たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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青葉城だってお城である [2008年09月09日(火)]
城郭探訪 陸奥国 仙台城(青葉城) '07 8/28


30年ほど前のヒット曲、仙台出身の歌手、さとう宗之の『青葉城恋唄』で、大阪の人間でもその存在を知られる仙台城は、独眼流政宗の築いた城である。
したがって仙台市は東北有数の城下町、城跡は市の中心部にあるものだと思って、地図を見るが、おやおや、見当たらない。青葉区があって、青葉通という名称の大通もあるので、その近辺かと思ったが、そうでもない。

いや、少なくとも内堀くらいは埋立てられず残っているものなので、いかにも人為的な鍵型や“ロ”の字型の水面なんて一目瞭然、すぐに見つかりそうなものだが、やはり見つからない。唄に謳われながら、実は現存するほどの大きな城でなく、再開発等で影も形もなくなってしまった幻の城なのか、と妙なことを思いながら、視線をやや郊外に移してようやく見つけた。

近世城郭のあった街は多少の差はあっても、明治以降は県庁や市役所といった行政機関等が周辺に置かれるなど、そのまま今の市街地形成の中核となっているが、仙台は少し違うようだ。城の西側が広瀬川、背後の東側が青葉山と地形が自然自体が要害となっており、旧城郭区域がどこまでなのか定かじゃないが、二の丸跡にはかつて旧陸軍第二師団、戦後は東北大学川内キャンパスが入り、三の丸跡に仙台市博物館があるので、市街地の外れとまでは言わないが、中心地とも言えない。

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天守閣は造られず、そのほかの建物も取り壊されたり戦災で焼失したので、緩やかな傾斜を登りながら見える石垣にわずかな面影を残すのみで、城としての華やかさはもう見られないが、本丸跡の築城主・伊達政宗騎馬像前では、記念写真を撮ろうと観光客が連なっていた。さすが伊達者である。
岩手・盛岡城 [2008年08月26日(火)]
城郭探訪 陸奥国 盛岡城(不来方城(こずかたじょう) '07 9/01

盛岡城址もすっかり市街地に囲まれてしまっている。が大きな石垣といくつかの堀が残されているので、城郭という雰囲気はあるものの、何処に何があったのか、どういう構造の城だったのか全然注意して見てなかったので、二の丸跡やら天主台など区別がつきにくい。

公園として丁寧に整備されているので散歩にはもってこいだが、ゆっくり撮影しながら周って10数分ほどで城址公園の端に来てしまった。なんだか拍子抜けしたので、くるりと反転、今度は違う方向を周ってみたけど、いつの間にかさっき歩いてきたところに出てきてしまい、またまた拍子抜けしてしまった。

以前、東京の友人が「西日本はお城がたくさん残っているけど、東日本はほとんどないよ」と言った。私は「ふーンそんなものなんかね」とたいして気にとめなかったが、天守閣や櫓等が現存あるいは復元されているところと、そうでないところとはやはり雰囲気が全然違う。どちらがいいという問題ではないが、建築物の存在感の大きさは否めないと思った。
甍の波 歴史の波 [2008年08月05日(火)]
城郭探訪15 土佐国 高知城 '05 4/03


普通に生活していたら、屋根瓦なんて目線より高いところにあるわけだし、都会の高層ビルから街並みを見下ろしても、オフィスビルだらけで、そう目に入るものではない。ややスリムな佇まいの高知城天守閣の窓からは、天守閣下層階や懐徳館(本丸御殿)の渋い銀色の甍が波打つように連なって見え、その存在感を際立たせていた。

天守閣前の広場に、06年のNHK大河ドラマ『巧名が辻』の主人公、山内一豊の妻千代の像がある。主演の仲間由紀江とは似ても似つかないことは全くどうでもいいだが、こういう歴史上の人物を扱った小説をたまには読んでみたいぜよ、思いつつも、まだ手をつけたことがない(たいがいとても長いので、それだけで億劫になる)。

