ひめゆりの塔から国道331号線を西に向かう。民家とサトウキビ畑が続く道は単調で、見落としそうなくらいの高さ1メートルほどの標識がなければ、そのままとぼとぼと歩き続けたことだろう。そこから農道を入ってすぐのところに、伊原第一外科壕跡があった。そこにある小さな石碑と説明版も周囲の木立に覆われ、注意していないと見過ごしてしまうほど、目立たない。
太平洋戦争末期の沖縄戦のさ中、米軍の進撃に追い詰められ、ここや伊原第三外科壕(ひめゆりの塔)等に分散して、ひめゆりの学徒たちや負傷兵、軍医らが約1ヶ月ほど立てこもった。日も暮れてきたので、そこまでは行かなかったが、ほかにも車で数分の範囲内に陸軍病院山城本部壕跡や糸洲第二外科壕などいくつもある(いずれも自然洞窟で、沖縄の方言でガマと呼ぶ)。
壕入り口は途中まで降りていくことができるが、すぐに土砂に埋もれていてそこからは進めそうもない。ごつごつした石とも岩ともつかない足許は、しっかりしたスニーカーを履いていても歩きにくく、慌てようものなら転倒しかねない。
米軍の銃爆撃や艦砲射撃をさけるため昼夜逆転した生活でも絶え間ない攻撃、血や膿、糞尿の悪臭、地下水でジメジメした地表、あらゆる悪条件のなかで睡眠不足は否めず、食糧もほとんど尽き、体力的にも精神的にも衰えきった彼女たちは、おそらくフラつきながらも幾度もここを往復した。それは生きるための食料や水を運ぶため、あるいは伝令として他の壕と行き来するため。そして、それはまさに命がけだった。1945年6月17日夕刻、入り口付近に砲撃を受け、3名の学徒が即死した。
だが皮肉なことに、伊原に来る前にいた南風原(はえばる)や糸数の病院壕を撤退する際、医療品を放棄していくなど、すでに病院の機能は失われており、負傷者もただ横たえられるだけだったという。結局、さらに7名の学徒が命を落としている。
翌6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出たが、もはや彼女たちに逃げ場はほとんどなかった。
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ひっきりなしに観光客が訪れるひめゆりの塔からわずか数分、こんなところまで来る人はあまりいないようだ。壕から出て、眼前に広がるサトウキビ畑を見つめる。沈もうとする太陽がまぶしく目に入り、近くから鳴り響く琉球民謡の調べと、サトウキビを揺らす風が生み出すゆったりとしたのどかな空気が、ここで起きた63年前のそんな阿鼻叫喚の地獄絵図があったということをかき消してくれた。
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参考文献
『ひめゆりの少女・十六歳の戦場』 宮城喜久子:著 高文研 1995
『ひめゆり平和祈念資料館資料集4 「沖縄戦の全学徒隊」』 ひめゆり平和祈念資料館:編・発行 2008
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』 仲宗根政善:著 角川書店 1982