たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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廣島行脚 前夜 [2007年08月05日(日)]
広島にとって8月6日が特別な日であることは言うまでもない。原爆が投下されてから62年、街の変容は着実に原爆の記憶を小さくしつつある。しかし丹念に見てまわると、人々に忘れ去られたかのように、ひっそりとたたずんでいる。それが被爆遺跡だと説明されなければ、ただの古ぼけた石やコンクリートの塊にしか見えない。

左)整然と並べられた平和祈念式典会場のパイプいすが、原爆犠牲者の
墓標のように見えた
右)夏休み。原爆ドームにも子どもたちの歓声が響く

人の記憶も然り。私の人生よりもずっと長い62年の歳月も、みずからの20年前、30年前を思い起こせば、さほど遠い過去ではないとおぼろげに思えるようになってきた。ましてやあれほどの強烈な出来事ならば。

何を思ったのか今年もまた、広島に足が向いてしまった。これで何回目になるだろうか。一昨年も去年も行った。ましてや6月毎週6回も通ったので、しばらくは行くつもりはなかったのに。

今年は62年前と曜日が同じ。何度も通い、自分の見方に変化があるかどうか知りたかったというのもある。これは性なのかもしれない。

上)爆心地から約400mの本川小学校の児童たちが作った慰霊灯ろう。
見つめているのは自分が作った作品かな
下)7回の裏、広島東洋カープの攻撃、ジェット風船が飛ぶ

*写真をクリックすればもっと多くの写真が見られます
廣島行脚 まだまだこれから [2007年06月30日(土)]
原爆投下前夜までは広島一賑やかな街だった中島町(現平和公園内)の犠牲者芳名版

6週連続の廣島行脚も今日で終わり。我ながらよくこなしたもんだと思う。もっとも学生時代からそうだったが、予習やら復習やらはさっぱりしないたちなので、当日になって、「ああ、今日はこんな話を聞くんだ」という具合。あんまり頭に残っていないので、学習効率はちっとも高くない。

最近は大阪のキタに出かける機会が減ったのに、この毎週末広島の繁華街で過ごすなんて、妙な気持ちだった。

結局この間の廣島行脚で、ヒロシマと原爆についての知識や認識が驚く増えたわけではない。また突き詰めて考えること、あるいは何もかも背負い込もうなんてことは、とうていできるものではなく、知らないことの方が多すぎるし、全てを知ることはできないと、なんだか開き直ったような気がする。

具体的に自分がヒロシマ・原爆に対しどうアプローチしていくかはまだ見えてきたわけではない。写真しか能がないので、それを軸に自分ひとりでできないなら他の知や才のある人と協力してやっていきたいと思うようになった。だからこれは後退ではなく、緩やかな前進だと思う。


当時ひっきりなしに軍需物資を運んでいた旧国鉄宇品線も、その一部を遊歩道としてわずかに痕跡を残すだけ
廣島行脚 球場雨日記 [2007年06月24日(日)]
予報では午前中雨、昼から快復だったが、あまり当てにならなりそーにない。朝6時ころいったん起きて外を見ると、地面は濡れていたが雨は降ってなかった。しかしTVでは降水確率90パーセントと出ていた。今日は郊外、しかも山の方での撮影のつもりだったが、雨では思うようにいかないので早めに諦めるほうがいいと思い、また寝た。9時前に再び起きてみるが、雨は降っていない。都心部なら急に雨に降られても、近くの商業ビルなんかで雨宿りすることができるので、ようやく宿を出る。

空は曇っているものの、降りそうな気配はない。それどころか次第に陽射しも見えそうなほど、薄れてきた。

爆心地から約380m、原爆に耐えた日銀廣島支店地下金庫。
ここにしまわれていたお金は無事で、2日後に業務再開をしたという。

せっかくなんでプロ野球セパ交流戦も大詰め、市民球場で広島対楽天戦を観ることにした。曇天のため全ての照明灯が灯され、曇り空の下でフィールドに立つ選手たちがくっきりと浮かび上がり、見やすくきれいだった。が、そのころから雲行きが怪しくなってきた。

