たまの休日に写真機材を抱えて京阪神のいずこかに出没、目指すは紀信かアラーキーか。みずからの愚かさ、未熟さ、時にはクライアントの理不尽さに嘆きつつも、世界を股にかけ写真を撮りまくることを夢想する・・・。
デジタル化の波に否応なく呑み込まれ、もみくちゃにされながらもどっこい生き残りを賭ける赤貧写真家の徒然なるブログである。

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Oh! 晦日 [2008年12月31日(水)]

夢の中のことだった。無数の石版みたいなものに囲まれ、それを一つひとつ確認しては押しのけて次のを見る、ひたすらその繰り返し。なんだかどろどろとした重たい感じで、強烈な圧迫感もあった。

ふと眼が覚めた。「あ、なんかやばい感じ…」。だが、確認をするのが怖くてそのまま、また寝た。ふたたび同じような夢を見続け、ますます重たい感覚に囚われ続けていた。

朝、いや昼頃になって目が覚める。「ああ、やっぱり」。
頭が痛く、熱気味だった。体がだるく、喉も少し痛い。食欲もなく、ほどなくしてまた寝る。何もする気が起きなかったからだ。年賀状作成中だったけど。

結局日をまたいで、今日、大晦日の昼頃までほとんど寝ずっぱりで、その間も押しつぶされるような感覚の夢の連続だった。たぶん体調の変化が夢に現れたんだろう。寝る前、真夜中寒いのに(第3の)ビールを飲んだのが身体を冷やしてしまったのかな?

幸い恐れていたインフルエンザではないようで、薬を飲むこともなく(つ−か、なかった(T◇T)、回復したが、まる1日半、ほとんど寝ていただけの、ブラックアウトな年末となってしまった。
メリクリ [2008年12月24日(水)]

この時季、例年なら幼稚園等のクリスマス行事で数本の撮影仕事が入る。2000年前の、何の縁もゆかりもない見知らぬ人間の誕生日を、無邪気に祝う様子をみていると、「何だかなあ…」という気持ちになり、居心地がよくない。

だが、今年はその仕事がゼロ。世界同時不況のあおりか? しかし、売上げ額が減ることはあったとしても、園の行事自体がなくなるとは思えないし、こういう行事は週末に集中するので、社員だけでは手が回らないはずなのに、これはどうしたことか。

なければないで、これまた居心地がよくない。げに、カネの力は恐ろしや。
ルミナリエミル [2008年12月15日(月)]

12月恒例の神戸ルミナリエ。少しずつ開催時期が前倒しになり、期間も短くなっているような…。うっかりすると、もう最終日に。

今年は点灯直後から消灯まで、およそ3時間半いた。たぶん初めてのことだと思う。もっと早く帰るつもりだったのに、何がどうというわけではないけど、やはりそこにいると楽しいというか、心地がよい。行きかう人、だれもがいい顔をしているのだ。カップルはもちろん、親子連れ、友人同士、会社の仲間、男も女も、小さな子どもからお年寄りまで、みんながみんな。

それを写真に撮っていく。その瞬間瞬間、そして後でその写真を見返すときもまた、ちょっとずつ、ハッピーを分けてもらえるような気になる。

美ら島紀行 基地の中の沖縄 [2008年12月09日(火)]
那覇市上空を飛ぶF15戦闘機(上のちっこいヤツ)

飛行機に乗るのはいつ以来か。那覇空港着後のまだフライトの興奮さめやらぬ、那覇中心部に向かうモノレールの車中からふと見えたのは、上空を飛ぶF15戦闘機2機。これは鮮烈な歓迎だと思った。

以降、嘉手納基地はもちろん、読谷村、那覇でさらに2回、飛行中のF15戦闘機を目撃、また伊江島上空でF4戦闘機を見た。これらの機種は自衛隊も使っており(那覇空港は航空自衛隊との共用)、国籍マークまでは確認できなかったが、自衛隊機は基本的に市街地上空は飛行しないし、沖縄本島一帯の航空管制権は米軍が握っており、民間機はその合間をぬって飛んでいるため、米軍機専用空域みたいな状態。

