小泉劇場の行く末 [2007年01月24日(水)]
『48億の妄想』筒井康隆 文春文庫映画『日本以外全部沈没』を観て久しぶりに筒井作品を読んでみたくなったので、古本屋で買ったもの。 この物語の冒頭、TVニュースを見ながらある一家が 「どうも、よくわからん」父親がタバコをもみ消した。「政治なんて、むずかしいものは、もっとわかりやすくして、それから、もっと面白くして見せなきゃいかん」 「ドラマにすればいい」と長男がいった。 「ミュージカルにすればいいわ」嫁がいった。 「マンガにすりゃいいんだ」次男はそういってから急に笑い出した。 と会話するシーンがある。 ニュースやドキュメントにおいてのやらせはご法度であるが、しかしいったい何処からやらせでそうでないかは微妙なところがある。例えば○○国大統領が来日、日本の○○大臣と会談という時、両者がカメラに向かって微笑みながら長い時間握手を交わす。 もしカメラがなければこんな不自然で滑稽なことはしないはずである。 視聴率至上主義の製作現場においてつい過剰な演出になるのは、先日のカンテ〜レの『あるある大辞典』でもみられた悪しき慣習である。 小泉前首相は、劇場型政治という手法で政策や政争を単純化し、政治を判りやすく面白くみせる手腕に長けていた。 マスコミは申し訳程度にそれを批判的に報じながらも、それ以上に「刺客」などといってワイドショーなどで面白おかしく仕立て上げ、小泉劇場を盛り上げる役を率先してやってのけた。 小泉純一郎脚本・演出、各TV局撮影・配給で、陳腐なドラマをタダで見せられ狂喜する国民。そこには政治=生活という本質が完全に抜け落ち、目先の可笑しさだけを楽しむ程度の国民と、それに合わせる術しか持ち合わせないマスコミ、そんな国民から選出される程度の政治家と、それをほくそ笑む一部の少し程度の違う政治家。そんな日本の構造が見事に合致した瞬間だった。 この物語はほくそ笑む一部の政治家ではなく、そういう視聴者を満足させることでいびつ化したマスコミが主導権を持つという違いはあれど、その延長線上にあり、よりデフォルメした展開だが、つい最近小泉劇場のようなことがあっただけに、えらくリアリティをもって読める。 それを40年も前に描いたことはちょっとそら恐ろしい。 |







『48億の妄想』筒井康隆 文春文庫
