たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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もういくつも寝ないでお正月 [2006年12月30日(土)]
この10年くらい、大晦日から元日にかけて京都に出かけ、写真を撮っている。初詣ではない。初詣そのものに私は特に意味を見出さないが、その1週間前、どこぞの誰かの誕生日を祝って街中を飾り立てた同じ日本人の6〜7割が、しかもわずか3日ほどでこんどは八百万の神に願を賭けに神社仏閣に殺到する。その中身は別として、日本最大、世界でも有数の“超”がつくくらいの一大イベント、“お祭”だと見ている。

戦後60年を過ぎて日本人の生活様式は大きく変化した。とは言っても、ご飯に味噌汁を中心とした食生活はそうは変らない。同様にある意味この奇妙な風習が正常に作動する現象もそう変らないだろうと思う。

「踊るアホウに見るアホウ。同じアホウなら踊らなソン、ソン」。真夜中から始まり手がかじかむ中、初日の出を拝み、いくつもの寺社を廻って、ときには夕方までカメラを持って彷徨する。こんなアホウぶりも相当なものだろうな。
来年、といってももう24時間ほど先のことだが、京都はいったんお休みしてもうすこし足を伸ばしてみようと思っている。
どこへ行こうか? [2006年12月28日(木)]
明日から1月4日まで年末年始休み。5日金曜日一日出勤して、6〜8日と3連休。
平日はとある大手メーカー系列の会社で派遣として働いている。待遇はちっともよくないが、休みはしっかりとあるので、休日撮影稼業者にとってはありがたい。

年末年始は博物館だとか、○○記念館だとか見てみたいところが休みのことが多いので、やや気持ちがそがれるが、カメラを持って遠出をしようと思っている。しかしいつものこと、行程は決まってない。これまで西に行くことが多かったので、東か北か。JRの青春18切符であてのない旅に出るだろう。
伝えることの難しさ [2006年12月26日(火)]
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』仲宗根政善 角川書店 1982年

中盤あたり、仲間とはぐれてしまったあるひめゆりの学生が、疲労困憊して病院で寝かされていたところを恩師が訪ねに行く…、という描写を読んで、ふと、あれ、どこかで見たことあるような情景だ。そしてある映像が頭に浮かんだ。
それは95年、東宝が戦後50周年記念で制作した『ひめゆりの塔』の一シーンだ。

当時人気絶頂だったゴクミが扮する生徒が怪我をして、他の生徒と別行動をせざるを得なくなる。彼女は一人必死に逃げ惑い、ついに力尽き倒れる。
その後、病院に収容された彼女に、仲間たちが見舞うものの、精根尽き果てた彼女は息を引き取るというものだった。

読むときは取り外している表紙カバーを見てみると、映画のスチル写真が使われている。アハハ。買うときそのことを何処まで意識していたか、まったく覚えてないや。これはその映画の原作というわけだ。

が、皮肉なことにこの10年以上ぶりに蘇ったシーンは、その映画を観てて最も気がそがれたシーンだったのだ。
横たわったまま茫然自失として中空を見つめるゴクミのアップが、きれい過ぎたのだ。もちろん彼女は「国民的美少女」と呼ばれ、とても整った顔立ちだが、そのことを言っているわけではない。
いくらメークで顔を汚し、ボロボロの衣装を身につけても、彼女の肌は血色よく艶々、髪も黒々としていた。

恵まれた現代人が、当時の憔悴しきった顔、バサバサの髪、むくんだ肌など極限状態に置かれた人を、メークだけで再現できるものではないんだろうと思った。

ひめゆり部隊は看護活動もそこそこ、米軍の攻撃から逃れる連日で、わずかばかりの食料を命がけで調達、それをみんなで分配。さらには梅雨時に差し掛かった壕の中はじめじめとして、ひしめきあう避難民や日本兵の間でひざを抱えるようにして休む。熟睡などできない。しかし野戦病院としての役割は放棄できないので、逃げるときもそれら医薬品を手分けして運ぶ。その時歩けない負傷兵は置いていき、自決用の手榴弾が青酸カリが渡される。