試合は1対1のまま4回表、楽天先頭打者山崎が初球をいきなりホームラン! 私のいたレフトスタンドに叩き込んだが、その時、気を緩めてたので打つ瞬間を見ていなかった。観客のどよめきや打球を追う視線からすぐにこちらに来るとは判ったが、曇り空に白い打球は見づらい。「どこや、どこや」と見上げてもさっぱり見つからない。レフトを守る広島の嶋もそうそうに諦めていた。打球が下降線に入りスタンドに吸い込まれるころになってようやく視認できたが、せっかくのホームランをこんな形で見逃したのは残念だったし、もし自分が選手の立場なら、ちょっとした油断で打球の行方を見失ったことは、エラーにつながる大失態だな、と妙なことを思った。

5回の攻防終了後、雨が強く降り出し、試合はいったん中断、そうそうに球場を引き揚げた。結局試合は続行され、広島は1-8で敗戦。
そういや2年ほど前もここで対ヤクルト戦を見たけど、このときも途中雨が降り出し、球場を抜け出した。そして広島の負け。どうも縁起がよくないようだ。
廣島行脚 艶やかなり浴衣姿 [2007年06月03日(日)]

土曜の朝から浴衣姿の女性をよく見かけた。一人、二人、三人…あれ、また、いるよ。カップルならまだしも、家族連れ、女性同士数人、時間を追うにつれ、その数は増える一方だった。そろそろそういう季節だが、ちょっと気が早いんじゃない? これは単にオシャレだけで着ているんじゃないな。

夕刻を過ぎて、広島のメーンストリート、本通に行ってみると、もう浴衣、浴衣であふれかえっていた。夜店も並んでいる。縁日でもあるんだろうか…。
ふと、広島弁をもじった「ゆかたで着ん祭」という文字が目に入った。だから浴衣姿が多かったんや。が、賑やかそうな方向に向かっていくにつれ、そんな規模を超えた祭であることがしだいに分かってきた。


6月はじめの週末はとうかさん祭といって、広島市の初夏を告げる大きな祭という。ひらがなで「とうかさん」とあるのでなんの意味かさっぱり判らなかったが、その祭の拠点、圓隆寺には「稲荷大明神」と書かれた大きな幟が何本も立っていた。おイナリさん? なんか違うなあ。あれ、よく見ると「稲荷」の横に「とうか」とルビを振っている。「稲荷」に音読みがあったんや?! でもここは神社やない。神も仏もある意味無節操にごっちゃに祀られる、こういうところが日本らしい、と苦笑。

このとうかさん祭が衣替えよろしく、浴衣の着始めころとして定着したようで、「ゆかたの着始め祭」とも呼ばれている(そのまんまやないか)。

さわやかというか、涼やかな日本的情緒の浴衣なんて祭のときくらいしか見られないし、これほどの浴衣姿の女性をみることは、大阪や京都の祭でもあまりないんじゃないかな。ついつい見とれてしまう(そういやここ数年、祭なんていう行ってないな)。

左)鳥居ならぬ真っ赤な提灯をくぐりぬければ、そこは「とうかさん」   右) おみくじには書かれているのは…
廣島行脚 広島市“府中区” [2007年06月03日(日)]
臨時救護所になった府中小学校は、運動会のさなか。広島は今が運動会シーズンなのかな?

地図を睨めながら思った。「ははーん、ここが境界線やな。しかしなんの区別もつかんな…」
広島市の隣り、いや取囲まれた府中町は、いま“孤島”のようになっている。

広島市は戦後周辺自治体を吸収合併し市域を拡大してきた。最近では(05年4月)母娘で町長の椅子を争った湯来町を呑み込んだばかり。特にここ数年の平成の大合併で多くの市町村が名を変え姿を替え地図が一変したことを考えれば、府中町がいまなお「町」であることはおもしろいと思う。これは同町にマツダ本社や今は閉鎖されたがキリンビールの工場があり、そこからの法人税で町財政が安定していたことは、よく知られる話(キリンの工場閉鎖やマツダの不振で今はピンチらしい)。

