たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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俺が死んだら 何人なくべ   特攻の町・知覧 * 三 *  [2008年09月18日(木)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 三 *  1999年8月16日

特攻隊の名前が刻まれた石碑

  「俺が死んだら 何人なくべ」
   − 前田啓大尉 23歳 北海道 第23振武隊 4月3日戦死 −


一見死を前にして、ふざけているようにみえる。差し迫った自分の死を客観的に捉え、あるいは茶化しているのか。相手を悲しませない気持ちが込められているようにも思える。そして彼は出撃前の3月25日付で、父親宛にこのような遺書をしたためている。

  <前略>
 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ御壁トナリ死ニマス。
 武人ノ名譽之ニ選ルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。
 今日ノ譽レ啓ゴトキ小臣、躯ニ余ル光栄ナリト存ジマス.我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、
 魂ハ遠古転地に止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。
 軍人タリ股肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
  
<後略>

特攻隊員の中には遺書ではなかなか思うことが伝えられず、周囲の人にふと気持ちを漏らしたり、それをこっそりと遺族らに伝えるよう託すものもいた。隊員らの身辺の世話をしていた地元・知覧高等女学校の生徒、教員らにその役割を担った者がいる。ある女性教師は知覧滞在中(3月28日〜4月3日)の上述、前田少尉(戦死後大尉に特進)から聞いた話を、後に北海道室蘭市の彼の両親宛に手紙を送っている。

<前略> 
 あんな朗らかな豪快な方はいらっしゃいますまい。ああ明日は死して護国の神となる方かしらと思うと、まことに感無量のものがありました。
 いろいろお話しているうちにお父様お母様のお話もなさいました。もう最後だという時、父を読んだが何もしらなぬちちを見て、だんだん置いてゆく父を見て、自分は特攻隊員で行くのだということはどうしても言うことができなかった。風呂に入って瀬をこすってあげながら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟ってくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。
<中略>
 夜お休みになる前、おれのばあさんいゝ人でな。災難よけの豆をくれたんだよ。これを毎晩寝る前に一つずつ食べて寝るんだ、おいしいぞとて飛行服の内ポケットから状袋に三分の一位入った豆を取り出し、私にも三個下さいました。
 一つ一つ御話を聴いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。
 明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンぴしゃり太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。

<後略>

強がっている自分、大義に殉じようとする自分、女性を前にしているせいだろうか、気を許し本音をのぞかせてたり、逆に茶目っ気を見せて相手を心配させまいと気遣う自分…。それぞれの瞬間瞬間、めまぐるしく入れ替わる気持ちが垣間見られる。そこに一人の“人間”前田啓の存在がおぼろげながらも見えてくるように思う。

薩摩富士とも称される薩摩半島南端に位置する開聞岳を目印に特攻隊は、南シナ海へと抜け、沖縄海域に針路をとった<撮影:05年5月>
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特攻の町・知覧 * 二 * [2008年09月14日(日)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 二 *  1999年8月16日

九州南端・鹿児島県薩摩半島の知覧町(07年12月自治体合併により現南九州市)は、1945年、敗色濃厚の日本が最後の抵抗となった沖縄戦のさなか、陸軍航空隊特攻作戦の中心的な基地が置かれていたところだ。特攻隊員たちの遺書、遺品を中心に知覧特攻平和会館には、その記録が今に伝えられている。

特攻戦死者数に匹敵する石灯ろうが、特攻平和会館への道路に献納されている

  「所謂“生”なり
  凡悩を満足し得る地上なり。
  改めて己が足下を眺め、衣食住に未練を感じ、恋々たる執着を残すは自明の里なり
  宜なり 宜なるべし
  然りといえども生を求むるのあまり理論を並べ詭弁のを備ふるは卑劣の極 男子にあらず。
  国破れて何の山河ぞ。
  春来れども城跡痕を止めず草木根を絶つべし、勝つべし。
  只勝利あるのみ。
  大和男子 三千年の斗魂を傾中すべし。

  来る日 又風吹き荒るる大陸に
  花ぞ咲かせむ春を待たずとも

  殉皇の大儀に生くるの悟開かずとも、只 大命の下に行動せば可なり。
  己が死する時 命の下命の如く死すれば、
  己が命は悠久なるべし。
  馬鹿者になるは難し、されど馬鹿者となる事肝要なり。
  思索を捨つべし。而して“無”に帰り
  空白の頭脳もて、
  笑みて大儀に生くべし」
   − 西崎重男大尉 東京 第112振武隊 6月3日 −


