たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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悠遊国記 再び日本海へ [2007年04月09日(月)]
撮影行脚8日目。さすが1週間を過ぎると、ちょっと疲れ気味。
1週間前、お天気が悪く素っ飛ばした山陰地方は、これまでほとんど来たことがなかった。

左) 米子にある援体壕。雑草に阻まれ、これ以上近づけなかった
右) 米子空港は航空自衛隊美保基地との共用。C-1型輸送機が上空を何度も旋廻飛行していた

昨日、夕刻広島を出発、倉敷19時51分乗換え、伯備線経由で米子まで乗換えなしの23時14分着。そこから松江か出雲まで行きたかったけど、もう列車がなかった。

18切符での効率よく廻るコツのひとつが、こういう夜の列車だ。地方でも起点となるような都市までの列車なら、18切符の有効な深夜0時近くまで動いている。つまり夕方から、最終列車あたりで次の目的地に着くように、5〜6時間かけて乗り継いでいく。着くのが深夜なのが少しつらいが、赤貧写真家は抑えられる出費は、可能な限り抑えたいのだ。

午前中は米子空港近辺の旧海軍の掩体壕(飛行機用退避壕)など軍事遺構を撮影。その一部は農機具などの物置として使われており、一部は完全な不法投棄品の山となって、見るも無残な状態だった。地権者も、何の役にも立たない掩体壕に手間もお金も掛けられないし、行政も私有地ゆえにあまり口出さない、そういう構図なんだろうか。

昼から米子の北隣、境港をちょっと散策して、夕方再び米子に戻るつもりだったが、昼食に美味しい海鮮丼を食べたのがいけなかったのかもしれない。日本有数の漁獲量を誇る境港なんだから、やはり海の幸を食べたくなるっていうもの。食事をすればパワー回復するはずなのに、その満腹感と満足感から、それ以降の撮影意欲がしだいに萎えてしまい、結局、境港で半日のんびりと過ごした。

 左) JR境港線も鬼太郎ずくし。これは猫娘列車                右) 日本海の風物、イカ釣り漁船

境港は漫画家水木しげるの出身地で、その代表作『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎はじめ、いろんな妖怪の彫像や関連商品、便乗商売(?)で町興しをしている。数年前、友人がこの街を訪れたときは、日本で唯一、国交のない北朝鮮の元山(ウォンサン)市と結んだ、友好姉妹都市提携に関する資料室が駅前にあったと聞かされたが、どうやらその妖気に触れて、鬼太郎の下駄に蹴飛ばされたのかもしれない。

地方都市にとって特化された観光資源は、死活問題なんだろう。観光のメインストリート、水木しげるロードには、妖怪たちのブロンズ像が数メートルごとに置かれていた。いまや鬼太郎一色である。その数120体! さすがにこれらを写真に撮る気には、なれなかった。
悠遊国記 ここまで来て…3 [2007年04月08日(日)]
4/8 撮影行脚7日目、広島県広島市
旧水上警察所。朽果てる一方だ  

広島はここ数年、年2〜3回訪れては各所を撮影しているが、なかなか納得いく写真が撮れない。だから今度こそは、という思いでまた撮影に出かけるが、やはりうまく撮れない、の連続。写真の難しさ、いや自分の写真の下手さを痛感させられ、いささか苦痛気味になっていた。

広島は大阪から18切符で日帰りも可能なので(めちゃ強行軍になるけど)、仕切りなおして夏に来ようかとも思ったが(18切符に固執してしまうあたり、赤貧写真家の悲しいところ)、ここまで来て退散するのも悔しい。見たい箇所はまだまだあるんだから。

午前中は海のほう、宇品にある旧水上警察署にいく。1909年竣工というから、もう築100年近い木造の建物だ。そう、広島は原爆の惨禍によって戦前期の木造建築物はほとんど失れた。ここは爆心地から遠かったため被害は軽微、現存する数少ない木造建築物だ。戦後は広島県港湾事務所として使われたこともあるが、今は倉庫のようだ。

建物のあちこちで塗料が剥げ、木目が見えている姿は痛々しい。西側の壁はほぼ全面鉄板状のものに覆われ、また雨どいが比較的新しいものである以外、特に補強や補修はされていないのだろう。

建物裏手に回る。すぐ隣は現宇品警察署があり、不審者に見られないかヒヤヒヤしながらも、窓から中を覗いてみる。スチル製の棚が並び、段ボール箱が整然と置かれている。まだきれいな様子だったので、完全に放置されているわけではなく、少なくとも管理者の出入りがあることが伺える。