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歴史上の人物で高知といえば圧倒的に知られ、圧倒的に人気がある坂本龍馬の生家は、城の南西歩いて10分ちょいにあり、龍馬は高知城を仰ぎ見ながら育ったんだろう。私も幼い頃は四国・某市の城を見て育ったが、全然違う人間に仕上がってしまった。
兵どもが夢のあと [2008年07月13日(日)]
城郭探訪14 摂津国 大坂城(錦城) 7/13


年に何回か訪れる大坂城だが、今回はいつもと違って新しくなった大阪府警本部向かい、大手門から入っていった。実はこちらがお城でいう正面玄関。これまでとは違う角度からの大坂城の姿が新鮮に映った。

大手門をくぐるとまず目に入るのが、デン、デンとこれをみよがしにある多聞櫓石垣のふたつの巨石。徳川築城時のもので、推定重量108トンと85トン。現代の大型ダンプカーでも運ばれへんで、というくらいあきれるほどデカイ。幕府の権勢をいかに見せつけるか、ということを如実に示している。

西の丸庭園ていうのもあるんや。中には入れなかったが、かなり広そうだ。その向かいにある煉瓦壁は、おそらく陸軍施設時代の産物かもしれない。

大坂城ができる以前、この場所にあって大きな勢力を誇った石山本願寺は織田信長との抗争に敗れ、秀吉、徳川それぞれの大坂城築城でその痕跡は完全に埋立てられてしまい、定かでない。修道館横にある控え目で、ひっそりとたたずむ「石山本願寺推定地」標柱は、まるで「兵どもが夢のあと」。歴史の栄枯盛衰を見た気がした。
出雲国 松江城 [2008年07月05日(土)]
城郭探訪13 出雲国 松江城(千鳥城) '07 4/10

全体に黒い腰板を貼った壁面が印象的。1611年築城当時よく見られた桃山様式だそうだが、あれ、造られたのは江戸時代だよな。築城後そのままの姿で今に至る天守閣は平面規模(床延面積のこと?)が姫路城に次ぐ規模、高さが3番目というが、ピンと来ない。姫路城や、再建大坂城を何度も見ていると、どの天守閣も小さく見えてしまって、どうもいけない。

とはいえ褐色がかった木の柱や黒ずんだ板目を見ると、落ち着くというか、居心地がいい。その風格、重みといったものは、約400年という時間をかけて生み出されたものだけに、目に見えず、かつ数字には置き換えられない、その場でしか感じられないものだ。

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ほとんどのこの手の見学時間は17時まで、夏場18時までなのに(通年16時までというのも珍しくない)、ここは4月〜9月8時30分〜18時30分まで(10月〜3月17時まで)。これは見学の自由度が高まってありがたい。訪れたのはお昼過ぎだったので関係ないけど。w(>o<)w
丹波篠山城と黒豆 [2008年06月07日(土)]
城郭探訪12 丹波国 篠山城(桐ヶ城) 6/7


関が原以降もなお強大な力を持つ大坂の豊臣に、にらみを利かせるため、山陰から大坂をつなぐ街道の要衝の地ということもあって徳川家康が築城の名手藤堂高虎はじめ、西国の諸大名を動員して1609年に築城させた。が、時代の要請か天主台はあるものの、天守閣は作られなかった。それは戦国の世も終わり、不要という意味と、強固なつくりに仕上がった石垣に作られる天守閣の軍事的脅威を幕府が警戒したためともいわれる。

1944年に焼失した大書院が2000年に復元され、明治初期に取り壊された隣の二之丸もおそらく同様の造りの建物であったろうから(本丸御殿はなかったらしい)、実のところのお城の雰囲気とは、こんなものじゃないかなと、思わせる数少ないお城でもある。

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 大書院と手前の二之丸跡
 正面からみる篠山城址                    天主台石垣

