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bP6 寂しさ、そして希望

2008-07-10 19:20:15
  やはり母や兄弟と離れることは嫌だった。でも、それなりに施設に入るべきか考えていた。迷っていた。
 ある日、いつものように部屋の窓から、休み時間になるとトイレに駆け込んで来る小学生を見ながら、道路へ目を逸らすと時より母親と散歩する男の障碍者が目に映った。
 忠より年上のようだった。そしておぼろげに、(自分もあんな風に歩きたい)と思った。そんなことを思ったら福祉事務所の人間の言葉を思い出していた。                   
その日の夕飯を食べなら、
「ターチ、施設に行くよ」
忠は言葉を出した。でもその言葉の後に、少し後悔した。
「たーち、どこかに行くの。」
妹が今子に聞いた。
「いいから、お前は早くご飯を食べな」
 今子は少し声をこわばらせた。
「いつも、ミーたちばっか怒るんだからか」
 妹が言った。
忠は(歩きたい)の思いが強かった。      
忠が施設に入ることを決意して次の年の春、施設に行く日が迫まっていた。
今子は荷物づくりをしている。忠は内心不安と寂しいさを感じていた。(行きたくない)とは言えなかった。
夜の七時ごろになった。忠はお膳にいた。
「毎日のテレビ番組を教えておくよ」
 忠は少し自慢げに話しだした。一週間を全て言い終えた。その後も忠は一人で、たわいの無いことを言い、時間の経つのを忘れていた。
 そして出発の朝、市の車が迎えに来た。もちろん兄弟たちは学校へ行っていない。今子が荷物を玄関に運び出し、それを福祉事務所の人間が車に積んでいた。
部屋で座っていた忠を今子が抱き上げた。その瞬間、我慢していた糸が切れ、忠は声を出して泣いた。
少し住み慣れたアパートの部屋から、車に乗った。ゆっくりと来るが走りだし、寂しさが倍増した。嘘のように涙が零れ落ちた。
 伊豆半島の国道は大半が海に面して走っている。青い海に白い波がたち幾つもの岩を襲う。景色的にはかなり最高の道路である。そんな装いも忠の目には入らなった。
 車はいつしか海沿いを離れ、山道を登っていた。くねくねとカーブを何度も曲がって行く車の中で「もう直ぐ、お前の父ちゃんと通った湯ヶ島の病院のあたりだよ」と母の今子が車外を見ていた。だが、これも忠の目には入らず、いつしか車は韮山にある医療施設についた。
 一九七八年の四月のこと。忠十二歳。

bP5 福祉事務所からの誘い

2008-07-04 11:26:21
  巡回検診会場から家に戻った。今子は考えていた。(忠が歩ければどんなに嬉しいことか。しかし、遠くへやりたくない)と思っていた。何日かして福祉事務所の人間がきた。要件は今子には分かったらしく、「この子は何処にもやりませんから」と第一声をあげた。
「そうは言っても、忠君の将来を思えば、施設に入れた方が良いとおもいますよ」
 福祉事務所の人間が説き伏せるように話した。今子の姿勢は頑なで、「もういいから帰ってください」と言って、福祉事務所の人間を追い返した。
 昼はテレビが相手の日々が続いていた。何の心配も考えも無く、毎日を過ごす忠だったが、それでも何と無く変なモヤモヤがあった。
 そして再び、福祉事務所の人間が訪ねてきた。福祉事務所の人間はやっぱり、施設に入るよう進めて来た。当人の忠にも話の内容は理解できていた。
 「施設に入れば昼は一人でいなくてもすむ。それに仲間がいて楽しいから」
と忠にも話す福祉事務所の人間。忠の思いは少しだけ動いた。
 母、今子の姿勢は相変わらずで、「この子は何処にもやらない」の一点張りだった。