特攻隊員の中、特に学徒兵(大学在学中に召集された兵士)には、特攻作戦に疑念を感じ、日本が負けると考えるようになった者も少なからずいた。しかし、そのようのことは口外できるわけもなく、理不尽、矛盾、無念を抱え、生への未練を絶って自らの死を受け入れなければならなかった。そのためには、それが偽りとわかっていても何か“大儀”を見つけ、それに自分が殉じることで“納得”させるしかなかったのでは、と思う。


  「あんまり緑が美しい  
  今日これから
  死にに行く事すら
  忘れてしまいそうだ。
  真っ青なそら
  ぽかんと浮かぶ白い雲
  六月の知覧は
  もうセミの声がして夏を思はせる
   作戦命令を待っている間に 6/5」

  「小鳥の声がたのしさう
   俺もこんどは
  小鳥になるよ
  日のあたる草の上に
  ねころんで
  杉本がこんなことを云ってゐる
  笑わせるな  6/5」
   − 枝 幹二大尉 22歳 富山 第165振武隊 6月6日戦死 −


自らの死を受け入れるということは、努めて冷静なり、無の境地になるのかもしれない。あまりにも日常すぎる、誰も気に留めないことに気持ちがいくのだろうか。ここで出てくる杉本(同日同部隊で特攻に参加した京都出身の杉本明大尉のここと思われる)への惜しみない友情と同時に、どこか突き抜けた静寂感が漂っている。

毎年5月3日に行われる特攻基地戦没者慰霊祭には、高齢者が目立つ<撮影:05年5月>
特攻の町・知覧 * 一 *  [2008年09月11日(木)]
現代史彷徨:ゲドー戦記  鹿児島・特攻の町・知覧 * 一 *  1999年8月16日

九州南端・鹿児島県薩摩半島の知覧町(07年12月自治体合併により現南九州市)は、1945年、敗色濃厚の日本が最後の抵抗となった沖縄戦のさなか、陸軍航空隊特攻作戦の中心的な基地が置かれていたところだ。特攻隊員たちの遺書、遺品を中心に知覧特攻平和会館には、その記録が今に伝えられている。

特攻銅像・とこしえに

若者の肖像写真がずらり並べられていた。みな20歳前後の、幼さの残る人もいたがそのほとんどが、しっかりとしたりりしい顔立ちをしている。憂いなど微塵も感じさせない彼らは太平洋戦争末期、沖縄戦のころ、生きて還ることを許されなかった旧日本陸軍航空隊の特攻隊員たちだ。

1999年8月16日、鹿児島市の南西約30キロ、その特攻隊員を送り出した山あいの小さな城下町、知覧町にある知覧特攻平和会館には、おりからの熱帯低気圧による激しい雨にもかかわらず、お盆休みのため多くの人が訪れていた。特攻という非情な作戦に駆り出された彼らの、出撃を前にした心境はいかほどのものだったのか、遺書などを通じて知りたかった。

特攻平和会館に保管されている遺書等の資料だけでも、一回の見学で全てに目を通すことはできない。また、文語体で書かれるなど難解なものが多く、集中力と読解力を強いられたが、そうした中からも印象に残った彼ら直筆の言葉を、ここに記したい。
(誤字脱字はそのまま。かな使い、旧漢字も極力そのまま。-氏名、階級、出身地、参加部隊名、戦死日−)

「死する者は強し」
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」
「悠遠の勝利」
「武運長久」…。


遺書、絶筆に多く見られた文言だ。
それは当然軍国主義、忠君愛国的な風潮を前面に出した当時の世相を色濃く反映したもので、親に孝行できなかったことを侘びながらも、大君(=天皇)のために、皇国のために死ねる誇りが高らかに詠まれているものが多く見られた。これらは特攻隊員に限らず誰もが口にした言葉であり、裏を返せば建前でもある。ここから彼らの本音は見えてこない気がする。

知覧飛行場跡地。今は名産品である茶葉を中心とした田畑が拡がっている
<写真は05年5月再訪時のもの>
「太平洋≠大東亜」戦争 [2008年04月25日(金)]
現代史彷徨 静岡市葵区静岡懸護国神社 4/5