府中とはかつて安芸地方の国府、その地方における行政に中心地があったことに由来する名。つまり広島市が担っている役割を持っていたわけだ。府中町の人口は5万人強、これだけで「市」になる条件を備えている。だが、広島市と府中町との関係は限りなく一体に近いと言えよう。

府中町の中心地域は広島駅に近く、市街地はそのまま続いていて、広島市の山のほうにある“区”よりもはるかに都会の街並みだ。多くのバス路線は町内各所を経て、広島の中心部へと向かう。マツダの工場は両地域に広く跨り、相互に向かう勤務者も多いだろう。

府中町は原爆のとき、距離が離れているため、大きな被害はなかったようだが、市内に出ていて亡くなった人は多いだろうし、町内各所に設けられた臨時救護所に避難し、亡くなった被爆者も多い。8月20日には東洋工業本社(現マツダ)に壊滅した水主町にあった広島県庁が移ってきた(〜46年7月)。その間1年足らずとはいえ、同町は再び「府中」になったわけだ。

そして、その旧東洋工業は、かつてセ・リーグのお荷物と言われ、弱小貧乏球団だった(今でもそうだけど…)カープを大株主として下支えをし、ともに戦後広島復興の牽引役を担ったことも大きい。

また町役場に近い多家神社には、広島城にあった稲荷社社殿から移築された宝蔵が、県重要文化財として残されている。原爆で吹き飛ばされた広島城の唯一現存する形見だ。

それでも府中町民の願いから住民投票の結果、合併賛成が半数近かったことを受け、広島市に申し入れ両者の間で開かれた合併協議で公式に話し合われたが、進展はせず、04年末に解散したとある。このあたりの経緯はよくわかんないけど、この奇妙で微妙な関係はまだしばらく続きそうだ。

1938年竣工当時、東洋一といわれたキリン工場の跡地はダイヤモンドシティとして再生。同時に小規模な麦酒工場も稼動。これは醸造タンクに掲げられた歴代キリンビールのラベル・ギャラリー。右から3つ目、配給制度時代はキリンの絵柄が消えた
広島城から移築された多家神社宝蔵
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廣島行脚 ヒバクシャの声2 [2007年06月02日(土)]
都心部で普通に小型ボートが並ぶ姿が見られる(太田川にて)

「原爆について他の人には話せるのに、放射線の遺伝子への影響があるかもしれないことを考えると、自分の子どもや孫にはよう話さんのじゃ。本当に影響はないんじゃろか?」
ある高齢のヒバクシャが発言した。少なくないヒバクシャが口を閉ざしている理由のひとつを初めて知り、愕然とした。悲痛な言葉だった。

原爆の恐ろしさのひとつは、目に見えない放射線が人体内を蝕んでいくことにある。浴びた放射線の量や個人差もあるが、ヒバクシャはいつ爆発するか判らない時限爆弾を一生抱え続ける、恐怖との闘いが終わらないのだ。

今日は話が原爆の放射能の健康への影響という医学分野だったこともあるだろうが、要領を得ない展開だった。いや、話し手の略歴からして放射線の専門家じゃなさそうだったことが引っ掛かった。放射線影響研究所から来た講師の語りはレジュメをなぞるだけで、深みも重みも情熱もまったく伝わってこなかった。

遺伝への影響が確認されていないことは知っていた。「ホンマかいな?」と思っても、素人にはそれ以上判り得ようがない。しかし、ヒバクシャはそれでは納得いかないだろう。
「ABCC(放射線影響研究所の前進)はヒバクシャの血を抜いたりして実験台にするだけで、治療も何もしてくれんかった」とも、そのヒバクシャは言った。私の中にも、漫画『はだしのゲン』でABCCをボロカスに批判していたそのイメージが強く、比治山にあるカマボコ型の研究所建物は近寄り難かった。そんな発言が出るとは、ヒバクシャにはなお不信の念が強いんだろうか。