bP4 大勢の障がい児

2008-06-20 17:18:58
この年の秋、妹の運動会の日、忠はいつも家の窓から見ていた教室とトイレを左右に見ながら運動場につづく通路を母、今子におぶられ歩いていた。運動会は始まっていた。生徒たちと、わが子を応援する親たちの声が入り混じっり小学校の運動場は歓声の海となっていた。見たことのない生徒の多さと、広い運動場に忠は驚いた。運動場を囲むけように木造建ての校舎が建っていた。万国の旗が運動場いっぱいにたなびく下で生徒たちが走ったり、組んだりしていた。母の今子は、背の忠が重いのであろう、何度も忠の重みを肩から和らげようとしていた。そんな今子を気づかったのだろう、「かあやん、しっこ」と言って忠は家に帰った。
 そして同じ秋の日、市で行なっていた身体障がい児を対象とした検診に、忠にも声がかかった。検診会場は区の公民館。忠が住むアパートの目と鼻の先にあった。
 会場に入った忠は、驚いた。十人を超える自分と同じ者がいたのである。多くの障がい児を見たことが何故かショックだった。
 十畳、いやもっと広い部屋の真ん中に病院にあるような診察台が置かれ、それを囲むように親に連れられた、障がい児が診察の番を待っていた。白衣を着た医師が診察台にいる障がい児の手や足・の動きを何か話しながら診ていた。診察を待つ忠はふしぎに思った。何が嬉しいのか大声で意味の変わらない言葉を言い、笑いながら部屋中を走り回っている子がいたのである。
 忠は今子に、走り回る理由を聞いた。今子の返事は簡単なもので、「あの子のお母さんに悪いでしょう」と言って忠の座る位置を変えた。忠と同じ障がい児もいた。右手に杖を持ち足を引きづり歩いている児童もいた。
「おかー、家に帰ろう」
 忠は何かここから出たかった。
そうしている間にも障がい児が次々と、診察台に寝かされ体の動きを診られていた。
 そして忠の番になった。診察台に寝かされた忠。何をされるのか不安だった。歯が出ていた医師が膝を持ち曲げた。そして次は伸ばそうとした。
「園長、膝かなり曲ってますねー、これ以上は伸びないでしょう」
 一人の医師が言った。
「そなようだねー」
 園長と呼ばれた医師は、両腕の動を診た後、「もう、降りていいよ」と言って忠を台から抱き降ろした。
 そして、園長が今子に、「この子、うちの施設に預けてみませんか、歩けるようになりますよ。」と言った。