谷津山を挟んで陸軍墓地の南東側に、静岡懸護国神社はある。
陸軍墓地が遺骨という実体を葬るところなら、ここは魂という不可視なものを祀るところ、その性格はまったく異なる。

戦争当時、軍人は戦って死ねば軍神、つまり神になるとされ、最高の名誉だった。当然、神は人間より格が上で、敬われる存在。ゆえに軍人は死を恐れず、誇りに思って死んでいった。その各地元出身者を祀るのが、護国神社である。

神社内にある遺品館には、戦没者たちの遺品がガラスケースや壁面いっぱいにおよそ4000点陳列されているという。全てを見ようとするなら、相当の精神力と体力と時間を覚悟した方がいい。朝からほとんど歩きずくめで市内を周った身体では、ほとほと疲れてしまったことは否めない。
しかし、最前線の兵士がなにをどう思い、どう戦い、どう死んでいったかを知るのは難しい。こういった遺品は、それを知るひとつの手懸かりだ。

今、私たちが「太平洋戦争」と呼ぶ、この戦争の呼び方は戦後GHQによる押し付けだとして、右翼や保守系の人は、これまたGHQによって日本の侵略戦争を肯定するとして、一時期ご法度とされた「大東亜戦争」を好んで使うことが多い。もちろん、護国神社は後者の方だが、何枚もある遺品の手書き説明文中に出てくる、「大東亜」の並びがどうも変なのだ。

「大」の枝分かれ部分には修正液の痕、「東」は重ね書きをしたようで形が不自然、「亜」は修正液の上に書き直されており、その次も、またその次も同じ箇所を同じように修正している。みんなそろって同じ間違いをしたんだろうか。

そういや、さっき「太平洋」戦争て書かれたのを見たよな。こんなところでは珍しいな、と思ったんだよ。

とすると、「太」→「大」、「平」→「東」、「洋」→「亜」 と直したのものと見えてくる。見れば見るほど、そう見えてくる…。が、これは穿った見方かもしれない。


戦死者と遺品について、簡潔に記している説明文中の「太平洋」戦争か、「大東亜」戦争かは、さしたる問題ではない。が、「大東亜」戦争と呼ぶ慣わしの護国神社が、なぜ、「太平洋」戦争と書いてしまったのか。だとして、それを一枚一枚躍起になって書き直さなければならないものなのか? その意固地さに、ちょっと面食らった。これでは幾重にもバイアスが掛かってしまい、遺品から本当のことは読み取れない。神様といえど、「死人に口なし」だからだ。
静岡・陸軍墓地をたずねる [2008年04月17日(木)]
現代史彷徨 静岡市葵区 4/5

静岡市葵区沓谷は谷津山のふもと、近くのバス亭から数分で市中心部に出られる住宅地で、駿府城の艮に位置する、家康の側室お万の方(水戸光圀の祖母)が再興した蓮永寺が有名。そして、そのすぐ奥手に旧陸軍の墓地公園がある。

公園の端にある個人墓は、木々に囲まれ分かりにくい。全部でどれほどの人が葬られているかは不明だが、一等卒、二等卒という兵卒や将校の個人墓が区画ごと、さらには大尉、中尉…と階級ごとに並んでいる。

見事なもので、ひとつ階級が違うだけで墓石の大きさが違う。具体的には高さがそれぞれ約大尉170cm、中尉165cm、少尉160cm、兵卒は50〜60cmほど。普通は逆だと思うが、将校の墓石のほうが多かった。

墓石には階級、氏名、所属部隊だけでなく戦死した日付や場所も刻まれている。
「第三十四連隊第八中隊」
「明治三十七年八月三十一日 清国瀋陽南方首山堡戦死」
「明治三十八年三月十日 清国奉天第六師団 第三野戦病院戦傷死」

ほとんどが、この日付前後の戦死となっている。そして、3月10日といえば日本陸軍がロシア陸軍を破り、戦争の趨勢を決したともいえる奉天会戦の日で、後の陸軍記念日となった日だ。どちらも大激戦だったようで、当時駿府城址駐屯の第34連隊も参加していたということになる。

公園のはす向かいには合同碑がある。
「戦病死兵卒之碑」からはじまり、「戦病死将校同相当官之碑」とこれまた階級別に大きくなっていく碑4基と、「明治三十七八年役(当時は日露戦争をこう呼んでいたみたいだ) 戦死病歿者追悼碑」とが並ぶ。

