天は我々を見放したか [2007年04月19日(木)]
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『八甲田山 死の彷徨』 新田次郎 新潮社 1978年 十数年ぶりに再読。参加隊員210名中199名の遭難死者を出した、1902(明治35)年1月の八甲田雪中行軍遭難事件を丁寧に描いている。当時の気象観測でも記録的な寒波に覆われ、1月23日、旭川で−41℃の記録は、日本の観測史上の最低気温であり、その日の早朝6時、遭難した青森第5連隊が基地を出発したのは偶然に過ぎないが、今とは格段に低かった観測技術でもその兆候は見られ、また地元住民もそんな情況での八甲田踏破は不可能だと、進言したが、これらは無視された。 筆者はかつて気象庁観測員であり、登山家でもあったので、極寒の冬山は熟知しており、その遭難の描写については、まさに背筋がゾクゾクするほどリアルで、情況が目の前に浮かんでくるようだ。 異常寒波という不運がこの惨事を拡大させたが、根本は準備不足に加え状況把握と判断のミス、指揮権の介入、そしてそれをもたらしたのが、精神主義に傾く軍隊という特殊階級組織の横暴あるいは暴走という点を、脚色部分もあるが、筆者は辛らつにえぐっている。 一方、ほぼ同じ日程で別ルートからの冬の八甲田を踏破成功した弘前第31連隊についても、決して賞賛はしていない。あくまでも雪中行軍の研究を第一目的とした、徳島大尉の冷静沈着ぶりを描写しつつも、士族出身の大尉の平民への慇懃な態度を、参加する一兵士の視点を通して告発する。 事件後陸軍は取調委員会を設けたが、第5連隊を率いた現場責任者が遭難死、あるいは救出後自殺したということで、それ以上の責任追及をうやむやにした。ここに、その後40数年後の、太平洋戦争における国家上層部の総無能・総無責任体質が萌芽したといえよう。 |







十数年ぶりに再読。参加隊員210名中199名の遭難死者を出した、1902(明治35)年1月の八甲田雪中行軍遭難事件を丁寧に描いている。