13 空想と現実

2008-05-28 00:30:06
 新たに越したアパートは小学校の裏に当たる場所にあり、同じく二階家で横に長かった。
部屋はまたも六畳一間。忠たち親子四人プラス義父の人数からすれば、狭すぎると思う。窓からは小学校のトイレが真近に見え、部屋を出て廊下の窓の外には沢山の墓が目と鼻の先にあった。
 ここに越して今子はホテルの掃除に仕事を変えた。妹は小二年となり、三歳の弟は祖母が
みていた。
 忠はと言えば相も変わらずひとりぼっちの時が普通にあった。でも、楽しみが出来た。部屋の窓から大勢の小学生に会えることだ。授業の休み時間、一斉に生徒たちが、ガヤガヤ言いながらトイレに傾れ込んでくる。トイレと教室をつなぐ渡り廊下の間に、忠から見て奥へとつながる廊下もあった。その先にも教室があるようだった。みんな白い体育服を着て話したり、ふだけ合い教室から出てくる。楽しそうだった。中には体育の時間が終わったのか、始まるのか分からないが、赤白の帽子をかぶった生徒もいた。
 忠はその時になると、窓から身を乗り出すようにして生徒たちを見た。友達同士ふざけ合うのをうらやましく思いながら、その場面を自分を当てはめ空想の中で遊んだ。でもそれは空想にすぎず、すぐに現実の自分に戻った。
 お昼、調理場からいい臭いかしはじめると、給食当番が配食のため、白い三角頭巾に白い上っ張りを着て食器、大きなやかん・大きな鍋を二人一組で運んでいた。朝から放課後まで忠は生徒たちを見ていた。
 その忠にまた少し、しょうがいに変化が現れていた。よつ這いが徐々に出来るようになり、忠にとっては大いに嬉しい変化だった。でも、その動きは頼りないもので、ほんの数十センチ進んでは尻をつきを繰り返すものだった。だが、歳をとるごとに自分だ出来ることが増えて来ていた。
 季節は八月真夏、小学校はとうに夏休みに入っていて、窓からは生徒たちは見えず、世間
もお盆。みなが休みになった。そして義父も帰省してきた。両手に荷物を持ちながら。荷物の中味は東京でしい入れたらしい韓国の食材。今子にその食材に合った料理を指示した。しかし、今子の知らない料理もあり、互いに口論となり、部屋の中の空気が重くなった。
 忠も義父が暫くいることで心にまた重い石を抱えた。
 夕食中、忠はトイレに行きたくなった。確かに行儀は良くない。いつものように今子に伝えた。今子がその場を立とうとすると、韓国語で何か言った後、「便所か、一人で行け、いつまで甘えているんだ」と忠を見て怒る口調で言い、忠は気持が縮む思いがして、トイレに行きたい思いは薄れた。
 忠にしてみれば、別に甘えていた訳ではない。自分で行きたくても行けないのだから、しょうがない。
 食事も遅いが自分で食べられるようになっていた。
「ご飯をこぼすなー、涎も出すなー。汚い」義父に怒られる度に気持と体が縮まった。
「お腹いっぱい」
と言って御膳を離れると、「いつもの半分も食べてないよ」と言い、今子がつづきのご飯を食べさせたくれたが、義父の視線を伺いながらである。
 義父と今子は忠のことでも口論となることがあり、忠はそれも聞くに堪えなかった。
 今回、義父は長く家にいた。窮屈で長い時が忠に続いた。
その義父がテレビを買った。義父は仕事に戻るまでの間、部屋の真ん中で踏ん反り返りテレ
ビを見ていた。でも、義父が出稼ぎに出れば、テレビを自由に見れた。それは忠たちにとっては良いことだったと思う。
 そしてまた半年の時が流れ、気がつくと今子に赤ん坊が生まれた。
忠は十一に才になっていた。

  ちょっとブレイク
           うちの愛犬、マーチとアイです。


 

bP2 義父とケーキのおはちゃん

2008-05-16 23:03:44
 忠は今夜も隣の夫婦と夕食を食べ終わると、部屋のその辺にただ転がり、ゆっくりとした時を過ごしていた。自分の部屋では義父となった人があたりまえなのだが義父が、おもいきっり存在していた。そのためか、忠はこうして隣の人の部屋にいると、何かやすらぐ思いがしていた。(この人たちの子になりたい)とさえ思った。
 あまり隣に居ると母・今子が連れに来た。義父は、夜になると御膳の前に大きな体をどっしり置き、何も喋らず酒を飲んでいた。そんな義父を前にして忠は、夕食を今子に食べさせてもらっていた。
 ある時、忠は仕事から帰った義父と風呂に入ることになった。部屋を出て廊下から風呂に通じる階段を義父に抱かれ降りた。脱衣場で義父が忠の服を脱がせだした。慣れないためか、服をなかなか脱がせられないでいた。次第にいらついた顔になった。忠がはいているズボンが膝にからまり、余計にいらついた。伸びない忠の膝を無理に伸ばそうとした。
 当然、忠は痛がった。感極まった義父は「おおい、これみろ、おーい」と部屋に向かい大声をあげた。今子が音をたてて階段を駆け降りてきた。
「ズボンなんとかしろ」
義父は今子にいらつきをぶつけていた。今子は慣れた手で素早くぬがせると、義父のいらきから逃れるように風呂場をでた。忠を抱き体を洗う義父。なんとなく親しみのない感じだった。
最後に忠だけを湯船に入れ沈ませると、「ようく温ったまれよ」と優しい言葉をかけた。義父との風呂はこれっきりなかった。
 朝、義父は仕事に行き、今子も午後から近くの店にパートにでた。今子が出かける時、忠が言う゛ケーキのおばさんちに預けられるか、さもなければ窓際に座椅子を置きそれに座らせて出かけた。窓から下を見ると水がはられた田んぼに若緑の稲がそよ風にゆれていた。あぜ道で忠と同じ年の子らがオタマジャクシを採っていた。それを゛いいなー゛の思いで見ていた。
 そして夕、義父が帰宅し忠も少し気持ちが固くなった。自分で気持ちをコントロールしていたが、それが効かなくなると「ケーキのおばさん」と言って、隣に行く。このパターンが幾日が続いた後、ケーキのおばさんはここを越した。忠にとっては大変な出来事で、寂しく心ぼそく思えることだった。
 それからまた少し時が過ぎ、義父は一定の期間、東京へ出稼ぎにいくようになった。ケーキのおばさんが越してしまった後、正直、安堵感のようなものを感じた。忠は気楽な感じで毎日長い廊下を磨くようにして動き回り遊び、夕暮れは外に連れて行ってもらい、砂利の地面に魚を入れるトロ箱を幾つか並べた上で遊んだ。夏の夕暮れの中で。
 毎日窓から見ていた緑色をした稲が実をつけ黄色くなり、重そうに穂を垂れていると思う間もなく、田は稲刈りも終わり、忠の苦手な冬が来た。寒くて動くことが少なくなり、部屋の隅で体を丸めていた。
 年の暮れ義父が出稼ぎから帰省した。妹や弟は歓迎しているように見え、忠も同じ様子を見せた。でも、気持は重かった。義父は忠の思いを裏付けるかのように、忠には無愛想だった。
 今子が「父ちゃんはね、あんたが可哀そうに思うから何も言わないの」と言うため、忠はその言葉を何年も頭に置いていた。
 年明け間もなく、義父は出稼ぎ出て行った。そして春、忠たち家族もまた引っ越しをした。

