たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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昭和な日 [2008年04月29日(火)]

大型連休真っ盛り。とてもいい天気だった。淀川べりで寝転んで読書。
暑いのでTシャツだけになった。鉄橋を渡る阪急電車の音と、くつろぐ人たちの声がひびく。たまにはこんな時間の過ごし方もいいもんだ。

陽がかげってくるころ、少し寒くなってきたので、シャツを羽織る。

あれ、今日は何の日だっけ? あ、「昭和の日」か。なんでこの日が休みなんだ? なんで「昭和」なんだ?
子どもたちには、「今は昔、扶桑の国 昭和の翁といいし、すめらぎあり」なんて説明するんかな。

あ、そういや、将軍様のお国では先代のお誕生日が「太陽節」と名を変えて、今でも公休日なんだって。人のことを笑えるか?

ま、どうでもいいんだけど、「昭和も遠くになりにけり」やな。

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「太平洋≠大東亜」戦争 [2008年04月25日(金)]
現代史彷徨 静岡市葵区静岡懸護国神社 4/5

谷津山を挟んで陸軍墓地の南東側に、静岡懸護国神社はある。
陸軍墓地が遺骨という実体を葬るところなら、ここは魂という不可視なものを祀るところ、その性格はまったく異なる。

戦争当時、軍人は戦って死ねば軍神、つまり神になるとされ、最高の名誉だった。当然、神は人間より格が上で、敬われる存在。ゆえに軍人は死を恐れず、誇りに思って死んでいった。その各地元出身者を祀るのが、護国神社である。

神社内にある遺品館には、戦没者たちの遺品がガラスケースや壁面いっぱいにおよそ4000点陳列されているという。全てを見ようとするなら、相当の精神力と体力と時間を覚悟した方がいい。朝からほとんど歩きずくめで市内を周った身体では、ほとほと疲れてしまったことは否めない。
しかし、最前線の兵士がなにをどう思い、どう戦い、どう死んでいったかを知るのは難しい。こういった遺品は、それを知るひとつの手懸かりだ。

今、私たちが「太平洋戦争」と呼ぶ、この戦争の呼び方は戦後GHQによる押し付けだとして、右翼や保守系の人は、これまたGHQによって日本の侵略戦争を肯定するとして、一時期ご法度とされた「大東亜戦争」を好んで使うことが多い。もちろん、護国神社は後者の方だが、何枚もある遺品の手書き説明文中に出てくる、「大東亜」の並びがどうも変なのだ。

「大」の枝分かれ部分には修正液の痕、「東」は重ね書きをしたようで形が不自然、「亜」は修正液の上に書き直されており、その次も、またその次も同じ箇所を同じように修正している。みんなそろって同じ間違いをしたんだろうか。

そういや、さっき「太平洋」戦争て書かれたのを見たよな。こんなところでは珍しいな、と思ったんだよ。

とすると、「太」→「大」、「平」→「東」、「洋」→「亜」 と直したのものと見えてくる。見れば見るほど、そう見えてくる…。が、これは穿った見方かもしれない。


戦死者と遺品について、簡潔に記している説明文中の「太平洋」戦争か、「大東亜」戦争かは、さしたる問題ではない。が、「大東亜」戦争と呼ぶ慣わしの護国神社が、なぜ、「太平洋」戦争と書いてしまったのか。だとして、それを一枚一枚躍起になって書き直さなければならないものなのか? その意固地さに、ちょっと面食らった。これでは幾重にもバイアスが掛かってしまい、遺品から本当のことは読み取れない。神様といえど、「死人に口なし」だからだ。
旧国鉄宇品線を行く @ [2008年04月24日(木)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線 @ 序章 4/9


街並みは、時代とともに変容していく。
街が平面的拡がりから上へ下へと垂直に拡がることが、近代都市のひとつの宿命であるゆえ、数十年たてば、まったく違っていて当然。原爆で市街地が壊滅した広島ではなおのこと、街はゼロどころかマイナスから再生した。

そういったなかで、市内に点在するいわゆる被爆建物、被爆遺構をどう扱うかは、簡単ではない。世界遺産に登録された原爆ドームでさえ、1966年の永久保存決定まで被爆後20年以上、取り壊しか保存かで揺れ、ほとんど手付かずのままだった。結果、広島随一の繁華街にあり、被爆前からシンボル的な存在の瀟洒な外観の旧産業奨励館は、傷ついた姿を曝し、役割もがらりと替えてもシンボルたらんと踏みとどまった。

が、全ての建物・遺構が残されるわけではない。建物の老朽化は避けて通れない。まして原爆による物理的損傷が、それを手伝い、オフィスビルだと、しだいに手狭になり近代化設備が導入しにくいなど、業務の非効率化を生むは、被爆建物に限った話ではない。