昼間は次第に迫ってくる米軍におびえ、夜間、発見される恐れがあるので、煮炊きもままならない。次々と死んでいく学友や負傷兵…。全てが八方塞がりへと追い詰められていく。

6月18日、ひめゆり部隊に解散命令が下るが、時すでに遅し。もう逃げ場はなくなっていた。ある者は仲間と一緒なら安心して行けると自決し、ある者は壕にとどまって米軍の襲撃を受け息絶え、ある者は投降し。

体力的にも精神的にも、とても耐えられないような生々しい状況の連続。生きていくため、それとも死なないための行動。筆舌に尽くせぬ出来事が次々と起こり、ただ偶然だけが生と死を分けるだけの混乱と絶望の世界。死が日常化し、生が非日常化する。読んでいて嫌になるくらいうんざりしてくる。

それでもここに書かれていることは、実際に彼女たちが体験したことの何分の一、あるいは何十分の一も伝わっていないんだろうと思う。
かぞくのひけつ [2006年12月22日(金)]

映画『かぞくのひけつ』を観た。
全編大阪・十三でのロケ、出演者のほとんどが大阪出身、監督も大阪出身とコテコテ、かつ小気味よくほんわかオーサカン・テイストでつっ走る。

大阪キタから電車でわずか5分、そこはギラギラとしたネオンに彩られた一大歓楽街だが、大通りから一筋外れた路地に温かい人情味が息づく下町でもあり、泥臭ささえ感じられるところ。けっしておしゃれとかスタイリッシュとかの形容詞はあてはまらない(余談だが米俳優スティーブン・セガールはかつて十三に空手の道場を開いており、けっこう大阪弁が話せるらしい・・・)。

そんな十三は勝手を知った街。出てくる画面そこかしこに「あ、あっこやな」、「見たことある」の連続。それだけに自分自身が映画に入り込んだような気になれるのも楽しかった。

そして出演者が実に生き生き、のびのびと演じている。背伸びをせず、役不足でもなく等身大の演技、はまり役、あるいはほとんど地のまま?
主人公は高校生の男の子・賢治(久野雅弘)だが、浮気性の父役、桂雀々と心配性の母役、秋野暢子は主人公を食ってしまうくらいの大立ち回りで、ドラマをぐいぐいと引っ張る。タイトルにある「かぞく」が主人公ともいえる。

その「かぞく」を掻き回す役で父の浮気相手ゆかり(ちすん)が、「かぞく」の一員になって時には賢治のお姉さんのように振舞い、両親の離婚危機を回避したい賢治と妙に息が合うあたりはやや無理な展開とも思えたが、そこはドロドロ愛憎劇ではないのでさらりと流している。そんなゆかりをちすんが、嫌味なくこれまたさらりと演じ、賢治の彼女・典子役の谷村美月(主演女優?)を食っている。

物語中盤、怪しい漢方薬の主人役で登場する吉本芸人テントの(TV等で滅多に見ないが、数年前NTT西日本のCMで天海祐希と共演)、独特のとぼけた、かつ飄々としたスタイルそのままで意味不明な(?)台詞が大いに笑わせてくれる。おそらくほとんど演技を付けていない、いや付けられなかったのではと思えるくらいの独奏場で、本題からそれてしまいそうなそのシーンを、映画全体の絶妙なアクセントにしている。

ラストシーン、父桂雀々がぽつりと言った台詞、「こんなんでええんやろか」。私も同じように思った。そして、おそらく監督の気持ちの代弁だと思う。「かぞく」というものは形があるようなないような、あやふやなもの。この作品で描く「かぞく」は100パーセントの回答ではないし、否定でもない。
「こんなんでええんやろか」。でも「こんなんなんやろな」と続くのかもしれない。
30年って人生の大半 [2006年12月19日(火)]
『めぐみ―引き裂かれた家族の30年』