被爆で基部が割れた石灯籠(空鞘神社)。静かに、いつまでもその事実を伝える       とうかさん祭にて 

しかし講師の回答はやはり「これまでの研究結果から、遺伝への影響は認められない」の一点張り。が、「影響がない」と「確認されていない」では同じ「ない」の言葉でも意味合いは違ってくる。前者がゼロだが、後者はゼロでは“ない”。それはグレーゾーンであって、あるかもしれないが、見つかっていないと言い換えられる。科学的データから逸脱する発言は出来ないだろうが、配慮ある言葉は選べたと思う。これでは「アメリカに都合の悪いデータを隠しているんじゃないか、と疑ってしまう」とヒバクシャから言われても仕方ない。

被爆の現実はますます見えなくなってきているけど、なくなったわけでは“ない”。
廣島行脚 軍都は今 [2007年05月27日(日)]

広島城周囲は戦時中まで、陸軍第五師団司令部と関連施設が置かれていた。そのひとつ西練兵場の一角(現広島市民球場付近)にあった護国神社は、戦後お城の手前に移ってきた。その神社はちょうどみたま祭の最中、奉納子ども相撲大会が行われていた。目の前には中国軍管区司令所跡、むき出しにさらされたコンクリートの破壊跡が、その凄まじさを今も見せている。
他には日清戦争時の大本営跡、歩兵第11連隊門跡、陸軍幼年学校(軍幹部養成のための、いわば陸軍付属中高校)跡など軍関係のものが、ひっそりと、しかししっかりと残され、かつての軍都を偲ばせている。

そこを離れた。しばらくしてまた、何処からか賑やかな音が聞こえてきた。行ってみると小学校の運動会。そういえば絶好の運動会日和だ。
運動会は私にとっての稼ぎどころ。グラウンドに入って子どもたちと一緒に走りまわって、写真を撮りたい衝動に駆られながらも、しばらく見ていた。
小さな小学校だった。そして幼稚園と保育園とが隣り合っている。高層集合住宅が立ち並ぶこの一帯が「原爆スラム」と呼ばれていたことは、数日後知った。その戦慄的な言葉の響きにショックを覚えるとともに、両者があまりにも対照的であるがゆえに、かえって街の変遷が露骨に浮かんできた。

原爆で傷つき、家を焼かれた人たちが、広大な敷地だった陸軍用地跡に流れ込んだことは想像に難くない。そして貧困の象徴たるスラム街の一掃と、近代都市として再び膨張し始めた広島の都市政策はまさに表裏一体の課題だった。

そういえば子どもの頃見たTVアニメ『タイガーマスク』に、こんな物語があった。タイガーマスクこと伊達直人が広島巡業の際、原爆ドームの模型を持った男性に出会い、どうしてもそれを譲って欲しいと言ったが、被爆者としての思いがあるので譲る気はないと断られる。その老人のいたのが狭くて、小さくごちゃごちゃした家並みだったようなおぼろげな記憶が蘇ってきた。ひょっとするとそこは「原爆スラム」だったかもしれない(違ってたらゴメン)。


子どもたちの歓声と躍動的な音楽が鳴り響いていたその街に、いまやスラムの面影はかけらもない。そしてスラムの住民たちも吸収したその高層住宅街も、高齢化が進んでいるという。
ちょっと異様に見えた1階部分の商店が軒並み閉まっていたのは、たんに日曜日だったからという理由だけではなさそうだ。

大阪行バスに乗るため、広島バスセンターに行くと、また賑やかな雰囲気。
近くで見てもちょっと大きな市民会館くらいにしか見えない(?)、かつて護国神社のあった広島市民球場で、セパ交流戦、対西武戦が始まるところだった。この市民球場も老朽化で新球場建設問題がいったりきたりした後、ようやく本決まりとなった。
このあたりの街並みも数年後には様変わりするんだろうな。

爆心地にもっとも近い被爆樹木(約370m)。広島球場すぐ近く
廣島行脚 ヒバクシャの言葉 [2007年05月26日(土)]
速度はそれほど速くないが、数分おきにやってくる路面電車は、昔も今も、広島市民の重要な足