また保存をするにしても、どういう形態にするのか、さらには文化財等の指定を受けられるのか、維持費はどうするのか、など難問は山積みだ。当の広島市でさえ財政難で、四苦八苦しているという。それが民間であればなおさらのこと。法的義務があるわけでもない。もし広島が原爆の惨禍にあっていなければ、どうということはない一地方都市として発展し、古い建物のほとんどは、議題に上ることもなく取り壊されても不思議ではない。

時代とともに広島の被爆建物・遺構は少しずつ姿を消していった。
もう邪魔しないよ [2008年04月23日(水)]

まったく無視された。ヒトが苦手なネコはその姿を認めると、すばやく逃げるものだが、コイツは無視して、スタスタとお寺の石段を登っていった。

「チチチ」と呼びかけてみる。たいがいのヤツは何ごとかと、振り向く。眼と眼があえばネコはしばらく固まって動けなくなるが、コイツはひたすら無視、無視、無視、無視。わかったよ。もう邪魔しないよ。

静岡・陸軍墓地をたずねる [2008年04月17日(木)]
現代史彷徨 静岡市葵区 4/5

静岡市葵区沓谷は谷津山のふもと、近くのバス亭から数分で市中心部に出られる住宅地で、駿府城の艮に位置する、家康の側室お万の方(水戸光圀の祖母)が再興した蓮永寺が有名。そして、そのすぐ奥手に旧陸軍の墓地公園がある。

公園の端にある個人墓は、木々に囲まれ分かりにくい。全部でどれほどの人が葬られているかは不明だが、一等卒、二等卒という兵卒や将校の個人墓が区画ごと、さらには大尉、中尉…と階級ごとに並んでいる。

見事なもので、ひとつ階級が違うだけで墓石の大きさが違う。具体的には高さがそれぞれ約大尉170cm、中尉165cm、少尉160cm、兵卒は50〜60cmほど。普通は逆だと思うが、将校の墓石のほうが多かった。

墓石には階級、氏名、所属部隊だけでなく戦死した日付や場所も刻まれている。
「第三十四連隊第八中隊」
「明治三十七年八月三十一日 清国瀋陽南方首山堡戦死」
「明治三十八年三月十日 清国奉天第六師団 第三野戦病院戦傷死」

ほとんどが、この日付前後の戦死となっている。そして、3月10日といえば日本陸軍がロシア陸軍を破り、戦争の趨勢を決したともいえる奉天会戦の日で、後の陸軍記念日となった日だ。どちらも大激戦だったようで、当時駿府城址駐屯の第34連隊も参加していたということになる。

公園のはす向かいには合同碑がある。
「戦病死兵卒之碑」からはじまり、「戦病死将校同相当官之碑」とこれまた階級別に大きくなっていく碑4基と、「明治三十七八年役(当時は日露戦争をこう呼んでいたみたいだ) 戦死病歿者追悼碑」とが並ぶ。

戦争が長期化・激化した日中戦争以降、戦死者も増えたはずだが、「支那事変 大東亜事変 忠霊塔」(昭和43年建立)があるだけで、個人墓は見当たらなかった。他の場所にあるのか、部隊そのものが参加しなかったのか、それとも数が多くなっていちいち用意していられなくなったのかは不明だが…。

一人の少年が壁に向かって野球のボールを投げていた。花見の場所取りや散歩で数人がふらりと立ち寄った程度、土曜日の朝、そこはやわらかく暖かい日差しに包まれていた。

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日露戦争は南進してきたロシアの脅威に対する日本の防衛戦争という声がある。しかしこの墓に刻まれているように、その戦場のほとんどが当時の清。いくら清が弱体化していたとはいえ、隣国同士が勝手に入ってきての大喧嘩。とんだ迷惑な話だ。
今度はレンズが その3 [2008年04月13日(日)]
修理に出したレンズがようやく戻ってきた。約3週間、この間、使用機会がなんどかあったのに、それを逃したことはもったいない。

修理伝票をみると、「故障箇所 ご指摘の不具合を確認いたしました。絞り作動不具合につき調整いたします。」、「対応内容 絞り調整を致しました。」と書かれているが、これでは故障の原因も、どう調整したかも、具体的なことは何も分からない。

修理代金は9066円也。中古品のため、こんなこともあろうと中古用補償を掛けていたので、直接の負担はなかったけど、詳細不明の故障で9000円とは、また同じことが起こらないとは限らない。先が思いやられるな…。


ネコだってライオンである [2008年04月12日(土)]