とはいえ、機影がはっきり分かるくらい低空を飛び交っているとまでは思わず、「基地の中の沖縄」と言われる所以を実感した。航空祭でのデモフライトをのぞけば、戦闘機が飛んでいるのを見たのは、これまたいつ以来か。関西に米軍基地はなく、自衛隊機もヘリコプターくらいしか見られない。

米カリフォルニア州サンディエゴの住宅街に現地時間12月8日昼に墜落した米軍のFA18戦闘攻撃機は、嘉手納基地ほか神奈川県厚木基地、山口県岩国基地でも運用されている。そう、しょっちゅう落ちるもんじゃないが(当たり前だ)、これほど頻繁に飛んでいるなら、その危険性も高まる。軍用機の運用は民間機ほど安全最優先ではないので、たまったものじゃないな。
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美ら島紀行 座喜味城 [2008年11月30日(日)]
城郭探訪 琉球王国 座喜味城 '08/11/19


波をうつような曲線の連続の石垣と、そこに設けられたふたつのアーチ型石門が特徴の座喜味城(ざきみぐすく)は、琉球王朝の築城の名手と言われた護佐丸(ごさまる)によって1420年ごろ造られたとされている。石垣(一部の箇所復元)以外は何も残っていない。

石垣に上がると読谷村が見渡せ、東シナ海からの強い風にあおられた、白い波頭も見えた。63年前の沖縄戦で米軍は、ちょうどそのあたりから上陸を開始した。

天気がよければ20kmほど離れた那覇市街や、反対側、初代琉球王・尚巴志(しょうはし)が滅ぼした北山(ほくざん)王の拠点・今帰仁城のあった本部半島やその沖にある伊江島も見えるという。


「凡そ軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み…」と孫子の「兵法」にあるように、地形的な高地を奪取することは軍事戦略の鉄則である。その見晴らしのよさから、太平洋戦争中は日本軍の高射砲基地が築かれ、戦後は73年に日本に返還されるまで米軍のレーダー基地として使われた。護佐丸の見立ては、築城後500年以上たっても変わらなかったようだ。
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美ら島紀行 首里城 [2008年11月20日(木)]
城郭探訪 琉球王国 首里城(中山城) '08/11/20


首里城(しゅりぐすく)は琉球王国時代、尚氏の王宮であり、いわば御所みたいなもの。世襲制の統治者(国王あるいは藩主)が居住し、各行政機関が置かれているという役割では同じだが、歴史も文化も違うこの“国”の城と、"本土"の城とは単純に比較することはできない。

中国紫禁城を彷彿とさせる朱塗りの正殿は言わば本丸御殿にあたり、屋根にはシャチホコではなく、国王をあらわす龍が、また欄干にはさまざまな表情をした、なかには王宮には似つかわしくない(?)愛くるしくユーモア溢れるシーサーがいくつもあしらわれている。その正面にある御庭(うなー)は各種儀式に使われた。

石垣は城壁として城を幾重かに取り囲み、櫓に当たるような建物はあまりなく、お堀もない。正殿等おもな建物はその内側に建っているが、天守閣とは違う。といった点で軍事的防衛機能はあまりなかったらしい。武器を捨て、貿易立国を図った琉球王国は不要と見たんだろうか。

だからというわけではないが、太平洋戦争末期、日本陸軍は首里城地下に陣地壕を築き、その攻防を巡って激戦地となり、首里城は灰燼に帰した。当然だが、近代戦争の前に木造の建築物なんてひとたまりもない。ましてや、戦争に歴史的文化財保護の配慮を求めるのはナンセンスだろう。