戦争が長期化・激化した日中戦争以降、戦死者も増えたはずだが、「支那事変 大東亜事変 忠霊塔」(昭和43年建立)があるだけで、個人墓は見当たらなかった。他の場所にあるのか、部隊そのものが参加しなかったのか、それとも数が多くなっていちいち用意していられなくなったのかは不明だが…。

一人の少年が壁に向かって野球のボールを投げていた。花見の場所取りや散歩で数人がふらりと立ち寄った程度、土曜日の朝、そこはやわらかく暖かい日差しに包まれていた。

            ・            ・            ・                 

  
日露戦争は南進してきたロシアの脅威に対する日本の防衛戦争という声がある。しかしこの墓に刻まれているように、その戦場のほとんどが当時の清。いくら清が弱体化していたとはいえ、隣国同士が勝手に入ってきての大喧嘩。とんだ迷惑な話だ。
浜名海兵団跡をたずねて [2008年04月03日(木)]
4/3 静岡県荒居町にて

浜名湖の南西、江戸時代の新居の関所から歩いて10数分くらいのところにあるコンクリート製の倉庫のような建物は、観光案内の地図には載っていない。

駅からはさほど遠くないだろうと思っていたが、事前の調べでも大雑把な地図があるくらいで、そこに至る道もあやふや、目印となるものも示されていない。ネットでも調べてみたが、場所を特定できる情報は得られなかった。それでも、それらしい方向に向かって歩いていった。

年配の地元の人に聞いて、少し回り道になったがようやく辿りつけた。もともとは防空壕だったらしい。剥き出しの防空壕というのも変だが、この辺りは砂地なので、地下深く掘り下げるのは難しかったのかもしれない。

この一帯は太平洋戦争中、海兵団(警備や新兵の教育などを担う)という海軍の一部隊が広大な範囲に配備されていた。戦争末期の空襲や艦砲射撃で被害は出たものの、敗戦後、帰る家のなくなった兵士たちも少なくなく、そのままここに留まり、国から海兵団の土地を払い下げを受け、あらたな住人になったという。この元防空壕は、その唯一の痕跡。

それらの土地も代が変わり、今は農地(タマネギが多かったようだ)と宅地が広がる静かな場所。太平洋はすぐそこ。遠州沖で獲れたしらすの天日干しが道の脇に並べられ、磯の香が漂っていた。
よく乗る地下鉄御堂筋線 [2008年03月14日(金)]

大阪の地下鉄御堂筋線は日本有数の利用客数を誇り、ラッシュ時の混雑ぶりは定評で(?)で、まさに大阪の大動脈を果たしているがゆえ、そのイメージカラーを赤色としている。ちなみに御堂筋線のバイパス的な役割の四つ橋線は静脈をイメージし、その色は青。

面白いことに朝のラッシュ時に梅田駅から乗ると、南に淀屋橋駅、本町駅、心斎橋駅と徐々にしかし確実に客が降りていき、難波駅以降は空いた席のちらほら、天王寺駅以降だとほぼ座れるほどだ。

これらの駅は戦前に建設され、その時点で将来の利用者増を見越して大きく造られており、特に天井の高さは以降に造られた駅の倍くらいはありそうで、開放感たっぷり。

中でも心斎橋駅はシャンデリア調の蛍光灯の束が煌々とし、昭和モダニズムの荘厳な雰囲気を醸しだす地下鉄らしからぬ光景は、ピョンヤンの地下鉄復興駅を髣髴とさせる(どういう比較や?!)。今どきこんなことをしたら、公共工事の無駄遣いとして、叩かれるかもしれない

いまから63年前、東京大空襲(3/10)から始まった夜間無差別都市爆撃の魔手は西へと伸び、4日後の14日未明の大阪大空襲で、市中心部は灰燼に帰した。その時深夜は動かない地下鉄が臨時の避難列車として、難波あるいは心斎橋から被害の出ていなかった梅田方面へと走り、数百人が助けられたという。

人が人を平然と殺し、業火のなか、人が人を懸命に助ける。人の業とは、何なんだろう。

= 写真は07年3月御堂筋線本町駅 =
国宝炎上 [2008年02月12日(火)]

