たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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静岡・陸軍墓地をたずねる [2008年04月17日(木)]
現代史彷徨 静岡市葵区 4/5

静岡市葵区沓谷は谷津山のふもと、近くのバス亭から数分で市中心部に出られる住宅地で、駿府城の艮に位置する、家康の側室お万の方(水戸光圀の祖母)が再興した蓮永寺が有名。そして、そのすぐ奥手に旧陸軍の墓地公園がある。

公園の端にある個人墓は、木々に囲まれ分かりにくい。全部でどれほどの人が葬られているかは不明だが、一等卒、二等卒という兵卒や将校の個人墓が区画ごと、さらには大尉、中尉…と階級ごとに並んでいる。

見事なもので、ひとつ階級が違うだけで墓石の大きさが違う。具体的には高さがそれぞれ約大尉170cm、中尉165cm、少尉160cm、兵卒は50〜60cmほど。普通は逆だと思うが、将校の墓石のほうが多かった。

墓石には階級、氏名、所属部隊だけでなく戦死した日付や場所も刻まれている。
「第三十四連隊第八中隊」
「明治三十七年八月三十一日 清国瀋陽南方首山堡戦死」
「明治三十八年三月十日 清国奉天第六師団 第三野戦病院戦傷死」

ほとんどが、この日付前後の戦死となっている。そして、3月10日といえば日本陸軍がロシア陸軍を破り、戦争の趨勢を決したともいえる奉天会戦の日で、後の陸軍記念日となった日だ。どちらも大激戦だったようで、当時駿府城址駐屯の第34連隊も参加していたということになる。

公園のはす向かいには合同碑がある。
「戦病死兵卒之碑」からはじまり、「戦病死将校同相当官之碑」とこれまた階級別に大きくなっていく碑4基と、「明治三十七八年役(当時は日露戦争をこう呼んでいたみたいだ) 戦死病歿者追悼碑」とが並ぶ。

戦争が長期化・激化した日中戦争以降、戦死者も増えたはずだが、「支那事変 大東亜事変 忠霊塔」(昭和43年建立)があるだけで、個人墓は見当たらなかった。他の場所にあるのか、部隊そのものが参加しなかったのか、それとも数が多くなっていちいち用意していられなくなったのかは不明だが…。

一人の少年が壁に向かって野球のボールを投げていた。花見の場所取りや散歩で数人がふらりと立ち寄った程度、土曜日の朝、そこはやわらかく暖かい日差しに包まれていた。

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日露戦争は南進してきたロシアの脅威に対する日本の防衛戦争という声がある。しかしこの墓に刻まれているように、その戦場のほとんどが当時の清。いくら清が弱体化していたとはいえ、隣国同士が勝手に入ってきての大喧嘩。とんだ迷惑な話だ。
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