北朝鮮による日本人拉致被害者、横田めぐみさんの両親を中心に他の家族の救援活動の様子や取材を続けてきたジャーナリスト、脱北者でめぐみさんに会ったことのある元北朝鮮工作員へのインタビューなどで構成されている。

よくもまあ見つけ出したなあという、めぐみさん行方不明に関する当時のニュース映像や失踪者捜索TV公開番組に両親が出演している映像なども挿入されているが、以来30年、全くの暗闇の中を手探りで探し続けてきた家族の苦痛、苦悩は想像して余りあるものがある。特に味方となってくれるはずの日本政府、日本人の反応の冷たさには臍をかむ思いだったろう。

私自身、拉致問題が表面化してとき北朝鮮の犯行にほぼ間違いないだろうと見ながら、しかしあの国がそんなことを認めるはずもないし、証拠を掴みようがないと褪めた目で見ていた。

そしてこの映画を観ながらこのことを自分に置き換えたと考えて、はたしてそこまでできるだろうか。どこかで諦めてしまうに違いない自分と被害者家族の想いの違いは何だろうか…。

米人監督によるドキュメンタリー映画で、この手の映画がシネコンで上映されることは珍しい。北朝鮮へのあてこすりとも思えるが、それは穿った見方か?

日本の寅さんシリーズは全て観ていると噂されているほど、キム・ジョンイルの映画好きは有名な話。この映画もチェックするんだろうか。
寝不足weekend [2006年12月16日(土)]
朝の7時半ころ、京都嵐山の渡月橋に佇んでいたでいた。冬の遅い朝とはいえ、すっかり明るくなっている。が、どこかすっきりしないのは一帯に靄が立ちこめ、視界が利かないからかもしれない。いつも観光客で賑わう嵐山もさすがにこの時間は人通りはまばらで、静けさとピンと張り詰めた冷たい空気が、より寒さと冬の情緒を演出している。

「こんな静かな嵐山の光景を撮影するのもいいな」
一瞬そんな気分に駆られた。がそういうわけにはいかない。撮影で亀岡まで行かねばならないからだ。現地着は8時半。阪急嵐山からJR嵯峨嵐山という意外な(?)乗り換えポイントで時間と交通費をいくらかは節約できたが、それでも本数の少ない朝の電車のこと、2時間半かかる。家を出たのはまだ暗い6時前、前日晩からの撮影機材の準備と下調べが遅くまでかかり、床に就いたのは4時頃、仮眠程度しかしていない。

この仕事は実働時間が短いことが多いが、移動と待機時間が長いのが少々苦だ。さらにはデジタル化以降、PC上での画質調整等編集作業に大変な時間がかかる、ということも予想外なことのうえ、持ち帰りも常態化してきた。

この日の撮影は幼稚園の音楽発表会で、撮影そのものは2時間弱。1部と2部に分かれたプログラムの間が2時間半。これでは待機を通り越して退屈。
「珍しく昼めしをゆっくり食べられる時間ができたね」と一緒に来ていたビデオ撮影の人と出かけようとしたとき、園の人に呼びとめられ、世間話や業界話へ。こんなことも滅多にない。

撮影後会社に戻るまでがまた待機。都合上会社のPCがなかなか空かないのだ。私の場合外部スタッフなので、最終的に仕上がったデータを渡せばいい。だから何処で作業するかは問われない。家に帰ってもいいし、ネットカフェで作業したこともあるが、移動時間や使用料金を考えるとあまり得策ではない。この日も立ち読みや遅めの昼食で時間をつぶさざるをえなかった。

結局帰宅したのは午前さま、いつものことだ。遅い遅い夕食をかきこみながら、明日の撮影の準備。何かひとつでも抜けると現場では対応できない。
「明日は7時前に出発。撮影終了が4時半ころ。急いで会社にもどっても7時前後やな」
最適の移動ルートを調べるのも、ちょっとでもロス時間を省き、かつ交通費を抑えるため。しかしこれを調べる時間のほうがよっぽどかかってしまう。ナンセンスやな・・・。