城のすぐ向かいが市役所やホールのある街の中心部。しかし、JRの最寄り駅からはバスで15分ほどかかる。かつて福知山線を通す際、都会から悪い因習がもたらされると地元民が反対、ルートが変わってしまったらしい。駅舎は比較的最近のもので、きれいだが駅前はバスのロータリーとコンビニがあるくらい、そこからお城までの道すがらも大きな建物がほとんどない、あくせくした感じのしないのどかな雰囲気。夕方6時半頃にはお店の大半がしまっていたので、楽しみにしていた黒豆モチを買えなかったのは、ちょっと惜しかった。
石垣だってお城である 2 [2008年05月17日(土)]
城郭探訪11 紀伊国 和歌山城(虎伏城、竹垣城) 5/10


紀州和歌山といえば“暴れん坊将軍”徳川吉宗を輩出したところで、徳川御三家のひとつ。その居城、和歌山城は1585年、豊臣秀吉の実弟、秀長の築城。それが縁で400年後の1985年、大坂城と姉妹城になった。豊臣家滅亡後の1619年に徳川家が藩主となり、大坂では将軍が城主である幕府直轄領となった点でも似たような経緯を辿り、明治維新後、和歌山城二の丸御殿が大坂城に移築、紀州御殿('47焼失)として親しまれたなど縁深いものがあるが、大阪人の意識は常に「太閤さんの大坂」であり、保守色の強い和歌山とは対照的である。

江戸以降も増改築された城郭は、その造成時期によって石垣の造りの違いがはっきりと見てとれるのが、面白い。天守閣は初期に作られたものなので、石垣は自然石を積上げる野面積み。ぐるっと周りながらみてびっくり。あきらかに削られ方形の石があった。ここだけ年代があわない?! 腰ぐらいの高さだったので、修築とかでそこだけ直すというのも、変な話だ。おまけに明らかに人工的に彫ったくぼみがあって、灯籠か何かの台座のよう。ほかにも長方形のものや、酒のあてに出てくるチーズみたいな石があった。

これは石垣造成のとき、少しでも石を早く集めるため片っ端から持ってきたり、寺から寄進を受けたり(守護的な意味がある)など各所から流用した転用石といわれもので、後からはめ込んだわけではないらしい。和歌山城の隠れた名物だが(全然隠してない)、他の城にも見られるという。


左) 宝篋印塔の台座の転用石。角にあるので目立つ      右) 精巧に組み合わされた切込みハギは圧巻
登庁は登頂でござる [2008年04月11日(金)]
城郭探訪10 備中国 松山城(高梁城) 4/8

高松から松山へ。でもここは岡山県内である。

山陰と山陽をつなぐ交通の要衝として備中松山城は、1240年にその起源を求めることができる。まだ鎌倉時代中期だ。初期の城は山の上に作られるが多かった。高所は周囲を見渡せ、敵を攻めやすく、敵から守りやすいとして軍事戦略上、重要点になるからだ。

1683年、当時の藩主によって今の姿に改築された天守閣は、明治維新後の廃城令で破却の運命にあったが、政府には「破却しました」と伝え、実際は放置されていた。山上にあるがゆえ、その費用がまかなえず、検証もされなかった。以後、城は荒れるに任され、幽霊屋敷のごとく見るも無残な崩落寸前であった昭和初期、地元の有志により、復旧保存運動が起こり、1940年に解体修理をした。

その際、極力現状保持のため、同じ素材を使ったり、忠実に複製したりしてダメになった箇所を入れ替える。いわば新陳代謝みたいなものだ。

よく見ると、部分的に接木をするように新しい木材になっていることがわかるが、面白いことに、もともと割目があった柱の部分的な補修箇所に、位置がずれることなく割目を入れている。補修するのに強度が弱くなる割目入れてどうすんだ?! と一瞬思うが、時間がたてばその箇所もなじみ、違和感なくなるんだろうな。

