昨年は逆の順で訪れた。慰霊堂と築地本願寺が同じ設計者、
伊東忠太による建物と知ったのは後日のこと。不思議な縁を感じる
10時前、墨田区東京都慰霊堂へ。
今日は東京大空襲からちょうど62年、同じ土曜日。春季大法要が営まれる日である。
ここは1923年、関東大震災のとき、当時公園として整備中だった2万4千坪のこの地に避難民が殺到、しばらくして火災旋風が襲い、約3万8千人の焼死者を出したところ。1930年浄財をもとに、同地に遺骨5万8千体を収める納骨堂とともに震災記念堂として建設された。
震災から22年後、45年3月10日未明の東京大空襲で、付近は未曾有の被害を出した。が震災記念堂一帯は不思議と焼け残り、避難した人も助かったという。
戦後、方々の公園や寺院に仮埋葬されいてた、空襲犠牲者の遺骨10万5千体をここに再納骨、51年ふたつの惨禍を慰霊し、後世に伝えるため東京都慰霊堂と改称した。
弔文を読む石原都知事。その後ろは
皇室の高円宮久子妃
空襲のあった3月10日はそれまで、日露戦争の趨勢を決した奉天会戦で日本軍が勝利した陸軍記念日とされていた。前年秋から始まったB29による日本空襲は、年明けから本格化し、かねてからこの日には大規模な攻撃があるかもしれないと人々は噂しあっていた。にもかかわらず、である。
プロ野球ソフトバンク・ホークスの王監督はこの近く本所の生まれで、まだ幼かったこの日、母の背中におぶさり、空から赤いものが降ってきたという記憶がかすかに残っているそうだ。
一歩違えば、「世界の王」は誕生していなかったことになる。

穏やかな春の陽気だったが、あの日は寒波と猛烈な強風だったという
空襲は10日午前0時すぎから2時間半に及び、死者は都の公式の数字では83,793人とされているが、はっきりした数は不明で、10万は下らないという見方もある。
原爆を例外として、どんな激しい戦場でも、2時間半で死者10万前後というのは人類史上記録されていない。
隣接する復興記念館に展示されていた、震災後、アメリカにおける日本復興募金のポスターには皮肉と悲しみを覚えた。人道支援のためにすばやく立ち上がったそのアメリカが、22年後同じ地帯を一般市民殺傷のために猛爆する歴史を、この時、誰が想像しえただろうか。
これもまた、人間の一面である。