bP1 二人目の父

2008-04-30 23:36:23
 忠たちは間もひっ越しした。そこは少し山間で、田んぼが多くあった。
その田んぼの真ん中と言ってもいい所に二階建てのアパートにであった。そのアパートは横に幾つかの部屋が並ぶ横長のアパートで、忠たちは二階そのアパートのとのに住むことになった。部屋は前いた所と同じく六畳一間だったが少し新しく明るかった。窓を覗くと下に田んぼが広がっていた。
 忠もこの頃になると自力で移動するようになっていた。移動の方法は寝たままの状態で、上向きで畳を足でけって進むのである。動けることが嬉しく楽しかった。時が過ぎるに連れて自分たちの部屋から出て長い廊下を端から端まで動くことも度々あった。背中で雑巾をかけている状態でそのつど今子に怒られた。それでも部屋に誰もいなくなると、廊下に出て外に出る階段のすぐ脇にあった窓に行っては外をのぞいた。
 それを毎日繰り返していた。隣に住む人も次第に日常のごとく思うのか、忠を見ても゛またか゛と言う感じで見ていて、普通のことのように思われていた。、特に親しくなった隣のおばんががいた。時には忠を見て「おっ、やってんねー、今夜、またうちで寝ようか」と忠を部屋にいれた。三時のおやつと言って、ホットケーキを焼いてくれた。はじめと食べた味で本当うまかった。夕飯食べ寝るときは夫婦の間で寝た。
 そんなある日、体の大きい男の人が一家の部屋に現れた。名目の上で父親になる人だ。忠はいつものように寝たまま仰向けでいた。その人は忠のそばで立ち止まり数分そのままでいた。忠から見ると遥か上に顔があり、表情は見えなかった。そして、今子が「あんたたちの父ちゃんになる人だよー」と言った。理解力に乏しい忠は、次の瞬間「おとうちゃん」と言ってその人の足元に絡みついた。二人の兄弟も同じだった。
忠、もうじき十才。

