たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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旧国鉄宇品線を行く G [2008年05月31日(土)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行く G 上大河駅〜広島駅 4/9


上大河駅は旧宇品線の中でも最も賑わった駅だろう。
駅の真東、約27万uに及ぶ陸軍兵器補給廠は戦時中、兵器増産のため学生や女性が多数動員された。多いときは昼夜を分かたず、30分おきに走っていたという宇品線を使って大量の武器弾薬がここから宇品港へ、そこからさらに戦場へと送られた。が、戦争末期には輸送船すらも次々に沈められ、武器弾薬はおろか、兵士も食糧も医薬品さえも海中に没した。

戦後は46年6月から10年間は広島県庁、57年10月以降は広島大学医学部(後に薬学部と歯学部も設置)が兵器補給廠跡を利用、最大9000人近い人々が通ったという。が、一時期1日23往復あったダイヤも、並行する広島電鉄宇品線の利便性に太刀打ちできず、乗客数は伸びなかった。66年12月、上大河駅−宇品駅の旅客営業廃止、広島駅−上大河駅は定期券の客のみ、平日4往復(休日2往復)という変則的営業に切り替えた。これは実質、広大医学部関係者以外の利用が皆無になったということだ。それさえも、72年3月までだった。

大学正面前、一車線ずつの車道に、絶え間なく車が行き交う。かつてそこに鉄道が走っていたとは想像がつかない。

宇品線跡は、段原南交差点でいったん途切れる。そこを迂回すると静かな裏通りといった雰囲気になり、未整地状態で再び現れた線路跡を境に東側は宇品線時代からの古い民家、西側はそれを知らない比較的最近の民家や集合住宅が建ち並ぶ。その南端、段原南第5公園、別名宇品線広場には10mほどの線路が敷かれ、歯車のついた車輪、「南段原駅」の駅名表示板といったモニュメントが設置されている(写真上)。


そこから少し先、10m弱の幅だった線路跡が東側に直角三角形状に広がるあたりが、実際に南段原駅のあったところ。菜の花や雑草が繁る中、線路を柱に転用したと思われる土台が数箇所見つかった。他にも数辺のコンクリート礎石も残されていた。雨に濡れた小さな鉄塊が、かつての駅舎か、小さな倉庫といった建物が存在していことを、微かに窺わせている(写真中左)。

うっすらしたと緑の絨毯のような線路跡に、一本の踏みしめたわだちが延びていた。

未整地の線路跡は猿猴川の手前でフェンスに囲まれ、またその東側、段原中学の付近は一面更地となり、造成工事が始まっているようだ。段原地区は市の再開発地域。すでに完了した旧宇品線西側に遅れて、東側の再開発が前進し始めた。今見てきたところもそう遠くない時期に、街並みが一新することになる。

猿猴川を渡ると、すぐに巨大なクレーンが何本も見えてきた。新市民球場の建設現場だ(写真下段上)。手狭で老朽化著しい現球場の建替え問題も、数年に亘ってすったもんだしたが、09年シーズン開幕までに、メジャーリーグ並みのボールパークが生まれるという。それにあたって、約半世紀を経て再び市民からのたる募金を行い、建設資金の一部に充てたことは、カープと地元広島との親密度が偲ばれる。


物流の主役が鉄道からトラックへと移ることによって遊休地となったJR貨物ヤード跡地への新球場建設は、現球場が戦前軍都広島の陸軍西錬兵場跡地に造られたことと同様、ここでも時代の移り変わりを象徴しているように思う。

宇品線跡はこの貨物ヤードの一番西に沿って走り、広島駅0番ホームへと続いていた。約1年後、ここあたりの光景も劇的に変わっていることだろう。


*「旧国鉄宇品線を行く」参考文献
「ヒロシマの被爆建造物は語る−未来への記録」 被爆建造物調査研究会:編 広島平和祈念資料館:発行 1996年
wikipediaほか多数のインターネットサイト
旧国鉄宇品線を行く F [2008年05月28日(水)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行くF 旧宇品線周辺の近代遺構・下