なんていう種類なのか知らないが、時々見かける。薄いグレーでちょっと縞があり、特徴であるその体毛の長さからくる風貌で、勝手にライオンネコと呼んでいる。

とてもおとなしく、気品があると同時に、気位が高いのか、人が近づいても悠然と構えている。いや、無視していると言ったほうがいいかも。

登庁は登頂でござる [2008年04月11日(金)]
城郭探訪10 備中国 松山城(高梁城) 4/8

高松から松山へ。でもここは岡山県内である。

山陰と山陽をつなぐ交通の要衝として備中松山城は、1240年にその起源を求めることができる。まだ鎌倉時代中期だ。初期の城は山の上に作られるが多かった。高所は周囲を見渡せ、敵を攻めやすく、敵から守りやすいとして軍事戦略上、重要点になるからだ。

1683年、当時の藩主によって今の姿に改築された天守閣は、明治維新後の廃城令で破却の運命にあったが、政府には「破却しました」と伝え、実際は放置されていた。山上にあるがゆえ、その費用がまかなえず、検証もされなかった。以後、城は荒れるに任され、幽霊屋敷のごとく見るも無残な崩落寸前であった昭和初期、地元の有志により、復旧保存運動が起こり、1940年に解体修理をした。

その際、極力現状保持のため、同じ素材を使ったり、忠実に複製したりしてダメになった箇所を入れ替える。いわば新陳代謝みたいなものだ。

よく見ると、部分的に接木をするように新しい木材になっていることがわかるが、面白いことに、もともと割目があった柱の部分的な補修箇所に、位置がずれることなく割目を入れている。補修するのに強度が弱くなる割目入れてどうすんだ?! と一瞬思うが、時間がたてばその箇所もなじみ、違和感なくなるんだろうな。

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地上430メートルにある天守閣の規模は、案外小さい。それは軍事要塞としてより、統治者の権威付けの意味合いが強かったらしい。天守閣はじめ、幾重かに築かれた石垣なんかの資材を運び上げるだけでも、相当な労力を要する。当然、それだけの権力や財力がないと人も物も動かせない。

が、さすがに戦国の世も終わった江戸時代には、城主はふもとにある御根小屋で生活も政務もしていたという。そりゃそうだろうな。食料、水等の日常物資の運搬だって重労働だ。戦国後期以降に作られた城は、小高い丘、そして平地へとしだいに標高が下がっていったことは、ここを訪れて十二分に納得した。
春雨 桜 広島 [2008年04月09日(水)]

年数回訪れる広島。気が付けば今春も04年以来、5年続けて桜の時期となった。
「気が付けば」というのもおかしいが、3月はまだちょっと寒いし、仕事等の都合で4月始めになってしまった。

昨日の岡山は好天、今日は一転して曇天、夕方前から雨が降り出してきた。
朝からほとんど歩きづくめ。さすが脚が痛い。
歴史教科書で有名な [2008年04月08日(火)]
城郭探訪9 備中国 高松城 4/8
1582年、歴史教科書で有名な、秀吉の備中高松城の水攻め。周囲は低湿地帯、人馬とも脚をとられ攻めあぐねていた。秀吉は近くを流れる足守川が城よりも高い位置にあることに着目、下流域に堤防を12日間で造り、川の土手を崩して足守川の水を流し、城を孤立させる作戦をとった。水に守られていた城は、逆に水によって攻められる。

その工事のさい、農作業に支障が出ると、地元農民から猛烈な抗議が出たが、そのリーダー格の農民を打首にするという強行に出たという。

そこに本能寺の変の一報が入る。秀吉は、主君の一大事は敵対する毛利陣営に利すると見て、領地領民将兵の保全を引き換えに、高松城主清水宗治の自刃で和議を成立させる。そのため宗治公はこの地では、将兵、領民を思い死を遂げた人と捉えられている。

備中高松城は石垣がなく、土塁が盛られていた。また天守閣も築かれず、本丸や二之丸の遺構もまったく残っていないが、岡山市のベッドタウンとしての住宅と、400年前からあまり変わっていないではないかと思わせる田園風景とが、静かに共存している。

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この辺りは桃太郎伝説の地でもある。桃太郎が放った弓が鬼の目に刺さり、流した血が血吸川と呼ばれるようになったという。が、かつて砂鉄が採れ、製鉄も行われていたため、流れ出る錆びた鉄が、血のように見えたことが本当で、その流れ着いた先が、今でも赤浜という地名で残っている、と地元のおっちゃんが語ってくれた。

また近くに吉備津という地名(桃太郎のモデル・吉備津彦命が祀られる吉備津彦神社がある)が示すように、大和朝廷の頃、このあたりまで海だったようで、水にまつろう歴史物語に満ちている。

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