被爆者の話を伺った。
70代後半の女性、Tさんとしておこう。これまでも修学旅行生らを相手に、語り部をしてきただけあって、話が上手だった。

当時17歳のTさんは、学校卒業後、軍需工場で働く毎日だった。8月6日のその日、彼女はたまたま徹夜明けの非番で、同じ工場に勤める友達と宮島に海水浴に行こうと約束し、己斐の自宅に一旦帰宅し、家で身支度をしているとき、ピカーっと光った。
気が付くと近くの芋畑に倒れていた。Tさんは、はじめは家のすぐそばに焼夷弾が落ちたと思い、火を消そうと家に戻ったが、爆風で家が傾いていたものの、火は出ていなかった。近所のおばさんたちが出てきて、「どうしたんじゃろ? どこにも焼夷弾は落ちとらん」などと話し合っていた。
翌7日以降、広島城隣にあった陸軍病院で看護士をしていた母の安否が気になり、方々を歩き回って探す…。

話を聞きながら、これまで見知ってきたことをツギハギしながら、その情況を思い浮かべようとした。
そう考えていくと、原爆の爆風に押しつぶされ、あるいは熱戦に焼かれた人と、助かった人。これらの違いは時として紙一重の差、偶然が重なったものだなと感じた。そして壊滅した街中で、Tさんはもちろん、数え切れない被爆者はどうやって過ごしたんだろう。食事や水は?お金は? 寝泊りは? どんなに想像しても、本当の惨状の足元にも及ばないだろうけど。

そのあと、他の参加者からこんな質問が出た。
「私も被爆しているので、その当時の状況はよく知っているけど、その話は何処までが実体験で、どこまでが人から聞いた話なのか。話が一緒になっていないか」という予想もしない言葉だった。
確かに話が滑らかすぎた感はあった。それはおそらく、聞き手が学生など、原爆のことはもちろん当時の社会背景などほとんど知らないであろうという前提条件のもと、限られた時間で分かりやすく話さなければならないので、最大公約数的な言葉の選択になったんだろうと、思う。それが、逆に受け取られてしまったことは、語り手、聞き手とも不本意なことだ。

同じ被爆者でも被害の程度の差、体験したこと、見聞きした状況に大きな差があることや、中には記憶がごっちゃになっている人もいるだろうが、それをまざまざと突きつけられたことは、初めて。被爆の実相を伝えることの難しさを実感した。

「あっかんべーっ」(?) 日清戦争時の廣島大本営跡礎石。これを契機に軍事都市として性格を強くする
廣島行脚始まる [2007年05月25日(金)]

広島にはこれまで何度も行き、ほうぼうを撮影しているが、これが高じてこの週末から、何を血迷ったか6週連続で広島に行くことになった。我ながら困ったやつだと思う。

広島、いや「ヒロシマ」−人類史上最初の原爆の被爆地−の写真は、これまで数多の人が撮っている。それと同じような調子で撮っていても没個性(自ずと似たような構図になってしまう)、しだいに手応えを感じなくなってきたのだ。手応えとは撮影した瞬間、自分のイメージと構図etcがどんぴしゃりと決まり、「よっしゃー、ええ写真撮れた!」と感じるものだが、最近はそれが平々凡々に思え、オリジナリティーある写真には程遠いことをひしひしと感じるようになってきたのだ。

その理由は撮影対象に対して知識不足であり、認識不足以外にほかならない。
そのためには被写体をもっと深く知り、洞察力をつける必要があると、思っているときに、そんなことを勉強できる機会が広島にあったので、ダメもとで申し込みしたところ、なんとOKが出て、行くことになった。参加費はいらないが、もちろん、交通費は自腹。1、2回くらいならともかく、6回となるとちょっと、いやかなり大変だ。

広島は大阪から新幹線で1時間半ほどだが、赤貧写真家は新幹線なんか乗れない。いつも在来線、それも18切符シーズンだけなので、片道5〜6時間、往復で12時間くらいを片道1枚ずつ使えば4600円、強行日程になるが日帰りも可能なので、その場合は2300円で行って帰れる。その費用対効果は抜群ゆえ、何度も通えたわけだ。