今の首里城は、戦後、跡地に建てられた琉球大学キャンパスの移転以降、復元が本格的に進められ、92年正殿が往時の姿を取り戻し、今も発掘、復元工事が進められている。

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琉球石灰岩を用いる石垣は、気孔が多く、加工がしやすいため、完璧ともいえる切込みハギで積み上げられており、また、波型をうつ造形美は本土にはまったく見られないもので、目を見張るものがあるが、これらも多くは復元という。だが、ぱっと見、年季が入っているようにくすんで見えるため、どこからが復元部分で、どこまでが遺構なのか分からない。つーか、ほとんど全部遺構だと思って見ていた。

2000年世界遺産として登録されたのは、その遺構部分で、復元された建物等はもちろん含まれない。うーん、紛らわしい。
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美ら島紀行 読谷村 [2008年11月19日(水)]

沖縄県読谷村(そみたんそん)は学生の頃から気になるところだった。日本全国あまたある市町村の中でも、村レベルで知っているところなんてここくらい。大阪の千早赤阪村でさえ行ったことないのに(-_-;)。

時を前後してその存在を知った同村内の米軍楚辺通信所は、軍事関係の通信電波を傍受し、解析する施設で野球場がひとつすっぽりと入ってしまうほどの巨大な円形の鳥かごのような姿をさして、いつしか「像のオリ」と呼ばれるようになり、その絶妙なネーミングに、なんだか愛嬌さえおぼえてしまいそうなくらいだった。

1996年4月、457人(ほとんどが地元住民)とされる基地一帯の地主の一部と、借り主である日本政府(が米軍に提供)との賃借契約が切れ、国が不法占拠するという事態になった。その中に、同村在住のある有名な平和活動家がいた。その日のTVニュースで、「オリ」のなかにある同氏の土地への立ち入りが認められ、仲間と一緒になって楽しそうにカチャーシーを踊っていたのがとても印象的だった。

「よりによってこの人の土地があるなんて」
皮肉とも言えるこの事実によって、小さな村の小さな土地での出来事が、国家間の安全保障問題を揺さぶるほどの大きな事件となった。

長年、沖縄の米軍基地問題や日米安保が取り沙汰されるたびにメディアに取り上げられる象徴的な存在だった楚辺通信所は、米軍再編にともない06年12月に返還、07年6月に解体された。もっとも、通信施設の県内金武(きん)町キャンプ・反戦ハンセン内への移転を条件とした返還であり、これは物理的に空間が空いただけで、沖縄全体の中で基地としての機能や役割、負担が減ったわけではない。

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道路地図とカーナビをにらめながらたどり着いた通信所跡は、だだっぴろい原っぱだった。何の表示があるわけでもなく、たまたま修学旅行生相手の平和ガイドがそこにいたおかげで確認できたが、ススキや雑草だらけの野原に(そのなかに地主が作ったのだろうか、手作りのミニ・ゴルフ練習場がある)、あの目立ちすぎる異形なスタイルの通信所があったとは思えず、かけらもなく撤去されていたことの落差に、やや戸惑いを感じた。

美ら島紀行 伊江島 [2008年11月17日(月)]


ノラネコはネズミを獲るよう家畜化されたいわゆるイエネコが、逃げるか捨てられるかしたわけで、人間の生活圏の中で共生しており、完全に野生化しているわけではないので、イエネコとみなされる。

一方、沖縄・西表島にいるイリオモテヤマネコは、同島固有の野生種で、イエネコとは別の生態系であり、地元民ですら滅多に目にすることはないという。

ここ、伊江島で牛に食わせる干し草でのん気に寝ていたネコは、正々堂々どこから見てもイエネコである。
美ら島紀行 糸満市伊原 [2008年11月14日(金)]

ひめゆりの塔から国道331号線を西に向かう。民家とサトウキビ畑が続く道は単調で、見落としそうなくらいの高さ1メートルほどの標識がなければ、そのままとぼとぼと歩き続けたことだろう。そこから農道を入ってすぐのところに、伊原第一外科壕跡があった。そこにある小さな石碑と説明版も周囲の木立に覆われ、注意していないと見過ごしてしまうほど、目立たない。