今度は正面玄関の、汚れまくったガラス窓から覗いてみると、入り口カウンターにセーラー服姿の女優紺野美紗子主演のNHKドラマのポスターが貼られていた(ある意味お宝写真)。これは20年以上前の作品だ。ということは、その頃までは役所関係以外の人の出入りがあったということだろう。今は、タイヤなんかが無造作に置かれているが、一瞬、そこに人々が行きかう、語らう様子を想像した。

旧水上警察署はその希少価値性から保存の声もあるが、どうなるのかは不明だ。

無数の軍人が軍靴踏鳴らし戦場へと向かった宇品の陸軍桟橋は、
今は釣り人たちが集う


ヒロデンに乗ろうとして、びっくり。京都市章をつけた旧京都市電の
車両が走る

昼からはちょっと山のほう、牛田にある不動院を訪れる。ここも爆心地から遠かったため、難を逃れた現存木造建築物。しかもここは16世紀中ごろに建てられたということもあって、広島においては貴重な歴史遺産。国宝、国、県、市の重要文化財が並んでいる。続いて不動院の少し南、水道資料館を経て、広島城の西側、かつての広島藩主浅野家の別邸に造成された庭園、縮景園を訪れる。都心部まで戻ってたわけだ。

学生時代に訪れて以来の縮景園以外は、今回初めて訪れたところ。確認はしつつも、迷うことなく各地を巡ることができたのは、何度も訪れてそれらの位置関係が、はっきりとしていたからだろう。

ここまで来たんだ。それを活かさなくては。

道に迷いそうなくらい広い縮景園  
悠遊国記 鉄の鯨、感 [2007年04月07日(土)]
4/7 撮影行脚6日目、広島県呉市

初めは行くつもりはなかったが、次いつ来るかも分からないし、話のネタとしては悪くないと思い、行ってみたのが、つい2日前にオープンしたばかりの海上自衛隊呉史料館(通称てつのくじら館)。
何がすごいかって、老朽化して引退した潜水艦をそのまま一隻展示してあるのだ。しかも地上に。

道路を挟んですぐ隣の呉市海事歴史科学館(通称大和ミュージアム)は、1/10大和の模型で話題をさらい、映画『男たちの大和』の上映もあって、一大ブームを巻き起こした。
二匹目のドジョウを狙っているのか、旧日本海軍のお荷物、1/10大和に対抗、いや圧倒する現代海軍の主力兵器、本物の潜水艦を、現日本海軍がぶつけてきた。

退役した軍艦を、いわば博物館的に公開している例は少なくない。また現役の自衛艦も時々公開されるが、当たり前だがいずれも港に係留されている。船なんだから海の上は当たり前。それをまったく逆の発想で地上に上げ(クレーンで吊って運んだ)、通常見ることのできない船の底を仰ぎ見ることは、観方を変えれば艦から見下ろされ、威圧されているふうにも受け取れる。

史料館としての内容は海上自衛隊の歴史、特にその揺籃期10年間くらいの掃海活動(*)に重点がおかれ、その意義と業績は充分に伝わるものだった。さらに、やがてその実績が湾岸戦争後のペルシャ湾掃海活動分野への海上自衛隊の海外派兵へと発展し、その有効性、“国際貢献度”を認知させようというもの。つまりこれは海自の活動のアピール、国民への理解を高めてもらうための宣伝施設であり、プロパガンダの一種なわけだ。

宣伝目的なので、入場は無料。もちろん、施設の建築だけでなく、これからの維持費にも多額の税金で使われることになる。これでいいのかなあ。

こういった宣伝活動はこれまでも行われてきたが、地味で控えめに、しかも基地内の施設を使っていたので、市民生活との接点はなかった。しかし、この「てつのくじら艦」は、ひらがな表記することや、かわいらしいイメージイラストを用いることで、軍・戦争の匂いを掻き消し、本物の潜水艦は断然注目度と集客力が期待できる、むしろ観光施設の要素を前面に出し、呉市中心街の大型ショッピングセンターが隣接する嫌でも人々の目に飛び込んでくる場所に陣取った。

