時としてカメラとは [2008年06月13日(金)]
![]() 本文と写真とは関係ありません 6月8日起こった東京・秋葉原で7人が殺された通り魔事件で、付近にいた多くの通行人らが携帯電話のカメラで写真を撮っていたことのモラルが問われている。 曲がりなりにも写真を生業としている者として、これは非情に複雑な思いである。もし自分がその場にいれば、どうだろうか。不謹慎だという理由で撮らない、とは言い切れない。 かつて1985年、豊田商事事件で自宅マンションにいた首謀者が、多くの取材陣が取り囲むなか自称右翼の二人の男によって惨殺された事件のとき、やはり批難が集中した。映像として流された凄惨なシーンとともに、なぜ二人を止められなかったのか、と。それについて、ある報道写真家から「私なら他のカメラマンをけり倒してでも、その様子を撮影しただろう」と聴いたことがある。「それが私の役割だから」と。 また別の報道写真家はアフリカのとある難民キャンプにおいて、あばら骨が見えるほどやせ細った子どもを撮ろうとしたが、その子はそれを見られまいと横を向いたという。このときその写真家はハッとし、カメラを構えることを止め、「カメラマン失格なのだろうか」と思ったという。 報道が仕事のカメラマンと、おもちゃと化した携帯電話のカメラで撮る一般の人の傍若無人な振る舞いとは単純に比較できないが、もし携帯電話が普及する以前、たまたま事件現場に居合わせた人がカメラを持っていて、その様子を撮影していたなら、スクープとしてどこかのメディアに提供され、流されることだろう。逆に阪神大震災のとき、上空から撮影するヘリコプターの音で瓦礫に埋もれた被災者の声が聞こえなくなる、という批判がでた。が、その映像があればこそ、被災地のただならぬ状況が瞬時に伝わり、大量のボランティアや救援物資が短時間で被災地にもたらされたことも事実だ。 使命感と功名心、あるいは好奇心とは時として紙一重の差なのかもしれない。撮る側と撮られる側の思いは、必ずしも一致しているわけではない。そんな時カメラは心理的凶器となりうる以上、どう線引きをするかというジレンマがあることを、撮る側は常に肝に銘じる必要があると思う。 |