信号を渡る人の流れに、「おや?」と思った。それは正面に見える城壁のほうへと続いている。
「なんや、行けるようになったんや!」

かつて城壁に囲まれていた李朝時代ソウル(当時は漢城)への通用門だった南大門は、数少ないその名残であり、ソウルだけでなく韓国を象徴するランドマークであり、観光名所であるはずなのに、周囲には大企業のビル群がそびえ、ロータリーの中心点として、常に激しい交通量にさらされ、観光客はおろか、地元民でさえ容易に近づけないため、道を挟んで眺めるくらいしかできないところだった。

一昨年(06年)8月、10数年ぶりに訪れた南大門は、ロータリーを廃し、芝生に囲まれた誰もが憩える公園に変容していた。持って行った最新のガイドブックにも書かれていなかったので、それが発行されたあとに公園整備されたようだ。

城壁の上に建てられた楼閣には入れなかったが、その下の通用門を含め、付近は自由に散策でき、真夏の昼過ぎであったが、芝生に寝転がってくつろぐ人も見受けられた。さらには王朝装束を纏った衛兵の交代式という観光用イベントも行われるなど、ポツンと“ある”だけだった以前とはずいぶんと様変わりをしていた(同年3月まで立入禁止だった)。

その南大門が炎上、焼失した。原因は放火らしい。一般に開放されたことがあだとなってしまった。


58年前(1950年)、京都・金閣寺もやはり放火で失われた。当時のことは知らないが、きっと同じような雰囲気に包まれたんだと思う。ニュースを見て隣国から伝ってくるすこし重い空気は、古(いにしえ)人によって積重ねられた数百年の取戻しようのない歴史的、精神的喪失感であり、同国民にとってのそれは、計り知れないものということに思いが馳せられる。
悠遊国記 ここまで来て… [2007年04月04日(水)]
撮影行脚3日目、今日、明日は北九州市を巡ろう。

この時期の旅行はちょっと服装に迷う。寒暖の差が大きいからだ。冬の服装はかさばり、春の装いでは寒いこともある。しかし九州まで来て、もうコートはもう要らないだろうと、荷物と共にコインロッカーにしまいこんだのが、裏目に出た。この日は真冬並みの寒波が襲来、強烈な風が寒さを倍増させた(東京では雪が降ったんだって?!)。

そんななか、北九州市若松区の埋立地響灘にある、通称軍艦防波堤に向かおうとしていた。ここは戦後、3隻の旧海軍艦艇が、港湾整備のために文字通り防波堤として敷設された場所。いまは護岸工事などで埋め立てられ、1隻だけがむき出しにされている。釣のスポットしても有名らしい。

右) 八幡製鐵所東田第一高炉。20世紀幕開けの
1901年建設、改修をしながら72年まで操業

下) 東田第一高炉の熱風炉。まるで大洋を眼下に
見る宇宙ステーションのモジュールのよう 

とはいっても観光地ではないので、事前に調べてみてもその行き方が判りにくい。結局バス、船、バス、タクシーを乗り継いでいかないと行けない辺鄙なところだった。市営バス若松営業所で下車、団地や学校が並ぶ静かなところで、こんなところでタクシーを捕まえられるんかいな、と思いながら10数分ほど、ようやくタクシーを見つけた。

「軍艦防波堤へ行きたいんですけど…」
マニアックな箇所だけに、運ちゃんが知らなければどう説明しようかなと、不安に駆られたが、それは杞憂だった。いやそれ以上の答えが返ってきた。
「軍艦防波堤は今、向かいの戸畑とつなぐ大規模なトンネル工事中で、大きな柵がしてあって中には誰も入れませんよ。その柵の前に軍艦防波堤がこの先にあるという標識がありますが、それを見るので良ければ行きますけど、撮影目的で行かれるなら、無駄足かもしれませんね」
カメラをぶら下げていた私の目的を察し、運ちゃんは淀みなくそう言った。恐らく何度も同じような目的の客に出くわしているんだろう。

そういえばネットで調べていると、「軍艦防波堤は現在工事中で、立入禁止です」と出ていたが、昨年2月時点の情報だったので、1年以上たった今、もう工事は終わっているだろう、という甘い判断をしていた。また、バス案内所で、軍艦防波堤への行き方を尋ねたが、誰も工事のことは言わなかったし、いちいちそんなことを知るはずもなかろう。