ここまですれば、軍の活動がデモンストレーションの枠を超え、兵器が日常生活の中に平然と割り込んできて、それに対する感覚が麻痺するような気がしてならない。

今日4月7日は戦艦大和が沖縄特攻作戦なかば、米海軍機の集中攻撃を受けて沈んだ日。午前中旧海軍墓地(長迫公園)にあるその慰霊碑前に、遺族や元乗組員が、三々五々集まって話をしては、帰っていった。もう高齢者が多いので、行事としての慰霊祭は行わないという。

慰霊碑周囲に刻まれた犠牲者氏名

集まったのは全部で10人くらい。
こんなにこじんまりとした集まりとは思わなかった

あの日、あの時、あの場所で起こったことを、今の私たちは読んだり聞かされたりして、想像するしかない。それでも、その真実はそれに余りあるものであることも、想像しなければならない。

てつのくじら館ではそういった想像力を働かせられるか、ちょっと疑問…。そこを心得たうえで見る必要があると思う。

潜水艦内部の公開箇所は限定されている


(*)機雷とは海にばら撒く地雷。船舶が接近、通過すれば爆発する。そのため、付近の船舶航行を困難たらしめる効果も大きい。太平洋戦争末期、米軍が日本周辺の海に多量に敷設した機雷が、戦後日本復興に欠かせない海上輸送の支障を与えるため、それを発見、処理する作業をGHQが日本に依頼した。
悠遊国記 亀山八幡宮にて [2007年04月06日(金)]
下関市唐戸にある亀山八幡宮は、かつては島であり、カメのように見えたことから、まんま亀山と呼ばれるようになった。

江戸時代になって付近を埋め立てる工事が行われたが、早鞆の瀬戸と呼ばれる潮流の速い関門海峡での工事は難攻した。そこで「お亀」さんという遊女が人柱となり、これを切り抜けたという。そこから境内にはお亀明神が建てられ、カメがうようよいる小さな池があるという、カメづくし。それは成人後仙崎から下関に移り住んだ童謡詩人金子みすゞの詩にも出てくるから、とってつけたような語呂合わせでもなく、昔から人々に親しまれてきたんだろう。

左) おかめ明神                               右) ひたすら甲羅干しする池のカメたち 

同神社手前の駐車場は、その金子みすゞが生前最後の写真を撮った三好写真館の跡地なわけだが、そこに奇妙な石みたいなものがあった。近づいてみると、それはカメだった。まったく動いてなかったので、死んでいるのか、それとも置き物なのか。そこでつついてみると、頭も足も引っ込めたので生きている。

そいつがお亀明神の池から這い出してきたことは、容易に想像がつく。が、イッタイゼンタイこいつは何のため、どうやってここに来たのか。

お亀明神は島だった頃の名残で、駐車場よりも数メートルも高いところにあり、当然柵もある。わざわざ柵を乗り越えてまで、ここに来る目的はあるのか。それ以前に物理的に柵を乗り越えられないだろうし、乗り越えたとして、そこからは駐車場へまっさかさま、落っこちるしかない。

いくら硬い甲羅に覆われているとはいえ、あの高さから落ちれば、無事ですむとは思えない。それとも長い階段をのそのそと降りてきたのか。よく見ると前足を怪我していたが、“落っこちた”ときに、怪我したのかどうかも、判りようがない。

私は、まったくそこから動く気配のないそいつをむんずと掴んで、今降りてきたばかりの階段を登って、池に放してやった。それからも、そいつはまったく動こうとしなかった。

亀山八幡宮から東へ500メートルほどにある赤間神宮は、壇ノ浦の合戦で入水死した安徳天皇を祀ってあるところなので、大して興味はなかったが、夜7時頃、列車の時間までまだ少しあったので、寄ってみた。赤間というくらいだから、見事なまでの朱塗りの建物(水天門)は、安徳天皇が海の底で暮す龍宮城をイメージしているという。

そこでのんきに写真を撮っているうちに、時間が迫ってきた。下関駅行きのバスを待つのももどかしく、全力疾走で駅まで走った、走った。よく、走りきったもんだ。

これって玉手箱なんだろうか。
悠遊国記 ここまで来て…3 [2007年04月06日(金)]
下関火の山公園のふもとに着いたとき、あ然、愕然、呆然としてしまった。「ええーっ、山頂に行けない?!」