御幸橋 竣工:1931年(被爆時の橋は2代目) 爆心地から約2270メートル 

宇品築港造成工事中の1885年8月、明治天皇が広島を行幸した時に、この橋を渡ったことからそう名付けられた。相次ぐ戦争で、宇品港へ向かう出征兵士の多くはこの橋を渡り、帰ることはなかった。

被爆直後より、猛火に包まれた市内中心部からこの橋を通って、少しでも安全な郊外へと逃れる被爆者が後を絶たなかった(ちょうどこあたりが全壊・全焼地域との境)。誰もが火傷や怪我をし、服を剥ぎ取られ、足を引きずってのことだった。しかし、なかには爆風で欄干が倒れていため京橋川に転落した人もいたらしい。
中国新聞写真記者、松重美人氏が被爆当日、この橋の西詰め、千田町派出所前で救護を受ける被爆者の様子を捉えた写真が、被爆直後市内でもっとも早く撮影された(午前11時頃)として有名。同氏はあまりにも凄惨な光景ゆえ、涙があふれ、手が振るえシャッターを押すことにためらったという。
また、救出、あるいは家族や知り合いの安否を確かめるため、入れ替わるようにここを渡った人も多い。

路面電車、自動車、歩行者と往来が激しい御幸橋は老朽化により、90年、3代目に架け替え完了、派出所も92年まであった。(写真中段右 残された2代目御幸橋の親柱。街灯のデザインも2代目を踏襲=07/6撮影)

宇品警察署 竣工:1909年 爆心地から約4640メートル(写真中段左=07/4撮影)
水上の取締りをする水上警察署として発足、1937年同じ建物内にあった宇品警察署に業務を引き継いだ。戦後も引き続き警察署として使われるが、64年に南警察署として移転、その後広島県港湾事務所が81年まで入居、今も倉庫として県管理のもとにあるようだが、付近は高層住宅が建つなど、広島南道路建設に伴い再開発中。原爆で木造建物のほとんどを焼失した広島では(広島以外でも)希少な明治期の洋風建物だが、保存されるのかどうかは不明。


千田廟公園 爆心地から約2800メートル (写真中段中=07/6撮影)
浅瀬だった広島湾は、宇品築港事業でおおむね今の黄金山通以南を埋立てた。その最も北側、宇品新開地の入り口に(区別はつかないが)、築港事業の立役者、つまり広島近代化の礎を築いた広島県知事千田貞暁(せんだ・さだあき(1836-1908))の像(1915)や自身の揮毫による宇品新開地記念碑(1908)、千田神社(1925)がある。像は「設計図を手に堂々と広島湾をのぞむ」と碑文に書かれているが、広島湾のある南〜南西ではなく、ほぼ西を向いている。

千田は、計画について有志百数十名を集め満場一致の賛同を得たというが、いつどういう形式だったのか、有志とはどんな資格の人たちなのかは分からない(彼に都合のいい人ばかりだったかもしれない)。彼が官選知事に就任する2年前、1878年に制度化されたばかりの県議会は権限が弱かったとはいえ、事業決定の経緯(議会を経ていない?)や、予算の大半を国庫からまかない、さらに千田自らも私財を投じるなど、事業の位置づけがハッキリしない。

宇品港竣工直前に新潟県知事になった千田は、石油採掘を手掛けるなど事業欲は旺盛だったようで、後に高く評され、晩年は貴族院議員を務めた。
他にも南に1600mほどの千暁寺、京橋川を挟んだ対岸の中区千田町も彼の名にちなむ。


御幸通 (写真下左=07/6撮影)
千田廟公園西から宇品海岸までの南北に連なる通り。御幸橋と同じく明治天皇行幸時に、この道を通ったことを記念し、名付けられた。また天皇が植えたという御幸松が海岸付近にあったが、後に千田廟公園に移植された。

中国配電南部変電所 竣工:1943年 爆心地から約3790メートル (写真下右=07/6撮影)
被害が軽微だったため、被爆翌日には送電再開している。94年までそのまま変電所として使われ、現在は中国電力系不動産会社が所有、賃貸物件になっているようだ。何の変哲もないやや古いオフィスビルという感じ。
旧国鉄宇品線を行く E [2008年05月26日(月)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行くE 旧宇品線周辺の近代遺構・中