bP0 一人の毎日

2008-04-16 23:15:07
  忠はまた一人で寝る布団が広くなってから数日がたった。
今子は朝早くに仕事に行き、兄弟二人も変わりなく親戚に預けいられ、誰もいない部屋でただ布団に寝ているだけの忠だった。病床にいた判作はもうなく、眠る度に隣にいる夢を見た。しかし、夢から覚めると一人の自分がいた。判作を思う度に悲しくなった。一しきり泣き天井を見ているうちに涙は乾き、時おり天井のシミが不気味なものに次々と模様を変えた。長い髪の幽霊、大きな目玉、鬼の顔と言った具合に。眼をつぶりそれらを見ないようにしても、やぱり見てしまう。
怖くて背中が寒く、鼠の足音さえもびくついた。そんな毎日が何日もつづく。
 今子が出かけて二時間も経つと、トイレをしたくなる。でも自分では出来ない。漏れそうになる度にチンチン堅くつかみ我慢するほかなかった。
 時間をおいて祖母が来てくれていたが、我慢できず小便が漏れることもあった。祖母はそこで少し早いお昼を忠に食べさすと、また自分の家に戻って行った。時より親戚の家から妹が遊びながら顔を出しに来た。そして「ターチー、げんきー」と声をかけ、また外に飛び出していった。なんの目的があったのか分からないが、妹なりに気にかけていたのだろうか。
 夕方、母、今子が帰ってきた。頭にかぶっていた手拭いをとり、泥で汚れた手で忠をトイレに連れて行った。気づくと二人の兄弟たちも忠の傍で遊んでいた。夕飯が終わると、少しの安堵の時があった。
 春が過ぎて夏、秋となり冬。忠の同じ日常が続いていた。
週に二度、親戚の家にお風呂に入りに行った。その家に入ると、伯父と伯母と二人の子供が御膳を囲んでいた。しかもあまり普及していなかった、でかいカラーテレビを見ながらの
だった。
忠は今子の背中から部屋の隅に降ろされた。白黒のテレビすら見たことないのに、その上の色のついたテレビにいつも驚きだった。お風呂が目的でテレビを楽しむゆとりはなかった。
 親子三人お風呂をもらった帰り道、冷い風が吹く夜もあっ
た。今子は忠を背中におぶい腕にはまだ小さい弟を抱え家に急いでいた。その横を妹が今子の服の裾をつかみ歩いていた。
今子の背中で暗い夜空に無数の星の輝きを忠は見ていた。平屋で木造造りの借家に三人は入った。今子が裸電球をつけた。そこには冷たい空気と六畳の真ん中に丸い御膳とが置かれているだけの部屋だった。
 親戚たちも忠たちの生活を憂いでいた。いつの頃からか、その親戚から、母、今子の再婚の話が出るようになっていた。今子は再婚の意思はなく断っていた。だが、親戚や祖母は
、゛子供たちのため゛と再婚の話を進められ、押し切られた形となった。再婚相手となる人も韓国人で、お風呂に入りに行く親戚の家に人足として寝泊まりしていた。