火の山公園とは関門海峡の最も狭いところ、関門大橋のすぐ東にある標高268mの山にあり、眼前の海峡はもちろんのこと左手に瀬戸内海、対岸の北九州門司、小倉、右手にやや霞んだ玄界灘までが見渡せる展望のいいところ。
それゆえ、かつては軍事要所として要塞化され、民間人立入禁止区域だった。要塞のあった山頂一帯は戦後、公園として整備されたが、そこへのアクセスがよくわからなかったので、直前にネットで調べたところ、麓−山頂間の市営ロープウェイが4/1から季節営業開始、それにともない、代替交通手段だった山頂までのバス路線が3/31廃止、と観光ガイド公式HPに出ていた。

ふむ、ロープウェイ大人片道200円。こりゃまた安いな! 乗る気まんまんで乗場まで来たのに、チケット売場にはシャッターが降ろされ、「ロープウェイ営業期間 7/1〜9/30」と貼り紙がしてあった。「どういうことや!」


関門海峡。この狭い水道を一日何百隻もの船が通過する
クリックすればパノラマ写真が見られます

そういえば、朝、下関駅にある観光案内所に立ち寄ったとき、職員がこんな会話をしていた。
「火の山公園のロープウェイは、動かないんだってね」
「そうなんですよ、云々」
確かにそう聞こえた。が、HPの情報を鵜呑みにし、その会話を完全に無視した私は、大バカものでしかないが、しかしイッタイゼンタイなんでこんなチグハグはことになったんだろう。

ロープウェイが夏季営業なら、バス運行が3月末までなのはおかしい。ロープウェイ乗り場手前で降ろされて、あとは自力で登ってね、では観光客はたまったものではない。バス会社とロープウェイを運営する下関市はどんな取り決めをしているんだろうか。まさか、観光振興うっちゃらかして、赤字路線(なんだろうなあ)の押し付け合い? おそらくは多くが自家用車やレンタカーで登っていくので、これらの利用者が少ないんだろう。自動車社会の弊害なのかなあ、とぼそっと思った。


数十年の歳月を経て、少しずつ自然に回帰していく
 

砲台跡。海峡を通過する敵艦を標的にした大砲は、
一度も使用されなかった。
関門海峡両岸には多くの要塞が築かれた


ここまで来て、ロープウェイだのバスがないから、山頂には行けません、ではあまりにもバカげたこと。そこから山頂までは徒歩30分ほど。そんな事態もなきにしもあらず。まだ時間は早い、明るいうちに充分往復できる。そう覚悟して、歩き始めた。

山頂までは、少々汗をかきつつも思ったほどきつい行程じゃなかった。そして山頂の展望台から目の前に広がって見える海峡の光景は、そんな徒労感を完全に吹き飛ばすだけの値打ちのあるものだった。
悠遊国記 未来のカメラマン [2007年04月05日(木)]
昨日一日の寒さには閉口したが、今日は春の暖かさを取り戻し、ほっとした。

「こんにちは! おじさんカメラマン?」
お昼過ぎ、小倉の街を撮影していると、小学生5、6年生くらいの男の子にそう、声を掛けられた。
おじさん、という響きに少々抵抗を感じたが、子ども相手にむきになってもしょうがない。

「うわ、すごい大きなレンズ!」
私のカメラを観て、そう驚いていた。標準ズームレンズだったので決して大きなものではないが、そのレンズよりずっと小さいコンパクトカメラがたくさんあるんだから、子どもの目にはそう見えてもおかしくないだろう。
「でも、もっと大きいレンズもあるんやで」と言いながら手を30センチくらい広げてみせた。
「野球とかのスポーツを撮るときに、大きく写すために使うんや」とつけ加えながら、なんてつまんないことを言ってるんだろうと、内心呆れてしまった。いきなり、そんな専門的なことを言っても子どもの好奇心に応えてないやろう。

「カメラに興味あるの?」。これまた平凡なことを聞いてしまった。
「うん。僕もときどき撮ってるよ」。お父さんのカメラを借りているようだ。
「でも僕のデジカメを買いたいから、今、お小遣いを貯めてるんだ」
「どれくらい貯まったの?」
「6000円くらい」。ちょっと照れくさそうに、そう答えた。
「まだまだやな。がんばって貯めや」
もっと気の利いた答えかたはなかったんか?!