陸軍被服支廠  竣工:1913年 爆心地から約2670メートル

規模では原爆ドームをしのぐ被爆建物。軍用衣類から小物にいたるまでの製造・補修、配給、管理などをしていた。今残るのは4棟で、外壁は煉瓦だが躯体は鉄筋コンクリートという堅牢な構造だったこともあり、原爆では倒壊も火災も免れた。そのため、ここも多くの被爆者が一時的になだれ込み、酸鼻をきわめた。

戦後は広島大学の学舎、学生寮、物流倉庫など95年まで使われたが、爆風で内側に湾曲した全面赤錆の鉄扉が被爆時のまま残されていることや、日本における鉄筋コンクリート建築物として黎明期にあたり、建築史の観点からも保存の声が高い。財務省と広島県が管理しているが、今後の用途は不明。周囲は静かな住宅地と高校。保存再活用するにも、近隣住民の理解と協力が不可欠だろう。

爆風で変形した被服支廠西側の壁は切り取られ(左下=05/8撮影)、原爆資料館に保存展示されている(右下=06/8撮影)
 

陸軍兵器補給廠  竣工:1904〜20年代 爆心地から約2750メートル
兵器倉庫や工場として1904年の第1兵器庫を皮切りに20年代にかけて18棟ほどの煉瓦造りの強固な建物が建てられた。原爆では西にある比治山に遮られて大きな被害が出なかった。

戦後、大きな建物がまとまって残っている所がなかったため、46年6月、府中町東洋工業本社に一時間借りしていた広島県庁が役割のなくなったここの建物をそのまま転用した。約10年後、県庁は広島城横の基町に新庁舎を建てて移転、57年10月からは広島大学医学部と付属病院が利用することになった。もともと兵器庫だった煉瓦造り2階建ての建物は、大学の施設には向いていなかったのかもしれない。しだいに建て替えられ、高層の学舎や病棟に換わっていった。

医学資料館として最後まで残っていた11号館は、附属病院の拡張建替えのため99年に取り壊わしを余儀なくされたが、大正期の煉瓦造りという観点や被爆建物であり被災者の臨時救護所となった経緯からも、保存要望が高く、可能な限り11号館の煉瓦壁や石材を再利用し、外観もほぼそのままの新医学資料館を、大学正門横に建てた。移築とも復元ともいえない半端な存在だが、学外者でも見学ができる。

上) 広島大学医学部資料館。玄関付近の白ぽい煉瓦が被爆時のもの(=08/4撮影)

日清戦争凱旋碑 竣工:1896年 爆心地から約2510メートル(写真下段=07/6撮影)
日清戦争勝利後、宇品港からの帰還兵たちが、このあたりを凱旋したことに由来する。高さ13メートルの塔の上で翼を広げている鳥の容姿から、「タカの記念碑」と呼ばれたが、金鵄(神武東征にちなむ伝説上の金色のトンビで皇軍勝利の象徴ともされる)との説もある。いずれも戦闘的なイメージだ。

戦後、この名称では軍国主義を吹聴し、占領軍を刺激するとして、原爆2周年の47年8月6日、碑銘を埋めて「平和塔」と彫り直したが、こういう事例は広島に限らず、宮崎市の「八紘一宇の塔」をやはり「平和の塔」と変えたように全国にある。今は周囲を建物に囲まれた小さな広場に建ち窮屈な感じ、相当の違和感は否めない。
ひやひや修学旅行同行記 [2008年05月24日(土)]
この仕事はいいも悪いも現場では、一人でこなさなければならない。会社の眼がない分、気楽にできるメリットがある反面、ピンチの場合、誰もフォローしてくれないことでもある。

2日間で撮影すべきものは、3箇所でのクラス集合写真、5〜6人ずつのグループ写真、1000枚前後のスナップ写真。決して無理な注文ではない。1日目は1300枚弱、充分すぎるくらい撮ったなと、思い終えた。