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地上430メートルにある天守閣の規模は、案外小さい。それは軍事要塞としてより、統治者の権威付けの意味合いが強かったらしい。天守閣はじめ、幾重かに築かれた石垣なんかの資材を運び上げるだけでも、相当な労力を要する。当然、それだけの権力や財力がないと人も物も動かせない。

が、さすがに戦国の世も終わった江戸時代には、城主はふもとにある御根小屋で生活も政務もしていたという。そりゃそうだろうな。食料、水等の日常物資の運搬だって重労働だ。戦国後期以降に作られた城は、小高い丘、そして平地へとしだいに標高が下がっていったことは、ここを訪れて十二分に納得した。
歴史教科書で有名な [2008年04月08日(火)]
城郭探訪9 備中国 高松城 4/8
1582年、歴史教科書で有名な、秀吉の備中高松城の水攻め。周囲は低湿地帯、人馬とも脚をとられ攻めあぐねていた。秀吉は近くを流れる足守川が城よりも高い位置にあることに着目、下流域に堤防を12日間で造り、川の土手を崩して足守川の水を流し、城を孤立させる作戦をとった。水に守られていた城は、逆に水によって攻められる。

その工事のさい、農作業に支障が出ると、地元農民から猛烈な抗議が出たが、そのリーダー格の農民を打首にするという強行に出たという。

そこに本能寺の変の一報が入る。秀吉は、主君の一大事は敵対する毛利陣営に利すると見て、領地領民将兵の保全を引き換えに、高松城主清水宗治の自刃で和議を成立させる。そのため宗治公はこの地では、将兵、領民を思い死を遂げた人と捉えられている。

備中高松城は石垣がなく、土塁が盛られていた。また天守閣も築かれず、本丸や二之丸の遺構もまったく残っていないが、岡山市のベッドタウンとしての住宅と、400年前からあまり変わっていないではないかと思わせる田園風景とが、静かに共存している。

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この辺りは桃太郎伝説の地でもある。桃太郎が放った弓が鬼の目に刺さり、流した血が血吸川と呼ばれるようになったという。が、かつて砂鉄が採れ、製鉄も行われていたため、流れ出る錆びた鉄が、血のように見えたことが本当で、その流れ着いた先が、今でも赤浜という地名で残っている、と地元のおっちゃんが語ってくれた。

また近くに吉備津という地名(桃太郎のモデル・吉備津彦命が祀られる吉備津彦神社がある)が示すように、大和朝廷の頃、このあたりまで海だったようで、水にまつろう歴史物語に満ちている。

大御所様! [2008年04月07日(月)]
城郭探訪8 駿河国 駿府城(府中城) 4/5
静岡市内や駿府城内の観光解説版に、「大御所」という文字がいくつか見られた。「その道の第一人者として影響力のある人」と解釈していたが、それだとどうも解説の内容が理解できなかった。しばらくして気が付いた。
「あ、徳川家康のことか」

「引退した将軍が在する所」というのが元々の意味だが、それから転じて、ここでは一般名詞としてではなく、家康個人を指す代名詞として使われているのだ。家康は先に訪れた浜松城のあと、ここ駿府城を居城とし、さらに征夷大将軍を秀忠に譲り、再びここに隠棲後も、1616年没するまで権勢を振るい、大御所の名を知らしめた。

「大御所=家康」という図式は、大阪なら「太閤=秀吉」と同じ感覚だと思うが、江戸城以上に徳川色の強いこの土地柄ならではの、ものなんだろう。

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五層七階の壮大な天守閣は1635(寛永12)年に焼失後、再建されることはなく、明治以降は旧陸軍第34連隊が駐屯し、内堀は埋められ、徳川の威光むなしく残された遺構も取り壊されるも、外堀はなお往時を偲ばせている。戦後は市民公園として開放され、櫓や御門が復元、現在発掘調査もされている。最後の花見の週末として多くの市民で賑わっていた。

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