男の子の名前を聞かなかったし、こちらも言わなかった。彼には、街中で写真を撮っている私の姿が、初めて見る自分が憧れる仕事の人間に見えたのかもしれない。彼のカメラや写真に対する純な想いを少し感じただけに、もっとそれに答えられる言葉を発してあげたかった。

 
    桜に彩られる小倉城から軒下のネコまで、なんだって撮ってしまう。
                   赤貧は撮る時、ひたすらに貪欲にもなる

それでも、こんな小さな出会いが、彼がよりカメラや写真を好きになり、写真を撮るきっかけになってくれたら、私も少しは嬉しい。
悠遊国記 ここまで来て… [2007年04月04日(水)]
撮影行脚3日目、今日、明日は北九州市を巡ろう。

この時期の旅行はちょっと服装に迷う。寒暖の差が大きいからだ。冬の服装はかさばり、春の装いでは寒いこともある。しかし九州まで来て、もうコートはもう要らないだろうと、荷物と共にコインロッカーにしまいこんだのが、裏目に出た。この日は真冬並みの寒波が襲来、強烈な風が寒さを倍増させた(東京では雪が降ったんだって?!)。

そんななか、北九州市若松区の埋立地響灘にある、通称軍艦防波堤に向かおうとしていた。ここは戦後、3隻の旧海軍艦艇が、港湾整備のために文字通り防波堤として敷設された場所。いまは護岸工事などで埋め立てられ、1隻だけがむき出しにされている。釣のスポットしても有名らしい。

右) 八幡製鐵所東田第一高炉。20世紀幕開けの
1901年建設、改修をしながら72年まで操業

下) 東田第一高炉の熱風炉。まるで大洋を眼下に
見る宇宙ステーションのモジュールのよう 

とはいっても観光地ではないので、事前に調べてみてもその行き方が判りにくい。結局バス、船、バス、タクシーを乗り継いでいかないと行けない辺鄙なところだった。市営バス若松営業所で下車、団地や学校が並ぶ静かなところで、こんなところでタクシーを捕まえられるんかいな、と思いながら10数分ほど、ようやくタクシーを見つけた。

「軍艦防波堤へ行きたいんですけど…」
マニアックな箇所だけに、運ちゃんが知らなければどう説明しようかなと、不安に駆られたが、それは杞憂だった。いやそれ以上の答えが返ってきた。
「軍艦防波堤は今、向かいの戸畑とつなぐ大規模なトンネル工事中で、大きな柵がしてあって中には誰も入れませんよ。その柵の前に軍艦防波堤がこの先にあるという標識がありますが、それを見るので良ければ行きますけど、撮影目的で行かれるなら、無駄足かもしれませんね」
カメラをぶら下げていた私の目的を察し、運ちゃんは淀みなくそう言った。恐らく何度も同じような目的の客に出くわしているんだろう。

そういえばネットで調べていると、「軍艦防波堤は現在工事中で、立入禁止です」と出ていたが、昨年2月時点の情報だったので、1年以上たった今、もう工事は終わっているだろう、という甘い判断をしていた。また、バス案内所で、軍艦防波堤への行き方を尋ねたが、誰も工事のことは言わなかったし、いちいちそんなことを知るはずもなかろう。

ここまで来たんだから標識だけでも撮るのか、ここまで来て標識しか撮れないのか、一瞬迷ったが、撮ったところで不満感は残るので、断念した。

その後、またバスを乗り継いで日本近代重工業の発祥地、官営八幡製鐵所、現新日鉄八幡製鉄所に向かう。

一帯は合理化や再編などで跡地にスペースワールドができているほか、役割を終えた同製鐵所東田第一高炉が当時の威容そのまま保存され、それらを含めると途方もない広大な敷地だったと伺える。

1945年8月8日深夜、ここ八幡製鐵所は空襲に見舞われた。翌朝になっても残った猛煙は東へ流され、テニアンから2個目の原爆を積み、隣の小倉市(当時)を目指して飛来したB-29ボックスカー号の視界をさえぎり、攻撃目標は第二の長崎へと切り替えられた。

このあたりも現代史の宝庫だ。

左) 涎を垂らした土偶? 製鐵所高炉を覆っていた鉄皮だとか 右) 門司港駅から数分のバナナの叩き売り発祥地の碑
悠遊国記 車中はのんびり… [2007年04月03日(火)]
撮影行脚2日目。

出雲・松江を周るつもりが、雨が降りそうだったので、ほぼ午前中いっぱいを出雲から山口県の長門まで移動。長い車中はどうしても退屈しがち。本を読んだり、ウトウトしたりだったが…。
山陰線はずっと単線なので、特急通過や対向車待ちのため、駅で数分間停車することが多い。それが積み重ねれば時間のロスは大きいが、どうしようもない。