翌朝も6時過ぎから撮影開始、だが用意した3個の電池のうち、2個が次々と切れてしまった。全部で2000枚以上撮れると思っていたが、経年劣化でかなりヘタっていたようだ。残り1個も、いつ切れるかわからない状態。デジカメ専用の充電池なので、そこいらのコンビニで買い足すこともできない。充電器があれば、合間をみて充電もできるが、“2000枚以上”を過信したため、用意していなかったのは、大失態。撮影は夕方まであるのに、いきなり大ピンチだ。

この場合、電池を抜いてしばらく休ませれば少しは復活するが、何十枚も撮れるわけではない。多少スナップ写真を犠牲にしても、少なくとものこり1箇所の集合写真まで電池が持つかどうかさえも、冷や汗ものだった。もしこれらが撮れなければ、子どもたちの楽しみや思い出を台無しにしてしまうわけで、なんのために同行しているのかわからない。かと言って、子どもたちの「写真撮って〜」の声を無視するわけにもいかず、1枚だけ撮って、近くにいる子をあわせて撮ることもやめて、しのぐことにした。

午前中、淡路島の伝統芸能である人形浄瑠璃館を見学した後、人形と一緒に写真を撮りましょう、となった。これは館側の計らいであり、素晴らしい提案である。写真として付加価値が高まるし、売上げにも貢献できる。が、内心はここで電池切れを起こしたら最悪だ、と心細い状態。

その直後、次の見学地で予定していた集合写真が降り出してきた雨で撮れそうもないということで、急きょこの館内で撮ることに。これは少しでも早い方がいい。すこしホッとするが、ここでも昨日1クラス6枚撮っていたのを3枚に減らすくらいシビアになっていた。

その後、最後の見学地でも枚数は減らしながらもひと通り撮ることができ、2日目計約350枚と1日目約1300枚とのバランスの悪さはともかく、なんとか体裁だけは保てたと思うが(?)、今日1日は、昨日までの楽しい気分は吹き飛び、ちゃんと仕事できてないやん、と居心地悪く、最悪、2日目のギャラは返上しなくてはいけないかも、という思いがかすめた。

わずかひと掴み程度の大きさの充電器、これからは絶対に用意しておこう。


わくわく修学旅行同行記 [2008年05月23日(金)]

基本休日稼動ビンボーカメラマンにとって修学旅行の同行撮影は、たいがいが社員カメラマンでまにあうし、平日の1、2泊くらいでも都合が付かないので、なかなか機会がないが、今回4月初め頃にオファーがあり、せっかくだと思って挑むことにした(よほど人がおらんのやな、とも思ったが)。

京都のとある小学校、行き先は徳島・鳴門と淡路島。ちょっと近くて地味なんじゃないの、と思ったけど、気分は私が年に何度か行く撮影旅行みたいなもの、子ども中心の撮影内容ということと、団体行動という違いも仕事なのでわり切れる。小学6年生くらいなら、まだまだ素直でかわいいもの。ただ1泊2日では顔も名前もほとんど覚えられないし、会話もそんなにできない。願わくば同じ学校に何度か撮影で出かけ、もっと子どもたちのことを知り、信頼関係ができたほうが、撮影がスムーズにいくと思うけど、小学校だと写真の仕事自体が少なく、またあったとしても、毎度私に役割が回ってくるわけじゃないので、難しい。

この修学旅行の一番の見所は、1日目の鳴門の渦潮。これは干満の関係で、日や時間によって渦の見え方や大きさに差がある。この旅行では、その日の潮流が一番大きくなる時間に合わせての行程で、実はこの渦潮、2年ほど前に私は個人的に観にいったけど(写真='06/7撮影)、そのときよりもダイナミックではっきりと渦が見られたのは、予測がつかない自然相手だけに、子どもたちは幸運だったと思う。

この仕事はいいも悪いも現場では、一人でこなさなければならない。撮るべきものと最低限の枚数と、相手との対応をこなせれば、会社の眼というものがない分、のびのびというか、気楽にできるメリットがある。修学旅行の同行なんてまさにその極みで、ほんとに仕事してんのかな、という感覚にさえ、とらわれる。 経費はもちろん会社持ち、1日目の最後、全ての撮影を終えて、宿泊先の温泉に入りながら
「あ〜、こんな贅沢していいのかなあ。うちの会社しぶちんだからな〜」
と少し心配になった。
旧国鉄宇品線を行く D  [2008年05月22日(木)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行くD 旧宇品線周辺の現代遺構・上