が今は18切符シーズンではないので、結構イタイ。少しでも交通費を安くするため高速バスを使うことにした。新幹線の片道よりも安く、往復で9000円ほど。これが6往復。18切符キップ4シーズン分以上になる。申込みに際し、上述したようなことを豪語したので、今さら「交通費がかかりすぎるから行けません」とは言えない。

かくなるうえはとことんまで付き合って、より大きなものを引き出せるように喰らいつくしかないだろう。


夕暮れ時の元安橋。バンドの練習をする若者たちの声が響く
悠遊国記 ここまで来て…3 [2007年04月08日(日)]
4/8 撮影行脚7日目、広島県広島市
旧水上警察所。朽果てる一方だ  

広島はここ数年、年2〜3回訪れては各所を撮影しているが、なかなか納得いく写真が撮れない。だから今度こそは、という思いでまた撮影に出かけるが、やはりうまく撮れない、の連続。写真の難しさ、いや自分の写真の下手さを痛感させられ、いささか苦痛気味になっていた。

広島は大阪から18切符で日帰りも可能なので(めちゃ強行軍になるけど)、仕切りなおして夏に来ようかとも思ったが(18切符に固執してしまうあたり、赤貧写真家の悲しいところ)、ここまで来て退散するのも悔しい。見たい箇所はまだまだあるんだから。

午前中は海のほう、宇品にある旧水上警察署にいく。1909年竣工というから、もう築100年近い木造の建物だ。そう、広島は原爆の惨禍によって戦前期の木造建築物はほとんど失れた。ここは爆心地から遠かったため被害は軽微、現存する数少ない木造建築物だ。戦後は広島県港湾事務所として使われたこともあるが、今は倉庫のようだ。

建物のあちこちで塗料が剥げ、木目が見えている姿は痛々しい。西側の壁はほぼ全面鉄板状のものに覆われ、また雨どいが比較的新しいものである以外、特に補強や補修はされていないのだろう。

建物裏手に回る。すぐ隣は現宇品警察署があり、不審者に見られないかヒヤヒヤしながらも、窓から中を覗いてみる。スチル製の棚が並び、段ボール箱が整然と置かれている。まだきれいな様子だったので、完全に放置されているわけではなく、少なくとも管理者の出入りがあることが伺える。

今度は正面玄関の、汚れまくったガラス窓から覗いてみると、入り口カウンターにセーラー服姿の女優紺野美紗子主演のNHKドラマのポスターが貼られていた(ある意味お宝写真)。これは20年以上前の作品だ。ということは、その頃までは役所関係以外の人の出入りがあったということだろう。今は、タイヤなんかが無造作に置かれているが、一瞬、そこに人々が行きかう、語らう様子を想像した。

旧水上警察署はその希少価値性から保存の声もあるが、どうなるのかは不明だ。

無数の軍人が軍靴踏鳴らし戦場へと向かった宇品の陸軍桟橋は、
今は釣り人たちが集う


ヒロデンに乗ろうとして、びっくり。京都市章をつけた旧京都市電の
車両が走る

昼からはちょっと山のほう、牛田にある不動院を訪れる。ここも爆心地から遠かったため、難を逃れた現存木造建築物。しかもここは16世紀中ごろに建てられたということもあって、広島においては貴重な歴史遺産。国宝、国、県、市の重要文化財が並んでいる。続いて不動院の少し南、水道資料館を経て、広島城の西側、かつての広島藩主浅野家の別邸に造成された庭園、縮景園を訪れる。都心部まで戻ってたわけだ。

学生時代に訪れて以来の縮景園以外は、今回初めて訪れたところ。確認はしつつも、迷うことなく各地を巡ることができたのは、何度も訪れてそれらの位置関係が、はっきりとしていたからだろう。

ここまで来たんだ。それを活かさなくては。

道に迷いそうなくらい広い縮景園  
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