ここまで来たんだから標識だけでも撮るのか、ここまで来て標識しか撮れないのか、一瞬迷ったが、撮ったところで不満感は残るので、断念した。

その後、またバスを乗り継いで日本近代重工業の発祥地、官営八幡製鐵所、現新日鉄八幡製鉄所に向かう。

一帯は合理化や再編などで跡地にスペースワールドができているほか、役割を終えた同製鐵所東田第一高炉が当時の威容そのまま保存され、それらを含めると途方もない広大な敷地だったと伺える。

1945年8月8日深夜、ここ八幡製鐵所は空襲に見舞われた。翌朝になっても残った猛煙は東へ流され、テニアンから2個目の原爆を積み、隣の小倉市(当時)を目指して飛来したB-29ボックスカー号の視界をさえぎり、攻撃目標は第二の長崎へと切り替えられた。

このあたりも現代史の宝庫だ。

左) 涎を垂らした土偶? 製鐵所高炉を覆っていた鉄皮だとか 右) 門司港駅から数分のバナナの叩き売り発祥地の碑
東京、310 観光メッカ、浅草 [2007年03月11日(日)]

今日は、昨日に引き続き東京大空襲にまつわるものを撮影のつもりが、朝からあいにく雨。しかも雨脚が強い。小雨なら様子を見ながら強行するんだが、これじゃあ、人間もカメラもダウンしそうなので、断念。宿でくつろぐ。
昼前、昨日聞いた天気予報どおり、回復してきたので、いざ、撮影開始。

浅草寺。地名は「あさくさ」となのに、寺は「せんそうじ」と読むのがおもしろいここは、去年も来たところ。しかしその時は東京観光、外国人からすれば日本観光のメッカとしての浅草を、おのぼりさん的に行ってみたので、浅草寺が東京大空襲の際、大半が焼失したなんて知ったのはその後のこと。その傷跡を今に見ることができた。

被災した樹木が本堂を囲むように何本かある。よく見るといびつな形状をしている。その内部がえぐられるように焼けただれたままで、触ると真っ黒な煤が手に付く。それを新しい樹皮が囲んでいる。

不思議だ。いったいどれほどの猛火が、これらの樹木を襲ったんだろう。62年という時間が経過、その間風雨にさらされているている。いくらなんでも、焼け跡は腐食や剥離したりして、あるいは最悪、木そのものが枯死し、その痕跡が留まることはあまりないと思っていたが。

人ならまだ火から逃げられるが、動くことのできないまま焼かれ、しかし息を吹き返した。物言わぬ樹木の恐ろしいまでの生命力を感じた。

浅草寺でも3月10日に大法要が行われるので、その一角淡嶋堂大平和塔や地蔵尊には真新しい花が手向けられてあった。すぐ裏手、浅草花やしきからは、賑やかな音と声が盛んに聞こえてきた。

その後、浅草公会堂で開催の「東京大空襲被災資料展」を見る。しまったな。雨の降っていた午前中にここに来ておけば、よかった。そうすれば時間が有効に使えたのに。

戦災に逢った当時から今に至る人工建築物は少ない。そのほとんどがその時燃えてしまい、それ以外でも戦後の再開発で立て替えられてしまっているから当たり前だが、東武伊勢崎線起点にある松屋浅草店と、隣接する神谷バーはその数えるほどの建物のひとつだろう。

松屋は(牛丼チェーン店の松屋ではない)、外壁をパネル状のもので覆っているので分かりにくいが、内装はやはり往時を偲ばせる凝った造りが見られる。そういえば戦災とは関係ないが、どこの百貨店も、窓をつぶして陳列用空間に充てている。松屋の昔の写真を見てもしっかりと窓があるのにそれを隠すように、パネルで囲われている。
現在建直し工事が進められる阪急百貨店梅田本店も、窓の内側から真黒の板か何かで目張りをしていた。それは、ちょっと異様な光景だった。


一方大正時代の1921年落成(ということは関東大震災も耐えたことになる)の神谷バーの、壁面が黒焦げ状態の空襲直後の写真があるが、今にそれを見ることはできないものの、外装、内装ともふんだんのレトロ色で彩られている。日本でも老舗酒場だが、バーといってもいたって大衆レストランで、昭和初期のモダンとはきっとこんなんだったんだろうな、と思わせるな雰囲気だ。

東京大空襲は一晩で約40平方kmを焼失したが、浅草は一部にしかすぎない。ああそうだ、銀座も何度も爆撃されたらしい。銀座に行こう。
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