宇品線一帯は軍関係施設が多く、陸軍の海外派兵の一大兵站機能(今で言うロジスティックス)を担っていた。原爆の時はいずれも爆心地から離れていたため、大きな被害を出すことはなく、また、戦争激化で設備や機能を疎開させ、遊休化していた建物は一転、被爆者の収容や救護という役割を果たした。戦後は民間工場や官庁、学校などに衣替えし広島の復興を支えた。

宇品港  竣工:1889年 爆心地から約4700メートル
 
終着点宇品駅に直結し、膨大な軍需物資と兵員を戦場へ送り出した宇品港は、日清戦争に先立つ1889年、当時の千田貞暁県知事の号令で、大型築港事業として完成。だが大幅な予算超過(\87000→\30万)の責任を問われ、新潟県知事へと左遷された(藩閥政治の弊害で、“朝敵”新潟県知事職(当時は官選)は冷遇ということか?)。
完成直後は地方都市に似合わぬ大きな港湾の需要がなく、無用の長物と揶揄されたが、日清戦争を期にその機能はフルに活用された。後に千田の業績が称えられるが、戦争を当て込んでいたかどうかは分からない。

今は埠頭が埋立てられ、港の機能は東側の1万トンバースと西に1kmほどのフェリーポートに譲り、宇品波止場公園として市民の散策や釣り人たちの集うところになっている。兵士らが輸送船に乗るための通称「陸軍桟橋」(1902年建設)が、往時の姿を今に伝えている。また、公園の一角に宇品線を伝えるモニュメントがある(線路自体がそこにあったわけではないが)。
写真) 宇品波止場公園の陸軍桟橋(右上)と宇品線モニュメント(左)。線路の曲がり方が変。
カーブではなく、角度がついている。これでは列車は曲がれない…='07/4撮影

宇品凱旋館  竣工:1939年 爆心地から約4660メートル

しだいに増え続ける出征兵の歓送迎施設として宇品港に建てられた凱旋館は、有志が寄付金を集め、竣工後陸軍に寄付したもの。大ホールや映写室を備え、音楽会なども開かれたという。戦争末期には陸軍船舶司令部(輸送船などを統括。通称「暁部隊」)が入居、被爆直後に市内各地に入っての懸命な消火や救護活動がよく知られている。

戦後一時期、原爆障害調査委員会(ABCC)と第6管区海上保安本部が入居していたが74年に取り壊し、跡地は公園となり、凱旋館、船舶司令部それぞれの記念碑がある(写真='07/4撮影)。また、これらを相手にした旅館や食堂などいくつかの被爆木造建築物もあったが、いずれも高速道路建設にあたり、前後して姿を消していった。

ちなみに先述の陸軍糧秣支障倉庫跡は、この公園すぐ北側にある。ちょうど1年前の07年4月に訪れたとき、この近辺にあることまでは知っていたが、生垣に遮られ、わずか数メートル先にあったのもかかわらず、まったく気付かずじまいだった。

陸軍糧秣支廠  竣工:1911年 爆心地から約3210メートル

主に軍隊用の糧食として牛肉の大和煮の缶詰を製造していた。併設の食肉処理場(屠畜場)で牛は殺され、缶詰を食った兵士は戦場で殺された。いやその缶詰さえろくに口にできず、飢えや病気で死んでいった者も数知れない。

戦後は民間の食品工場をへて1985年改修、広島市郷土博物館として利用され、原爆の爆風によってひん曲がった屋根の鉄骨が今なお見られる。また、食肉処理場は1949年よりカルビー発祥の地として、「かっぱえびせん」等の工場だったが2年前の06年3月、県内廿日市市の新工場に移転、昨年取り壊された。同社看板商品も老朽化した建物での生産は「やめられない、とまらない」とはいかなかったようだ。
写真) 解体工事始まった直後のカルビー広島工場・旧食肉処理場時代からの煉瓦造り建物='07/6撮影
石垣だってお城である 2 [2008年05月17日(土)]
城郭探訪11 紀伊国 和歌山城(虎伏城、竹垣城) 5/10


