俺が死んだら 何人なくべ 特攻の町・知覧 * 三 * [2008年09月18日(木)]
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現代史彷徨:ゲドー戦記 鹿児島・特攻の町・知覧 * 三 * 1999年8月16日
![]() 「俺が死んだら 何人なくべ」 − 前田啓大尉 23歳 北海道 第23振武隊 4月3日戦死 − 一見死を前にして、ふざけているようにみえる。差し迫った自分の死を客観的に捉え、あるいは茶化しているのか。相手を悲しませない気持ちが込められているようにも思える。そして彼は出撃前の3月25日付で、父親宛にこのような遺書をしたためている。 <前略> 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ御壁トナリ死ニマス。 武人ノ名譽之ニ選ルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。 今日ノ譽レ啓ゴトキ小臣、躯ニ余ル光栄ナリト存ジマス.我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、 魂ハ遠古転地に止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。 軍人タリ股肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。 <後略> 特攻隊員の中には遺書ではなかなか思うことが伝えられず、周囲の人にふと気持ちを漏らしたり、それをこっそりと遺族らに伝えるよう託すものもいた。隊員らの身辺の世話をしていた地元・知覧高等女学校の生徒、教員らにその役割を担った者がいる。ある女性教師は知覧滞在中(3月28日〜4月3日)の上述、前田少尉(戦死後大尉に特進)から聞いた話を、後に北海道室蘭市の彼の両親宛に手紙を送っている。 <前略> あんな朗らかな豪快な方はいらっしゃいますまい。ああ明日は死して護国の神となる方かしらと思うと、まことに感無量のものがありました。 いろいろお話しているうちにお父様お母様のお話もなさいました。もう最後だという時、父を読んだが何もしらなぬちちを見て、だんだん置いてゆく父を見て、自分は特攻隊員で行くのだということはどうしても言うことができなかった。風呂に入って瀬をこすってあげながら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟ってくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。 <中略> 夜お休みになる前、おれのばあさんいゝ人でな。災難よけの豆をくれたんだよ。これを毎晩寝る前に一つずつ食べて寝るんだ、おいしいぞとて飛行服の内ポケットから状袋に三分の一位入った豆を取り出し、私にも三個下さいました。 一つ一つ御話を聴いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。 明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンぴしゃり太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。 <後略> 強がっている自分、大義に殉じようとする自分、女性を前にしているせいだろうか、気を許し本音をのぞかせてたり、逆に茶目っ気を見せて相手を心配させまいと気遣う自分…。それぞれの瞬間瞬間、めまぐるしく入れ替わる気持ちが垣間見られる。そこに一人の“人間”前田啓の存在がおぼろげながらも見えてくるように思う。 ![]() |




















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そんななか、北九州市若松区の埋立地響灘にある、通称軍艦防波堤に向かおうとしていた。ここは戦後、3隻の旧海軍艦艇が、港湾整備のために文字通り防波堤として敷設された場所。いまは護岸工事などで埋め立てられ、1隻だけがむき出しにされている。釣のスポットしても有名らしい。





