外堀と内堀 [2008年01月26日(土)]
|
城郭探訪6 美濃国 大垣城(巨鹿城) 1/20
![]() 「そろそろこの辺りを右折やな」 そう思うやいなや、「大垣城⇒」という標識が目に入ってきた。 駅前観光案内所でもらった市内観光地図をたよりに、アーケードが続く商店街−−途中あった青果店のキャベツ、白菜一玉100円、トマト一山(4、5個入)250円に、「お、安いな。帰る時もまだ店が開いていたら、買ってみようか」と気にしながら、−−を歩くこと10分ほどしたころだった。 岐阜県JR大垣駅は鈍行列車旅行族にとっては、いやがうえでも利用する駅で、東海道本線を走る列車のほとんどが、ここで乗換えとなり、名古屋方面、あるいは大阪方面へと乗り継いでいく。 私もこれまで何度も乗り降りしてきたが、駅を出たことはほとんどなく、この街にお城があることを、気にも留めていなかった。 その角を曲がるとすぐに城門が見える。あまり大きくはない。城門手前右側は駐車場、左側は喫茶店。石垣と塀に沿って歩いてみると、驚いたことに道を隔ててすぐに小さなビルや民家が連なっている。こんな光景は初めてだ。 お城はもともと街の中核であり、甲子園球場の何倍(という表現がよく使われるが、どれぐらいの広さなのか実感できる人っておるんか?)もの広大な敷地を有していた。明治以降の廃城によって、何重かに張られていたお堀は埋められ、周囲は開発の波に呑まれ変容していったのは、いずこも共通する。 さすが天守閣南西側は大垣公園(本丸跡)となっているが、広場程度の大きさ。 「外堀を埋める」とは、大坂冬の陣の際、徳川方と豊臣方の和議の条件から派生した言葉だが、結局内堀まで埋められた大坂城は落城、炎上した。 内堀を埋められ対向車さえ通れない狭い道一本で、民家が建ち並ぶほどの市街地化という難敵に、大垣城は埋没してしまった。1600年、関が原の闘いで豊臣方の石田三成がこの城を拠点としたことは、何かの因果応報か。 *:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。..。.:*゚ ![]() ![]() 観光案内所で地図を見たとき、開口一番、「お堀がそのまま川になったんですか」と訊いたら、その逆「いいえ、自然の川をお堀にしたんですよ」と言われた。地図ではその水門川は、なおくっきりと城郭の名残を見せている。 |