その後残りの編集作業に取り掛かる。これを明日に持ち越したくないので最後まで仕上げようと意気込むが、そのうち猛烈な睡魔との闘いに突入、しだいにどこまで作業が進んだのか判らなくなるほどの、ほとんどトリップ状態に陥り、ついに断念。時計の短針が下のほうを向いていたことだけはぼんやりと覚えている。
死体の傍にいておくれ [2006年12月14日(木)]
映画『スタンド・バイ・ミー』を観る。
『サウンド・オブ・ミュージック』同様数日限りの企画上映。学生時代に何度か観たお気に入りの作品。
原作は米ホラー作家スティーブン・キングの自伝的小説だが、これはホラーじゃない。もっとも原題は「The Body」で、死体という意味だそうだ。12歳の主人公たちが住む田舎町から外れた森にある死体を見にいこうというのである。これだけみればホラーっぽい。

子どものころ、友だちと今まで行ったことのないちょっと遠いところや薄気味悪いところ、大人からみればたいしたものじゃないけど、を冒険的に遊びに行ったという人も多いだろう。これはその死体を見つけ出すという冒険を通して子どもから大人へと成長していく物語。

その中で子ども心でも将来に希望が持てなかったり、人知れず悩みを持ち、不安になってしまうシーンが切なく、エンディングテーマとして流れる映画のタイトルにもなったベン・E・キングの同名曲の旋律が、あいまって胸に染みてくる。

CGもないしご都合主義の展開もないある意味地味な作品だけど、ノスタルジックな秀作。
ドは「どーなってるの?」のド [2006年12月11日(月)]
先日仕事帰りに映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観た。ミュージカル映画の最高峰といわれる作品だが、子どもの頃TVで観た限り。これがスクリーンで観られる機会はそうそうない。
3時間近い上映時間をまったく飽きさせることなく繰り出される、いまやすっかりスタンダードナンバーとなった歌の連続はいずれも色褪せていない。特に「ドレミの歌」「エーデルワイス」などは、退屈だったはずの音楽の授業で歌ったことを思い出させてくれ、出演者と一緒になって口ずさまずにはいられない。
ストーリー自体は単純だが底抜けに明るく、小気味よい展開はナチスドイツへの併合を嫌う主人公トラップ一家の故国オーストリアからの脱出行のラストシーンまで続き、暗雲立ち込める時代背景を吹き飛ばす脚本や編集の上手さに感嘆させられた。

そして今回はこれまであまり気にしたことのない画面の作り、つまり構図や背景、照明などの観点からじっくり見てみた。
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ろうそく灯の隠れた美しさ [2006年12月02日(土)]

「100万人のキャンドルナイト」というイベントに行ってきた。イルミーネーションで瞬く都会のほんの一角をほんの数時間消して、替わりにろうそくの灯で着飾ろうという趣旨だ。ろうそくなんていまどき滅多に使いやしない。ろうそく独特のやわらかくあたたか味のある明かりは、人工の明かりを手にするまでの数百年間、人類が慣れ親しんできたもの。どことなく気持ちが和むのは遺伝子の奥深いところでそういう感覚が埋め込まれているからかもしれない。一本々々は頼りげない灯も何十何百も集まると壮観、食い入るように見入ってしまう。

他の諸国に比べ昼光色の蛍光灯が大部分の日本の、眩しいほど明るすぎる深夜営業のお店があふれかえる今日、夏の夜の虫のごとく引き寄せられる私たちは、夜も気忙しく急き立てられ、明かりに対する感覚がマヒしているのではないか。時にはそんな明かりを休んでもいい。夜は暗いんだから。

明るさには人工の光にかなわないろうそくのすぐにも消え入りそうな弱々しい光の露出は難しい。だが、デジタルカメラはそういった作業を容易にしてくれる。撮ってはモニターを確認、調整を加えてまた撮る。フィルムでは経験と勘でそれをこなすが、一発勝負的なところもあり、あまり冒険はできない。特に瞬時に感度を変えられることで、これまで暗くて撮れないと諦めていた撮影に大胆にチャレンジできるようになった。こちらはそんなに休めそうにない。
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