9 父、判作逝く

2008-04-01 22:45:51
がん細胞が判作の体を猛烈に蝕んでいた。骨と皮だけになった体に痛みが走る度に体をくねらせ、悲痛の声をあげていた。
 子供たちを可愛がっていた判作が赤ん坊だった弟が泣くと言っては怒鳴り、妹が飛び跳ねたと言っては、煩いと怒りまくった。
 今子が子供たちを庇うと、韓国語で汚い言葉を吐きながら周りにある物を投げつけた。
「体が痛いのは分かります、だからと言って子供たちに当たらないで」
今子は子供三人を部屋の隅においた。
そんな中、判作が眠った時だけほっと、息が抜けた。来る日も来る日もこんな日がつづいた。
 判作も心の底では、思いと反対のことをしていると思っていたに違いない。それを物語るかのように痛みがないときは、子供たちを自分のそばにおいていた。
 そんな春本番の朝・・・、忠は眠りの中で、部屋がガヤついた様子を耳に感じた。眠りの中から少しずつ目を開けると、自分は部屋の隅にねかされ、裸電球が照らす灯りの下で、布団に寝ている判作に向かい、今子が涙目で俯き座っていた。祖母と伯母たちが部屋で何やらしていた。判作は目を閉じようとはしなかった。祖母が判作の顔を拭きながら、「判作やー、後のことは心配するなー、目をつぶれー。目をつぶってゆっくり、ねろー、判作―」と言いながら目を何度も手で覆っていた。
 忠はそれを寝ぼけた目で見ていた。そして、その忠を今子は腕に抱き、「父ちゃん、死んだじゃったよ」と言って、判作の顔を忠に見せた。そのことが何なのか忠には、解らなかった。
ただ、眠るように横たわる父、判作を見ているだけだった。頭の上の二本のろうそくの火が、時よりゆらゆら揺れるさまが忠の気を判作からそいだ。時が過ぎるごとに狭い部屋を人が埋めた。寝たまま動くことが出来ない忠は、人の足元で過ごす他はなかった。
あくる日、忠は母、今子の背中で、白く砕かれた判作を目にした。
こうして日本に渡り働き続けた判作の生涯は閉じたが、仮に日本が日露戦争で勢いづかなけれぱ、アジア全体の悲劇はなかったと思うし、判作はもちろ祖父、祖母たちも日本に来ることはなく、もっと楽な人生を過ごしただろうにと思う。だが、今となってはそれを言うのは空しいことだし、遠いい日々のことのため、やぼは言わない。
 せめて同じ悲劇が起こらないことを願うのみだ。祖国に戻ることなく一生を終えた判作を思う時に、もっと長くいてくれたら、親孝行のまねごとが出来たのにと、忠は後に思っている。

8 残り少ない時

2008-03-14 23:35:07
判作が退院して数週間が過ぎたある日、忠と家の裏にある河の土手に出ていた。釣りの道具が入った箱を開けた。そこには全て判作手作りの針や錘・うきが整えられていた。竹さおに仕掛けをつけると幅が八百メートルくらいある河の真ん中辺に針をなげた。魚が河のあちらこちらで撥ねていた。この時も多くの魚が釣れた。
忠、もうすぐ八歳。
 しかし、判作の代わりに家計を支えるようになった今子から愚痴が出ることが多くなった。日頃の疲れが今子をそうさせたのだろうが、そのことが、いつも物静かな判作の口から荒い言葉を吐かせるようになり、時にはちゃぶ台をひっくり返すことも度となった。判作も働けないことに対し、いら立ちがあったのだろう。
 その判作にも調子がいい日があった。そんな日は言わずと知れて仕事にでた。だが、三日出ると体が動かなくなり、食べ物もあまり取らなくなった。それから間もなく地元の病院に院した。ベッドから離れられない日が続いた。それでも、やはり子供たちのことを思ってか、動けるときは、医師や看護師の目を盗み病院を抜け出し家に帰えった。そして仕事着に着替えると近くの山に出かけた。手っ取り早く小銭を得るには、桜の葉を採って売ることだった。
判作は半日もすると大きな布袋が自分の体の二倍くらい膨らんだ袋を背負い帰ってきた。家に入るなり畳、一畳分いっぱいに桜の葉をひろた。
 葉の山盛りになった。体を転がし忠は、その山に寄った。外の世界にほとんど触れることがないため、葉に触れることが新鮮に思えた。
 その横で父の判作が葉を百枚に束ねることに集中していた。束ね終わると業者の元に持って行きお金と変え、自分の元へ僅かに置き、あとは家に残して病院に帰って行った。
 ガンは体中に広がり、やせ細るだけの判作だった。医師の考えで判作は家に戻された。体力もほとんどなくなった。体調が良い日は家の裏の河で釣りをした。ある時は、その河沿いの道をどてら姿で手製の乳母車に忠を乗せ散歩をした。
「忠、さつま揚げ、食べるか」
判作が言った。人魚橋がかかる橋の袂にさつま揚げの工場はあった。良い臭いがしていた。そこで二枚のさつま揚げを買った。判作は揚げたてのさつま揚げを小さくちぎり忠に食べさせた。忠にまるで何かを話しかけているような優しい顔をしていた。

(この記事は、これを書く忠の記憶と、母の話を基に小説風に書いている自伝です)

