特攻の町・知覧 * 一 * [2008年09月11日(木)]
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現代史彷徨:ゲドー戦記 鹿児島・特攻の町・知覧 * 一 * 1999年8月16日
九州南端・鹿児島県薩摩半島の知覧町(07年12月自治体合併により現南九州市)は、1945年、敗色濃厚の日本が最後の抵抗となった沖縄戦のさなか、陸軍航空隊特攻作戦の中心的な基地が置かれていたところだ。特攻隊員たちの遺書、遺品を中心に知覧特攻平和会館には、その記録が今に伝えられている。 ![]() 若者の肖像写真がずらり並べられていた。みな20歳前後の、幼さの残る人もいたがそのほとんどが、しっかりとしたりりしい顔立ちをしている。憂いなど微塵も感じさせない彼らは太平洋戦争末期、沖縄戦のころ、生きて還ることを許されなかった旧日本陸軍航空隊の特攻隊員たちだ。 1999年8月16日、鹿児島市の南西約30キロ、その特攻隊員を送り出した山あいの小さな城下町、知覧町にある知覧特攻平和会館には、おりからの熱帯低気圧による激しい雨にもかかわらず、お盆休みのため多くの人が訪れていた。特攻という非情な作戦に駆り出された彼らの、出撃を前にした心境はいかほどのものだったのか、遺書などを通じて知りたかった。 特攻平和会館に保管されている遺書等の資料だけでも、一回の見学で全てに目を通すことはできない。また、文語体で書かれるなど難解なものが多く、集中力と読解力を強いられたが、そうした中からも印象に残った彼ら直筆の言葉を、ここに記したい。 (誤字脱字はそのまま。かな使い、旧漢字も極力そのまま。-氏名、階級、出身地、参加部隊名、戦死日−) 「死する者は強し」 「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽し」 「悠遠の勝利」 「武運長久」…。 遺書、絶筆に多く見られた文言だ。 それは当然軍国主義、忠君愛国的な風潮を前面に出した当時の世相を色濃く反映したもので、親に孝行できなかったことを侘びながらも、大君(=天皇)のために、皇国のために死ねる誇りが高らかに詠まれているものが多く見られた。これらは特攻隊員に限らず誰もが口にした言葉であり、裏を返せば建前でもある。ここから彼らの本音は見えてこない気がする。 ![]() <写真は05年5月再訪時のもの> |