太平洋戦争末期の沖縄戦のさ中、米軍の進撃に追い詰められ、ここや伊原第三外科壕(ひめゆりの塔)等に分散して、ひめゆりの学徒たちや負傷兵、軍医らが約1ヶ月ほど立てこもった。日も暮れてきたので、そこまでは行かなかったが、ほかにも車で数分の範囲内に陸軍病院山城本部壕跡や糸洲第二外科壕などいくつもある(いずれも自然洞窟で、沖縄の方言でガマと呼ぶ)。

壕入り口は途中まで降りていくことができるが、すぐに土砂に埋もれていてそこからは進めそうもない。ごつごつした石とも岩ともつかない足許は、しっかりしたスニーカーを履いていても歩きにくく、慌てようものなら転倒しかねない。

米軍の銃爆撃や艦砲射撃をさけるため昼夜逆転した生活でも絶え間ない攻撃、血や膿、糞尿の悪臭、地下水でジメジメした地表、あらゆる悪条件のなかで睡眠不足は否めず、食糧もほとんど尽き、体力的にも精神的にも衰えきった彼女たちは、おそらくフラつきながらも幾度もここを往復した。それは生きるための食料や水を運ぶため、あるいは伝令として他の壕と行き来するため。そして、それはまさに命がけだった。1945年6月17日夕刻、入り口付近に砲撃を受け、3名の学徒が即死した。

だが皮肉なことに、伊原に来る前にいた南風原(はえばる)や糸数の病院壕を撤退する際、医療品を放棄していくなど、すでに病院の機能は失われており、負傷者もただ横たえられるだけだったという。結局、さらに7名の学徒が命を落としている。

翌6月18日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出たが、もはや彼女たちに逃げ場はほとんどなかった。
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ひっきりなしに観光客が訪れるひめゆりの塔からわずか数分、こんなところまで来る人はあまりいないようだ。壕から出て、眼前に広がるサトウキビ畑を見つめる。沈もうとする太陽がまぶしく目に入り、近くから鳴り響く琉球民謡の調べと、サトウキビを揺らす風が生み出すゆったりとしたのどかな空気が、ここで起きた63年前のそんな阿鼻叫喚の地獄絵図があったということをかき消してくれた。

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参考文献
『ひめゆりの少女・十六歳の戦場』 宮城喜久子:著 高文研 1995
『ひめゆり平和祈念資料館資料集4 「沖縄戦の全学徒隊」』 ひめゆり平和祈念資料館:編・発行 2008
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』 仲宗根政善:著 角川書店 1982
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城郭探訪 筑前国・福岡城 [2008年11月10日(月)]
城郭探訪 筑前国・福岡藩 福岡城(舞鶴城) '08/9/07


これまで何度か訪れている福岡だが、ほとんどが次の訪問地への中継地としてだったので、滞在時間も見てまわった箇所も少ない。だから福岡にお城というイメージはなかった。

もともとあった沼を、そのままお堀にしたという大堀が、今の大濠公園(ややこしい)。こちらの方が有名で人気がある。そういや、はじめて福岡を訪れた時は工事中だったので、入れなかったことを思い出した。

あるいは平和台球場のあったところ、というほうが分かりやすいかもしれない。かつての西鉄ライオンズ、そして福岡ダイエーホークスの本拠地だった平和台球場は戦後、福岡城址(の旧陸軍第24連隊跡地)に建設されたが、改修工事中の1987年、平安時代に存在した鴻臚館の遺跡が見つかり、その発掘調査のために97年閉鎖、取り壊されたことでも印象に残っている。

天守閣は築かれなかったというが、天守台は残されており、さすがその付近の石垣は見応えある。
その天守台跡からは・・・それほど高くまで登ってきたつもりはなかったが・・・福岡市内が一望でき、ついさっきまでいてた福岡ヤフードームの、こんもりとした丸みのある屋根もよく見える。今では、あちらのほうが城砦のようだ。

夕暮れ時という時間もあるだろうが、城跡は時おりジョギングや散歩をする地元民がいるだけで、ひっそりとして、静かだった。


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