7 父・判作のがん

2008-02-28 22:50:20
 判作は月に一二度行く場所があった。そこは韓国人が集まって暮らす部落。部落と言ってもトタン壁の家が数軒が並ぶ、あるの参道沿いの一角にあるだけのものだった。そこにもいつも忠を伴う。部落に行くと真先に顔を出す家に入る。その家は判作が日本に来る際に頼りにした人で戦時中強制労働で連れてこられていた。家に入ると白髪頭のじいちゃんが火鉢を前にして座っている。そして、「ここへこい、ここへこい」と韓国語で両腕をのばす。すると忠はかならずこのじいちゃんの胡坐に入った。寒い時は温かく心地が良かった。忠はここでしばらくじいちゃんのおもちゃとなった。
 韓国の人だけとは限らないが、おそらく民族せいがそうさせるのだろう、何所か温和で人に優しく助けの手を差し伸べるところがある。
 判作はと言えば、この日は鶏をつぶし酒のつまみを作り始めた。何度か忠も鶏をつぶすところを見ているが、その度に目を叛けていたが、卵はいつも御馳走だった。
やがて三人・五人・十人と周りの大人があつまり、そこはいつしか韓国の言葉で染まった。日が沈む頃になると、皆酒に酔い食器や鍋を叩き、祖国のおどりや歌が出た。判作も歌った。その曲は決まって韓国を代表する曲、アリラン。何か思っていたのだろう。時々目を閉じては歌っていた。この曲も何度も聞いた。そして、歌い終わると「お前もいつかはとうちゃんな」と頭の上で言った。
 この頃が最も忠と今子、生まれたばかりの弟や妹にとって貧しいながらも平穏な時だったと言える。 
 だが、いつしか判作は尻が痛い、血便が出る、腹が痛いの体の不調をあらわにした。不安を抱え町の病院に行った。だが、ほんの僅かな時間診察しただけで、直ぐに紹介状を書かれた。そこは東京の国立病院。そこで大腸の癌と診断され、即入院となった。
来るときは二人だった今子、帰りは一人下田に戻った。そして入院費と治療費を工面することになった。 さし当たって判作の知人を頼りにするが、みなも言わずと知れて生活に余裕などなく、当てが外れた。でも、その中で忠を可愛がる白髪のじいさんが余裕のない中いくらか出してくれた。しかし、それは治療費にするにはほど遠く、やむなく姉の旦那を頼った。姉の旦那は土建業を営み、この頃はそこそこ業績を上げていた。
 今子の話を聞き、義理の伯父はすべて任せるようにと言った。
そして、今子は東京の病院に戻り、判作も治療に専念する気になった。しかし、判作の癌は言わば手遅れの状態。あとは手術に望みを託す他はなかった。癌にやられた大腸は取れ、本来の肛門機能しなり、代わりに腹に人工の肛門がつくられた。癌細胞は判作の全体内を犯しまくっていた。
そして、余命半年と告げられ、三ヶ月が過ぎた。
 判作は東京の国立病院を退院した。勿論、家での静養となった。いつも布団に寝たままの忠の横に判作が横たわるようになった。
に、しても一家は食べなければならない。今子は義理の伯父のところで男たちに混じりドカタをはじめた。朝早く起き判作と忠の食事を作り、仕事へ出かけた。
下の二人を親戚に預けてだ。
 今子が出かけた後、なんとなく静かになる。判作は布団に足を延ばし座っていた。忠がトイレに行きたがると、抱き上げて連れて行った。しかし、そこには以前のような力強さは無く、やせ細った腕と体が寂しく感じた。
さらに、腹に付けられた人工の肛門からは絶えず便が流れ出ていた。
 正直、便の臭いが忠にも臭いと思えた。匂いがしだすと、判作は部屋の角に行き、着ているドテラの上半身を腰まで下ろし、へその右下に巻かれている皮のベルトを外し、お椀型の容器に溜まった便を取り除く。便が取り除かれた後に、赤い色をした腸が肌の上に盛り上がるように出ていた。直径はちょうど五百円玉くらいか。
子供心に以前と違う判作に悲しみに似た重い気持ちを感じた。
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