たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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旧国鉄宇品線を行く E [2008年05月26日(月)]
現代史彷徨:廣島行脚 旧国鉄宇品線を行くE 旧宇品線周辺の近代遺構・中

陸軍被服支廠  竣工:1913年 爆心地から約2670メートル

規模では原爆ドームをしのぐ被爆建物。軍用衣類から小物にいたるまでの製造・補修、配給、管理などをしていた。今残るのは4棟で、外壁は煉瓦だが躯体は鉄筋コンクリートという堅牢な構造だったこともあり、原爆では倒壊も火災も免れた。そのため、ここも多くの被爆者が一時的になだれ込み、酸鼻をきわめた。

戦後は広島大学の学舎、学生寮、物流倉庫など95年まで使われたが、爆風で内側に湾曲した全面赤錆の鉄扉が被爆時のまま残されていることや、日本における鉄筋コンクリート建築物として黎明期にあたり、建築史の観点からも保存の声が高い。財務省と広島県が管理しているが、今後の用途は不明。周囲は静かな住宅地と高校。保存再活用するにも、近隣住民の理解と協力が不可欠だろう。

爆風で変形した被服支廠西側の壁は切り取られ(左下=05/8撮影)、原爆資料館に保存展示されている(右下=06/8撮影)
 

陸軍兵器補給廠  竣工:1904〜20年代 爆心地から約2750メートル
兵器倉庫や工場として1904年の第1兵器庫を皮切りに20年代にかけて18棟ほどの煉瓦造りの強固な建物が建てられた。原爆では西にある比治山に遮られて大きな被害が出なかった。

戦後、大きな建物がまとまって残っている所がなかったため、46年6月、府中町東洋工業本社に一時間借りしていた広島県庁が役割のなくなったここの建物をそのまま転用した。約10年後、県庁は広島城横の基町に新庁舎を建てて移転、57年10月からは広島大学医学部と付属病院が利用することになった。もともと兵器庫だった煉瓦造り2階建ての建物は、大学の施設には向いていなかったのかもしれない。しだいに建て替えられ、高層の学舎や病棟に換わっていった。

医学資料館として最後まで残っていた11号館は、附属病院の拡張建替えのため99年に取り壊わしを余儀なくされたが、大正期の煉瓦造りという観点や被爆建物であり被災者の臨時救護所となった経緯からも、保存要望が高く、可能な限り11号館の煉瓦壁や石材を再利用し、外観もほぼそのままの新医学資料館を、大学正門横に建てた。移築とも復元ともいえない半端な存在だが、学外者でも見学ができる。

上) 広島大学医学部資料館。玄関付近の白ぽい煉瓦が被爆時のもの(=08/4撮影)

日清戦争凱旋碑 竣工:1896年 爆心地から約2510メートル(写真下段=07/6撮影)
日清戦争勝利後、宇品港からの帰還兵たちが、このあたりを凱旋したことに由来する。高さ13メートルの塔の上で翼を広げている鳥の容姿から、「タカの記念碑」と呼ばれたが、金鵄(神武東征にちなむ伝説上の金色のトンビで皇軍勝利の象徴ともされる)との説もある。いずれも戦闘的なイメージだ。

戦後、この名称では軍国主義を吹聴し、占領軍を刺激するとして、原爆2周年の47年8月6日、碑銘を埋めて「平和塔」と彫り直したが、こういう事例は広島に限らず、宮崎市の「八紘一宇の塔」をやはり「平和の塔」と変えたように全国にある。今は周囲を建物に囲まれた小さな広場に建ち窮屈な感じ、相当の違和感は否めない。
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