紀州和歌山といえば“暴れん坊将軍”徳川吉宗を輩出したところで、徳川御三家のひとつ。その居城、和歌山城は1585年、豊臣秀吉の実弟、秀長の築城。それが縁で400年後の1985年、大坂城と姉妹城になった。豊臣家滅亡後の1619年に徳川家が藩主となり、大坂では将軍が城主である幕府直轄領となった点でも似たような経緯を辿り、明治維新後、和歌山城二の丸御殿が大坂城に移築、紀州御殿('47焼失)として親しまれたなど縁深いものがあるが、大阪人の意識は常に「太閤さんの大坂」であり、保守色の強い和歌山とは対照的である。

江戸以降も増改築された城郭は、その造成時期によって石垣の造りの違いがはっきりと見てとれるのが、面白い。天守閣は初期に作られたものなので、石垣は自然石を積上げる野面積み。ぐるっと周りながらみてびっくり。あきらかに削られ方形の石があった。ここだけ年代があわない?! 腰ぐらいの高さだったので、修築とかでそこだけ直すというのも、変な話だ。おまけに明らかに人工的に彫ったくぼみがあって、灯籠か何かの台座のよう。ほかにも長方形のものや、酒のあてに出てくるチーズみたいな石があった。

これは石垣造成のとき、少しでも石を早く集めるため片っ端から持ってきたり、寺から寄進を受けたり(守護的な意味がある)など各所から流用した転用石といわれもので、後からはめ込んだわけではないらしい。和歌山城の隠れた名物だが(全然隠してない)、他の城にも見られるという。


左) 宝篋印塔の台座の転用石。角にあるので目立つ      右) 精巧に組み合わされた切込みハギは圧巻
旧国鉄宇品線を行く C [2008年05月16日(金)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行く C 海岸通〜ポッポ通り 4/9


糧秣支廠倉庫モニュメントから東へ500mほどのところで旧宇品線は北、つまり広島駅に向きを変える。ここからは海岸通と並行して線路跡が盛り土のまま、遊歩道となっている。レールはもちろん、枕木も全て撤去されるも、その面影は留めている。市民が花を植え、丹念に手入れをし、犬の散歩やジョギングなど憩いの場ともなっている。「海岸通」と呼ばれるように、その東岸はかつて海で、埋め立てられマツダの工場が進出したは、戦後、1960年以降のこと。

しばらく北上すると、コールタールで黒ずんだ、ネジ穴の開いた長さ2mほどの木片の柵が連なっている。広島南署の正面、旧丹那駅跡あたりだ。枕木を利用したものという。同駅を写した当時の写真と比べてみると、ほぼ同じような形で柵が見られる。ということは廃線後取り外された枕木ではなく、それ以前に使われていたものと思われる。なるほど、その木片は数十年の時の経過を疑わないオーラを漂わせている。

遊歩道はちょうどこのあたりまで、ここからは旧宇品線を引き継いだ一般車道となる。交通量が結構多い。
南署前交差点北側に警報機、線路、駅ホームのモニュメントがあるが、これはその雰囲気を伝えるもので、線路そのものは車道を挟んだ西側の歩道あたりにあったようだ。そこは枕木を利用した線路を思わせる舗装が10mほど続いている。そして、そこから先はアスファルトに覆われ、鉄路を思い起こすことはできない。
だが、昨年末、地元町内会によってこの道路に「ポッポ通り」という愛称を付けた。軍用鉄道から始まったとはいえ、庶民の足でもあったことが伺える牧歌的な呼び名といえよう。

さらに500mほど北上、西旭町に入る。そこに花壇やベンチに囲まれた小さな広場と集会所がある。旧下大河(しもおおこう)駅跡地で、集会所は位置も形状も駅舎にあわせたもの。ポッポ広場と呼ばれている。作られたのは2001年12月、意外と最近だな。

左上) 旧下丹那駅付近にあったコンクリート礎石らしきもの           右上) 旧丹那駅あたり
左下) ポッポ広場。歩道あたりにプラットホームがあり、線路、対面のホームとほぼ現在の車線いっぱいが駅だったようだ。集会所向こうの建物は、当時からあるアパート          右下) ポッポ通り
旧国鉄宇品線を行く B  [2008年05月15日(木)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行く B 陸軍糧秣支廠倉庫跡 4/9


