラとは [2008年06月13日(金)]
本文と写真とは関係ありません

6月8日起こった東京・秋葉原で7人が殺された通り魔事件で、付近にいた多くの通行人らが携帯電話のカメラで写真を撮っていたことのモラルが問われている。

曲がりなりにも写真を生業としている者として、これは非情に複雑な思いである。もし自分がその場にいれば、どうだろうか。不謹慎だという理由で撮らない、とは言い切れない。

かつて1985年、豊田商事事件で自宅マンションにいた首謀者が、多くの取材陣が取り囲むなか自称右翼の二人の男によって惨殺された事件のとき、やはり批難が集中した。映像として流された凄惨なシーンとともに、なぜ二人を止められなかったのか、と。それについて、ある報道写真家から「私なら他のカメラマンをけり倒してでも、その様子を撮影しただろう」と聴いたことがある。「それが私の役割だから」と。
また別の報道写真家はアフリカのとある難民キャンプにおいて、あばら骨が見えるほどやせ細った子どもを撮ろうとしたが、その子はそれを見られまいと横を向いたという。このときその写真家はハッとし、カメラを構えることを止め、「カメラマン失格なのだろうか」と思ったという。

報道が仕事のカメラマンと、おもちゃと化した携帯電話のカメラで撮る一般の人の傍若無人な振る舞いとは単純に比較できないが、もし携帯電話が普及する以前、たまたま事件現場に居合わせた人がカメラを持っていて、その様子を撮影していたなら、スクープとしてどこかのメディアに提供され、流されることだろう。逆に阪神大震災のとき、上空から撮影するヘリコプターの音で瓦礫に埋もれた被災者の声が聞こえなくなる、という批判がでた。が、その映像があればこそ、被災地のただならぬ状況が瞬時に伝わり、大量のボランティアや救援物資が短時間で被災地にもたらされたことも事実だ。

使命感と功名心、あるいは好奇心とは時として紙一重の差なのかもしれない。撮る側と撮られる側の思いは、必ずしも一致しているわけではない。そんな時カメラは心理的凶器となりうる以上、どう線引きをするかというジレンマがあることを、撮る側は常に肝に銘じる必要があると思う。
ソウルるん滞在記 '88 T [2008年06月08日(日)]
ソウルるん滞在記 '88 T 出発 9月10日(土)

今から20年前の1988年9月、東京大会以来24年ぶり、アジアで2番目の開催となったオリンピックに沸く韓国に単身乗り込み、18日間躍動するこの国を見聞してきた。韓流ブームなどはるか以前、あのヨン様だって高校生だったころの韓国は、隣国でありながら、日本からはその存在が見えにくかった。それを自分の足で歩き、目で見て、耳で聞き、言葉を交わしたその時の感動や興奮は、これまでにないものだった。

北京オリンピック開催まであと2ヶ月、それを記念して、当時個人的に記した訪問記を元に振り返える。


出発地は大阪南港。当時就航していた国際フェリー、オリンピア88号(*)に乗って一路韓国・プサン(釜山)へ。片道21時間、料金は2段ベッド、6〜8人部屋のユースホステルのような2等船室が学割で14400円…。

南港の最寄り駅、ニュートラム・フェリーターミナル駅から国際線ターミナルへ向う無料シャトルバスに乗りそびれてしまった。歩くには遠いし、道もわからない。仕方ないので、タクシーで向うが、ガイドブック(地球の歩き方)のとおり、きっちり10分870円かかったことに苦笑した。

と、のっけから飛行機でないところが普通でない(*_*)。その安さが一番の動機だったが、学生で時間もあったし、船で一晩、1日弱で外国、という飛行機とはまったく違うアプローチ方法に魅力を感じた―それは、船で渡るしかなかった古人たちにあやかろうという気持ちも働いたように思う。

南港を出港して約4時間、夕刻5時頃、うっすらと見えてきた瀬戸大橋は、この年の春に開通したばかり。もちろん見るのは初めて。空と海の境目を一直線に、目線の右端から左端まで走っている。その光景のまま、徐々に近づき、真下を通過する。身体を反らしながら見上げた瀬戸大橋に、「なんともまあ、とてつもなくデカいものを人間はこしらえたたもんだなあ」というのが正直な印象だった。

しかし、朝からのどんよりとした曇り空は一向に晴れることなく、船会社のパンフの宣伝文句で、とても楽しみにしていた「夕陽に映える瀬戸大橋の美しさは、一生忘れられない思い出になるでしょう」とならなかったことが、逆の意味で「一生忘れられない思い出になるでしょう」と思った。前日まではいい天気が続いていたので、余計に残念だった。

夕食は豆腐チゲ、ぐつぐつ煮え立ち、熱さと辛さで顔中汗だらけ。船内シアターでは韓国映画を上映していたが、字幕がとても読みづらく、内容がわかんなかったので、途中でやめた。

帰路もプサンからの同航路を予定していたので、もうひとつの景観ポイント、関門大橋は通過が深夜ということも手伝って、帰りの楽しみにとっておこうと思い、あえて見なかった。 ⇒写真編 9/10
                 ・                 ・                 ・
*オリンピア88号
総トン数:9995d 全長:165m 全幅:21.5m 巡航速度:19ノット 定員:502人
1986年、大阪南港とプサン港を結ぶ定期国際フェリーとして就航、大阪を水、土の13:00に出港、翌朝10時プサン入港。後「檀皇」号が神戸便にも就航するが、経営に絡んでいたとされる許永中氏の、イトマン事件での逮捕・起訴を受けて、経営不振に陥り、93年廃路となった。
2002年、日韓サッカーWカップを期に、別会社のパンスターフェリーが、同航路に就航している。
丹波篠山城と黒豆 [2008年06月07日(土)]
城郭探訪12 丹波国 篠山城(桐ヶ城) 6/7


関が原以降もなお強大な力を持つ大坂の豊臣に、にらみを利かせるため、山陰から大坂をつなぐ街道の要衝の地ということもあって徳川家康が築城の名手藤堂高虎はじめ、西国の諸大名を動員して1609年に築城させた。が、時代の要請か天主台はあるものの、天守閣は作られなかった。それは戦国の世も終わり、不要という意味と、強固なつくりに仕上がった石垣に作られる天守閣の軍事的脅威を幕府が警戒したためともいわれる。

1944年に焼失した大書院が2000年に復元され、明治初期に取り壊された隣の二之丸もおそらく同様の造りの建物であったろうから(本丸御殿はなかったらしい)、実のところのお城の雰囲気とは、こんなものじゃないかなと、思わせる数少ないお城でもある。

*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・

 大書院と手前の二之丸跡
 正面からみる篠山城址                    天主台石垣

城のすぐ向かいが市役所やホールのある街の中心部。しかし、JRの最寄り駅からはバスで15分ほどかかる。かつて福知山線を通す際、都会から悪い因習がもたらされると地元民が反対、ルートが変わってしまったらしい。駅舎は比較的最近のもので、きれいだが駅前はバスのロータリーとコンビニがあるくらい、そこからお城までの道すがらも大きな建物がほとんどない、あくせくした感じのしないのどかな雰囲気。夕方6時半頃にはお店の大半がしまっていたので、楽しみにしていた黒豆モチを買えなかったのは、ちょっと惜しかった。
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