 左) 桜がさらに撮影意欲をそそる?! 山口県・飯井駅    右) 入り組んだ海岸が、景色の変化を富ませる

とある駅での列車待ちのとき、気分転換のでホームに降りてみた。なんでもない日常に過ぎないが、新鮮に見えた。桜がほぼ満開。それまで車窓から見えた、荒ぶる日本海の波が海岸につき出る岩肌に打ちつけられ、白波が立つようすも、見過ごすには惜しい光景に思えた。点や面ではなく、線としての撮影も面白いかも、と思った。

たまたま、その光景を目にすれば撮影もするが、撮影のために改めてそこを訪れることはまずない。しかし、いまはその“たまたま”が連続している。移動の行程そのものをシャッターチャンスにするわけだ。刻一刻と現れては流れ去り、また現れては、あっという間に過ぎてしまう光景。予想もつかせぬ変化の連続は、意外なほど、緊張感の連続でもある。

また駅に降りての撮影では、少しひんやりする空気に触れることで、暑過ぎる車内暖房で火照った体を冷ましてくれる。

気が付けば130枚ほど撮っていた。高速で走る列車内から風景を撮るのはブレやすいので、フィルムのときは、怖くて、もったいなくてメンドーくさくて積極的にしたことはなかったが、デジタルなら失敗を気にせず、いくら撮っても平気だ。おかげで、車中で、ゆっくりする間がなくなった。 


数分間の停車時間も撮影に慌しい。島根県・石見津田駅


悠遊国記 城崎にて [2007年04月02日(月)]
今日からしばらく西日本各地を撮影行脚。

福知山線経由山陰線で城崎に降り立つ。ここには2年前の冬にも来た。その時は一面雪化粧で、真白い雪と、湯元から湧くこれも白い湯けむりとの対比が、温泉街らしい風情を醸し出していた。
今回は一面桜化粧、まさに春爛漫、陽気だっていた。

城崎は江戸時代の頃から、いろんな文人とゆかりのあるところでもあり、静養に来ていた志賀直哉の『城の崎にて』が有名なのは、しかし国語の教科書で習って以来のこと。気取って城崎文芸館なるものを見学、その志賀直哉が属した白樺派という名称を、これまた学生時代以来久しぶりに聞いて、イッタイゼンタイそれを読んでみても、シラカバ派なのかクロカバ派なのか見当もつかない自分がそこにいる奇妙さを感じた。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

山あいを縫うようにして走る鉄路は、見下ろす海岸とトンネルの連続だった。そしてあるトンネルを抜けると長い鉄橋に差し掛かり、目もくらむ高さからの光景に息を呑む。

「餘部鉄橋」。1986年年末、日本海からの強風に煽られた鉄橋通過中の回送列車落下事故は、私にその存在を強烈に印象づけた。

餘部駅は崖っぷちにある無人駅で、狭い坂道をひーこらいって登らないといけない。乗り遅れそうだ、と走っていけるようなものではない。そんな無人駅だが、明治時代に作られた鉄橋の独特の景観が鉄道マニアを中心に人気を呼び、そしてその鉄橋が老朽化に伴い架替え工事に入るため、今が見納めと団体ツアー客がどっと下車する、ちょっと不思議な光景が展開される。

駅から少し高いところある鉄橋の景観ポイントが、わざわざ案内表示されており、多いときはカメラを構える人でぎゅうぎゅう詰めになるというだけあって、「譲りあって撮影してください」という注意書きも。

それはまるで立体万華鏡のよう


列車は鉄橋の上をゴトゴトとゆっくりと走る


昨年の春か秋ごろ工事開始と聞いていたが、それはまだのよう。当初コンクリート製橋脚にする案が、どうも観光資源としての鉄橋の景観を損ねるということで、すったもんだしているようだ。
鉄橋を見てみると、規則正しく組まれた鉄骨が幾何学的文様を描いているが、一本一本の鉄骨は今の基準からすると細く、繊細さを感じる。それが荒々しい日本海との対比を生み、絶妙な景観を作り出しているのだろう。事故が忘れられたわけではないが、事故を呼んだ日本海が、観光客を呼ぶ。不思議な因果である。

暗くなりだした頃、餘部を離れ、あとはひたすら山陰線を西へと進み、出雲にたどりつく。列車の接続がうまくいき、予定より1時間ほど早くついた。

餘部の少し手前、香住駅にあった2メートルはある巨大カニの爪
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