宇品線終着点宇品駅跡地は今、広島南道路が通っている。ほぼこの車線に沿って引き込み線があったようで、なんとなくその様子が推測できる。駅ホームは路面電車なら次の駅までくらいの(阪神電車でも?)、全長約560メートル。これは日本一の長さで、連結した貨車をそのままホームに入線させ、大量の物資を短時間でさばけるようにしたもの。道路建設にともない順次撤去されたが、一部が2004年5月まで残っていた。

そのホームにあった1910年建設、広さ1320uにも及ぶ陸軍糧秣支廠倉庫は戦後、日通に払い下げられ、97年頃まで使われていたが、これも道路整備のため取り壊された。しかし、特徴ある煉瓦つくりの倉庫は保存の要望が高く、使用されていた煉瓦で壁状のモニュメントが作られた。

昨年6月、ようやくそこに行ってみた。が、周囲をフェンスで囲まれ、中に入れない。おまけに雑草だらけで手入れされているとは思えず、まるで人を避けるかのような雰囲気だった。さらにはフェンス内にはたくさんの石が積まれていた。40〜50cm四方くらいの敷石のようなもので、「被爆石」と書かれた紙片があった。
「なんでこんなところに“被爆石”が、雨ざらしで置かれているの? どこで被爆したものなのか、どんな経緯でここに来たのか。これからどうするのか…」

約3週間後再び訪れる。雑草だらけだったフェンス内が、刈られている。
「なんや、放置されてたわけやないんや」と少し安心したけど、「被爆石」はそのまま、謎は残った。

それから約9ヶ月、再度訪れる。
するとどうだろう。フェンスは取り払われ、歩道として整備されて、殺風景な周囲に一点違った景色が出現していた。モニュメント周辺は例の被爆石が敷き詰められ、プラットホームを思わせるような段も設けられていた。ついこの3月に完成したばかりで、「被爆石」は、宇品駅ホームに使われていた石だという。過去の宇品駅の写真を見ると、確かに石の形状は同じように見える。

大きな被害がなかったとはいえ、その時そこの存在し、数え切れない被爆者がここに運ばれてきたという記憶が刻まれていることを思えば、「被爆石」と位置づけられておかしくない。
モニュメント建設と歩道整備の工事時期がずれていたための奇妙な光景は、被爆の痕跡を残しつつ都市を変容させていく広島ならではの事象だったことが、ようやく判明したわけだ。
     
 左上) 高速道路縁の真下あたりが旧プラットホーム 左下) 敷き詰められた“被爆石”
右) 上から07年6月、同7月、08年4月の様子。手前が積上げられた“被爆石”

                ・                ・                ・
89年夏、私は宇品の港を利用している。当時は被爆遺構にまったく関心が及びもしなかったので、現存していたこれらを見逃している。広島に年数回通うようになった03年夏以降も、点を周るだけで、定点観測や点と点をつなぐといった見方はしていなかった。今となってはもっと早くに関心を向けておけばと悔やむも、もう遅い。20年はおろか、数年でも、貴重な被爆遺構は失われ、あるいは形を変えてしまった。
祇園にて [2008年05月11日(日)]

今日のお仕事撮影は日本舞踊で、会場は京都・建仁寺斜めの祇園甲部歌舞練場。京都の春を告げる都をどりの会場であることぐらいは知っているけれど、入ったことはない…と思ったら、その隣の弥栄会館内ギオンコーナーだった。が、建物を見て驚き。見事な帝冠様式の建物。定礎が「礎定」と右から書かれ、その年も「紀元二千五百九十六年」、バリバリ昭和初期モデルだ!

まあ、仕事でなければ、こういうところ来ることはないし、日舞の良しあしすらも分からんけど、やっぱ見る機会なんてないし、それなりにためにはなる。これも役得だよな。

日曜の夕刻、混雑する花見小路。午前中は隣接するJRA・WINSでやはり人だかり。不釣合いに思うけど 
弥栄会館手前が歌舞練場正面のひさし
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